キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ルツ記 第2章

2章1節 ①

ナオミの夫エリメレクの一族には一人の有力な親戚がいて、その名をボアズといった。

ナオミとルツがベツレヘムに到着した季節は、大麦刈りの頃でした。放蕩息子の帰りを待っていたように、ベツレヘムにはボアズが待っていました。

「不信仰の信仰」なるものがあるとか…。それは、神につぶやき嘆く信仰者のことです。その人は、それでもなお神に期待するからこそつぶやきます。ナオミの姿は、「不信仰の信仰者」と呼べるものでした。

神は不信仰者に向って語ります。「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし、我々を打たれたが、傷を包んでくださる」と。

さらに、傷を包みいやすだけではなく、「二日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる」(ホセ6章1~2節)と。それは、痛みを終わらせ新しい命で生かす約束です。

そうすると、傷を負って痛む日々は二日で、三日目からは命に満ちた日々に変えられるという福音です。これこそ、神に出会い神とともに生きる者の生き様です。ナオミの苦しかった十年は、「あれは二日の出来事だった」と言う時が近づいていました。

だから友よ。「我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように、大地を潤す春雨のように、我々を訪れてくださる」(3節)約束を握って歩んでください。

2章1節 ②

ナオミの夫エリメレクの一族には一人の有力な親戚がいて、その名をボアズといった。

ルツ記の主役は、ルツでもナオミでもなくボアズです。それは、主イエスあっての私と私の人生であるように、実にボアズこそ「主イエス」の姿です。

ボアズは、エリメレク家の「有力な親戚(非常に豊かな…口語訳)」でした。後にナオミ自身が、「その人は私たちと縁続きの人です。私たちの家を絶やさないようにする責任のある人の一人です」(2章20節)と言いました。親戚とは、「贖い人」です。

当時、自分の家が立ち行かない時、最初に親戚の所に行って、「贖い(買い取ってもらう)」を申し出ると、親戚に贖う責任が生じました。エリメレク家は、飢饉に遭遇した時、この贖い人ボアズに行くべきでした。

主イエスこそ、全ての人の贖い人です。

  • 「律法の呪いから贖い…」ガラ3章13節・4章5節
  • 「民の罪を償う(贖う)ために…」ヘブ2章17節
  • 「あらゆる不法から贖い…」テト2章14節
  • 「先祖伝来の空しい生活から贖い」Ⅰペト1章18節
  • 「陰府の力から贖い…」ホセ13章14節
  • 「奴隷の家から贖い…」ミカ6章4節

友よ。あなたにも主イエスなるボアズがいます。さらに、その名「ボアズ」は「力によって」の意です。贖い主イエスは、あなたの様々の問題の贖い主である以上に、あなた自身を贖う(責任を取る)お方です。

2章2節

モアブの女ルツがナオミに、「畑に行ってみます。だれか厚意を示してくださる方の後ろで、落ち穂を拾わせてもらいます」と言うと、ナオミは、「わたしの娘よ、行っておいで」と言った。

誰もが知るフランソワ・ミレー作の「落ち穂拾い」の人物こそ、ここに登場するルツです。

しかし、落ち穂拾いに出て行くにはいくつかの困難があります。何よりも皆の前に、「自分は貧しい者です」とさらけ出し、さらに神を信じていない異邦人であることも明かすことになります。

主イエスは山上の垂訓の最初に、「心の貧しい人(霊の乞食)は、幸いである…。(罪に)悲しむ人々は、幸いである」と語られました。霊の貧しい者で、罪に悲しむ者であることを認める者は幸いだと言いました。

神はその者のために、「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない」(レビ19章9節)と命じました。

友よ。もっと自分の貧しさと悲しみを直視し、自分が行かずルツを行かせたナオミではなく、貧しく悲しむ者となったルツになってください。一つの教会、教団をも超えてみ言葉を求め続けてください。神は必ずあなたに必要な落ち穂を用意して待っておられます。

