キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

コヘレトの言葉 第7章

7章1~2節

名声は香油にまさる。死ぬ日は生まれる日にまさる。弔いの家に行くのは、酒宴の家に行くのにまさる。そこには人皆の終りがある。命あるものよ、心せよ。

巨万の富を得ても死の先に持って行けない。だから「名誉は多くの富よりも望ましく、品位は金銀にまさる」(箴22章1節)ように、自分の名を残す方が良い。しかし、そこにも終わりという限界があります。それならば、生まれて来て空しい人生を送るよりも、死ぬ日の方が勝るではないか、なぜなら苦しみを終える日となるから…と考えたくなります。

一般的に、人の誕生は祝いの日となり、死ぬ日は忌中と言って忌み嫌います。しかし、「死ぬ日は生まれる日に勝る」とコヘレトは言います。

ある牧師曰く…結婚式よりも葬式の方がよい。なぜなら、結婚式は人(花嫁と花婿)が主役になるが、葬式は人が主役になれず(棺桶の中に横たわるだけ)神が主役となれる時だから」と。まさにこれが「弔いの家に行くのは、酒宴の家に行くのにまさる」です。誕生を見て人生を深く考える人はわずかですが、死に直面して人生を深く考えます。

友よ。さらに深い誕生と死の意味は、主の十字架と復活に隠されています。「私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」(ロマ6章8節)。人の「生と死」は、キリストの「十字架と復活」そのものと言うことができます。

7章3~4節

悩みは笑いにまさる。顔が曇るにつれて心は安らぐ。賢者の心は弔いの家に、愚者の心は快楽の家に。

冒頭のみことばは、人の願いと反対のことを言っているように見えます。だれでも悩むより笑いを、顔は明るく、弔いの家より楽しい家に足が向きます。そこで、「笑い」と「悩み・悲しみ」の出所はどこでしょうか。笑いは、外部より与えられます。笑いのほとんどは外部(テレビやゲーム…)からの刺激です。それらを求めて酒を飲み、時間を使い、持ち物を増やします。

悲しみと悩みは内側から出てきます。人の内部には悲しみ、不安、憤り、怒りなどが詰まっています。しかし人は、それらが内側でなく外側から来ると思い込むので、夫(妻)を責め、子どもを怒り、社会に、政治に、他国へと間違った行動へ進みます。

神はエデン(歓喜)に人を住ませました。そこは、四つの川が園を潤す喜びの地でした。しかし、人が善悪の木(神の戒め)を取った時から、四つの川の水(笑い)は止まり、この地の水(悲しみ)を飲まねばならなくなりました。それは、周りの変化ではなく、人の心の中の変化、太陽の上と下の変化でした。

友よ。それ以来人類は、悩みと悲しみの罪の中から出ようと、外に笑いを求めるようになりました。しかし、間違った求めは、さらなる争いと悲しみを増すことになりました。そのことで「悩み、顔が曇る」人は幸いです。「(罪に)悲しむ者は幸いです」。

7章4~5節

賢者の心は弔いの家に、愚者の心は快楽の家に。賢者の叱責を聞くのは、愚者の賛美を聞くのにまさる。

皆が平穏無事に楽しく生きることに精一杯です。そのためには、悲しみ、苦しみ、貧しさ、孤独、家族の不和、病などのマイナス面を消そうと必死です。

世には偽教師が多くいます。彼らが教えるのは、この世の対処療法です。「彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して、平和がないのに、『平和、平和』と言う」(エレ6章14節)。これこそ彼らの実態です。偽教師は、本当の解決を持っているお方、主イエスを教えません。「…民の中に偽預言者がいました。…自分たちを贖ってくださった主を拒否し…自分の身に速やかな滅びを招いており」(Ⅱペト2章1節)。

神から遣わされた教師が最初に教えるのは、罪の中で死んでいく人の悲しみと無力さです。主御自身の最初の教えも、「心の貧しい者(霊の乞食・神の霊を持たない者)は幸いである」。「悲しむ者(罪を知り救いの無い自分を知る者)は幸いです」でした。

弔いの家に行く絶望した人こそ、本当の賢者(教師)の言葉を聞いた者です。そして「天国はその人のもの・その人は慰めされる」を受け取ります。

友よ。あなた自身は自分の絶望を知る賢者ですか。それとも、自分のことは何とかできる、と信じている遇者ですか。「私は知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする」(Ⅰコリ1章19節)。

7章8~9節

事の終りは始めにまさる。気位が高いよりも気が長いのがよい。気短に怒るな。怒りは愚者の胸に宿るもの。

箴言には、「忍耐によって英知は加わる。短気な者はますます無知になる。…短気な者は愚かなことをする」(箴4章17・29節)と、忍耐した人が受け取るものと、短気な者が作り出す愚かさを対比させています。短気を作るのは、「気位が高い」ことが原因のようです。それは、他者の考えよりも自分の考え、さらに神よりも自分が先に出てしまうからです。

