9章1節
私は心を尽くして…明らかにした。…善人、賢人、そして彼らの働きは、神の手の中にある。愛も、憎しみも、人間は知らない。人間の前にある全てのことは
コヘレトが得たことは、人は自分で分かったようでじつは何も分かっていないことでした。善人や賢人と自負するも、それはその人の自己評価であり、正しい評価は「神の手の中にある」と言います。
人の自己評価は、「富んでいること、満腹していること、今笑っていること、人に褒められること…」が、善人と賢者である証拠と思いますが、その人は「不幸である」と神が断言します(ルカ6章24~26節)。しかし、「心の貧しい者、悲しむ者、柔和な人、義に飢え渇く人…」が善人であり賢者であると神は評価します。なぜならば、「天国を得、慰められ、地を受け継ぎ、満たされる…」からです。すなわち、神から恵みを受け取れる人こそ、神に受け入れられる善人で賢人とされるのです(マタ5章3~12節)。
ここで自分を善人、賢人と思う人の最大の問題は、神を本当に必要としないことです。逆に、必要とする人は、自分に本当の命のない「貧しさ」、自分の罪の「悲しみ」、他者を愛する「柔和」を求め、義人になれない「飢え渇き」を持つゆえに、ひたすら神を求めます。
愛する友よ。自分で「善人と賢人」になってはなりません。神の前に幼子になってください。幼子は、ただひたすら親に頼ります。その者こそ善人で賢人です。
9章2節
同じ一つのことが善人にも悪人にも…清い人にも不浄な人にも…いけにえを捧げる人にも捧げない人にも…。良い人に起こることが罪を犯す人にも起こり、誓いを立てる人に起こることが誓いを恐れる人にも起こる。
善人にも悪人にも、清い人不浄な人、礼拝する人しない人、善良な人と罪人、誓いを立てる人恐れる人、全ての人に同じことが起こるように見えるのは、人の外側を見ての判断です。
しかし、人間の肉体の内部、心の状態、心のさらに内側の魂の状態は同じではあません。一見同じに見えても、「この者たちは、分裂を引き起こし、この世の命のままに生き、霊を持たない者です」(ユダ19節)とあるように、「世の命」で生きている者と、神の「霊」によって生きる者が明確に分けられます。
善人も悪人も、礼拝するもしないのも同じならば、今を楽しく生きる人が賢い人です。しかしユダは続けて、「しかし、愛する人たち、あなたがたは最も聖なる信仰をよりどころとして生活しなさい。聖霊の導きの下に祈りなさい。神の愛によって自分を守り、永遠の命へ導いてくださる、私たちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい(20~21節)」と勧めます。
友よ。あなたの目はどこを見ていますか。「私たちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(Ⅱコリ4章18節)。
9章3節
太陽の下に起こるすべてのことの中で最も悪いのは、だれにでも同じ一つのことが臨むこと、その上、生きている間、人の心は悪に満ち、思いは狂っていて、その後は死ぬだけだということ。
人は、自分は他人よりはまともな人間だと思いたがるものです。特に、生まれながらの良い環境や様々の賜物や能力を持つと、さらにそう思いがちです。そのような人に我慢ならないのは、自分より劣ると思う人と自分が同じ罪人で、心は悪に満ちて狂っていて、同じように死なねばならないことです。
死は全ての人に等しく訪れるのは、全ての人が罪人なので、「罪の価は死」を受け取るからです。しかし、人は死ぬために生まれて来たのではなく、生きるために神によって造られました。生きる道は、「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない」と言われた主イエスとの継がりと交わりです。
そこに至らせるためには、人に限界を知らせねばなりません。人間の最大の限界こそ「死」です。だから主は言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と。
友よ。「心は悪に満ち、思いは狂い、死ぬだけ」の自分に気づく者は、罪を取り除き、聖と義と永遠を与える主イエスという医者に行けるから幸いです。
9章4節
命あるもののうちに数えられてさえいればまだ安心だ。犬でも、生きていれば、死んだ獅子よりましだ。
