2章1~2節
私はこうつぶやいた。「快楽を追ってみよう、愉悦に浸ってみよう。」見よ、それすらも空しかった。笑いに対しては、狂気だと言い、快楽に…何になろうと言った。
彼は知恵と力を尽して生きる真理を求めましたが見い出せず、むしろ悩みと痛みが増すだけでした。
そこで彼は、知恵や知識にこだわらず、徹底的にこの世に入って生きてみます。それが冒頭の言葉です。ただし彼は、放蕩息子のように自分の肉に負けて快楽へ走ったのではなく、真理を求めるためでした。
「笑い・酒、遇行」、これらは一時的に「空」を満たすかに見えるが人の魂を満たすことはできず、むしろ空しさを増大させるだけでした。
友よ。聖書は、「手を清め…心を清めなさい。悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい」と勧めます。笑いや快楽や酒は、神から人を遠ざけ、悲しみ嘆き泣くことは、「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます」のみことばが成就されます(以上、ヤコ4章8~10節参照)。酒に酔わず、聖霊による悲しみに導かれてください。
2章4~8節
「規模にことを起こし、多くの屋敷を構え、畑にぶどうを植えさせた。…男女の奴隷を…所有した。金銀を…秘蔵の宝…男女の歌い手…多くの側女を置いた。
人生の真理を求める彼は、最初に知恵を求めたが空しかった。次に、世にどっぷり浸り遇行と知りつつ快楽を求めたが、それも虚しいことを知った。それでもっと現実に戻り一生懸命働いて、事業を起こしてお金を得、邸宅を持ち田地を増やし、多くの奴隷を抱え、歌手や側女も多く持ちました。
このことについて主は次のように言いました。
「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、…「倉を壊し…大きいのを建て…穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』と。しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる…と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ』」(ルカ12章16~21節)
友よ。人の真面目さ、一生懸命さ、財産、人々からの高い評価が命を作るのではありません。人の命は、「わたしと繋がっていなさい」(ヨハ15章)と言われる主と一つとなる人が持ちます。 その命が作り出す実は、「愛(喜び、平和、寛容、親切、善意、柔和、節制)」です(ガラ5章22節)。神から=太陽の上から=霊の世界からくるものだけが、命を作り命を満たします。
2章9~11節
…エルサレムに住んだ者のだれにも勝って、私は大いなるものとなり、栄えたが、…見よ、どれも空しく、風を追うようなことであった。
もしもこの人がソロモン王であったと仮定し、彼の人生に冒頭のみことばを当てはめてみるならば…
ソロモンはダビデの王位を引き継いだが、本当に神の知恵に歩んだのでしょうか。彼が王位についた当初、「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください」と主に願いました。それに対し神は、「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず…知恵を求めた」(列上3章)と喜ばれました。
しかし、その生涯は知恵よりも知識が先行していました。神殿を建てるのに七年を費やし、自分の宮殿を建てるのに十三年を使い、その二十年間、民の度を超えた労苦は、やがて反逆を引き起こさせました。また、「ソロモンはファラオの娘のほかに、モアブ人、アンモン人、エドム人…など外国の女を愛し…」、かつて「…心を迷わせ…彼らの神々に向かわせる…」(同11章)と言われた神の声を無視していました。ソロモンは「神の知恵」ではなく、周辺国の王女を得て血縁による国の繁栄を保つ「人の知識」で歩みました。
友よ。神の知恵を求めた彼でも、人の知識に負けました。そして、王なるあなた(自分の事を自分で決断する存在)は、知識ではなく知恵で歩んでください。
2章12節
また、わたしは顧みて、知恵を、狂気と愚かさを見極めようとした。王の後を継いだ人が、既になされた事を繰り返すのみなら何になろうか。
だれよりも偉大な知者が、人生を究めようと、快楽、笑い、酒、遇行、事業、財産、側女まで得た。彼は、肉欲に負けたのではなく、真理を究めるためにあえてそこに身を置いた。しかし、何も得られませんでした。
いつの時代でも、自分は賢く幸福を掴めると考える者がいますが、自分より賢く、富も、世界も動かせる人が得られなかったことに気づきません。そこで、彼と同じ経験をしなくても真理を知ることができます。それは、彼の人生をはるかに超えたお方である神がいるからです。それが聖書です。
聖書には、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、ヨシュア、ダビデ、そしてソロモン…と多くの人物が登場します。そこには「太陽の下(この世の肉の世界)」と、そこから出た「太陽の上(神の霊の世界)」の歩みの違いを彼らの人生体験を通して見せてくれます。「こういうわけで、私たちも…おびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか」(ヘブ12章1節)。
友よ。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神…」の中に、「アブラハム、イサク、ヤコブ、…私…の神」と記されることを願いませんか。
2章13~14節
