4章1節
私は…太陽の下に行われる虐げのすべてを見た。見よ、虐げられる人の涙を。彼らを慰める者はない。見よ、虐げる者の手にある力を。彼らを慰める者はない。
古今東西、人が集う所には必ず虐げがありました。権力者が弱者を虐げ、弱者が一致団結して強者を虐げ、ある国を虐げ、別の国に自国が虐げられる。親が子を虐げ、子が成長して親を虐げるなど尽きません。
虐げを防ぐため、権力の歯止め、教育、経済格差、法整備など手を尽しますが決して無くなりません。 虐げる根本原因は、人が自分を自分で救わねばならないからです。コヘレトはそのことを、「慰める者はない」と二度繰り返します。「慰め」こそ「救い」です。
自分の救いを作るためには、他者よりも自分を上に置かねばなりません。そのために虐げます。さらにそのことは、人が神から離れて生きる「罪」こそ虐げのさらなる根本原因です。
ヤコブは長子の権利と父の祝福を奪うことで兄を虐げ、ヤコブの子の兄たちは父に愛される弟ヨセフを虐げ、サウル王が若いダビデを虐げたのも自分を救うためでした。それは、彼らが、「神の慰め…救い」をしっかりと受け止めていないからでした。
友よ。だれでも慰めを必要しますが、あなたはそれをだれに求めますか。人に求めたら、あなたが虐げる者になります。「慰めよ、私の民を慰めよと、あなたたちの神は言われる」(イザ40章1節)。
4章4節
人間が才知を尽くして労苦するのは、仲間に対して競争心を燃やしているからだということも分かった。これまた空しく、風を追うようなことだ。
慰めを得ない人は、自分で自分を慰め、そのために他者を虐げることになります。この罪の現実と連鎖の人生ならば、「既に死んだ人」、否、もっと幸せなのは「生まれてこなかった人」だと言います(2~3節)。
しかし、生まれてきた以上は生きねばなりません。それをだれよりも熱心に行った人こそパウロです。「私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」(フィリ3章5~6)。
自分を自分で慰め救おうとすればするほど、他者を追い詰め、苦しめ、悲しませ、命までも奪っていました。一生懸命な人ほど、他者を虐げねばなりません。それは、パウロ自身の内面的戦いから出ていました。「私の五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、私を五体の内にある罪の法則のとりこにしている」(ロマ7章23節)と。そして、「だれが私を救ってくれるでしょうか」とも告白しまし。
しかし、友よ。神は慰め主の聖霊を送って下さいます。聖霊は肉の罪も十字架の主に担わせ、御自分がその人の中を支配して、虐げる心を取り除かれます。
4章5~6節
愚か者は手をつかねてその身を食いつぶす。片手を満たして、憩いを得るのは両手を満たして、なお労苦するよりも良い。それは風を追うようなことだ。
慰めを得たいばかりに奔走すると、相手を虐げることになる。それならば、両手に満たすよりも片手の物で満足することが最善ではないか、となります。はたして、どこが人間にとっての落ち着きどころなのか?