ある人曰く、「長年神の子として学んだことは、他者を責めたくなる時、自分よりも神を大きくすること。すると、時が来ていつも良きものを受け取れた」と。

アブラムは子を得る約束を神から得ていたが、待てず女奴隷ハガルによりイシュマエルを得ます。しかし、その気短が妻の胸に苦い根を作り、ハガル親子を追い出すことになりました(創15・16章)。

短気か否かの判断は、世間一般の常識ではなく、基準は神です。神が事を始めたならば、必ず神が完成させます。神に委ね切れず、自分が先立つことが短気です。神の計画は、初めから完全に理解できませんが、時の経過と共に明らかにされます。そして、「事の終わり」は必ず最善とされます。

友よ。コヘレトが言う、気位が高く気短(自分を信じ行動する者)よりも、「気が長い(神の御業を待つ)のがよい」との言葉に心を留めて歩んでください。

7章11~12節

知恵は遺産に劣らず良いもの。日の光を見る者の役に立つ。知恵の陰に宿れば銀の陰に宿る、というが知っておくがよい、知恵はその持ち主に命を与える、と。

一般的に、知恵と知識と混同します。聖書では、「知恵」は神に関する太陽の上のこと、「知識」は太陽の光に照らされたこの世・太陽の下、と分けられます。また、知恵は理解を超えた生き方に直結します。

人間学を始めたある師が、「人間の成長のために重要な役割を果たす四つの要素」について教えています。

子は愛されて成長できる。親や周りの人々の愛も必要であるが、最も必要なのは神の愛。
苦悩・悲しみ
これを通ることによって、外部的希望を絶ち、自分の内側をあらわにし、より確かな方に心を向けさせる。
同化
誰かに自分を同化させる。しかし、それは同質の者(太陽の下の人)ではない。より高い人格との結合である。その方は、主イエス。
順応
従順に行動へ移す。「信仰も同じです。行いが伴わないなら、信仰は…死んだものです」(ヤコ2章18節)。
(以上、ポール・トゥルニエ師著書より)

ある子供が親に送った手紙…「僕たちは小さい時より神を教えられたので、大人になってから神を知った人の何倍も楽に神さまに従えます」…と。

友よ。本当の知恵はイエス・キリストです。「遺産に勝り、銀の陰に宿し、命を与えます」。

7章13~14節

神の御業を見よ。神が曲げたものを誰が直しえようか。順境には楽しめ逆境には…考えよ。人が未来について無知であるようにと神はこの両者を併せ造られた、と。

人生は、時代、出会い、病や災いなどで変化しますが、それが本当の変化とは言えません。それは、太陽の下の出来事で五十歩百歩です。「ゆがみは直らず、欠けていれば、数えられない」(1章15節)と、罪に支配された太陽の下での変化にすぎないからです。

人生の本当の変化は、太陽の下(罪の支配)から、太陽の上(神の支配)に移ることです。それを実現させたのは、唯一主イエスの来臨と十字架の贖いです。これこそ、「神の御業」であり、神が太陽の下から太陽の上に「曲げた(引き上げた)」救いの御業です。

また、人生には順境の時も逆境の時もあり、逆境を順境に変えることのために労苦します。しかし、「人が未来ついて無知であるようにと神は両者(順境と逆境)を併せ造られた」のだと言います。それは、人の計画と行動の限界を知らせ、自分自身から手を放し、神の御業に身を委ねて歩ませるためです。

順境・逆境に心動かされる友よ。それを自分で変えようと考えるよりも、主イエスを見上げてください。「明日のことを思い悩むな」と言われた主は、「明日のことは明日自ら思い悩む」とも。今日の主人が主イエスであるように、明日もイエスが主人です。主があなたのことをわずらって(心配して)くださいますから。

7章15~16節

空しい人生の日々に私は全てを見極めた。善人がその善のゆえに滅び…悪人がその悪のゆえに長らえる。善人すぎるな、賢すぎるな。どうして滅びてよかろう。

良いことをした善人が長生きするとは限らず、自己中心な悪人が早死にするとも言えません。そこでコヘレトは、どちらかに偏り過ぎると、むしろ世間から孤立し、批判され、切り捨てられる場合があるから、「善人すぎるな、賢すぎるな」と忠告します。それは、「ほどほど・中間・皆に合わせ・偏らず」という中庸の勧めであり、これが人生の最大の処世術だと。

…こんなことが言われます。ドイツの哲学者ヘーゲル(1770~1831)哲学は、「あれも、これも」。それに反発したデンマークの哲学者キルケゴール(1813~1855)は「あれか、これか」の哲学…と(注・キルケゴールは哲学者であり伝道者)。それは、「中庸か、真理か」を問うているように見えます。

