キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

コヘレトの言葉 第11章

11章1節 ①

あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう。

太陽の下の世界は収益を得る競争です。そのために学び、時間をかけ、機材を揃え、投資に次ぐ投資を繰り返します。しかしコヘレトは、「確かな所へ投資して待て」ではなく、「パンを水に浮かべて流せ」と言います。さらに、聖書で「パン」は命を指し「水」は川であり海ですが、この時代や世の流れをも表します。そこに投げるならば、自分の手元から失われ無駄になり空しい生活に入ってしまいます。

ところで、その命なるパンを自分の手に握りしめるならどうなるでしょうか。すると…まずは健康第一・家族も大切・子供の教育・家も必要・趣味も…と自分を守ろうとします。また、パンをこの世界(国家、会社・地位・他者…)に投資したらどうなるでしょうか。

まさにコヘレトはそれを実行しました。彼は、「快楽を追い…笑いの世界へ…酒に…大規模の農場に…金銀財産を蓄え…側女を置き…。目に望ましく映るものは何一つ拒まず手に入れ…」ました。しかし、「見よ。どれも空しく。風を追うようなことであった。太陽の下に、益となることはない」と(2章1~11節)。

友よ。あなたのパンをどこに置いていますか。自分の手、誰か、地上に!それこそ「空の空」なる太陽の下です。あなたには、聖霊という命の川が流れています。その川に自分を投げ入れてください。

11章1節 ②

あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう。

パンなる命を水に投げ入れて、月日が経ち多くの恵みを得た者たちで聖書は溢れています。新約聖書を書いた人々の中で、最もよく旧約聖書を知っていた人物は、パウロとヘブライ人への手紙の著者とマタイです。

レビなるマタイは若い時から律法を学び、その学校も経験したのでは?しかし、失望しました。それは、自分の手にあるパンを自分の力で、最も尊いパンにしようとする律法主義だったからです。

失望した彼は、律法の反対側、ローマ帝国の取税人に身を振りました。そこは、神を信じて生きる右側から、パンを時の権勢ローマ帝国に渡して生きる左側でした。しかし、彼の魂は泣いていました。

右にも左にもなれない収税所のレビ(マタイ)に、「私に従いなさい」と主イエスが通りかかり声を掛けます。すると「彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」(ルカ5章27~28節)。彼こそ水にパンを投げ入れた人、神の支配の中に自分を委ねた人でした。二千年経つ今も彼は生きています。

友よ。マタイ福音書で様々の奇跡がまとめられた8~9章の真ん中に彼が登場します。彼は、「皆さん、様々の奇跡を見ましたが、私が今このように変えられて琴こそ最大の奇跡です」と言っているかのようです。パンを主に投げよ。主はそこから奇跡を起こされます。

11章1節 ③

あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう。

このパンを「みことば」として、この聖句は伝道について語られる有名なところです。

…ある牧師が神学生の時、牧師に連れられて路傍伝道に行った。提灯を下げ、木箱の上に立って牧師が説教をした。大勢の人々が行き来するが誰一人足を止めて聞く人はいなかった。ただ一人、「アーメン、ソーメン、ヒヤソーメン」と言った子供がいた。

教会に帰ると牧師は、感謝祈祷会をしましょうと言い、讃美歌536番「報いを望まで人に与えよ、こは主の賢きみむねならずや、水のえに落ちて流れし種も、いずこの岸にかおいたつものを」を歌った。その時も、彼の心は腹立たしさに満ちていた。

それから20年経ち、牧師となった彼の下に1人の神学生が派遣されてきた。彼の住所がかつて奉仕した教会の近くなので問うた。すると、「先生、その時、アーメン、ソーメン、ヒヤソーメンと言ったのはこの僕です。僕はあれからしばらくして教会に行くようになったのです」と言った。

榎本保郎著・一日一章より

友よ。このところで神は言います。「友よ、私はあなたに主イエスと言う命のパンを与えました。どうぞこのパンをあなたが食べてください。満腹したら人にも分けてあげてください。そのパンの中には私がいるから、後の責任は私のものだから心配せずに!」と。

11章2節

七人と、八人とすら、分かち合っておけ。国にどのような災いが起こるか分かったものではない。

人は明日のこともわからないものです。100歳まで生きるか事故や災害で今日死ぬかもわかりません。そこで不確実なこの世と自分への対処法は、「七人、八人と分かち合っておく」ことだと提案しています。