2章3節

ルツは出かけて行き、刈り入れをする農夫たちの後について畑で落ち穂を拾ったが、そこはたまたまエリメレクの一族のボアズが所有する畑地であった。

ルツが「刈り入れをする農夫たちの後について落ち穂を拾った」の言葉に霊の目が留まります。

大麦である御言葉は、だれでも自由に刈り入れできるわけではありせん。それは、麦畑の所有者の使用人です。その農夫たちこそ主イエスの僕たちです。

信仰は聖書の御言葉を土台としますが、最初は文字よりも人格で伝えられます。親がいくら聖書を読み聞かせても、親の人格が主のものとなっていなければ、むしろ反発されるのと同じです。

神を求めて自分なりに聖書を読んでも良く理解できません。初めは落ち穂拾いからです。落ち穂は、多く刈り取る人の後に落とされるものです。キリストの命が宿る穂を、主の僕から拾い続けると、やがて拾った穂の命がその人の中でキリスト御自身になります。

主は十二人の弟子を選びすぐに伝道に遣わさず、三年半寝食を共にしました。主が彼らに最初に与えたのは、主御自身の人格(存在・生き方)でした。

友よ。あなたには後について行く人がいますか。信仰生活では、先に行く人を持つことも大事です。しかし、その人はただひたすらキリストに従おうとする人でないと間違います。ただキリストだけの人が、多くの落ち穂を落としてあなたに拾わせてくれます。

2章4節 ①

ボアズがベツレヘムからやって来て、農夫たちに、「主があなたたちと共におられますように」と言うと、彼らも、「主があなたを祝福してくださいますように」…。

「ボアズがベツレヘムからやって来て」の個所を、いくつかの英語訳聖書が「…behold, Boaz came from Bethlehem」と記します。「behold」は日本語で「見よ」と訳され、聖書では特別な役割を与えられています。

それは、イエス・キリストを指し、特に来臨や再臨を示す時に用いられます。「見よ、乙女が身ごもって男の子を産む」(イザ7章14節)。「見よ、わたしの僕(イエス)は栄える」(イザ52章13節)。「見よ、その方が雲に乗って来られる」(黙1章7節)。その他多数…。

「見よ(behold)ボアズ(イエス)ベツレヘムから」こそ、「神なる主イエスが、人となってベツレヘムでお生まれになり、私たちのところに来られた」です。

ある人曰く、「私の人生の苦しみは、家族を二人称にしたからだとわかった」と。ここで二人称とは、夫婦や親子であり、「命をつくる関係」です。その人は、「家族を命(二人称)にしたことが間違いだった」と言ったのです。家族はそれぞれ罪人同士ですから、本当の命を持てないのは当然です。

友よ。あなたが本当の二人称にすべきお方は、ベツレヘムにお生まれになった神の御子イエス・キリストだけです。彼は父なる神から遣わされ、あなたを父なる神の子、御自分の妻にするために来られたのです。

2章4節 ②

ボアズがベツレヘムからやって来て、農夫たちに、「主があなたたちと共におられますように」と言うと、彼らも、「主があなたを祝福してくださいますように」…。

「あなたの神を私の神に」の願いから、ベツレヘムに来たルツが落穂を拾ったのはボアズの畑でした。それを、「たまたま(3節)」と記しますが、これこそ偶然ではなく「求める者は得る」とある主の導きでした。

ボアズの畑では、主人ボアズと僕たちの麗しい関係を見ることができました。畑に来たボアズは、「主があなたたちと共に…」と声を掛けました。

主イエスも、「御父は御子を愛して、その手にすべてを委ねられた」(ヨハ3章35節)ことを知り、「わたしは御名(父なる神)を知らせました」(ヨハ17章26節)と祈りました。イエスは父なる神を、ボアズは主イエスを畏れ敬っていました。

すると僕たちも、「主があなたを祝福してくださいますように」と応えます。僕たちと主人ボアズは、神を中心として継がり交わる関係を持っていました。ボアズの畑の主人は神でした。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハ13章35節)

友よ。教会は神の畑であり、そこに様々の人が集められています。その中での最初の挨拶が、「主があなたと共に…。主があなたを祝福して…」となっているでしょうか。イエスが主となるところが教会(畑)です。

2章5~6節

ボアズが…召し使いの一人に、そこの若い女は誰の娘かと聞いた。召し使いは答えた。「あの人は、モアブの野からナオミと一緒に戻ったモアブの娘です。」

だれかの後について教会に来て、恵みの落ち穂を拾うごとに主イエスが少しずつ見えてきます。しかしその前に、ボアズがルツに気づいていたように、私たちが主を知る前に私たちに主の方が気づいています。

