キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

Ⅱ. 一般的な教会を考える

一般的な日本のプロテスタント教会の姿と問題点についての考察

教職制度

「教師(教職者)」「信徒」の二極化となり、「指導する者」と「される者」に二分化される。

長 所
神学校などで専門の知識を学ぶことは、人類が繰り返し行ってきた福音の歴史を学び、正しいバランスある福音理解のために役立つ。
短 所
神学校卒業資格や聖書の知識だけでは、霊的指導者にはなれない。霊的指導能力のない者が、資格ゆえに指導者(教職者)になると、キリストの体なる「教会」ではなく、「協会(人間が協力し合う組織)」になってしまう。このことは、神さまが選んだ器に与えられた賜物を、教職制度という制約のため用いられなくするリスクを生じさせる。だれかが「先生」と呼ばれると、その時点で越えられない壁ができてしまい、兄弟姉妹という関係が崩れてしまう。
  • 神は、一人ひとりを神の国の祭司として選ばれたが、大祭司はキリスト御自身である。
  • 神は、命をかけて主を愛し従う者を用い、御自分の御心を遂げられるお方である。したがって、自分を捨て自分の十字架を負い従う者に、御心と霊的権威を委ねられる。

教会(キリストの体)がキリストのいのちによって造られる組織のあり方

長所と短所
教会の中で特に力(社会的・能力的)のある者が、キリストの御心から外れ、自分の願いを遂げようとする危険を防ぐことができる。反対に、ある者が自分の思いを遂げるため、全てを知った上で兄弟姉妹、組織を利用しようとする場合もある。
一つの指示を末端まで浸透させるのに有効ではあるが、一方で、この世的な管理主義にも陥りやすい。
御霊の導きよりも、指導者の顔や立場、それまでの慣例が優先され「いのち」を殺してしまう。組織は、器として与えられている。人に例えるなら「肉体と心の関係」に相当し、霊はその器の中に存在するいのち(心)そのものである。器(肉体)は、「いのち」の指示に従うべきであり、器が「いのち」に指示するものではない。それが逆転するとき、「キリストのいのち」は消されてしまう。
役 員
役員は、選挙や社会的地位、教育レベルなどで選ばれてはならない。聖書で役員とは、長老たちのことであり、長老とは「明確な新生、神の召し、主に自分と家族を献げた者」のことである。また、「信者となり間もない者であってはいけない」ということが記されているが、実際にはそうでなかった場合が多い(Ⅰテモテ3章1~13節・テトス1章5~9節)。
日本のプロテスタント教会では、指導者を牧師・伝道師という職とみなし「先生」と呼ぶのが慣例となっているが、聖書では「長老たちにより教会運営がなされていた」とある。すなわち、神に召された人々と賜物により、初代教会ではキリストの体が造られていた(テトス1章5節・使徒20章17節)。
会員制度
キリストの体は世界に一つしかなく、一人ひとりが主なるキリストに直接聞き従い、キリストの体の一部となり、それらが組み合わされることで「教会」と呼ばれるものができる。したがって、「キリストに従うから教会に仕えている」が正しい姿であり、反対に「教会に仕えることがキリストに仕えること」になると、「いのちの流れ」が細くなり、やがて途絶えてしまう。
教会は、「会員みんな」で造るのではなく、「一人ひとりが聖霊に整えられ」造るものである。
記名献金
この世的な管理組織を維持する為には、必然的に記名献金が余儀なくされる。
「肉の働き」が最もあらわれやすいところが、「権力と金銭」である。「肉の働き」を防ぎ、一人ひとりが「主のみを見上げささげる」ことが本当の「信仰による献げもの」となる。月定献金(維持献金)や諸献金に自分の名前を書いてささげることや、ささげた者の名前を公表(週報などで)することは、本人の信仰を暗くするばかりか、教会の実際の運営にあたる者たちの心を迷わせる大きな危険因子となる。

詳細は、「鵜の木教会が実践しようとしていること」をご参照ください。

神が啓示された「教会の四つの基礎」

教会の内なる「いのち」について

ペンテコステの出来事により、教会が造られていきました。初代の教会は、なにをもってキリストの体を造るように導かれていったのでしょうか。その手がかりが、使徒言行録2章41~42節に啓示されています。ここには、「教会の4つの基礎」が示されています。

「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け。その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」。

使徒言行録2章41~42節

「使徒の教え」、「相互の交わり」、「パン裂き」、「祈り」が教会の基礎となる4つの真理です。

  • 使徒の教え(聖書)

クリスチャンとして生きるために、第一に必要なことはなんと言っても、神の言葉を聞くことです。聞き続けていくうちに、神の言葉が私の内にとどまり、血となり肉となるにしたがい、キリストとの交わりがより現実的なものとなります。

「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」

ローマの信徒への手紙10章17節

「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について」

Ⅰヨハネの手紙1章1節

「命を与えるのは“霊”である。…わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり命である」

ヨハネによる福音書6章63節

上記のごとく、「命の言(主イエスの人格)」に実際に触れることにより、生かされている大きな喜びに包まれていくようになるのです。

  • 相互の交わり(兄弟姉妹の交わり)

クリスチャンにとって唯一の宝は、もちろん主イエス・キリスト御自身ですが、主にあって真実に交える兄弟姉妹も大切な宝です。主が私をあるがままで受け入れ愛して下さったように、兄弟姉妹が互いにそのように受け入れ合い、愛し合うことができるならば、なんと幸いなことでしょう。

「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」

ヨハネによる福音書13章34~35節
  • パンを裂くこと(礼拝)

礼拝の中心は、なんといっても聖餐式にあります。

「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」 

ヨハネによる福音書6章55・56節

「私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが死者の中から復活されたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」