一つ所に財を任せず数カ所に、一人の医者よりも複数の医者と、子供も一人より数人いるほうが…より安心です。しかし、それは人生がこの世で全てとする者の考えで本当の賢さではありません。

人生は飛行機に例えられます。工場で組み立てられます…母の胎内。滑走路に出てきます…誕生。エンジンや様々のテストを受けて機能を増されます…学びと訓練。エンジンを噴かして飛び上がります…青年期。安定飛行の高度を目指します…30~40才代。快適な安定飛行を続けます…40~60才代。しかし、時々小さな健康のトラブルが発生…60~90才代。しかしもっと大きな問題に直面…燃料が切れかかるがどこへ着陸するかわかっていません…結果=海へ墜落=死。

友よ。飛行機なる人間は天国へ着陸する目的で造られました。機体の大小や形や内部の機器類の性能なども大事ですが、それはある時までです。大事なことは、自分飛行機のパイロットに自分でも他人でもなく、主イエスになっていただくことです。必要なのは七~八人ではなく主イエス「一人」です。

11章3節

雨が雲に満ちれば、それは地に滴る。南風に倒されても北風に倒されても木はその倒れたところに横たわる。

人生を自分の思い通りに歩めば幸せになれる、と誰もが思います。しかし、青空が雨空と変わり雨になり、強く立っていた木(自分)は、時代や社会や人々の風に再起できないほど倒されてしまいます。

しかし、聖書の世界では自分の思い通りに歩んで不幸になり、試練の雨(聖霊)に降られ、風(神の力)に倒されて幸福になった人で満ちています。

族長ヤコブは、母の胎内の時から兄を押しのけ、長男の権利を奪い、老年の父をだましては祝福も奪いました。結果、兄に追われ叔父の所に逃げるがそこでも自己主張の年月…。二人の妻と二人の側女を得ますが、妻たちや子供達は激しく争い合います。そこにも居られなくなった彼は、叔父の財産を計画的に奪い夜逃げします。しかし、ヤボクの渡しで神と格闘し、腿の関節を外されてやっと倒れました。倒れた時が神にしがみついた時でした。その時から、彼はイスラエル(神の王子)となります。自分の思い通り生きた時の彼は不幸で、自分の計画と力が挫かれて倒れた時、命を得る幸福がやって来ました。

友よ。あなたの人生に勝利がないのは、倒れないからではないですか。神は聖霊であなたを濡らし、その風で倒そうと臨んでいることに気づいてください。主によって倒れるなら、主と共に立つことができます。

11章4節

また、わたしはすべての労苦と、すべての巧みなわざを見たが、これは人が互にねたみあってなすものである。これもまた空であって、風を捕えるようである。

風向きを気にすれば種は蒔けない。雲行きを気にすれば刈り入れはできない。

前節の「雨が雲に満ち…地に滴る。南風に倒され…北風に倒され…横たわる」は、自分の思い通りに行かない人生を教えていました。では、自己主張がダメならばもっと世間や時代に合わせて生きれば良いのか?と問うように冒頭のみことばが読めますが。

確かに、自分の願いを達成しようとしても時代の流れ、世間の常識などの「風向き」を気にすれば踏み出せません。また、家族や関わる人々の思いという「雲行き」を気にし過ぎても踏み出せません。自己中心も世の流れに合わせてもうまくいきません。

ノーベル賞が始まった初期の頃からある時期まで、ユダヤ人受賞者が25%を占めたそうです。ある人がその理由を、「彼らは神を知り、世界の始まりから終りまでのスパンで物事を考えられる。だから、『これはこうなるのでは』という推測ができたからだ」と。

人は、「自分はどうか」と「世間と他者はどうか」から物事を決めますが行き詰まります。しかし、「私はアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである」(黙22章18節)お方を持つならば行き詰まりません。

友よ。初めと終わりを知るならば、今を知り、今をどう生きるべきかも分かります。初めであり終わりの方は、中間の「今」を知っておられます。

11章5節

妊婦の胎内で霊や骨組がどの様になるのかも分からないのに、すべてのことを成し遂げられる神の業が分かるわけはない。

人は母から産まれましたが、母が子を造ったとは言えません。母親がお腹の中で、「今日は頭、明日はお腹、次に手足を造ろう」ではありませんでした。細胞の一つ一つ全ての肢体は神が母親の胎内で造ったのです。人生も同じで大事な事…両親・人種・聖別・誕生日・…など何一つ自分で選べず、すべて神の御業です。