人が神に造られたのは、父なる神に愛される御子イエスの愛する人となるためでした。人は、父なる神に「子」として愛され、主イエスに「花嫁」として愛されるために創造されました。

神は、ルツがモアブで生まれ、偶像の中で育ったこと。しかし真の神を求めてベツレヘムに来たこと、姑ナオミを愛していることなどの全てを知っています。

「ヤコブよ、あなたを創造された主は…今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。…暗闇に置かれた宝、隠された富をあなたに与える。あなたは知るようになる。わたしは主、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神である、と。」(イザ43章1~3節)。

友よ。 母の胎であなたを造られた主は、あなたが自分自身を知る以上にあなたを知っておられます。だからあなたの名を呼び、あなたに与えたい「宝・富」を用意しています。最大の富と宝は、父なる「神の子」と、「主イエスの花婿」という立場です。

2章7節

『刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください』と願い出て、朝から今までずっと立ち通しで働いておりました…。」

ボアズが僕たちにルツのことを尋ねると、彼らは右のように答えました。

忙しい時に、よそから来た貧しい女に畑の中を動き回られることは、働き人たちには迷惑です。しかし、僕たちの言葉には、厄介者扱いも蔑みもなく、「あの女は、朝から晩まで休まず一生懸命に落ち穂を拾う感心な女です」と言っているかのようです。

彼らが愛情深くルツを見るのは、彼ら自身が主人であるボアズに愛情深く扱われたからです。

彼らは、「女よ。よくここに来たね。実は、私たちもあなたと同じく貧しく行くところがなかったのですが、ここで御主人ボアズに拾っていただいたのです。だからあなたも一生懸命落ち穂(御言葉)を拾ってください。そうすれば、私たちのようにいつもボアズの下にいることができますよ。明日も来なさいね…」と、心の中で言っているようです。

友よ。主は、エリコ街道で強盗に襲われた旅人を助けたサマリヤ人の物語で、「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカ10章37節)と言われました。実に、あなたもルツであり強盗に襲われた者だったのでは!主は良きお方です。主にしていただいたように、新しいルツさんにあなたも仕えてください。

2章8節 ①

ボアズはルツに言った。「私の娘よ、よく聞きなさい。よその畑に落ち穂を拾いに行くことはない。ここから離れることなく、私のところ…ここにいなさい。」

ルツは、この畑で働く人々の暖かさを感じつつ朝から晩まで落ち穂を拾っていました。

しかし、一抹の不安はこの畑の御主人が自分をどう思うかですが、ボアズの言葉に不安は一蹴されました。彼は、「私の娘よ」と言ってくれました。ルツはボアズにとって、異邦のモアブ人ではなく「私の娘」として受け入れられていました。

主イエスは、御自分と人とのことを羊飼いと羊に例え、「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く…。私が来たのは、羊が命を受けるため…。私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハ10章1~18節参照)と言います。

ダビデは羊飼いの声に、「命のある限り、恵みと慈しみはいつも私を追う。主の家に私は帰り、生涯、そこに留まるであろう」と詩編23篇で応えました。

友よ。神はあなたにも、「恐れるな、私の僕ヤコブよ。私の選んだエシュルンよ」(イザ44章2節)と(注・エシュルン…かわいくて仕方がない者の呼び方)。主はあなたにも、「よそに行かず、私のところにいなさい」と言っています。ダビデのように、「生涯、あなたの下に留まらせてください」と応えてください。

2章8節 ②

ボアズはルツに言った。「私の娘よ、よく聞きなさい。よその畑に落ち穂を拾いに行くことはない。ここから離れることなく、私のところ…ここにいなさい。」

「私の娘よ」と言ったボアズは、「よその畑に行かず…ここにいなさい」と続けて言われました。この世で「ここにいなさい」と声掛できる人は、自分の益になる人に対してだけです。そうでない者には、「離れなさい」と言うものです。