ローマ信徒への手紙6章4節

「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」

ローマ信徒への手紙6章11節

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」

Ⅰヨハネの手紙4章10節

上記のみことばを、礼拝(パン裂き)の度に確認し、心新たにされ「あなたこそ、主の主、王の王です」と主をほめたたえるのです。

  • 祈ること

救われたクリスチャンにとって最大の喜びは、「いついかなる時も主の名を呼ぶことができる者」とされたことにあります。

「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」

ヨハネによる福音書15章7節

神は命じ、私たちは従います。神は与え、私たちは受け取ります。そして、私たちは求め、神は応えられます。このようにして交わりが深くなっていきます。神御自身が私たちに「祈り求めなさい」と言われたのです。

「彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答える」 

詩篇91・15節

「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」

マタイによる福音書6章8節

「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」 

マタイによる福音書18章19節

ですから私たちは安心して自分の願いと必要をいいあらわすことができるのです。神のみことばを聞き続け、それに真剣に従おうとするならば、いや応なしに祈らざるをえません。そのようにして、私たちは神の前へと押しやられ、祈りを学んでいきます。「祈りの御霊」ともいわれる聖霊が私たちを「主御自身」、そして「この祈りによる交わりの世界」へと導いてくださいます。

また、キリストにある真実な交わりのあるところには必ず祈りが生まれてきます。祈り合うことによって愛し合うことを体験していくのです。

付記(2)をご参考ください。

聖霊の賜物

  • 霊の賜物…A
  • 知恵の言葉、知識の言葉、信仰、いやし、奇跡を行う力、預言、異言、異言の解釈など(Ⅰコリント12章)
  • キリストの体を造るための賜物(奉仕の賜物)…B
  • 使徒、預言者、教師、援助、管理(Ⅰコリント信徒への手紙12章27~28節)
  • 長老、監督(テトスへの手紙5~9節)
  • 使徒、預言者、牧者、教師(エフェソ信徒への手紙4章11節~)
  • 宣教者、使徒、教師(Ⅰテモテへの手紙1章11節)
  • 奉仕、勧め、施し、指導、慈善(ローマ信徒への手紙12章7~8節)

詳細は()内の聖書個所を参照

聖霊の賜物とそれを受け取る人間には、密接な関係が成立し、さらに聖霊の賜物は、キリストの「いのちの部分」と「体の骨格を造る部分」とに分ける(A.Bグループ)ことができます。

しかし、この2つのグループは、「使徒」という賜物と、「知恵の言葉・知識」などの賜物が密接な関係にあるように、入り交じった関係にあります。

AとB両方のグループの賜物を有する使徒、預言者のように、一つの教会を超えて用いられる賜物は別として、「一つの教会」である「キリストの体」を造るために必要な、「4つの教会の柱」となる賜物が浮かんできます。

その賜物とは、主にある4人の兄弟たち(牧会長老、教育長老、伝道長老、執事長老)にあらわされています。

(1) 牧会の賜物…牧会長老 (2) 教育の賜物…教育長老 (3) 伝道の賜物…伝道長老 (4) 執事・管理の賜物…執事長老

今までの教会の問題点

前項でも取り上げましたが、一つの教会において、牧師(リーダー)一人が「伝道」・「牧会」・「教育」・「管理」を担うべきではありません。なぜなら、神さまは「一人に全ての賜物」をお与えにならないからです。

  • 一人の指導者が教会の中心となり(牧師として)教会を運営した場合
伝道的な賜物を持った人が牧師となると
外に向かってトラクト配付や路傍伝道により、多くの人々を教会の玄関まで連れて来ることができる。しかし、そのメッセージは常に、「神さまを信じましょう」 となり、人々を玄関から奥に通して成長させることが難しくなる。
伝道=信仰のような雰囲気の教会になりやすい。
トラクトとは、特に宗教や政治上で使われる、小冊子やパンフレットのようなもの
教育的賜物を持った人が牧師になると
教会に来た人々を成長させるため、教育的プログラム(弟子訓練など)を優先させ、知的学問理解などの神学を押しつけるようになりやすい。その結果、個人個人の霊 的状態が軽んじられ、ついていけない者は疎外感を感じるようになる。
多くの知識と知的・霊的理解力が、信仰の成長レベルであるかのような雰囲気をつくり出すようになる。
執事的な賜物を持つ人が牧師となると
組織や会計など教会運営の実務面に優れた能力を有するが、神の福音を語ることができなかったりする。すると、教会は組織の下に運営されることになり、クリスチャンの霊は枯渇していってしまう。
奉仕=信仰的なような雰囲気の教会になる。
牧会的な賜物を持った人が牧師になると
牧会は、台所に隣接する応接間、のような場所ともいえる。この賜物を持っている人が牧師の場合、教会の羊(クリスチャンたち)はよく世話をされ、くつろいで過ごすことができる。そして、比較的まとまった教会として互いに愛し合い、あまり不平もなく過ごせる。

教会に必要なものは「聖霊の賜物」以上に、「聖霊の人」です。それは、「何かができる」ということではなく、「神さまに献げられた人」(献身)です。ヨシュアのように「わたしとわたしの家は主に仕えます」(ヨシュア記24章15節)という者たちです。

献身とは、何かをするために自分を献げることではなく、自分自身そのものを献げることです(ローマ信徒への手紙12章1~)。すなわち、自分を捨て自分の十字架を負って従う者のことです。

主が命じられるならば、「宣教師として海外へでも、メッセージでも、CS教師でも、教会の掃除や行事の手伝いでも」、示された奉仕をもって主に従うことです。この献身の上に、さらに賜物が与えられるなら、それは「よき人格(聖霊の人)」に「よき道具(聖霊の賜物)」を持つことになり、より大きな働きができるようになります。

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