キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

コヘレトの言葉 第10章

10章1~2節

死んだ蠅は香料作りの香油を腐らせ、臭くする。僅かな愚行は知恵や名誉より高くつく。賢者の心は右へ、愚者の心は左へ。

香りで人の心を慰め、癒し、悪臭を消し去る素晴らしい香料がありました。その中に死んだ一匹の蠅が入ると悪臭を放ち、全てを捨てねばなりません。

若い時から積み上げた信頼や地位を、一時の迷いで異性や金銭、怒りの爆発などの失態が、その人の全部とされます。まさに香料に入った一匹の蠅です。蠅の正体は、「人から出て来るものこそ、人を汚す。 中から、つまり人間の心から、…みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲…など。これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」(マコ7章20~23節)。

初めに、自分の内に蠅がいることを知り、次にそれを自分で退治できないことも知らねばなりません。二つを知ってこそ解決に向えます。そのことをコヘレトは、「賢者の心は右へ、遇者の心は左へ」と教えます。

聖書で、「羊を右に、山羊を左に置く」(マタ25章33節)のように、右は神の側、左は人の側とされます。主はペトロに、「舟の右に網を降ろせ」とも言いました。すると彼らは左側で漁をしていたことになります。

友よ。人は蠅一匹もどうするともできません。でもできる最も善いことがあります。それは、右側に自分を置いて神に蠅(肉)を処分していただくことです。

10章2~3節 ①

賢者の心は右へ、愚者の心は左へ。愚者は道行くときすら愚かでだれにでも自分は愚者だと言いふらす。

「羊は右、山羊は左。舟の右側に網を降ろせ」など、聖書は右と左という表現を用いて真理を表します。

ノアの洪水の後に、「世界中は同じ言葉(言)を使って、同じように話していた。東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に…住み着いた」とバベルの塔の物語が始まります(創11章)。 

ノアの大洪水は、暴虐に満ちた地で人々に神を畏れさせ帰らせました。それが、「世界中は同じ言葉(言・神を命、基準)で話していた」との表現です。しかし、人々はシンアルの地に移動しました。その移動は、地理的移動を超えた霊的移動でした。「神という言(ことば)」を「人という言葉」に、それは「命・基準」を神から人に移し、人が神となることでした。

人中心となった結果、石の代わりにレンガ、しっくいをアスファルトに代える能力を誇ります。さらに、「天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」とします。人間が神に代わると、「塔」なる独裁者が現れ、人々は「町」という囲いに入れられます。 

友よ。あなたも信仰告白により洪水から救われ、教会という箱舟に入れられました。それは、世という左から、神の国なる右に移されたのです。バベルの塔の物語は、神の恵みで右側に移された人が、神から離れる左側へ戻った記録であることを覚えてください。

10章2~3節 ②

賢者の心は右へ、愚者の心は左へ。愚者は道行くときすら愚かでだれにでも自分は愚者だと言いふらす。

カインとアベルの記事も、右と左を教える物語でした。善悪を知る木の実を食べたアダムとエバは、エデンの園(園の中央・霊の世界)から追放されますが、神は彼らに「皮の衣」を着せました。皮の衣なる動物犠牲こそ、神の御子イエスの十字架による罪の贖いでした。アダム夫婦は自分の子どもたちに、「神の御前に行く時は、皮の衣(動物犠牲)を着て行きなさい」と何度も教えたことでしょう。

彼らが成長し自分の責任で神の前に出たとき、カインは地の産物を、アベルは羊をもって行きました。神はアベルの献げた羊は受け取りますが、カインの献げた地の産物は受け取れませんでした(創4章)。カインの献げ物は、自分の手の業・良い行いでした。

アベルが羊を捧げたというのは、神が用意した罪の贖いの小羊イエスを受け取ったことでした。神は、罪人は受け取れないので独り子イエスを献げました。カインの罪は、手の業で自分の救いを作ろうとしたことよりも、神にとがめられた時に、怒って「顔を伏せた」ことです。神との関係を切った罪こそ大罪です。