ボアズが、落ち穂を拾う邪魔にさえ見えるよそ者ルツにそのように声を掛けたのは、不憫なルツへの哀れみでしょうか。否、ボアズのルツへの心は、「娘よ。私はあなたのことを知っている。あなたは私の下へ来るように導かれ、あなたには私が必要なのだ。しかし、それだけではない。私にとってもあなたは必要な人なのです」ではなかったでしょうか。

愛は、一方的な哀れみや情けや助けでは成り立ちません。子どもを持つことは、時間、労力、金銭的に大変です。子どもは親の助けがなければ生きれらませんが、親は子どもがいるから生きていける、も事実です。双方で必要とすることこそ、命の関係です。

羊飼いが羊のために命を捨てるのは、羊飼いも羊を自分の命と同じに必要だからです。

友よ。ルツに対するボアズの語り掛けは、そのままあなたへの主イエスの言葉です。あなたは主を必要としていますが、主もあなたを必要としています。

2章9節

「…女たちについて行きなさい。若い者には邪魔をしないように命じておこう。喉が渇いたら、水がめの所へ行って、若い者がくんでおいた水を飲みなさい。」

ボアズは、一介の貧しいモアブの女ルツに声を掛けました。邪魔されず落ち穂を拾い、水を飲ませていただくことは、ルツが一番必要としていることでした。

神はイザヤを通して、「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ」(55章1節)と大胆に言われました。

また主御自身が最後の晩餐の時に、「取って食べなさい。これはわたしの体である。…皆、この杯を飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血です」(マタ26章26~28節)と言って、御自分を与えられました。

しかし、諸々の宗教の教祖は主と反対に、「皆さん集まって下さい→(私があなた方を食べ飲みます)。さあ財を捧げましょう→(私に)。さあ奉仕しましょう→(私に)」です。良い羊飼いは、御自分を羊に与え尽し、悪い羊飼いは、羊を食べて自分が生きようとします。

 友よ。あなたはどこの水を飲みますか。「なぜ、糧にならぬもののために銀を…飢えを満たさぬもののために労するのか」(2節)とイザヤは続けました。スマホやTVやパソコンの前ではなく主の所に来てください。

2章10節

ルツは、顔を地につけ、ひれ伏して言った。「よそ者のわたしにこれほど目をかけてくださるとは。厚意を示してくださるのは、なぜですか。」

「わたしの娘よ…ここから離れるな…ここに居なさい…水を飲みなさい…」と発するボアズの言葉は、ルツには信じられない言葉でした。

「初めに言があった。言は神であった」(ヨハ1章1節)から聖書は始まります。人種や国の違いによって話す「言葉」は違いますが、話す人の「言」は同じです。「言」こそ、人の「命・本心・中身」であり、それを表す手段が「言葉(英語・日本語…)です。

どんなに美辞麗句を並べても、「言(いのち)」はごまかせません。「言(いのち)」が「言葉(表現)」となって出ているだけです。ボアズのルツへの言葉は、彼の「言(いのち・愛)から出て、彼女の魂と心を完全に捕らえ、顔を地につけてひれ伏させました。

人を変えるのは「言葉」ではなく「言」です。人類最初の「言」は「神」でした。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」(ロマ10章17節)とあります。信仰者として得なければならないのは、「言葉(聖書)」を媒介として「言」なるイエス・キリスト御自身です。

友よ。あなたの主イエスは「言葉」ですか「言」ですか。「言葉」は知識による交わりですが、「言」は命の交わりです。言なるイエスを得てください。

2章11節

ボアズは答えた。「主人が亡くなった後も、姑に尽くしたこと、両親と生まれ故郷を捨てて、全く見も知らぬ国に来たことなど、何もかも伝え聞いていました。

ルツがボアズの畑に来て何日も経っていないのに、ボアズはルツのことを何もかも知っていました。彼はだれからルツのことを聞いていたのでしょうか。

ボアズなる主イエスも私たちを克明に知っています。それは、助け主の聖霊によってです。父なる神と御子イエスと聖霊の三位一体の神こそ「全知の神」です。

主は、「真理の霊が…あなたがたを導いて真理を…悟らせる。私のものを受けて、あなたがたに告げるからである」と。また、「…その方(聖霊)は私に栄光を与える」(ヨハ16章13~15節参照)と言われました。御霊の働きは、主イエス御自身と主の御業を人に現わし、人々を主イエスに結びつけることです。

