キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

コヘレトの言葉 第5章

5章1節 ①

神の宮に行く時には、その足を慎むがよい。近よって聞くのは愚かな者の犠牲をささげるのにまさる。

(口語訳聖書より)

サウル王は、神よりも自分の肉の声に聞き王位から退けられます。彼もサムエルを通し神の声を聞いていましたが、「近寄って聞く」ことはしていませんでした。 「近寄って聞く」には特別な意味があります。

「近寄って」には次のことが必要です。

  • 耳だけでなく、体ごと、全存在をもってその人の前に出て行くこと
  • ほどほどの距離を保ち、危険になったら逃げられる場所ではありません
  • 相手の中に自分が入って行くこと

「聞く」ことには3つの要点があります。

  • 「聞く相手」は「道、真理、命」を持っているお方でなければなりません
  • 「自分を空しく」せねばなりません
  • 「従う」ことを決意する必要があります

またダビデも、「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、私はそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を。神よ、あなたは侮られません」(詩51篇18~19節)と祈りました。

愛する友よ。主はあなたを十字架で贖ってくださったお方です。その方が不利なことを言うでしょうか、否。どこまでも主イエスの声に聞いてください。

5章1節 ②

焦って口を開き、心せいて神の前に言葉を出そうとするな。神は天にいまし、あなたは地上にいる。言葉数を少なくせよ。

「口を開き神の前に言葉を出す」とは、祈りについての教えです。ある宗教の人が、一日に2~3時間お題目を上げる…と。それは、諸々の供え物を差し出して神を喜ばせて、自分の益を得ようとするのでは?

祈りは、「犠牲を献げるよりも近寄って聞く」こととあったように、「供え物」ではなく「聞く」ことです。「神に聞くことに命を賭けた人が、神の御心に命を賭けて従える」とある人が言いました。

持病を持ちつつ全国を飛び回り、毎日の早朝の祈り会のために、さらに1時間早起きして備える牧師に主治医が忠告しました。「そんな生活をしていたら死んでしまいますよ」と。 すると牧師が「(神のために)死んで何が悪い」と応えたとか。事実彼は、あまりにも早く主の御元へ帰られました(故・榎本保郎師)。

その師曰く、「神が私たちに求めておられることは香り高き犠牲ではなく、み言葉への聴従であり、砕けた魂をもって主により頼むことであり、み言葉に聞き入ることである。神を喜ばそうとすることではなく、神を喜ぶことである」と。(一日一章より)

友よ。子どもの成長過程で大切なことは「聞くこと」と言えます。良き言葉を聞き、心が良く整えられ、良き行いができます。主の言葉を聞くことからです。

5章2節

夢を見るのは悩みごとが多いから。愚者の声と知れるのは口数が多いから。

人生に様々の夢を持ち、自分の考えをはっきりと言える人…実に現代の教育はそのような人を造ろうとしているようですが、どうでしょうか?

「夢を見るのは悩み事が多いから」とは、自分に与えられた使命を明確に自覚できないからとも言えます。また、「口数の多さ」は、自己主張の強さとも取れます。いずれにしても、太陽の下であるこの世で真理を知らないゆえの迷いとも言えます。

明治9年に将来の北海道開拓の指導者を養成するため「札幌農学校(現北海道大学)」の初代教頭としてクラーク博士が招かれました。彼の残した言葉、「少年よ大志を抱け」は有名です。しかし、その後に続く言葉は、「ただし金を求める大志…、己の利己心のみを望む大志…、名声という浮わついたつかの間のものを求める大志であってはならない」と続きます。彼が本当に伝えたかったのは、「少年よ、大志を抱け。イエス・キリストにあって」ではなかったでしょうか。

主は、「…祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる」と教えました。

友よ。主が言われた「くどくど」を「説得説得」の当て字はどうでしょうか。神は「あなた方の必要を御存じ」です。神に祈るべきことを聞いてください。

5章3~4節

神に願をかけたら、誓いを果たすのを遅らせてはならない。愚か者は神に喜ばれない…。願をかけておきながら誓いを果たさないなら、願をかけないほうがよい。

ユダヤ社会にも、「毎朝聖書を読み祈ります。だから、主よ私の願いを聞いてください」のように願(誓い)をかける者がいたようです。しかし、人が神との約束を果たすことが難しいのは、神と人の関係が自由意志による関係で、力による拘束力がないからです。 

それよりも、神は御心に適うことを聞かれ、適わない場合は応えられないお方です。従って、願をかけても応えていただけるとは限りません。主も「…『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、私は言っておく。一切誓いを立ててはならない。」(マタ5章33~34節)。なぜなら、「あなたの…髪の毛一本すら…白くも黒くもできないからである」と。人が神に願をかける時、被造物であることを忘れています。

「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい」(同37節)と主が言われました。神が然り(良し)とすることを自分も「然り(アーメン)とし、神が否と言われることを自分も「否」とすること、それが私たちの祝福となります。