ある家族の今年の目標に「義務に生きる」とありました。それは、「自分のしたいことだけでなく、自分のすべきことを一生懸命やろう」との解説付きでした。両手に得て満足するか、片手で満足すかを比べ合うのは自分のしたいことの追及です。それは風を追うようで、何も掴めない空の世界へ入り込みます。
だれ一人自分の意志で生まれ、どの親も自分になぜこの子なのかもわかりません。しかし、「私はあなたたちのために立てた計画をよく心に留めている」(エレ29章11節)と言われる神がおられます。神がその人に立てた計画こそ、自分のすべきこと、です。その方からの義務は、人を束縛するものではなく、むしろ「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハ8章32節)が実現します。
神の御前に立つ友よ。あなたが生きがいを探すのでなく、神が与えようと待っておられます。自分の自由でなく、神からの義務に生きてください。義務を果たそうとする者から、神は決して離れません。
4章8節
ひとりの男があった。友も息子も兄弟もない。際限もなく労苦し、彼の目は富に飽くことがない。「自分の魂に快いものを欠いてまで誰のために労苦するのか」…
ある所に、友も家族もいない男がおり、際限なく働き富に執着して生きていました。彼こそ他人に惑わされず好き勝手なことができる身分なのに、「…空しく、不幸なことだ」と断定されています。
人は、何のため誰のために働くのか。結論は自分でも他者のためでもなく、「愛に生きるため」です。しかし「愛」が見えない人は、人並外れて富や立場に固執するか、あるいは自暴自棄に生き始めます。孤独死の老人の寝床の下に何十冊もの通帳があったとも…。
ある金持ちの畑が豊作になり。今までの蔵を壊し大きなものを建て、穀物や財産をしまい込み…そして、「魂よ、おまえには長年分の食糧がたくさん蓄えてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ」(ルカ12章19節)と。彼は、愚か者と主に言われました。
前記の金持ちも、冒頭の孤独な男も、人の命である魂を、労働と富で満たそうとしていました。彼らこそ、富と勤勉の奴隷となり、魂を殺していました。
友よ。愛し合って生きる「魂(人の霊)に快いもの」は、人同士の限界ある愛を超えた「神の愛」だけです。愛は「あなたと私」の一体化で、ここにだけ人の命があります。人は神と共に生きる者として、神に造られているからです(ヨハ17章21~23節参照)。
4章9~10節
ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。
神は「我々にかたどり(型・外形=三位一体・愛し合う)、我々に似せて(内容=命・人格)」人を造りました。人は自分の意志で誰かを選び、その人と共に生きるように造られたことになります(創1章参照)。
動物は、愛に生きるように造られておらず、自分の肉体の維持と子孫を残すことが命です。しかし人間は、生まれた時から、親を求め、仲間を求め、伴侶を求め、子どもを求め…と他者を求め続けます。 だからこそ、愛し合うべき人と愛し合えない時、孤独と不幸を感じ、それが人の魂の死となります。
人が愛し合えないのは、愛は相手に自分を与えることなのに相手に求めるからです。それを聖書は「罪」と言います。しかし、その罪は更なる罪から、神の愛を受け取らなかった罪=原罪からです。人は神の愛を受け入れて、自分の存在に満足し、満足した者が他者に自分を与え愛するように造られていました。
友よ。「一人よりも二人が良い」とある相手こそ、伴侶も親族も超え、主イエス御自身です。誰もが与えられることを求めますが、主イエスだけが「取って食べなさい。これは私の体である。…皆、この杯から飲みなさい。…多くの人のために流される私の血…」(マタ26章26~28節)と自分の命を与えるお方です。
4章11~12節
更に、ふたりで寝れば暖かいが、ひとりでどうして暖まれようか。ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい。
冒頭のみことばは、「愛し合うことの強さ」について語っています。武将、毛利元就が三人の息子に、一本の矢は折れるが三本の矢は折れない…と言ったとか?
何よりも、聖書の神(エロヒーム)は「我々」と表すように「三位一体(三つの神格)ですが、「父なる神・御子イエス・聖霊」の唯一の神です。三者であっても「一つ」なのは、「愛」によってです。
神に愛される友よ。父と御子と聖霊は、互いの権威を認め、互いを尊い存在と認め敬っています。ですから、聖霊の業はイエスの、イエスの業は父の、父の業は聖霊の業となって信じる者を守り導きます。私たちの神は、三つにいます唯一の愛の神です。
4章12節 ①
ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい。
「三つよりの糸」こそ、父と御子イエスと聖霊の三位一体の神です。愛は、三つを一つにします。
マザーテレサは、修道女として教師をしていた一九四六年、年に一度の黙想会に参加する列車の中で、主が十字架上で、「私は渇く」と叫ばれた言葉に迫られ、貧しい人々に仕える道へ歩み出しました。…「なぜイエスは『私は渇く』と言うのでしょうか。この言葉はどういう意味でしょう。…中略…『私は渇く』とは、『あなたを愛している』という言葉よりも、何かもっと深いものだということです」…
さらに、「渇く」という言葉は、「あなたを愛している」という言葉よりも、もっと深い思いの表現で、「愛の双方向性」の中に答えがあると言います。双方向性とは、愛は、「私はあなたを愛します」と自分から相手への一方通行ではなく、「私もあなたを必要とします」という双方の命の継がりと交わりです。
主イエスの十字架の「渇く」は、人の罪を背負ったゆえに父なる神と断絶したことの渇きであると同時に、十字架は私たちに命を与える愛であり、同時に「私はあなたが欲しい」との叫びでもありました。
主の命を受け取り、主に命を求められている友よ。聖霊により、あなたは主の愛を受け、あなたも主を愛する三つよりの糸の中にいるのです。感謝。
4章12節 ②
ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい。
三つよりの糸は、三位一体の神の姿であり、主イエスと聖霊と人の三者の一体化でもありました。さらに、人と人が神によって一つとなることにも通じます。
ペリシテの台頭に、イスラエルはサウルを王と選びペリシテの大軍と戦おうとしますが、イスラエルの兵士は逃げ、わずか六百の兵だけが残りました。しかし、サウル王の息子ヨナタンは自分の従卒と共に、「さあ、渡って行き、向こう岸のペリシテの先人を襲おう。…主が我々二人のために計らってくださるにちがいない。主が勝利を得られるために、兵の数の多少は問題ない」(サム上14章)と立ち上がります。
すると従卒は、「わたしはあなたと一心同体です」と応えて二人は敵に向かいます。最初に二十名ほどの敵兵を倒したことから、何万もの敵は恐怖に襲われ、地は揺れ動き、恐怖はその極に達し、やがて同士討ちをはじめ逃げ出して行きました。
信仰は、神により私たちが強くなることではなく、むしろ自分の無力を知り、神の中に入って行くことです。すると、神とヨナタンと従者は三つよりの糸となり、神が彼らを用いることが出来ます。
友よ。人と人がこの世で継がるところへ、両者の上にイエスを主として立てます。すると主を頭とする三角形になり、三つよりの糸になります。
4章13節 ①
貧しくても利口な少年の方が、老いて愚かになり、忠告を入れなくなった王よりも良い。
1人の少年と、長い間王座に座り、政治経済などの権力を得ていた賢いはずの王を比較します。そして、この王よりも貧しい少年がより賢いと言います。
コヘレトの一貫した結論は、「太陽の下、空である」です。そこでは、王でも貧民でも、知恵のあるも無いも、富めるも貧しいも、人生の結論は「等しく死に…すべては塵に返る」で同じだからです。
だが、そこに唯一の違いがあります。それは、王であっても貧しい少年であっても、、神に干渉していただけた分だけ違ってきます。神の干渉を受け、神の御業を受け取ると、「死と塵」は、「永遠の命と霊の体」に変えられます(Ⅰコリ15章44節参照)。
ゆえに、人の賢さと愚かさは、神に対する人の応答によって決まります。それは、神を王とするか、自分が王として生きるかです。老いた王は自分自身を王とし、無学で貧しい少年はイエスを王としました。
貧しい少年こそ、「貧しい者、…今飢えている人々、…今泣いている人々」です。老いた王こそ、「富んでいるあなた方…今満腹している人々…今笑っている人々」です(ルカ6章20~26節参照)。
友よ。人の賢さは、神への知識の量ではなく自分を委ねる量です。委ねた分だけ神が御業を行えるからです。神の御業だけ「空」を「実」で満たします。
4章13節 ②
貧しくても利口な少年の方が、老いて愚かになり、忠告を入れなくなった王よりも良い。
神を味方にした者は利口な少年と言われ、忠告を聞かず自分を王とした者は愚か者と呼ばれました。またここでは、知恵ある者は奴隷でも王になり、知恵無き者は王でも卑しい者になると言います。
イサクにエサウとヤコブが生まれ、兄エサウはこの世のもの(肉の食物)を求め、ヤコブは霊のもの(長子の権・父の祝福)を求めました。神は、エサウが神のものを求めないので干渉できません。後にエサウは父を離れエジプト国教(この世)近辺に移ります。