詩編139篇は、「主よ、あなたは私を究め、私を知っておられます。座るのも立つのも知り、遠くから私の計らいを知っておられる…」と書き始め、三位一体の神の人に対する愛の極みを記しています。

友よ。あなたの全ては神に知られています。神があなたを知っているのは、愛してやまないからです。

2章12節

「どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。」

ルツのことを何もかも知っていたボアズは、ルツがただ単に生活が豊かになり、過不足ない生活を求めているのではないと知っていました。

ボアズが、「主があなたの行いに豊かに報いて…」と言ったルツの行いとは、彼女の信仰のことです。ルツが夫を失ってもなお異国まで来たのは、「あなたの神はわたしの神」(1章17節)を求めていたからでした。

使徒ヤコブは信仰と行いについて、「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、なんの役に立つでしょうか(ヤコ2章14節)と言いました。彼の主張は、「行いがなければ信仰などない」ではなく、「信仰には必ず行いがついてくる」と言ったのです。

ルツが夫を失っても外国まで来て、姑に仕え、朝から晩まで落ち穂拾いをしているのは、彼女の信仰から出たものでした。ボアズは、「その信仰(行い)に豊かに報いてくださるように」と言いました。

友よ。信仰には報いが伴います。それは、「御翼のもとに」導かれる報いです。神がなによりも喜ばれる人は、御自分の中(御翼のもと)で生きる人です。「瞳のようにわたしを守り、あなたの翼の陰に隠してください」(詩17章8節)と祈りましょう。

2章13節

ルツは言った。「わたしの主よ。…あなたのはしための一人にも及ばぬこのわたしですのに、心に触れる言葉をかけていただいて、本当に慰められました。」

ルツの言葉は、主イエスの降誕を担わされたマリアが、「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目を注いでくださったからです」(マタ1章47~48節)に通じます。マリアとルツの最も大事な共通点は、「主(ボアズ)のはしため」にありました。

さらにマリアは、「力ある方が、私に偉大なことをなさいました」と続けます。その偉大な御業は、「主を畏れる者に及び、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良いもので満たし」ます。

しかし、「思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き下ろし、富める者を空腹のまま追い返される」と宣言します。主の御業を受ける人は、「はしため」に徹する人です。はしため(しもべ)は、明確な主人を持ち、その方に従う者のことです。

謙遜とは、自分が出過ぎないことではなく、相手を正しく認めて尊び、相手と自分の立場を理解し、自分がなさねばないことを積極的に行う人のことです。

友よ。ルツはボアズを畏れ敬っていますし、ボアズと自分の関係も知っています。そして、自分がやるべきことを懸命に果たしています。それは、落ち穂を拾うことでした。それをボアズは祝福しました。

2章14節

食事の時、ボアズは…。「こちらに来て、パンを少し食べなさい、一切れずつ酢に浸して」…炒り麦をつかんで与えた。ルツは食べ、飽き足りて残すほどであった。

ルツに対するボアズの態度は、あまりにも寛大過ぎるように見えますが、この畑には他に落ち穂拾いをする人はいなかったのでしょうか。「神は人を分け隔てなさいません」(ロマ2章11節)から、ルツだけを特別扱いしているわけではありません。 

聖書の中に相矛盾するように見える御言葉があります。それは、①「求めよ、与えられる」と、②「あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだ」です。「求めよ」は人が主体に見え、「神が選んだ」は神主体で人は神のなすままの存在に見えます。

この二つの言葉を繋ぐ言葉は、「②あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、(①あなたが神を求め続けるならば)その業を成し遂げてくださる」(フィリ1章6節)が解決を与えます。

「初めに神が」とあるように全ての初めは神にありますが、神は人の応答をもって実行に移すことができます。英語で、レスポンス(応答)がレスポンス・ビリティー(責任)になるのは納得です。

友よ。神はすべての人に、「来て食べなさい。入り麦も…」と与えようとしますが、受け取るか否かはその人の責任です。ルツは、神が備えた落ち穂(パン・入り麦)を受け取り続けました。

