キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

コヘレトの言葉 第3章

3章1節

何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。

人には三つの時計が用意され、それを選ぶように示されています。時計とは、生きて行く基準・計画・考え・行動などを指します。

「自分時計」
コヘレトが2章から始めたことは、快楽、笑い、酒、愚行、事業や財産に多くの側女など、自分の欲するままに生きることで、自分を中心とした生き方です。この時計は自分の腕にはめます
「世間時計」
東洋の気質、特に隣の家の田から水を引き、次の家の田に水を送る水田農耕民族である日本人は、世間時計が大切になります。春夏秋冬に合わせて種を蒔き、刈り取る時計でもあります。それは、自分を殺し妥協する生き方です。この人は時計を自分の横にくくり付けています
「永遠時計」
この時計を持つ人は、本当の知恵を持ちます。その知恵は、十字架に付かれたキリストです。生きる基準は永遠という神であり、神から受けた愛と隣人を愛する愛です。全ては、神に聞き従い、神に自分を合わせて生きる人です。この人は自分の頭の上に時計を載せています。

友よ。神の時計には、「私は、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている…それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」(エレ29章11節)と刻まれています。

3章1~2節 ①

何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時。植える時、植えたものを抜く時。

彼が知恵と知識と権力を用い、ありとあらゆることを行った結果に気付いたことは、「時を無視しては何もできない」ということでした。しかも「定められた時」があるとは、「定めたお方がいる」ということになります。

人生で一番大切な、「生まれる時・死ぬ時」も、自分では早めることも遅らすこともできません。さらに、親や人種や性別を選ぶことも全く手出しできません。すると、自分の人生も世界も、「時」というものに支配されていることになります。「定められた時」があるとは、時を「定めるお方」がいるからです。

しかし人間は、自分の人生の時計に自分と世間を合わせて幸せを造ろうとします。新共同訳聖書のフィリピ信徒への手紙の1章12節の前に、「私にとって、生きるとはキリストを生きること」と見出しが付けられています。それは、「私は、自分の時間ではなく、キリストの時間の中で生きます」とも聞こえます。

友よ。「人は心に自分の道を考え計る、しかし、その歩みを導く者は主である」(箴16章9節・口語)の言葉も、「自分の時間ではなく、神の時間の中を生きて行きなさい」と聞こえます。「主与え、主取り去りたもう」(ヨブ1章21節)とは、「神があなたの初めも終わりも責任を負う」との約束です。主に委ねてください。

3章1~2節 ②

何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時。植える時…。

人には三つの時計が与えられています。それは、各自に自分の人生の責任が負わされていることを教えます。その責任とは、「どの時計を選び、どれを基準として生きるか」です。

自己中心を貫く「自分時計」と、世間に合わせる「世間時計」にはあまり大きな時間差はありません。ほとんどの人は、両者を使い分け、時に争いますが、時に妥協しつつ進みます。なぜなら、この二つの時計の共通点は、太陽の下の時間を刻むからです。しかし、「永遠時計」は、二つの時計の時間を超えさせます。

今、私が三十歳で死ぬならば、自分時計と世間時計は、「まだ五十にもならないのに死んでしまった不幸な生涯だった」と刻みます。しかし、永遠時計を持つ者が三十歳の死を見るならば、「エノクは…三百年神と共に歩み…神が取られたのでいなくなった」と同じように、「彼は、三十年神と共に歩み…神が取られたのでいなくなった」と素晴らしい神の栄光が現れた人生として刻みます。

友よ。永遠時計を持つと、直面した出来事の意味が変えられます。思い通りに行かず苦しみ悲しんだことが、何よりも必要で大事な時間だったとわかります。それは、肉のもの(自分の思い)が霊のもの(神の思い)に、この世を神の国に変える時計です。

3章3~5節

殺す時、癒す時。破壊する時、建てる時。泣く時、笑う時。嘆く時、踊る時。石を放つ時、石を集める時。抱擁の時、抱擁を遠ざける時。

一つ一つの出来事や感情を持つにも時があります。ここに羅列された二十四の「時」に、ユダヤ式解釈があるのかも?しかし、個々の時の意味以上に、時は時系列を表す以上に物事の意味を表すものです。自分時計は自分で持つ時計で、世間時計は世間に自分を持ってもらう時計です。永遠時計とは、神に自分を持っていただく時計です。そして、時計を持った人が「意味」を決めるのです。