友よ。カインが神に受け取ってもらえなかった時、「主よ、どうしてですか」と問うたならば、神は丁寧に真理を教えてくれたはずです。そうすれば、さらなる罪、弟アベルを殺さずに済んだのです。

10章2~3節 ③

賢者の心は右へ、愚者の心は左へ。愚者は道行くときすら愚かでだれにでも自分は愚者だと言いふらす。

アブラハムとロトの記事も、右と左を表す物語でした。カルデアのウルからカナンに到着しますが、激しい飢饉に出会いエジプトに下ります。アブラハムは恐れて妻に妹だと偽らせます。案の定、サラはエジプト王に召し抱えられそうになりますが、神が介入しアブラムの妻であることを知らせます。王は神を恐れ、多大な財産と共に彼らを追い返しました。

カナンに戻ったが、財産の多さゆえに互いの僕たちに争いが起こりました。そこでアブラハムは、「あなたが左に行くなら私は右に行こう。あなたが右に行くなら私は左に行こう」と提案します。ロトが選んだのはソドムとゴモラでした。

一方のアブラハムは、「さあ、目を上げて…東西南北を見渡しなさい。…すべてあなたと子孫に与える」との御声を聞きます。そこで彼は低地ソドムやゴモラとは逆の、さらなる高地ヘブロンを選びました。 

友よ。ロトはこの世という左側を選び、アブラハムはより神を頼まねば生きられない高地ヘブロンなる右側へ行きました。左を選んだロトは、世に浸かりおぼれ、滅んでゆく遇者の終末を皆に言いふらすことになりました。しかしアブラハムは、祭壇を築き主の名を呼びます。神はアブラハムを用い、数え切れない神の側で生きる人々を生み出す賢者とされました。

10章4節

主人の気持があなたに対してたかぶってもその場を離れるな。落ち着けば、大きな過ちも見逃してもらえる。

この世には、この世の主人が存在します。そして、「だれも、二人の主人に仕えることはできない」(マタ6章24節)という難しい選択に直面します。聖書の中には、その難しい決断に勝利した者たちがいます。

ヨセフ
兄たちに奴隷とされポティファルに仕えていた時、主人の妻から姦淫の誘いを受けます。その時彼は「私は、…大きな悪を働いて、神に罪を犯すことが出来ましょうか」(創39章)と拒否しました。
ダビデ
サウル王に追われ洞窟の奥に潜む時、王が用を足すために入ってきた。部下たちがこの機会に…と勧めるが、ダビデはサウルの上着の端を切った。彼は「私の主君であり、主が油を注いだ方に手をかけた」(サム上24章)とそのことをも後悔しました。

この世の支配者たちは、さまざまの無理難題を仕掛けてきますがコヘレトは、「その場を離れるな」と教えます。その場とは、主イエスと共に居る場です。ヨセフもダビデも、彼らの命の基準は、この世ではなく神でした。そしてそれは、「神に愛されているからそれができない」という神の愛でした。

友よ。初代の殉教者達は皇帝を拝まず、しかし皇帝に逆らわず殺されました。彼らは、彼らの主人イエスにより「罪・サタン・死」に勝利していたので死ねました。神の愛を受けてこそ、世の主人に仕えられます。

10章5~7節

太陽の下に…君主の誤りで愚者が甚だしく高められる。…金持ちが身を低くして座す。奴隷が馬に乗って行くかと思えば、君侯が奴隷のように徒歩で行く。

太陽の下なるこの世では、本当の知者は退けられ、愚か者が支配者となります。また、本当に尊い者が卑しめられ、卑しい者が高貴な場に置かれます。この世における価値基準は転倒しています。主イエスの存在と歩みこそ、まさに上記の出来事そのものでした。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず…自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリ2章)。

神であるお方→人となり→十字架の道を歩み→ののしられてもののしり返さず→貧しい者の友となり→サマリアの女を訪ね→病人を訪ね→十字架で殺される。しかし主の生涯は、人々への従順でなく、神への従順でした。「その私たちの罪を全て主は(父なる神)は彼(主イエス)に負わせられた」(イザ53章6節)。「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」(フィリ2章9節)。