2章15~16節

ボアズは…命じた。「麦束の間でもあの娘には拾わせるがよい。止めてはならぬ。…刈り取った束から穂を抜いて落として…それを拾うのをとがめてはならぬ。」

ボアズはこれまでにも、「ここにいなさい…水を飲みなさい…パンを食べなさい…炒り麦を…」とルツに声をかけていました。彼はさらに、麦束の間でも拾わせ、束から穂をわざと抜いて落とし、拾うのを止めないように」とまで僕たちに指示しました。

人が与えたいと願うのは、自分の愛する家族に対してです。心配し、待ち続け、帰って来た家族。落ち穂を拾うほど貧しい家族、自分を頼りにする家族に与え尽したいと願うのは当然です。こんなにも与えたいと願う方のもとに、なぜ人は来ないのでしょうか。

さらに範囲を狭め、神の家族でありながら貧しい神の子たちは、なぜボアズなる主イエスのもとに来て貪欲に求めないのか。礼拝や集会よりもわずかの自分の都合を優先し、落ち穂を拾える時間をテレビやインターネットに奪われて損をするのでしょうか。

それでも神は、「しかし、イスラエル(神の子)については、わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」(ロマ10章21節)と言います。

友よ。神の子のあなたは豊かになりましたか。神はあなたを愛し、拾わせたいものを先んじて備えておられます。貧しいとするならば、ボアズの愛(落ち穂)を拾わないからです。もっと落ち穂を拾ってください。

2章17節 ①

ルツはこうして日が暮れるまで畑で落ち穂を拾い集めた。集めた穂を打って取れた大麦は一エファほどにもなった。

本当にルツは良い嫁です?いいえ、良き求道者です。一日で集めた落ち穂の量は1エファ(22ℓ)にもなりました。彼女は多くの御言葉を受け取りました。

「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです」(ヤコ1章17節)とありますが、「求める者がいるのを見て、父なる神はその人に必要な恵みと導きを備えられた」も真実です。

ルツが今受け取っている恵みは、神の一方通行の恵みではありませんでした。祝福の最初は神の愛にありますが、ルツの「あなたの神は私の神(あなたの神を私も信じたい)」から始まりました。

神を求めるルツを、神はボアズの畑に導きました。そこで朝から一生懸命落ち穂を拾うルツの姿勢に、ボアズ(神)は水や食料を与えます。さらに一日中熱心に落ち穂を拾う姿に、麦束の間でも拾わせ、わざと落としてでも拾わせよ、と応えます。だれも拾わなかったのでルツが一エファも得たのではなく、ルツが求めて働いたから、神が一エファも備えた、と言えます。

友よ。あなたが今日拾った落ち穂は、手のひら、両手一杯、買い物袋一杯、それとも一エファでしたか。神の恵みの法則は、「神の畑(恵み)…朝から晩まで拾う(信仰)。神は応えてさらに備える(恵み)」です。

2章17節 ②

ルツはこうして日が暮れるまで畑で落ち穂を拾い集めた。集めた穂を打って取れた大麦は一エファほどにもなった。

ルツが拾った1エファ(22ℓ)の落ち穂は、麦束を刈り取って得たものではなく、落ちた一本一本の穂を拾い続けた結果でした。ルツの姿に霊的成長の原型を見ることができます。

大きな集会の賛美の中で、著名な説教者の、特別な賜物によるメッセージを聞くならば、神の御臨在に触れることができると考えますがそうでしょうか。

エリヤはバアルの偶像を持ち込んだアハブ王と戦いました。エリヤの祈りに恵みの雨が降りました。エリヤはバアルの450人の預言者をキション川で殺し、さらにバアル神殿を壊すべく向かったその夜、恐れに襲われてホレブ山まで一目散に逃げました。

神は、岩の裂け目に隠れ怯えるエリヤに、岩を砕くほどの風を送り、地震と火も起こります。しかしそこに神はおられず、火の後の静かにささやく声の中に神がおられました。(以上、列王上19章参照)

風や地震や火こそ、リバイバルの象徴に見えます。しかし、そこに依存する信仰生活は一時の感情で終わり、日常の生活に戻ると消えてしまいます。

神の子とされた友よ。主の御業を求めるのであれば、大勢・大讃美・大説教が有効でしょう。しかし、主御自身と出会うのは、落ち穂を拾う日々によってです。

2章18~19節

それを背負って町に帰ると、しゅうとめは嫁が拾い集めてきたものに目をみはった。ルツは飽き足りて残した食べ物も差し出した。「今日は一体どこで落ち穂を拾い集めたのですか。どこで働いてきたのですか。」

