Ⅲ. 鵜の木教会が実践していこうとする事
ここまで、1. 一般的な日本のプロテスタント教会の姿と問題点についての考察、2. 神が啓示された「教会の四つの基礎」、を踏まえ、鵜の木教会の具体的な方向性を以下のように示すことができます。
- 教職制度を持たない
- 賜物を用いていく
- 会員制度を重視しない
- 自発のささげものによる奉仕
- 長老たち(スタッフミーティング)による教会運営
- 組織をできるだけつくらない
- 無記名による自由献金
教職制度を持たない
- 神さまは必要な人を立て、用いていこうと考えられています。したがって、神学校を卒業してもいなくても、それら外面的な資格や知識以上に、その人が「聖霊の人」になっているかどうかを一番重要なこととします。
- 先生と呼ばない(マタイ23章7節)。すべての兄弟姉妹の先生は、イエス・キリストお一人で十分です。ただ、リーダーを「先生と呼ばない=リーダーの人格を軽んじていい」という判断に立つのは、間違っています。なぜなら、正しいリーダーは「神による召しと献身」、そして「神と人々によって与えられた権威」により証明される者であり、兄弟姉妹はその事を正しく受け止めなければいけないからです(Ⅰテモテ3章13節)。
長老たち(スタッフミーティング)による教会運営
- 複数牧会…一人の牧師だけが、聖礼典(メッセージ、洗礼・聖餐式・結婚式・葬儀など)を行う資格者ではありません。ですから、おもに長老たちが担うことになります。
- 教会の重要事項は、スタッフミーティングのメンバーが兄弟姉妹の意見に日頃から耳を傾け、神さまの御前で御心を確かめることにより決断していきます。
賜物を用いていく
- 神さまが与える賜物は、生まれつきの賜物(男女、能力、特技、性格や気質など)と、聖霊により与えられる賜物があります。特に、聖霊の賜物(異言を除いて)は、教会(キリストの体)に与えられたものであり、その人個人に与えられたものではありません。したがって、「ただで受けたのだから、ただで与えるのが原則」です(マタイ10章8節)。ただし、働き人が自分の生活に追われ、主の体の働きができなくなることが、主と教会にとっての損失であるなら、その働き人の生活を保証することは、聖書的であり必要なことと考えます(マタイ10章10節・ルカ10章7節・・コリント9章14節)。
- 「愛はすべてを完成させるきずなです」(コロサイ3章14節)から、兄弟姉妹が愛し合っているならば、「専任の働き人」であるなしにかかわらず、お互いの必要を互いに満たし合うのは当然の務めでもあり、これができるのが神の家族です。
- 他の兄弟姉妹に与えられた賜物を重んじることは、自分自身の恵みとなり、戻ってきます。ですから、だれかの賜物を妬むことは全く不必要であり、むしろ「その賜物」を生かし、互いに仕え合うべきです(Ⅰペトロ4章10節)。
組織をできるだけつくらない
- 組織をつくると、組織が「いのち」を制約するようになります。「いのち」が生き生きとしていれば、その「いのち」そのものが、自分にふさわしい「かたち」をつくっていきます。それは、自然の法則からもわかることです。それを信じていくために必要となる、「豊かな祈りのいのちの支配」を求めていかなくてはいけません。
- 人の目線で目標を作らないことも大切です。「神は人が立つのも座るのもご存じであり…」(詩篇139篇)、「あなた方に必要なことはすべて知っている」(マタイ6章32節)と、いわれるお方です。したがって、鵜の木教会の最大のビジョンと目標は、「「みことば」と聖霊に聞き従う」ことにあります。聖霊の導きに従い歩むなら、神さまが持っていらっしゃる教会と個人に対する御心を必ず示してくださいます。そして、ひとたび示されたら、やはり自分を捨て自分の十字架を負って進むべきです。
- 聖霊に聞き従う歩みは、簡単ではありません。ひと足ごとに聖霊の導きを求め、忍耐強くひざまずき、待ち望むことによってのみ与えられるのです。
- 組織が強く強調されればされるほど、兄弟姉妹を主の僕ではなく、組織の奴隷としてしまう危険があります。
会員制度を重視しない