ことわざに、「命あっての物種」とあり、何事も生きていればこそであって、死んでは何にもならない」との意味です。だから、死んだ獅子よりも非力でも生きている犬の方がましだとなります。
反対に、「生ける屍(しかばね)」ということわざもあります。これは、肉体的に生きているだけで 、精神的には死んだも同然の人の姿を表しています。これを未信者に当てはめると、「健康で動き回っているが、神の命を持たないで死んだような人」となります。
さらに、神の子たちにあてはめると、「私はあなたの行いを知っている。あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」(黙3章1節)と言われたサルデスの教会のような人たちの姿です。実に、「命あるもののうちに数えられて」いる神の子ではありますが、実は死んでいる状態です。
この者の真相は、「神を信じ、神の命を持ち、神の子となっているが、神の命ではなく自分の命で生き、罪人と同じように生きている人」と言えます。
友よ。パウロも「兄弟たち、私はあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました」(Ⅰコリ3章1節)と言いました。肉ではなく、霊によって生きる者となって下さい。
9章6~7節
その愛も憎しみも…消えうせ、太陽の下に起こること…何の係わりもない。さあ、喜んであなたのパンを食べ気持ちよくあなたの酒を飲むがよい。あなたの業を神は受け入れていてくださる。
コヘレトは、太陽の下の人間の営みを否定しているが、もう一方では肯定もします。この書を理解するには、「肯定と否定」に惑わされないことです。
「太陽の下…空の空である」と何度も繰り返される「否定」と共に、冒頭の「喜んでパンを食べ、酒を飲め…あなたの業を神は受け入れてくださる」のような「肯定」も何か所もあります。
肯定と否定は、二つの世界観から出てきます。それが、「太陽の下」と「太陽の上」です。太陽の下は神のいない世界で、太陽の上は神の支配する世界です。彼が太陽の下の正体を「空」を暴くのは、空の世界(太陽の下)から、空でない世界(太陽の上に)に人々を導くためです。ゆえに彼は「伝道者」と呼ばれます。
主こそ、「自分の十字架を負って私に従え」(マタ10章37節・他6回)と、否定と肯定を何度も語りました。多くの人生訓は、「あなたは素晴らしい」と肯定し、否定(死)を受け取らせます。聖書は、否定(人の限界)を語り肯定(永遠の命)を受け取らせようとします。
友よ。あなたの人生論は、肯定→否定、否定→肯定のどちらですか。神の否定は肯定に向かわせ、肯定を得ると太陽の下も「受け入れ」られる肯定となります。
9章8~9節
どのようなときも純白の衣を着て、頭には香油を絶やすな。太陽の下、与えられた空しい人生の日々、愛する妻と共に楽しく生きるがよい。それが、太陽の下で労苦するあなたへの人生と労苦の報いなのだ。
純白の衣を着、頭に香油を絶やさない生活こそ、太陽の上の生き様です。純白の着物は、小羊の血でしみも汚れも取り去られた神の前に正しい姿です。香油は、聖霊の満たしと導きを表します。
誰もが太陽の上に昇って来る前は、「愛も憎しみも、情熱も、既に消えうせ」(6節)ていました。でも今は、「妻と共に楽しく生きる」ことができ、太陽の下での労苦が無価値でなく、豊かな報いに変わります。
族長ヤコブは、神の霊の賜物(香油)の約束を得ていたのに、小羊の血のない肉の衣をまといました。その結果、四人の女から多く子を得るが激しく争う太陽の下に閉じ込められた家族となりました。 彼は、太陽の下で行き詰まり逃げる途中に神と出会い、その時から太陽の上に移されます。やがて息子ヨセフによって、家族全員が白い衣と香油を受け取る愛し合う家族へ変えられました。
太陽の上に生きる友よ。さらに白さを増した衣と聖霊の香油を求めてください。すると、太陽の下であった日常生活も聖別されます。それは、あなたがヤコブ(争う者)からイスラエル(神の王子)に変わるからです。あなたの変化が家族の変化を生みます。
9章11節
太陽の下、…足の速い者が競争に、強い者が戦いに…勝つとは言えない。知恵が…パンに、…聡明だから…富を得るのでも、知識が…好意をもたれるのでもない。