生まれてから死ぬまでに受け取るもの…人種、両親、性別、体格、能力、食物、物質的なものなど…全ては神からの落ち穂です。そして人は、落ち穂の量に目を奪われ、量をもって成功者と失敗者、豊かと貧しさ、幸福と不幸の判断を下してしまいます。それで人々は、より多くのものを得ることへ進んで行きます。

ルツがその日に持ち帰ったものの多さに、ナオミは目を見張りました。しかし、ナオミは落ち穂の量や食べ残して持ち帰ったパンに目をとどめることなく、「どこで拾い、どこで働いたか」と聞き返しました。

ほとんどの人は、得たものの大小に心を奪われますが、それがだれによって与えられたかに心を向けません。しかし、ナオミは得た量よりも、だれから受け取ったか、に心が捕らえられていました。

神の子たちが注意せねばならない一つがこのことです。神の恵みは、人生に必要なさまざまのことを超えた、「神の賜物は、私たちの主イエス・キリストによる永遠の命なのです」(ロマ6章23節)にあります。

友よ。この世界で得る家族も健康も物質的必要も、全ては主に継がり交わるための手段です。恵みを神としてはなりません。「命の神」こそ本当の恵みです。

2章19節

ルツは、誰のところで働いたかをしゅうとめに報告して言った。「今日働かせてくださった方は名をボアズと言っておられました。」

「一体どこで落ち穂を拾い集めたのか」の質問に、ボアズの畑だったことをルツが告白しました。この時、ナオミは震えを覚えたのではないでしょうか。

十年前にベツレヘムを出て行く時、自分たち家族で生きる自信を持っていました。あの時の飢饉の時、頼るべき人を頼らなかったことは裏切ったことでもあったので、ボアズはナオミには避けたい人でした。

しかし、ボアズは違いました。彼はエリメレク家のことを案じ、帰りを待っていました。そこに、一人の若い寡婦、それがエリメレク家の嫁であるとわかった時から、ボアズはこれ以上ないほど厚遇しました。

「ここにいなさい…水を飲みなさい…パンを食べなさい…炒り麦を…麦束の間でも拾わせ…束から穂をわざと抜いて落とせ…拾うのを止めさせるな」のボアズの配慮は、外国から来た働き者で姑に尽くす未亡人への哀れみを超え、ルツの背後にいるナオミに対する愛を届けようとする配慮でもありました。

友よ。私への神の愛は、神が他者を恵むことから始められています。誰かを祝福する時、その人に繋がる家族や一人ひとりの顔も神の心には描かれています。反対に、あなたが拾う落ち穂からの命を待っている人もいます。今日も精一杯落ち穂を拾ってください。

2章20節 ①

ナオミはルツに言った。「どうか、生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主が、その人を祝福してくださるように。」

ナオミがルツに言った「生きている人にも、死んだ人にも…」の死んだ者とは、ナオミ自身のことだったのではないでしょうか。

人は恐れを持つ者ですが、その恐れの原因をある人が、「自分で自分を立ち直せない一線を超えることに対する恐怖」と言いました。その一線を超えないよう生きるからこそ自己中心とならねばなりません。

しかし聖書に出てくる記事は逆です。マルタとマリアの弟ラザロの病気を主に知らせたが、主の到着は4日後でした。マルタの不満に主は、「あなたの兄弟は復活する」と言い、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」と告げました。

「自分で立ち直せない」到達点こそ死です。しかし、それを超えさせるお方こそ、復活した主イエスです。主イエスが死を命に代えることができるのは、「死のとげは罪であり、罪の力は律法です」(Ⅰコリ15章56節)とある罪を解決したお方だからです。

友よ。ナオミが死んだ人(私)にも…」と言いましたが、ナオミは死んだからこそ、今、生き始めたのです。死なないように生きることは、肉の命が生き続けるだけです。主は、生きている人を殺し(肉の人)、死んだ人を生き返らせる(霊の人に)お方です。