殺す…癒す、破壊する…建てる、泣く…笑う、嘆く…踊る、石を放つ…石を集める、抱擁する…抱擁を止める…など相矛盾するように読み取れます。 

しかし、永遠時計では、「(罪が)十字架で殺される時…(魂が)癒される時」、「(古い自分が)破壊され…(新しい自分が)建てられる」、「(苦しみ)泣いたから…笑えるようになった」と意味が変えられます。

まさに、「貧しい者…天国を得る、悲しむ者…慰めを得る、義にうえ渇く者…満たされる」であり、「富み満腹している者…飢える者に、笑っている者…悲しみ泣く」となります(マタ5章・ルカ6章参照)。

神の永遠時計の中に入れられた友よ。自分と世間時計を見てから永遠時計を見るのでなく、永遠時計を見てからこの世にある時計を見てください。

3章6~9節

求める時、失う時。保つ時、放つ時。裂く時、縫う時。黙する時、語る時。愛する時、憎む時。戦いの時、平和の時。人が労苦してみたところで何になろう。

人生は数限りない状況や心の変化に直面しつつ、その時その時を必死で生きて行きます。しかし、結論は「人が労苦してみたところで何になろう」です。

太陽の下の生活を、ヤゴとトンボの生態が教えています。空気の世界を霊の世界・太陽の上とし、池の水の世界を自然界に例えます。トンボが池(自然界)に卵を産み落とし、一定期間を経てヤゴにふ化します。これが人の誕生です。そして、ふ化したヤゴは何度も脱皮を繰り返します。

誕生した赤子は、小学へ、中学、高校、大学、就職、結婚、子供の誕生、中年、老年…へと変えられて行きます。これこそまさにヤゴの脱皮に相当します。しかし、何度脱皮してもヤゴは水の中で、そのままでは死にます。人も何度変化しても、そこは太陽の下であって、人も死んで終わりになります。やがてヤゴは一本の棒に取りつき、水から出ます。すると背中が割れてトンボへ羽化します。

友よ。人にもその恵みが備えられています。それが主イエスの十字架です。十字架に付くと、人は太陽の下から太陽の上・神の霊の世界へ移されます。その時、水の中の生活は無駄ではなく、天国へのプロセスとなります。十字架によって労苦は無駄になりません。

3章1~8節

何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬとき…殺す時、癒す時。…裂く時、縫う時。…戦いの時、平和の時。

「時」は単なる時間の経過や歴史を刻む手段ではありません。「時」は、存在に意味を与え、そして時を定めた方の御心へ導くためです。私たちが考えている時間は、私たちの基準であって真理ではありません。なぜなら、「永遠」という時間単位があるからです。

自分と世間時計は、「時間と空間」に支配される三次元の世界観を作ります。しかし、「永遠」は時間と空間を超えた世界(四次元?)です。すなわち、「神は霊である」(ヨハ4章24節)という神の世界です。

それは、「アブハムは主を信じた。主は彼の義と認められた」(創15章6節)も、主が人となる二千年後のカルバリの十字架に一致させられています。私たちの救いは、二千年前に、何千キロも離れたエルサレムでの出来事でした。しかし、その主イエスを信じる時、二千年と数千キロは一瞬のうちに超え、今、信じる私の罪が赦され、復活の命に満たされます。

友よ。今までの人生の歩みに、「あの時こうすれば」などと捕らわれていませんか。しかし今、あなたには「永遠時計」が与えられています。それによって過去、現在、これからを見直してください。新しい世界観、価値観、感謝、希望、確信が与えられます。永遠時計が「真理はあなた方を自由にする」時計です。

3章11節 ①

神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。

神の世界は、どこの国で生まれ、どの親に、男・女の子どちらに生まれ、どの会社へ、誰と結婚し、生涯何票のお米を食べ、この病気になり、何歳で死ぬ…という運命論とは違います。運命論では人の責任が消され、愛は消滅します。

神は愛なるお方なので人に自由を与えています。結婚し子を産むも産まないも人に委ねています。それでは神は無責任な方なのか、否、神は「だれでも神の子として生きるための贖いの道」を自ら備えられました。それが主イエスの来臨と救いの出来事です。ただし、これを受け取るか否かも人の自由です。

