教会は、一人ひとりの霊性以上に成長することはありません。大事なのは、神と一人ひとりの正しい関係です(聖霊に支配される)。教会の最初の使命は、一人ひとりが聖霊に支配された人になるため、全力で仕えることです。聖霊に支配された人が多く起こされると、それら兄弟姉妹により「いのちに満ちた教会」が造られていきます。
したがって、どんな素晴らしい計画書を作り、報告書を作成するよりも、上記のことに全力を注ぐことを最優先する教会となるよう努めましょう。
「命(キリストのいのち)が形(教会)を造る」に徹底して進みましょう。
「聖霊に満たされて」参照個人個人が聖霊に支配されることに教会の最初の使命があります。そのために、まずみことばをいのちの言葉として伝え、イエス・キリストという御人格(神格)に出会わせ、交わることができるように導き教え支えることが必要です。
教会とそのリーダーたちの役目は、その人の前に立ってイエスのところに引っ張るのではなく、その人を後ろからイエス・キリストに押出すことです。前に立つことは、往々にして人や教会が偶像化され、キリストに直結することを妨げ、「人に繋がる組織の中で生きるクリスチャン」にする可能性があります。
主は、「神を愛し、自分を愛し、隣人を愛しなさい」(ルカ22章34~40節参照)と言われました。そこには大事な順序があります。「神を愛する」が第一の戒めでした。それは、神さまと自分の正しい関係を持つことで、すべてに優先されねばなりません。そして、正しい関係とは、「聖霊に満たされて生きる」、神に支配される人格のことです。
神を愛することを第一とした結果、「自分を愛する」ことができるようになります。それは、神の子としての自分の尊厳、素晴らしい存在価値がわかるようになるからです。だれでも、価値の無い自分を愛することはできず、価値ある自分だから愛せるのです。
神と自分の正しい関係がわかる者が、他者に対して自分を犠牲にする愛を持てる者です。この優先順位は、教会が生き生きとしたキリストの体になるためにも大切です。これが逆転すると、以下のような神の子になります。
私たち一人ひとりは、新生によってその内にキリストのいのち(聖霊)を持つものとされましたが、主はさらに、「聖霊に満たされなさい」(エフェソ5章18節)、「聖霊によって歩みなさい」(ガラテヤ5章16節)と命じられました。ここにすべてのクリスチャンの目標があります。
そして教会の使命は、「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイ4章17節)、「全世界に出て行って、全ての造られた者に福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16章15節)、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく…地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒1章8節)です。
以上のように、教会の使命は、「福音宣教」にあります。ですから私たちは、このためにこそ神によって訓練され、整えられていくのです。
「神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊」
使徒言行録5章32節「(もし)わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」
ルカによる福音書9章23節「それゆえ、信仰、希望、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」
Ⅰコリント信徒への手紙13章13節「わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくだり神の愛(聖霊)がわたしたちの内で全うされているのです」
Ⅰヨハネの手紙4章12節「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」
ルカによる福音書11章9節「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」
ルカによる福音書11章3節「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」
ルカによる福音書24章49節私たち一人ひとりは、本当に弱い者です。イエス・キリストが見えなくなると、すぐに人や組織や行い(人の業)に期待するようになるものです。それが、私たち生まれながらの「罪の姿」なのです。だからこそ、いま自分がどこに立っているのか、正しくイエス・キリストを見ているのか、いつでもみことばと兄弟姉妹により、点検されていかねばなりません。
そのためにも、主は私たちにキリストの体を与えられました。教会の中で、豊かに働かれる聖霊によってのみ、そのことが可能なのです。
「いのち」は、絶えざるキリストとの聖霊による交わりによってのみ、受け取れるものです。この「いのち」によって生かされるところでは、豊かないのちの実を結びます(詩篇1章2~3節)。
この幸いな祝福を共にあずかりましょう。
「教会の内なるいのち」は、同時に兄弟姉妹の「個人のいのち」と密接なかかわりをもっています。教会の内なるいのちの中で個人のいのちが育まれ、各個人のいのちの豊かさによって教会のいのちも増されていきます。
「しかし(あなたよ)、あなたが祈る時は、奥まった自分の部屋に入って(あなたが)(あなたの)戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が(あなたに)報いてくださる」
マタイによる福音書6章6節以下に「個人のいのち」としてとても重要な「静思の時(ディボーション)」、密室における神との交わりについて、A・Tピアソン著「祈りの学校」より、ポイントを下記します。
至聖所とは、すべてにまさって隠れた部屋、扉も窓もない閉ざされた場所であった。…そこは決して、開けられるということがなかった。…そこでは、自分と神以外のだれも会うことはない。それは独特の意味で、神が語りかけることのおできになる、「あなたとわたし」の場所であった。
神に迫る激しい祈りの態度は、祷告者※(祈る魂)が神とふたりきりで会うことを、心して求めないかぎり、絶対に不可能である。私たちは、そのように神とふたりだけになるために、密室に入るように、また、外部との交渉を絶って、自ら神とともに過ごすことのできる場所と時間を見いだすように、と命じられているのである。
確かに、祈る魂は、皆、神と絶対にふたりだけで会わなければならない……私たちが神だけに会う密室は、全てそのような秘密のために設けられた場所であって、この用を果たすものは他にない。公同の礼拝、否、もっと個人的な「家庭礼拝」あるいは更に個人的な親しい友人、また、夫婦の御前における祈りでさえ、孤立した密室の代理を務めることはできない。
…どんなに親密であっても、他人にはわからない、わかるはずのない魂の秘密があるものである。……しかし全知なる神の御目はその秘められた部屋を見抜いておられる…こうした秘め事こそ、神の光の下で照らされ、告白し、罪を認め矯正されなければならない。……ペニエルにおけるヤコブのようにそれぞれの祈る魂は、時としてひとり取り残される必要がある。すなわち密室に入るときには、「あなたがた」ではなく、絶対に「あなた」でなければならないのである。
※(注:作者)祷告者とは、中国語で「祈り」ですが、「祈る魂」の意ととらえてください。①. 聖書を瞑想しながら読む
②. 密室における神との交わり(祈り)をいつも持つ
「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」
ルカによる福音書10章41・42節以上のことは、キリストの体の中にある個人にとって、いかに主と個人的に直接的な交わりが必要であるかの本質論といえるものです。これらのことを日常生活でどのように実践していくかについては、各自のおかれた状況や生活環境などにより、それぞれ違ってきますので、ご自分にあった方法(応用本や関連書籍等を参考)を見つけ実践するよう努めてください。