…光が闇にまさるように、知恵は愚かさにまさる。賢者の目はその頭に、愚者の歩みは闇に。しかし私は知っている、両者に同じことが起こるのだということを。
だれでも闇の中にいるよりも光の中にいることを望みます。また、愚か者であるよりも賢い者であることを望むのも当然です。
光りは、豊かさ・健康・愛し合う・認められるなどで、それは知恵によって作られるものです。一方の闇である貧しさ・病気や不自由・憎しみ合う・人々に嫌われるなどは、愚かさによって作られるとも言えます。しかし、知恵によって光の中を生きた者も、愚かさによって闇に閉じ込められた者にも同じことが起こり、最終的には両者に差はなくなります。
その同じこととは、「アダムは九百三十年生き、そして死んだ。 セトは…九百十二年生き、そして死んだ。…エノシュは…九百五年生き、そして死んだ。」(創5章参照)とあるように、「死んだ」で等しくなります。地上に生を受けた目的は、死ぬためではなく、神の命の息を受けて永遠に神と共に生きることでした。しかし、「死んだ」は知者と愚者を同じにします。
友よ。「そして死んだ」がない人がいました。「エノクは…三百年神と共に歩み…三百六十五年生きた… エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」。人の光と知恵は、神と共に生きて、神の御元へ行くことです。真の知恵と光の中を歩んでください。
2章16節
賢者も愚者も、永遠に記憶されることはない。やがて来る日には、すべて忘れられてしまう。賢者も愚者も等しく死ぬとは何ということか。
死はすべての人に等しく訪れ逃れられません。そこで、死とはなにかを明確にすることが必要です。それには、「生」が明確でなければなりません。神は、「土の塵で人を形づくり」ました。土は「自然生命」を表し両親から受け取りますが、それは人の命でありやがて死んで土に帰ります。
人の命は、「その鼻に命の息を吹き入れられ」た時に「生きる者となった」神の息にあります(創2章7節)。そしてその息は、何か新しい気体が入って来たというものではなく、「神の息(聖霊とみことば)を吸って、神に息を吐く(祈る)交わり(呼吸)」こそ人の命です。太陽の下では、賢者も愚者も大差ありません。なぜなら、両者とも等しく死で終わるからです。「最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です」(Ⅰコリ15章47節)。
友よ。コヘレトが言う賢者も愚者も太陽の下の者たちで、「土ででき、地に属する者」です。彼らは多くの知識を持ちますが知恵はありません。知恵とは、「天の国のことを学んだ学者」(マタ13章52節)が持つ、「御霊の知恵と知識」(Ⅰコリ12章8節)です。その知恵は、イエスを主なる神と確信させ、十字架と復活によって死を乗り越えることを教えてくださいます。
2章19節
…太陽の下でわたしが知力を尽くし、労苦した結果を支配するのは彼なのだ。これまた、空しい。
彼は、快楽・笑い、酒、遇行、事業、豪華な屋敷、男女の奴隷、側女、金銀や財産などこの世で得られるものを手当たり次第得ることができました。さらに、物質的や社会的な外側の物を満たしても得られないことを悟り、より人間であるべき「知恵と知識」も探求しました。それら全ての目的は、単なる我欲を満たすためではなく、真理の探究でした。
しかし、「知恵と知識と才能を尽して労苦した結果」を「まったく労苦しなかった」(21節)「彼」に奪われると言います。労苦せずにすべて奪い去る「彼」という敵こそ、「死」です。
人生を無にする死は、どこからくるのでしょうか。そのことをパウロは、「死のとげは罪であり、罪の力は律法です」(Ⅰコリ15章56節)と言います。すると死に勝利するには、罪を取り除く以外ありません。それができるお方こそ主イエスです。主の十字架こそ、最後の敵である死を滅ぼしました(同26節)。
友よ。主の十字架によって、「死は勝利にのみ込まれた」と宣言されました。だから、「主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの労苦が決して無駄にならないことを、あなたは知っている」(同54~58節)と。あなたの支配者は死という「彼」ではなく、「HE」という彼・イエス・キリストです。
2章26節
神は、善人と認めた人に知恵と知識と楽しみを与えられる。だが悪人には、ひたすら集め積むことを彼の務めとし、それを善人と認めた人に与えられる。
上の言葉を単純に読むと、神は善人に知恵や知識や楽しみを与える。しかし、悪人はただ働くだけ働いて、それすらも善人に持って行かれるとも読めます。ただそれだけであれば、世の道徳話で終わってしまいます。
しかし、神の国における「善人」と「悪人」は世の基準とは反対です。世の善人とは、自分で自分の責任をとる人のことです。一方、神の国の善人とは、自分で自分を救えないことを知り、神に自分を委ねて生きようとする者のことです。
世の善人は、「律法を実行することによっては、だれ一人神の前に義とされない」(ロマ3章20節)ことを知りません。神の前の善人は、「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示された」(同21節)を受け取ろうとします。従って、自分を救えないと知り神に依存する者が、イエス・キリストの贖いによって善人(義人)とされ、自分で自分を救おうとする者は悪人とされます。
友よ。いち早くこの世の悪人になることが、神の前の善人になる道です。その法則は、「行いの法則によってではなく、信仰の法則によって」(同27節)です。神に係わっていただける者こそ善人です。その者が、知恵、知識、楽しみを受け取ることができます。