この世では、足が速く、戦いに強く、知恵が富を造り、知識は他者に尊敬される者にすると考えられています。それゆえ体を鍛え、知恵と知識を積み上げようと努力しています。しかし、早いと遅い、強いと弱い、知恵があるとない、知識があるないも関係ないと言います。それでは、それら以上に大切なものがあるのでしょうか。
ある知者が人生を次のように言い表しました。「出生、養育され、教育を受け、成人し、結婚、家族、社会生活、やがて老人へと進んで行く。それは人によって千差万別だが皆に同じことが起こる。それは、だれの人生も(カッコ)にくくられており、そのカッコの前にはマイナスが付いている」と。さらに続けて、「人生をくくっているカッコの前に付くマイナスこそ、『罪』であり、従って罪の価の『死』から逃れられる者はいない」と。すると、コヘレトが言うように、早い遅いも知恵や知識も他者との差は、人生の大問題ではなくされます。
友よ。どんな人生を歩んできたかよりも大事なことは、カッコの前のマイナス(罪)を無くすことです。それができるのは、主の十字架です。十字架こそ唯一、カッコの前に置かれたプラスです。
9章11~12節
時と機会はだれにも臨むが人間がその時を知らないだけだ。魚が運悪く網にかかったり鳥が罠にかかったりするように、人間も突然不運に見舞われ、罠にかかる。
人生なにが起こるかわかりません。順風が突然大嵐になり、健康自慢の体が急に弱り、家族、政治経済などなど、全く予測ができません。
《主が話された天国》「天国は畑に隠された宝」と。宝が隠されている畑こそ聖書と教会と言えます。それを得るには、持ち物…他に使う時間や手間暇…を売らねばなりません。
次に、「天国は高価な真珠」と。真珠は他の宝石と違います。宝石は鉱物ですが真珠は貝の中に入った異物を包むために流された命の塊です。それを得るには、自分の持物…本当の命でないもの…を全て売ります。
さらに、「天国は、網が湖に投げ降ろされ魚が集められ、引き上げられ、良い魚と悪い魚を分ける」と。人は自由に生きているようですが、実は神の網(御手)の中でした。やがて引き上げ、天国に持って行く魚(人)と捨てる魚(天国へ入れない人)を分けます。分ける基準は、畑に隠された宝によって真珠になっているか否かです。真珠とは、人を傷つける罪人が、イエスの血潮で包まれ復活の命に変えられた人です。
友よ。人生何が起こるかは、分からないことではありません。聖書は何が起こるかを明確に教えています。最も大切な事、天国に入ることを教えています。
9章14~15節
ある小さな町に…強大な王が攻めて来て包囲し、大きな攻城堡塁を築いた。その町に一人の貧しい賢人がいて、知恵によって町を救った。しかし、貧しいこの人のことは、だれの口にものぼらなかった。
小さな町を強大な王が奪い、強固な攻城堡塁を築き支配した。そこに貧しいが賢い人がいて、彼の知恵によって町は救われた。
歴史上、強力な権力や武力よりも知恵が勝り、大きな変革をなした出来事は多くありました。すると力よりも知恵の方が勝って偉大であると思いがちです。しかし、彼の功績は偉大で皆の尊敬を受け続けると思いきや、彼の存在は忘れられてしまいました。
世における知恵は、ある時は町を救うが、時が過ぎ場面が変わると役立たずになります。しかし、時が良くても悪くても、いつも変わらない知恵もあります。
エジプトに売られたヨセフの知恵は、主人の妻に言い寄られた時、「…悪を働いて、神に罪を犯せない」と答え、獄中でも「私ではありません。神がファラオの幸いについて告げられたのです」と言います。王に次ぐ位に就いてからも知恵を用いて、エジプトを救い、イスラエル十二部族となる兄たちを救いました。
友よ。「このキリストは、私たちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられた」(Ⅰコリ1章30節)とあります。主を信じる事こそ知恵です。この知恵は永遠に続く義と聖と贖いを与え続けてくださいます。
9章16~17節
…知恵は力に勝るというがこの貧しい人の知恵は侮られ、その言葉は聞かれない。支配者が愚か者の中で叫ぶよりは、賢者の静かに説く言葉が聞かれるものだ。
昔、将軍の家来の知者が重用され、その知恵を恐れられて殺された人もいたとか。この世では、知者が用いられ、知恵ゆえに命を落とすことさえあります。