神に祈る友よ。あなたの祈りは、「願」になっていませんか。祈りは、まず神に聞きそして願うことです。神に聞かず、願いが先にくると「願」になります。

5章6~7節

「夢や空想が多いと饒舌になる。神を畏れ敬え。貧しい人が虐げられていることや、不正な裁き、正義の欠如などがこの国にあるのを見ても、驚くな。

人は、「神のかたち」に造られたので、自分で考えた通りの行動もできます。しかし、自分の夢を追い続けることは、立派な饒舌であって何の実も結べません。

また、社会の不平等や弱者への思いやりの無さ、社会に巣くう不正や悪についても論じ合います。それらは表面的には解決しそうに見えますが、根本的解決はなく、饒舌を並べ立てるだけの空論で終わります。なぜなら、「身分の高い者が、身分の高い者をかばい、更に身分の高い者が両者をかばうのだから」(8節)です。それは、結局自分に都合が良いことのために、互いを利用し合っているだけだからです。

政治家を批判して自分が政治家になっては同じことをする。親を批判して自分が親になって同じことをする。その同じことこそ、「自分のため」という自己中心です。太陽の下にある政治、社会制度、理想などに照準を合わせても、繰り返すだけの「空」です。

夢や社会に揺れ動く友よ。そこを超えるには、「神を畏れ敬う」ことです。それは、永遠から変わらない「道・真理・命」であるお方、イエス・キリストを基準とし、その方に照準を合わせることです。「畏れ」は、神の愛を受け取ることです。「敬う」は、神を愛することです。神の愛を受けて神を愛することこそ「正義」です。

5章9~10節

銀を愛する者は銀に…、富を愛する者は収益に満足しない…空しいことだ。財産が増せば、それを食らう者も増す。持ち主は眺めているばかりで、何の得もない。

箴言では、貪欲な者を蛭(ひる)に例えました。「蛭の娘は二人。その名は『与えよ』と『与えよ』」(箴30章15節)と(蛭を貪欲に例えるのは、体の前後端に吸盤を持つので「二人」と表現。動物の血を吸い体を膨らませ過ぎて身を亡ぼすとも?)。

お金や富や権力は人を満たすどころか、持つほどに欲望の口を増やし、己が身を亡ぼす蛭のようです。株を持てばより収益を得る株へ、権力はより強い権力へ、一国を獲たら隣国も…と留まることを知りません。

しかし、富や財産を持つほど、それを奪う者も現れるので守らねばなりません。一国の権力者は自分を守る強大な軍隊を持ち、富を費やし、やがてその軍によって自分が葬られます。これも太陽の下の「空」です。

それでは、富や権威は悪なのか、否、それも神が良しとしたもの(ロマ13章1節)です。それが悪となるのは、目的と手段を間違うからです。富も権威も神に仕え、神の働きをする手段です。それが目的になった途端、悪に変化し、自分も他者も殺します。

友よ。手段と目的を間違うと、得るために戦い、守るために戦い、やがてすべてを失います。まさに「眺めているばかりで、何も得ない」になります。主は、「私を得て、全てを得よ」と言っているのでは!

5章11節

働く者は、少し食べても多く食べても、ここちよく眠る。富む者は、満腹しても、安眠をとどめられる。

コヘレトの言葉5章11節(新改訳)共同訳では12節

「働く者」は、資産もない労働者ですが、彼はどんな時でもよく眠ることができます。一方の「金持ち」は、不自由なく贅沢に暮らしていても良く眠れません。二人の違いは、富と貧しさの質の違いです。それは、物質的な貧富ではなく、心の貧富です。貧しい者と言われる者は、じつは心の富んだ人であり、財産家は心の貧しい者と言えます。この貧富は、人生の満足度です。そして、満足度とは、「誰と共にいるか」です。

小さな教会の牧師館に…「二つの事をあなたに願います。私が死ぬまで…拒まないで下さい。空しいもの、偽りの言葉を私から遠ざけて下さい。貧しくもせず、金持ちにもせず私のために定められたパンで私を養ってください。飽き足りれば裏切り、主など何者かと言う恐れがあります。貧しければ、盗みを働き私の神の御名を汚しかねません。」(箴30章7~9節)…の聖句が張られていました(榎本保郎著一日一章より)。

人は、貧しさにも富にも弱いものです。しかし、両方を乗り越えさせる満足があります。それは、「主イエスと共に居る」という満たしです。

友よ。貧しく困る時は「大きな主イエス」を見せ、豊かさに高慢になる時には「小さく遜った主イエスを」を見せてくださり、いつも守り、導き、完全な満足へ導く主と共に居たら、どこででも眠れます。

5章12~14節 ①

太陽の下に、大きな不幸があるのを見た。富の管理が悪くて持ち主が損をしている。人は、裸で母の胎を出たように、裸で帰る。来た時の姿で、行くのだ。

財産は命を育み守るために与えられた神の賜物ですが、その財産のために命を失う者もいます。財産があるがゆえに強盗に襲われ命を失うようです。

ヨブは東国一の富豪で、信仰深い者でした。そこにサタンが来て、「ヨブの信仰は、あなたが特別に財産を与え守るからで、それを失ったら信仰を失う」と神に言います。神はヨブをサタンに委ねました。やがて、息子たち家族と全財産を失い、彼自身の体も重い皮膚病に犯され、妻からは神を呪って死ねとまで言われます。しかしヨブは、「私は裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられる」と揺るぎません。