詩編の記者はこのことを次のように記しました。

  • 「主よ、あなたは私を究め…知っておられる。座るのも立つのも知り…私の道に…通じておられる」と
  • 創造主は、「私の道」に通じておられるお方ですから、創造主に聞けば必ず答えをいただけます

「神に聞く」とはどうすればよいのでしょうか。それは、「…あなたは…前からも後ろからも私を囲み、御手を私の上に置いていてくださる」が答えです。

知るとは知識ではなく、「アダムがエバを知った」とあるように一体となることです。それは、主の中に、み言葉の中に自分が入ることで、「前から後ろから私を『囲んで』もらうことです」。さらにそれは、「御手を私の上においてくださる」から、主の下にいること、み言葉に聞き従うことです。

以上詩編139篇より

友よ。人の知恵は、自分が考えることではなく、自分を主に委ねることこそ、人の知恵です。

11章6節 ①

朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれかそれとも両方なのか、分からないのだから。

「種」こそ、その人の一番中心である命を指します。しかし、人は長年生きても自分の命である種を知りませんでした。それもそのはず、人はアダムとエバの時に一度その種を捨ててしまったからです。

親から生まれた人の中に今あるのは、「永遠を想う思い」(3 章11節)であって、命なる種ではありません。それは、「土の塵(自然生命・私)」という人間です。

そこで人は「私という種」をこの世界に(銀行へ、職場へ、出世に、豊かな生活に、学校へ…)と蒔きます。しかし、持った種の本質は自己中心ですから、刈り取る実は、「姦淫、わいせつ、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、怒り、利己心、不和…」(ガラ5章19~20節)などで、汚れたものばかりです。

人に必要なのは「真理の種」です。それは、土の塵の中に「命の息」を入れていただくことです。命は、人格と人格の継がりと交わりですから、永遠の聖い命なる主イエスと「継がり交わる」ことです。

友よ。あなたは何を得ようと生きていますか。それは、「愛(喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制)」(22~23節)ではありませんか。それらは肉の命ではなく、「聖霊という種=命」から出てくる実で、神に国にあるものです。肉の命ではなく霊の命で生き、御霊の実を収穫してください。

11章6節 ②

朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれかそれとも両方なのか、分からないのだから。

「無い袖は振れない」ように、命の無い者に命は蒔けません。最初に真理の命を持たねばなりません。その命こそ、「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハ14章6節)という主イエス御自身です。

その種は、「みことば」だと主が言われました。みことばは「言」なる主イエスから出た「言葉」ですから命です。そこに聖霊の水が注がれると発芽し実を付けます。

種は神の命ですから、種を持つ者は救いを得ています。しかし、種は土に蒔かれてこそ実をつけますが、多くの神の子たちは自分の中に仕舞い込んだままにします。従って収穫することはできません。その人は、聖霊の種の力によって「霊の人」として生きるのではなく、土の塵の命で生きる「肉の人」となってしまいます(Ⅰコリ3章1節参照)。

パウロが「神の聖霊を悲しませてはいけません」(エフェ4章30節)と言いました。聖霊を悲しませるとは、内住する神の命の聖霊を閉じ込めることです。それは、神の御心よりも自分を優先することです。

友よ。神の命の種が芽吹くのは、自分の考えを置きみことばに従う時です。「それを主は、「自分の十字架を負い私に従え」と何度も言いました。「我生きるにあらず、主が我が内に生きる」ことこそ、みことばの種を蒔いている人の姿です。

11章6節 ③

朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれかそれとも両方なのか、分からないのだから。

まずは神の真理の種を持つこと。次に、その種の命で生きること。それは、聖霊を閉じ込めず「御霊の自由」の中で生かされることでした。さらに大事なことは、その種を何処に蒔くかです。

主イエスが語られた種蒔きの話しがあります。蒔いた種が落ちた所(心)が、「道端・石地・茨の中・良い土地」によって種の運命が違いました。

道端
この世が行き交う只中…悪魔に奪われる。
石地
自分の考えの範囲内で受け入れる…心の奥では受け入れない。
茨の中
他の植物を育てる力はあり、種を成長させるが自分の考えをさらに優先しみことばを退ける。
良い地
種を喜んで受け入れ何十倍もの実を結ぶ。