2章20節 ②

ナオミは…言った。「…生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主が、その人を祝福してくださるように。…その人は私たちと縁続きの人で…家を絶やさないようにする責任のある人の一人です。」

ルツから、「ボアズの畑で」と聞いたナオミに信仰が回復してきました。

モアブから帰った直後のナオミは、「全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。主はうつろにして帰らせました。主が私を悩ませ、全能者が私を不幸に落とされた」(1章20~21節)と言っていました。

ナオミがモアブからベツレヘムに帰って来たのは、悔い改めたからではなく、モアブで生きられなかったからでした。しかし、どんなに厳しい現実に遭遇しても、それだけでは悔い改めることはできません。

聖書で言うところの悔い改めとは、心を変えることや新たな決心のことではありません。それらは悟りであり自己統制であり、自己中心の形を変えただけです。

悔い改めは、自分以外の人格を相手にすることで、自己中心から相手中心へ方向を変えることです。聖書での正しい悔い改めとは、神に顔を向け、自分ではなく神を主として生きることです。

友よ。悔い改めが人格を相手にすることですから、悔い改めに必要なことは、罰でも知識でもなく、「愛と恵み」です。ナオミはボアズの愛と恵みを受けて悔い改め、信仰が回復し始めたのでした。

2章22節

ナオミは嫁ルツに答えた。「私の娘よ…。あそこで働く女たちと一緒に畑に行けるとは。よその畑で、だれかからひどい目に遭わされることもないし。」

モアブから帰ったたナオミは、大きな重荷を負っていました。人生の重荷は、誰からも見放され、とりわけ神の顧みが自分には注がれないとの思いです。

皆が求める真の命は、知識や健康や富にはなく、良き人格と出会うことから始まります。命は「継がりと交わり」ですが、人間同士の継がりと交わりにはありません。それは、神との関係に作られます。

挫折の中にいたナオミに、嫁のルツを通して、「親戚・贖い人・責任を負う方」…ボアズとの継がりと交わりが始まり、彼女の信仰が回復し出しました。すると、嘆いてばかりいたナオミは、「ボアズの畑で働くことが何よりの祝福である」とルツに勧めます。

エリメレク家は、弱った信仰でしたがルツに神を教えました。ルツは、落ち穂をもってナオミに贖い主ボアズの恵みを知らせました。

友よ。「後の人で先に…、先の人で後に…」(ルカ13章30節)は、誰かの信仰の後退ではなく、互いの信仰の成長について教える御言葉です。かつてナオミがルツを(神を教えた)、今はルツがナオミを(落ち穂で)、するとナオミが3章に入ってルツを(結婚の勧め)、そして、ルツがナオミを(子を抱かせる=永遠の祝福)引き上げ合うことになりました。

2章23節

ルツはこうして、大麦と小麦の刈り入れが終わるまで、ボアズのところで働く女たちから離れることなく落ち穂を拾った。

ルツが、大麦と小麦の刈り入れが終わるまでボアズの畑で落ち穂を拾い続けた姿は信仰の成長に必要です。

1~2度、神に出会う霊的体験(多くの落ち穂を拾う)を得ても信仰の自立はできません。初期のそれらの体験は、ボアズの畑から離れないようにさせる神の恵みであって、それで一人前の信仰者とはなれません。

モーセは、エジプトの王子から追放されてミディアンの沙漠へ逃げ、そこで結婚しました。40年後神がモーセを呼ばれた時、「モーセは、しゅうとである…エトロの羊の群れを飼って」(出3章1節)いました。

ダビデは、預言者サムエルから王としての油を注がれてから、実際に王になったのは13年後の三十歳でした。その間、ダビデはサウル王の迫害の中で過ごしますがそれに耐え、自らの力で王になろうともせず、迫害されるまま神の時を待って過ごしました。

モーセの婿としての40年、ダビデの迫害する王から逃げずに過ごした十三年、両者とも「ボアズの所で働く女たちから離れない」で落ち穂を拾うルツに相当します。だからこそ、彼らは神の僕となれました。

友よ。神は御自分に従うことを、モーセやダビデやルツのように人に従うことを通して教えます。信仰の成長は、神の時が来るまで神の器に従うことです。

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