なぜ愛の神がヨブを苦しめるのか?はヨブ記の疑問です。しかし神にはヨブを落とす理由があました。それは、ヨブの財産の使い方です。彼の本当の財産は、「私の信仰」になっていました。目に見える財産の喪失、子供たちを失う、自分の病よりも、彼が守りたかったのは、「私の信仰」という財産でした。

友よ。「神は愛です」こそ最大の真理です。神に不義はなく、神は愛だけを行います。ヨブは財産を間違っていました。真の財産は、神御自身で自分の信仰ではありません。信仰は神を得るための賜物です。

5章12~14節 ②

太陽の下に、大きな不幸があるのを見た。富の管理が悪くて持ち主が損をしている。人は、裸で母の胎を出たように、裸で帰る。来た時の姿で、行くのだ。

「私は裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う…」とゆるぎない信仰告白をしたヨブのもとに4人の友人が来て議論を始めます(注…最初の三名の友人は信仰深いとは言えず、ヨブの不幸を聞き自分を肯定しようとしている。4人目の若年のエリフは、真の友で伝道者と言えます)。

3名の友人は、「因果応報」的に、「神は間違いをなさらない方だ。ヨブよ、お前の信仰が間違っていたから今の不幸に出会う。悔い改めよ」と迫ります。

ヨブは盛んに自分の信仰を弁護します。そしてヨブの本心が30章20節より表れます。神への嘆きから始まり、31章全体で自己義認を主張します。

「乙女に目を注いだこと(1節)…道を外れたこと(7節)…隣人の妻に心奪われたこと(9節)…奴隷の権利を奪ったこと(13節)…黄金を頼みとしたこと(24節)…憎む者の不幸を喜ぶこと(29節)…など『決してない』」と。「決してない」が15回繰り返されます。

神に贖われ愛される友よ。「神が愛だから信仰をくださる」と「信仰深いから神は愛してくれる」を差し替えてはなりません。冒頭のみことば、「富の管理」を間違うことです。いつまでも残るのは、信仰ではなく愛(神と一体となっていること)です。 

5章17節

神に与えられた短い人生の日々に、飲み食いし、太陽の下で労苦した結果のすべてに満足することこそ、幸福で良いことだ。それが人の受けるべき分だ。

人間の一番ベースになる幸せとは何でしょうか。

ある引退牧師夫妻が、一匹の犬を愛し家族の一員としていた。散歩の途中で知らぬ犬が吠えてくる。すると愛犬は後ろ足で立って家族(飼い主)に訴える。「犬っていう奴は行儀が悪いね」と。家族扱いされているので、彼(犬)は自分を人間と信じているのである!

前記の話には笑みがこぼれるが、神と人間の関係がこの様であればどうだろうか。そこで、人間の生き方の根本的間違いに気づかねばなりません。自分を造った方を知らず、自分を創造主と錯覚してしまうところに、人の一番深い不幸が横たわっています。

逆に、人の根本的幸福は、「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」(コヘ12章1節)となります。神は創造主(親)であって、生み、育てるお方です。すると、人は神に期待し、求め、受けていくのが人の領分です。それを知らず、自分で自分の命と生活を支えねばとなる時、自己中心となる以外ありません。

友よ。自分が主役になると、責任者、支配者にならねばなりません。神に主役になっていただくと、私は神の賜物として生きることが出来ます。すると、「太陽の下の日々の労苦した結果すべてに満足と幸福を得ます」。その生き方こそ、「人の受けるべき分」です。

5章19節

彼はその人生の日々をあまり思い返すこともない。神がその心に喜びを与えられるのだから。

人生を深く考えると思い悩む事ばかり、だからあまり考えずに生きればよいという人もいますが…。

前記のみ言葉は、日々を平安に生きる理由が、「神にその心に喜びを与えられる」からだと言います。その喜びは、自分の願いが適う喜びではなく、神が私と共に居て下さるという平安です。そして、平安は心の安定した状態を超えて、平和から出てきます。その「平和」の語源は軍事用語で、「両者の正しい関係」から出たと言います。まさに人の平安は、神との平和(正しい関係)から生まれます。

人生の主役が自分自身であると、「あの時ああすれば…、なぜあの人は…、どうして夫(妻)は…」と「人生の日々を思い返さねば」ならなくなります。しかし、神に人生の主役になっていただくと、「主は私に与えられた分、私の杯。主は私の運命を支える方。測り縄は麗しい地を示し、私は輝かしい嗣業を受けました。…私は絶えず主に相対しています。主は右にいまし、私は揺らぐことがありません。私の心は喜び、魂は踊ります。体は安心して憩います。」(詩16篇)

愛する友よ。平安は自分で作れるものではなく、主に作っていただくものです。あなたが作らねばならないのは、「主との平和(正しい関係)」です。

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