ところで最初から「良い地」の人はいません。良い地は、「道端」の固い土地から→石「石地」が取り除かれて柔らかにされ→「茨」という世の価値観が取り除かれ→「良い地」となり豊かな実を結ぶのです。

道端→石地→茨の中→良い地へと変えるのは蒔かれた「種なるみことば」の働きです。

友よ。だから朝も、夜も、いつでも手を休めることなくみことばという種を自分の中に蒔き続けてください。「みことばを受け入れなさい。このみことばは、あなたがたの魂を救うことができます」(ヤコ1章21節)。

11章7~8節

光は快く、太陽を見るのは楽しい。長生きし、喜びに満ちているときにも、暗い日々も多くあろうことを忘れないように。何が来ようとすべて空しい。

人は野菜や魚や動物を食べて生きていますが、それは野菜や動物を通して太陽のエネルギーを摂取して生きているのだ、とある専門家が言いました。

地上に住む全ての人は、太陽の光を浴びるように神の恵みの命を注がれて生きています。しかし、その神に背を向けて歩いています。それは、命の光を背中に受けることになり、自分の前には影ができます。その影は、出生、親との関係、心の傷、劣等感、傲慢、弱さ、病気、不和、争いなど、人の限界を表す陰であり、罪人の姿そのものです。

神に背を向けると、その影の上を歩かねばなりません。そして、その先に待っているのは希望でも達成感でもなく限界と恐れと最後の敵である死です。

主が来られ、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じよ」と言われました。悔い改めとは、神に背中を向け、自分の影を恐れながら歩いて死に向かう方向を、太陽なる光の神に向けることです。

友よ。罪人の時も神の恵みは注がれていましたが、背中で受けて自分の罪の影を歩いていました。太陽に向きを変える時、影は後ろになります。「以前は暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」(エフェ5章8節)。

11章9節

若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。青年時代を楽しく過ごせ。心にかなう道を、目に映るところに従って行け。知っておくがよい。神はそれらすべてについてお前を裁きの座に連れて行かれると。

「若い時の苦労は買ってでもせよ。そうすれば後で楽になれる?」。「若い時に心の欲するままなんでも行え。どうせ最後は裁かれ死ぬのだから?」と。人生いつ光があたり、いつ日陰になり、いつ日が沈むかわかりません。人生一寸先わかりません。

しかし聖書は、「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブ9章27節)と断言します。死ぬことが裁きであれば、死ぬことで人生が終わります。しかし、死の後に裁きがあるならば、裁きこそ一番大事なことになります。

主イエスが人となって来られ、十字架の上で「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(マタ27章46節)と叫ばれたのは、罪人が最後に叫ばねばならない叫びを消すためでした。

友よ。青年時代を楽しく過ごし、老年になってからも後悔しない生き方が一つだけあります。それは、人生の最後に受け取らねばならない自分の裁きを、一日も早く主に身代わりに受け取っていただくことです。「私たちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです」(エフェ1章7節)。

11章9~10節

神はそれらすべてについてお前を裁きの座に連れて行かれると。心から悩みを去り、肉体から苦しみを除け。若さも青春も空しい。

人間は神に自由を与えられており、自由に考え行動することが出来ます。しかし、自由は無法ではなく責任が伴います。ですから、最初から神の判断を受けつつ生きる事…裁かれつつ生きる事…が最善です。それは、自分の思いではなく神の律法を基準とし、その律法に日々戒められて歩むことです。

そのことを詩編19篇8~9節で次のように述べられています。

  • 主の『律法』は完全で、魂を生き返らせ、
  • 主の『定め』は真実で、無知な人に知恵を与える。
  • 主の『命令』はまっすぐで、心に喜びを与え、
  • 主の『戒め』は清らかで目に光を与える」。

主の「律法・定め・命令・戒め」は、人の罪を暴き出して裁くためでは決してありません。むしろ、「魂を生き返らせ・知恵を与え・心に喜びを与え・目に光を与え」るための神の愛です。それゆえに、「主への畏れは清く、いつまでも続き、主の裁きはまことで、ことごとく正しい。金にまさり、多くの純金にまさって望ましく、蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い」(10~11節)と心から信じられます。

友よ。それは、神に日々点検していただき、主の御手に委ね続けること…主を畏れて生きることで、それが主に日々裁かれて生きる恵みです。

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