しかしここで、自由意志を持って神を受け入れると、運命論的な「空」の世界が一変し、神の国になります。それは、それぞれの「…の時」が変わるからです。「生れる時、死ぬ時。裂く時、縫う時」とある、一つ一つの「時」に「キリスト」が入ります。すると、「生まれる時…キリスト、死ぬ時…キリスト」となり、神の中に自分の存在を見い出すことができます。

友よ。神の中の自分は、キリストの十字架で示された「神の愛」の中にいる自分です。これこそ、自分の存在であり、出生も家族も病も死も、神の愛の中に置かれた恵みであるとわかります。その時、「神のなさることは、全て時にかなって美しい」が分かります。

3章11節 ②

神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。

人は、誕生から死ぬ間にあらゆる出来事に直面し、悲しみ、喜び、怒ります。しかし、動物には人ほど深く考え、求め、叫び、喜ぶなどはありません。

動物は個体と種族保存が命となりますが、人が求めるのは「愛」という命です。人の命は、愛し愛される合う誰かとの「継がりと交わり」です。神が人を創造されたのは、「あなたが私の内におり、私があなたの内にいるように、全ての人を一つにしてください」(ヨハ17章21節)に示された、三位一体の神の愛に入って神と一つになることでした。

十字架の上で、「イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた」(ヨハ19章28節)。それは、単なる喉の渇きではありません。その叫びは、人の罪を背負ったゆえに父の神から捨てられる命の渇きであり、さらに一人ひとりの魂を求める渇きでした。なぜなら、主イエスが地上に来られたのは、私たちの魂を罪から救い出して、父なる神の御元へ勝ち取るためだったからです。

友よ。あなたが神を求めるのは、地上の空しさや限界を知ったからでもなく、神が最初から「永遠を思う心=神を求める心」を与えていたからです。神はあなたに渇き、あなたの命は神に渇いているのです。

3章11節 ③

神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。

人はアダムとエバ以来、自分を自分で救わねばなりませんでした。そのために富を、快楽も…と求めますが、得るものは「空の空、すべては空」でした。

なぜなら、神が人に「永遠を思う心」を与えたからです。その心は哲学的な思索から得ることではなく、愛の関係によって作られます。永遠を思う心とは、本当の愛を求める思いのことです。しかも、その愛は親子、夫婦をも超えた愛でなければなりません。それは、「神の愛」を求める心だったからです。

主がサマリアの女に出会いました。そして、「この水(この世の愛)を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」(ヨハ4章13~14節)と言いました。

女はすぐにその水を求めましたが主は、「あなたの夫をここに呼んできなさい」と言います。女は「五人の夫を持ち、今は六人目の男と居ました。六人の男こそ、彼女がこの世で求めた愛であり命でした。しかし、彼らは彼女を満たすことはできませんでした。

友よ。サマリアの女はあなた自身でしたね。お金、名誉、豊かさなど多くの夫を持ちましたね。でも今、本当の夫=主イエスを与えられました。感謝します。

3章14~15節

神は人間が神を畏れ敬うように定められた。今あることは既にあったこと、これからあることも既にあったこと。追いやられたものを、神は尋ね求められる。

人間は自由意志を与えられ、物を創造し社会を変える、いわば「小神」のようです。動物は神に造られたまま生きるので、迷いもなく罪も犯しません。しかし、人は自分の意のままに生きる時、罪を犯します。

人の罪は、「神を畏れ敬わない」ことです。ただし、この「畏れ」を「恐れ」にしてはなりません(「恐れ」と訳す聖書もあり)。「恐れ」は、律法的信仰へ導き易く、「畏れ」は恵み信仰へ導き易い訳です。「畏れ」とは、神の一方的で、圧倒的な人への愛の救いの御業(神が人となり、十字架で罪の代価を払い、復活の命を注ぎ、助け主聖霊を遣わす…など)への「畏敬」です。しかし、これを知ることは、太陽の下の空しさを知らねば本当に理解するに至りません。

神を知らねば「今あることは既にあったこと」を繰り返させるのは、太陽の下を支配する罪(人間中心)です。空しさや罪を知って「追いやられた者」こそ、神を求め、神が尋ね求める人となります。