ヤコブは叔父の家に逃げ、二人の妻(姉と妹)と二人の召使いから多くの子どもを得ますが激しく争う家族となります。しかし、神はこれらのことを通してもヤコブに干渉できました。それは、ヤコブが霊のものを求める者だったからでした(創25章~)。
神はヤコブを追い詰め、ヤボク川で彼の腿の筋を外し、御自分にしがみつかせました。ヤコブは神に負けた時、イスラエル(神の王子)となりました。しかし、エサウには干渉できず、彼は後にエジプトから帰るモーセと民に襲い掛かるアマレクとなります。それは「肉」の代名詞となり今日まで残ります。
友よ。人生の勝利は神を求めることです。たとえずるいヤコブのようでも、神に干渉できる余地を与えます。愛の神はそこから手を差し入れてくださいます。
4章14節
捕われの身分に生まれても王となる者があり、王家に生まれながら、卑しくなる者がある。
ヨセフは兄たちからエジプトに売られ、ポティファルの奴隷となりました。しかし、後に彼はエジプトの首相になり、イスラエル一族を救いました。ヨセフの存在は、彼の資質を超え父ヤコブがイスラエルになったことから始まります。ヤコブがイスラエルとなった時の家族は、憎しみ合う最悪の家族でした。
ヤコブがイスラエルになり、家族回復への行動は、ヨセフを訓練して霊の跡継ぎにすることでした。それが、「長袖の着物」をヨセフに着せた霊的意味でした。彼はヨセフに、「祖祖父アブラハムは…。祖父のイサクは…、そしてお前の父である私は愚かにも神に逆らい、腿の筋を外されて…」と神の御業を語り聞かせたに違いありません。兄たちから売られたヨセフですが、その途上からから晩年まで彼に罪を見出せません。ヨセフは神に従順に従う知恵を父から得ていました。
「神を信じ服従する」この知恵こそ、神が彼を王にまで導き、家族を救う者としました。一方、エサウは一国の王のようになりますが、彼の子孫は、「アマレクを討ち、…一切を滅ぼし尽せ」(サム上15章3節)と言われる肉の民となりました。
友よ。幸いなことは、「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって、と万軍の主は言われる」(ゼカ4章6節)神の御業が自分の身に成就することです。
4章17節 ①
神殿に通う足を慎むがよい。悪いことをしても自覚しないような愚か者は、供え物をするよりも、聞き従う方がよい。
(口語・新改訳は5章1節)神の前に出る時の人の姿を教えています。人が神の前に出てゆくのは、自分の罪が赦され、自分の願い事が聞き入れられ適うことを願ってのようです。
コヘレトはその者に、「足を慎め。悪いこと(その態度)を自覚していないから」と言い、神に聞かせるのでなく神に聞き従うことこそ大事であると言います。
聞くことが大事ですが、聞き方には様々あります。
1,2は、あくまでも自分が中心となるためで、太陽の下ではむしろ賢いやり方です。3は、相手を自分の上に置き、その方に自分が従うためです。
友よ。そこで一番大切なことは、聞く相手が誰であるかです。パウロは、「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ロマ10章17節)と教えています。「主よ、お話しください。僕は聞いております」(サム上3章9節)とサムエルのように祈りましょう。
4章17節 ②
神殿に通う足を慎むがよい。悪いことをしても自覚しないような愚か者は、供え物をするよりも、聞き従う方がよい。
(口語・新改訳は5章1節)冒頭のみことばは、預言者サムエルがサウル王に語りました。神は、ペリシテの数万の大軍をヨナタンと従者を用い、敵を混乱させ同士討ちさせます。その後、サムエルはサウル王に、「アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽せ。男も女も,子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもロバも撃ち殺せ…」(サム上15章3節)と聖絶を命じます。
サウルはアマレクを討ち滅ぼしますが、「しかし…羊と牛の最上のもの、…小羊、その他何でも上等なものは惜しんで滅ぼさず…値打のないものだけを滅ぼした」(8~9節)。それを見たサムエルは、「私はサウルを王に立てたことを悔やむ」と嘆きます。
それに対してサウルは、「兵士が…引いてきたのです。彼らはあなたの神、主への供え物にしようと羊と牛の最上のものを取って置いたのです」と弁明します。 供え物という行いで自分の「内側の罪=アマレク=肉」を偽ることこそ、神殿に通う愚か者の足となります。
友よ。聖書におけるアマレクは「肉の人」を指します。パウロもアマレクと戦い、「…私の五体の内にある罪の法則(アマレク)のとりこ」にされていると告白しました。自分の肉の声でなく、主の声を聞いてください。そして、主の声に従って歩んでください。