教職制度
「教師(教職者)」「信徒」の二極化となり、「指導する者」と「される者」に二分化される。
教会(キリストの体)がキリストのいのちによって造られる組織のあり方
詳細は、「鵜の木教会が実践しようとしていること」をご参照ください。
教会の内なる「いのち」について
ペンテコステの出来事により、教会が造られていきました。初代の教会は、なにをもってキリストの体を造るように導かれていったのでしょうか。その手がかりが、使徒言行録2章41~42節に啓示されています。ここには、「教会の4つの基礎」が示されています。
「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け。その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」。
使徒言行録2章41~42節「使徒の教え」、「相互の交わり」、「パン裂き」、「祈り」が教会の基礎となる4つの真理です。
クリスチャンとして生きるために、第一に必要なことはなんと言っても、神の言葉を聞くことです。聞き続けていくうちに、神の言葉が私の内にとどまり、血となり肉となるにしたがい、キリストとの交わりがより現実的なものとなります。
「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」
ローマの信徒への手紙10章17節「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について」
Ⅰヨハネの手紙1章1節「命を与えるのは“霊”である。…わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり命である」
ヨハネによる福音書6章63節上記のごとく、「命の言(主イエスの人格)」に実際に触れることにより、生かされている大きな喜びに包まれていくようになるのです。
クリスチャンにとって唯一の宝は、もちろん主イエス・キリスト御自身ですが、主にあって真実に交える兄弟姉妹も大切な宝です。主が私をあるがままで受け入れ愛して下さったように、兄弟姉妹が互いにそのように受け入れ合い、愛し合うことができるならば、なんと幸いなことでしょう。
「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」
ヨハネによる福音書13章34~35節礼拝の中心は、なんといっても聖餐式にあります。
「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」
ヨハネによる福音書6章55・56節「私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが死者の中から復活されたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」
ローマ信徒への手紙6章4節「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」
ローマ信徒への手紙6章11節「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」
Ⅰヨハネの手紙4章10節上記のみことばを、礼拝(パン裂き)の度に確認し、心新たにされ「あなたこそ、主の主、王の王です」と主をほめたたえるのです。
救われたクリスチャンにとって最大の喜びは、「いついかなる時も主の名を呼ぶことができる者」とされたことにあります。
「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」
ヨハネによる福音書15章7節神は命じ、私たちは従います。神は与え、私たちは受け取ります。そして、私たちは求め、神は応えられます。このようにして交わりが深くなっていきます。神御自身が私たちに「祈り求めなさい」と言われたのです。
「彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答える」
詩篇91・15節「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」
マタイによる福音書6章8節「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」
マタイによる福音書18章19節ですから私たちは安心して自分の願いと必要をいいあらわすことができるのです。神のみことばを聞き続け、それに真剣に従おうとするならば、いや応なしに祈らざるをえません。そのようにして、私たちは神の前へと押しやられ、祈りを学んでいきます。「祈りの御霊」ともいわれる聖霊が私たちを「主御自身」、そして「この祈りによる交わりの世界」へと導いてくださいます。
また、キリストにある真実な交わりのあるところには必ず祈りが生まれてきます。祈り合うことによって愛し合うことを体験していくのです。
付記(2)をご参考ください。
聖霊の賜物
詳細は()内の聖書個所を参照
聖霊の賜物とそれを受け取る人間には、密接な関係が成立し、さらに聖霊の賜物は、キリストの「いのちの部分」と「体の骨格を造る部分」とに分ける(A.Bグループ)ことができます。
しかし、この2つのグループは、「使徒」という賜物と、「知恵の言葉・知識」などの賜物が密接な関係にあるように、入り交じった関係にあります。
AとB両方のグループの賜物を有する使徒、預言者のように、一つの教会を超えて用いられる賜物は別として、「一つの教会」である「キリストの体」を造るために必要な、「4つの教会の柱」となる賜物が浮かんできます。
その賜物とは、主にある4人の兄弟たち(牧会長老、教育長老、伝道長老、執事長老)にあらわされています。
(1) 牧会の賜物…牧会長老 (2) 教育の賜物…教育長老 (3) 伝道の賜物…伝道長老 (4) 執事・管理の賜物…執事長老
今までの教会の問題点
前項でも取り上げましたが、一つの教会において、牧師(リーダー)一人が「伝道」・「牧会」・「教育」・「管理」を担うべきではありません。なぜなら、神さまは「一人に全ての賜物」をお与えにならないからです。
教会に必要なものは「聖霊の賜物」以上に、「聖霊の人」です。それは、「何かができる」ということではなく、「神さまに献げられた人」(献身)です。ヨシュアのように「わたしとわたしの家は主に仕えます」(ヨシュア記24章15節)という者たちです。
献身とは、何かをするために自分を献げることではなく、自分自身そのものを献げることです(ローマ信徒への手紙12章1~)。すなわち、自分を捨て自分の十字架を負って従う者のことです。
主が命じられるならば、「宣教師として海外へでも、メッセージでも、CS教師でも、教会の掃除や行事の手伝いでも」、示された奉仕をもって主に従うことです。この献身の上に、さらに賜物が与えられるなら、それは「よき人格(聖霊の人)」に「よき道具(聖霊の賜物)」を持つことになり、より大きな働きができるようになります。