友よ。神を畏れる人が神を愛する人になります。神の愛を受けるので、神を愛したくなるからです。神を畏れる人(神の愛を受け取る者)は、自分を愛する者(自分の価値を知る者)となり、その人が隣人を愛する人になります(マタ22章34~40節参照)。

3章16~17節

太陽の下、更に私は見た。裁きの座に悪が、正義の座に悪があるのを。…正義を行う人も悪人も神は裁かれる。全ての出来事…行為には、定められた時がある。

立法、行政、司法の「三権分立」は人類の遺産であると言われます。確かに、独裁よりは悪に歯止めをかけることが出来そうです。しかし、それでも悪は止まず、「裁きの座にも悪」があり、善人を悪人にすらできます。誰が本当の裁き主になれるのでしょうか。

「正義を行う人も悪人も神は裁かれる」こそ、その道です。本当の正しい裁きは、神御自身が行います。人の裁きは、他者の罪を探し出し、その者に責任を負わせます。神の裁きは、人の罪を探し出し、それを神御自身が背負い罪を取り除くことです。

「正義を行う人も悪人も神は裁かれる」こそ、その道です。本当の正しい裁きは、神御自身が行います。人の裁きは、他者の罪を探し出し、その者に責任を負わせます。神の裁きは、人の罪を探し出し、それを神御自身が背負い罪を取り除くことです。

友よ。最後の審判で裁かれる悪人とは、生きている時に神の裁きを拒否し、自分で自分を正しいと裁いた(判断した)人のことです。一方、正義を行う人とは、神の裁きを受け入れ、自分の罪人であることを知った者です。その人こそ、神の裁きを十字架のイエスによって受け取り義人とされた者です。

3章19~20節

人間に臨むことは動物にも臨み、これも死に、あれも死ぬ。同じ霊をもっているにすぎず、…全ては一つの所に行く。すべては塵から成った。すべては塵に返る。

「人間も動物に過ぎない」(18節)と記されると違和感を持ちます。もちろん、大きな違いはありますが、「すべては塵から成った」ことでは同じです。

神は、「土の塵で人を形づくり」は、動物も「土の塵」という自然生命を持ち、解剖すると人も動物も同じ臓器で構成され、同じと言わざるを得ません。しかし、動物は「土の塵」だけですが、人は「その鼻に命の息を吹き入れられ」る存在です。人は偉大な能力を持ちますが、「生きた」とは記されません。人は、「命の息」を受けた時「神の子」となるのです。

ゆえに、動物も人も「同じ霊=自然生命」を持っている点で同じです。土から造られた命だけの人間は、動物と同じ「死」の世界に行くことになります。

エゼキエルは、「ある谷に…骨があり…枯れていた。『人の子よ、…骨は生き返ることができるか。』…「これらの骨に向って預言し…、枯れた骨よ、主の言葉を聞け。…見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る」と預言しました。

友よ。土で造られたままの人は、「枯れた骨」のようですが、神の言葉・預言の霊を受け取ることによって「神の子」として生き始めます。「塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る」(12章7節)。

3章22節

人間にとって最も幸福なのは、自分の業によって楽しみを得ることだと私は悟った…人間にふさわしい分である。死後どうなるのかを、誰が見せてくれよう。

「裁きと正義の座にも悪がある」(16節)し、正しく生きても動物と同じ所へ行くのならば、生きる意味はなくなります。それならば「自分の業」を信じ、今を楽しく暮らすことが一番、と彼は考えました。さらに、そうする理由は、「死後どうなるか」わからないからだとも。たしかに、人の将来、まして死後のことを教えてくれる人は誰もいません。しかし、聖書の中には、過去よりも、現在よりも、もっともっと将来を見て生きた人々で満ちています。

「(エノク、ノア、アブラハム…)この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。…自分が故郷を探し求め…彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。」(ヘブ11章5~16節)。

友よ。神を知らない人は、今が全ての生き方をします。神を少し知る人は、現在と将来を天秤にかけつつ生きて行きます。信仰の人は、神を見つめ、神に将来と死の先を見せていただけます。死後の世界が見えると、今をどのように生きるか分かります。「死後どうなるのか」を見せてくれるのは、主なる神だけです。

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