知者よりも激しく叫び人々を動かすのは、支配者です。しかしその声がどれほど大きくても、幾世代にも聞こえることはありません。徳川幕府もローマ帝国も、独裁者も、その時だけで消えて行きました。しかし、何千年経とうとも消えない声があります。「見よ、私の選んだ僕。私の心に適った愛する者。この僕に私の霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。 彼は争わず叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない」(マタ12章18~19節)。この僕こそ主イエスです。
彼の静かな声は、今も生きています。この世の人々が語った知恵は「知識としての知恵」でしたが、主イエスが語った知恵は「命としての知恵」でした。それが滅びず今も人を変えてしまうのは、「愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れ」(一コリ13章8節)とある「愛(命)」だからです。
まことの静かな声を聞き続けている友よ。まさに主が語られた静かな声は、「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない。」(マタ24章35節)と約束された通りです。「命の知恵」なる言葉に聞き続けましょう。
9章17節
支配者が愚か者の中で叫ぶよりは、賢者の静かに説く言葉が聞かれるものだ。
自己主張の大小を、「声の大きさ」とも表現できます。人間社会では、声の大きな人が王となり独裁者となってきました。彼らは徹底的に自己主張した者たちです。しかし、大きな声(自己主張)が一時的に人を動かすかに見えても真実は違います。人は大きく叫ぶ者に「忍従」したのであり、「服従」したのではありません。
忍従は恐れから出て、服従は愛から出てきます。忍従は、報酬のための自己主張なので、自分を守るために大きな声に嫌々ながらも従います。王や権力者への忠誠は、忍従という自己主張です。
「服従」は、相手から受けた愛によって作られます。愛にある命が、相手に積極的に仕える自己犠牲を喜びとします。「賢者の静かに説く言葉」こそ、「父よ、彼らをお赦しください。自分では何をしているのかを知らないのです」(ルカ23章34節)でした。
十字架上の主に大声を出す力は無く、人々に聞かせるためではなく、ただ一人、天の父に聞いてもらいたく語った小さな声だったのではないしょうか。
友よ。「初めに言があった、…この言の内に命があった」(ヨハ1章1~4節)という「言」こそ「イエス」であり「命と愛」でした。支配者の大声は消え、小さき主の声は今も語りかけます。「私はあなたの罪を赦しました。だから、恐れないで私に従いなさい」と。
9章18節
知恵は武器にまさる。一度の過ちは多くの善をそこなう。
「人生は戦いである」とは某有名人の言葉ではなく、皆が自分で体験する現実です。戦いは、そこに敵がいるということです。病気なる敵には医学、高収入を得るには能力、命を守るには戦車や大砲…と、敵に勝つためには、それにふさわしい武器が必要です。
人生の戦いとは、「命を得るか、守るか、失うか」の戦いと言えます。そこで、その命なるものが何であるかを間違うと、戦う相手も、その戦い方も、用いる武器も間違ってしまいます。
人間の戦う相手は、「最後の敵として、死が滅ぼされます」(Ⅰコリ15章26節)とある「死」です。その死は、「死のとげは罪であり、罪の力は律法です」(56節)。すると、罪こそ最大の敵となります。 この敵に勝つのは主イエスの十字架以外ありません。「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、私たちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです」(Ⅰコリ1章30節)。
従って、「一度の過ちは多くの善を損なう」とある「過ち」は、主イエスを信じないことです。
友よ。私たちの本当の敵(罪と死)と戦う知恵こそ、キリスト御自身に結ばれることです。さらに、この世の諸々の敵と戦う知恵は、「キリストの御名」を用いてキリスト御自身に戦っていただくことです。