聖書は「だれも、2人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタ6章24節)。

友よ。なにより肝心なことは、「善と悪」の基準です。太陽の下での基準は中庸が無難?に見えますが、私たちの基準は神です。「私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」(ロマ14章8節)。これこそ私たちが歩む道です。

7章18節

一つのことをつかむのはよいが、ほかのことからも手を放してはいけない。神を畏れ敬えば、どちらをも成し遂げることができる。

「善人すぎるな、悪人すぎるな」(16節)とは反対のような言葉、「一つを掴み、他からも手を離すな」と記されます。しかし、「神を畏れ敬えば、どちらも成し遂げる」が双方の矛盾から解放します。

神は「土の塵で人を造り(両親から生を受け)」、その命をエデンの園(自然界)で育み守りました。さらに、「命の息(神の霊・命)」を吹き入れ、人が神と共に神の世界で生きるようにされました。

人には、太陽の下(自然界)と太陽の上(霊の世界)のどちらも必要です。それが、「一つを掴み(太陽の上)、ほかのこと(太陽の下)からも手を離すな」です。しかし、太陽の上と下には、決して混ぜてはならない法則があります。それは、「何よりも神の国とその義(太陽の上)を求めなさい。そうすれば、これらのもの(太陽の下)はみな加えて与えられる」(マタ6章33節)との主イエスの言葉です。

太陽の上だけが太陽の下(この世)を正しくコントロールできます。正しくコントロールされた時、私たちの肉体も、心も、家族も、世界も秩序を保ち互いに愛し仕え合うことが出来ます。

友よ。「神を畏れ敬う」ことから得るものが、自分を愛し隣人を愛する豊かな人生を作り出します。

7章19節

知恵は賢者を力づけて、町にいる十人の権力者よりも強くする。

知恵を持つ賢者は、十人の権力者よりも強い者となると言いますが、問題は「どんな知恵」かです。もちろん、それは人間の知恵ではなく神の知恵のことです。

それは、「夫は妻の頭である」をこの世の知恵で解釈すると、「男は女の上に立つリーダー・男が女に命じる・女は従うべきである」となります。

しかし、神の知恵によって解釈すると、妻に対する夫の関係は、キリストと教会の関係と重なります。それは、「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のために自分を与えたように、妻を愛しなさい」と。

すなわち、「キリストが自分の命を教会に与えたように、夫よ、妻に自分の命を与えなさい」となります。夫が妻の頭であることは、夫が十字架刑を受けたキリストに最も似ている時に実現されることになります。

しかし、愛されるべき教会は、夫には最もふさわしくない女性(罪人)です。しかし、花嫁(罪人)の美しさは、花婿(夫・キリスト)によって作られます。それこそ、「夫は妻の頭」である神の知恵です((エフェ5章)。

以上、CSルイス「四つの愛」を参考

神の知恵なるみ言葉と聖霊をいただき、神の知恵なるキリストと結ばれている友よ。本当の権力者は、神の愛という権力(仕える)を身に着けた者のことです。神の知恵、愛によって歩んでください。

7章20~22節

善のみ行って罪を犯さない…人間はこの地上にはいない。 人の言うことをいちいち気にするな。…あなた自身も何度となく他人を呪ったことを…知っている…。

冒頭のみことばは、「人間は皆罪人なのだから、あなたも私も正しくないのは当たり前、それを弁えて生きればよい」と開き直っているのではありません。

パウロは、「正しい者はいない。一人もいない」(ロマ3章10節)と断定します。それは自分にも他者にも、全ての人間に救いがないことを知らなければ、本当の救いを求める者になれないからです。そこで彼は、「ところが今や、律法とは関係なく(行いによらず)、しかも律法と預言者によって立証されて神の義が示されました」(21節)と告げます。さらに、「救い・神の義」は、初めから終りまで信仰を通して実現されるのです」(1章17節)とも言います。

その信仰とは、主イエスの御人格と継がって交わることです。すると、主がお持ちのあらゆる恵みの御業を、主と一体となった者が共有することになります。そのことをローマ書6章が、キリスト・イエスに「結ばれて・与かり・共に、一体になり・献げ」と繰り返します(以上の言葉は10回用いられています)。

友よ。あなたは人間の中に救いがないことを本心から認めますか。救いは、「初めから、終りまで」主イエスの中にあるのです。人ができることは、「初めから終りまで」主に依存することです。これが信仰です。

7章23節

私はこういうことをすべて、知恵を尽くして試してみた。賢者でありたいと思ったが、それは私から遠いことであった。

コヘレトは知恵を尽して人生の全てを見極めようとしたが無理だったと言います。古代哲学者のソクラテスが「無知の知」と言い、自分の無知を知ることこそ知恵ある者であると言ったのは有名です。そのことを聖書も、「私は知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする」(Ⅰコリ1章19節)と。