- 世界に教会は一つしかありません。プロテスタント、カトリック、そしてあらゆる教団や教会であっても人は救われません。救いは「イエス・キリストを主と告白する信仰」によるものです(Ⅰコリント12章3節・ローマ10章9~14節)。また、教会の頭はキリスト御自身ただお一人 です(エフェソ4章)。したがって、プロテスタントでもカトリックでも、イエス・キリストを主なる神として信じている者は、キリストの体の一部であり同じ教会ということになります。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と主は言われました(ルカ17章21節)。
- 鵜の木教会にとっての兄弟姉妹とは、礼拝や集会に共に集い賛美し、祈り、「みことば」を聞き、交わり合う者すべてを指します。
- 鵜の木教会は、「鵜の木教会」として、神さまから示されたビジョンを明確にし、主に従い歩んでいます。その中で、ビジョンの違いを示された方は、自分の体としてふさわしい他の教会を祈り求め、導かれた教会に集うことも自由です。その人が主に召された場所こそ、その者が属する神の家族であり体です。いずれにしても頭はキリスト御自身であり、一人ひとりが生き生きと主と交わって歩むことは、たとえビジョンが違い別々に主に仕えたとしても、キリストの栄光となり全体の益となっていきます。
- また、鵜の木教会に与えられたビジョンが、自分に与えられた教会だと示され、ここで神のいのちの恵みにあずかりたいと願う方は、どなたでも礼拝や集会への参加を歓迎するものです。「いつでも、だれにでも開かれた教会」として、鵜の木教会は歩んでいきます。
無記名による自由献金
- わたしたちは、「ただ主だけを見上げささげる者だけ」が、「神に喜ばれる聖なる献げもの」であることを知っています。だれかの顔が見え、義理や人情によって献げものを左右してはなりません。神さまへ献金する条件は、「信仰によって」「だれにも知られないように」この二つが基本となります。
- もし、奉仕者や貧しい者、そして必要を感じている人に何かをささげる場合には、必ず献金箱に、「(誰々)へ」と書き、自分の名前を書かずにささげて下さい。ささげるものすべては、主に献げることになります。また、受け取った者は、筆跡から誰によるものかがわかったとしても、それは主から受け取ったものですから、その人にお礼を述べる必要はありません。
- 自由であることをもって、罪を犯さないように気を付けましょう。献げることは、主に全てを与えられた者の務めです。もちろん、それは金銭だけではありません。健康、賜物、そして時間も同じように主のために用いるべきものです。「どれだけ神に献げるべきか」は、明確です。神は御子イエスを与えてくださいましたから、私たちも自分自身をささげるべきです。10分の1ではなく、10分の10(自分自身)です。
自発のささげものによる奉仕
- 教会は、キリストの体であると同時に、神の家族です。家族には、赤ちゃんから老人まで、時には病人もいます。ですから、それぞれに与えられた立場(父・母・子…)に応じた働き(生活費・家事・教育…)と必要(食事・学費・世話…)があります。
- お互いが強制されてではなく、互いに与え合っていることこそ、家族の愛の姿です。そのように教会も、「自分の立場、働き、必要」を神の家族の一員として知り、強制されてではなく、互いに与え合う姿こそ、奉仕であるといえます。
奉仕の最も大切な心は、「キリストに仕えることが、結果的に兄弟姉妹に仕えることになる」ということです。お互いに仕えるというとき、Aさんが自分の考えで直接Bさんに仕えると、後に問題を起こします(押しつけ?)。Aさんは、まずBさんに対する神の御心を知り、「どのように仕えることが神に喜ばれるか」を祈り求めなければなりません。その上で行動を起こすことが最善となります(マタイ25章31~46節・ルカ17章10節)。
主に仕えることが第一であり(マタイ6章1節)、その結果として、キリストの体である人々に仕えていくことです。したがって、教会では「何々会」というようなものは企画せず、各自が直接主と交わり企画し、また、ささげたいと願うことがあったら、すでに活動している方々に話し加わってください。
さらに奉仕は、見えるところ見えないところと多岐にわたり、かつ流動的なものですから、臨機応変な対応が必要となります。ですから、全体を見回しつつ、自分のできるところでささげていくようにしましょう。そして、仕える者も仕えられる者も、互いに主にあって感謝していきましょう。