それでは、人は知恵を持つことが出来ないのでしょうか。知恵を持つことができますが、それは自分の中の知恵ではなく、「主を畏れることは知恵の初め」(箴1章7節)」とある主イエスを信じるという知恵です。「畏れる」は「恐れ」ではなく、神の愛を受け取り、神を愛することです。神を愛することこそ知恵です。

「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、私たちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです」(同30節)とあるように、知恵であるキリストと結ばれるとき、キリストの知恵を自分の知恵とすることができます。

友よ。コヘレトは、「天の下の全てを知ろうと熱心に探究し…見極めた」結果、人の救いは「能力によらず、存在による」と語っているかのようです。あなたが何を考え、何ができるかではなく、神とあなたの関係がどうかこそ一番大切なことです、と。

7章26節

私の見いだしたところでは、死より…罠よりも、苦い女がある。その心は網…手は枷。神に善人と認められた人は彼女を免れるが一歩誤れば、そのとりことなる。

彼はこの節の前で、「私は熱心に知識を求め、知恵と結論を追求し、悪は愚行、愚行は狂気であることを悟ろうとした」と言います。しかし、それを不可能するのがこの節にある「苦い女」であると言います。

ここでの「女」は、「情」の代名詞です。男は女に、女は男に出会う時、理性を超えた「情」が先立ちます。「よその女の唇は蜜を滴らせ、その口は油よりも滑らかだ。…彼女の足は死へ下って行き、一歩一歩と、陰府に達する」(箴5章3~5節)。

人の歩みも、真理を超えた「情」が、「その心は網(捕らえられる)、その手は枷(縛りつけられる)」となります。太陽の下の出来事を支配するのは、「情」であり、それこそ「網と枷」という「罪」です。続けて箴言は、「それゆえ、子らよ。私に聞き従え。私の口の言葉からそれてはならない。あなたの道を彼女から遠ざけよ。その門口に近寄るな」(同7~8節)と忠告します。

友よ。情なる女である罪から逃れる道が一つだけあります。それは、「イエスを主として生きること道(聖霊の導きによって歩み、聖霊に満たされ)」です。その人は、「神に善人と認められる人」になるので、苦い女(情・罪)から逃れられます。

7章27~28節

見よ。これが私の見出したところ、…一つひとつ調べて見出した結論。 千人に一人という男はいたが、千人に一人として、良い女は見いださなかった。

冒頭のみことばが、コヘレトが見出した結論だと言います。一見、男尊女卑的イメージを浮かべますがそうではありません。ここでの「女」とは人間の総称であり、「義人一人もいない」ことを表します。それに対比し「千人に一人という男」は主イエスを指します。すると、全人類に義人一人もいないが、罪の無いお方はイエス・キリストただお一人となります。

パウロは、「…今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者とによって立証されて、神の義が示されました。…人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」(ロマ3章21~31節)と。

それをローマ書4~5章にかけて弁証します。「一人の人(アダム)の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人(主イエス)の従順によって多くの人が正しい者とされるのです」(5章19節)と。それは、千人の女(人)の中に一人の救い主もいませんが、たった一人の男(罪の無い人・救い主・イエス)によって救いが備えられることの教えでした。

友よ。サマリアの女は、五人の夫(女たち)を持ったが命をもらえませんでした。しかし、主イエスという一人の男(救い主)と出会った時、彼女が求めた生ける水(命)をいただけました(ヨハ4章参照)。

7章29節

ただし見よ。見出したことがある。神は人間をまっすぐに造られたが人間は複雑な考え方をしたがる、ということ。

コヘレトは、人間の空なる現実を見ますが、人の原点に帰れば、「神は人間を真直ぐに造られた」とわかります。それこそ「神は我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」(創1章26節)の言葉です。

「神は愛です」(Ⅰヨハ4章8節)は、神の本質を一番よく表しています。愛には幾つかの特質があります。

  1. 型(父と御子イエスと聖霊…三位一体)
  2. 自由意志(独立した人格)
  3. 秩序(父と子、男と女)
  4. 創造(愛が新しい命を生む)
  5. 自己犠牲(相手のために命を捨てる)

愛は愛されて愛するものですから、人間の創造は父に愛された御子が、御自分の愛する対象として人を造られました。それなのに、なぜ「人間は複雑な考え方をしたがる」のでしょうか。

その理由は、神に「似せて」造られたからこそです。人が神に一番似たところは「自由意志(自分で自分のことを決める)」を持つことです。自由意志なくて愛は成り立ちませんから、神は人に与えました。

神の愛に生きる友よ。真直ぐ単純に神の愛を受けてください。神からあなたを遠ざけるのは、他者でもサタンでも社会状況でもなく、あなた自身です。どうか複雑に考えず単純に主に身を委ねてください。

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