友よ。神は生きておられます。信じる者はすでに復活の命を持っています。十字架の道を歩んで復活ではなく、復活の命が十字架の道を歩ませくださいます。愛の神は、命と仕える報酬を与えてくださいます。

10章8~9節 ①

穴を掘る者はそれに落ち込み、石垣をくずす者は蛇にかまれる。石を切り出す者は石で傷つき、木を割る者は木で危険にさらされる。

(新改訳)

コヘレトは、この世の人生が「空」であることを知らせることで神に心を向けさせようとします。

「穴を掘る」とは
「井戸を掘る」の意です。命を支える水を得ようと掘り始めますが、命を得るはずの場所で逆に命を落とすことがあります。
「石垣をくずす」とは
より堅固な石垣を築こうとして、石垣の中に潜む蛇にかまれて命を落とします。
「石を切り出す」とは
石造りの家を造ろうとして、その石でケガを負います。いずれも、より良いことをこの世界に求めても、待っているのは「空」です。

聖書は、「この世界が神の言葉によって創造され…目に見えているものからできたのではない…」(ヘブ11章3節)と言います。見えるものよりも見えないものに物事の本質があると言います。その見えない世界を見せてくれるのが「神の言葉」ですが、それは文字を超えた「言」です。「あなた方は聖書を研究している…聖書は私について証しする」(ヨハ5章29節)と主イエス自ら告白しました。

神の子の友よ。まさに、「初めに言があった…言は神であった」というイエス・キリストこそ見えない本質であり実体です。その方を知ることが、自分を知り、他者を知り、人生をより正しく知ることができます。

10章8~9節 ②

穴を掘る者はそれに落ち込み、石垣をくずす者は蛇にかまれる。石を切り出す者は石で傷つき、木を割る者は木で危険にさらされる。

(新改訳)

生きるために働かねばなりませんが危険も伴います。それなら災いを避けて働かないと…何も得ず生きられません。働いても黙しても空しさは同じです。その空しさの原因は、「居場所」を間違うからです。

神はアダムとエバに、肉体を養う園…自然界と、霊の命を得る…園の中央を備えました。しかし、善悪の木を食べ、園の中央から締め出され、園の木の間(自然界)で生きねばならなくなりました。

神と人の関係は、船と潜水夫のようです。海の中(自然界)には肉体の食物があります。しかし、酸素は船(園の中央)から受け取らねばなりません。

そのパイプを絶つと、海中から酸素を自分で作って生きねばなりません。自然界も神の創造ですから酸素らしきものが少しありますが一時しのぎです。それが、井戸を掘り、石垣を積み直し、立派な家を建てようとする業です。でも、それによってケガを負い、サタンなる蛇に噛まれて命を落とすこともあります。

友よ。人の命は園の中央(霊の世界)にあります。そこから酸素なる霊を受け取って園(自然界)で生きます。自然界を「居場所」にすると、あらゆることが空しくなり、最後は死です。園の中央なる三位一体の神の居るところこそ、天にある住まいです。

10章10節

なまった斧を研いでおけば力が要らない。知恵を備えておけば利益がある。

魚や肉をさばく調理人は頻繁に包丁を研ぎます。木こりや大工さんもノコギリの目立てをし、カンナやノミの刃を研ぎます。その時間は無駄ではなく、むしろ仕事をより多く美しく成すための大切な時間です。

職人が道具を整えるように、良き仕事をするために、神の子たちも知恵を研ぐ必要があります。それは何のために、どのようにして研ぐのでしょうか。 

「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」(ヘブ12章5~6節)。

誰も自分で自分を研ぐことはできません。「鍛錬・懲らしめ・鍛え・鞭打つ」、それができるのは神御自身です。神がこれらのことを人に行うのは、人の知恵を研いで、命と豊かな実を結ばせるためです。人に必要な知恵とは、信仰という知恵です。信仰は神との継がりと交わりのことです。その知恵は自分では持てません。「鍛錬・懲らしめ・鍛え・鞭打つ」には必ず痛みが伴うので避けるからです。その痛みとは、肉が削がれる痛み、肉が研ぎ落される痛みです。

友よ。研がれた信仰という知恵によって得るのは、癒しや経済的豊かさや整った人格などの諸々の聖霊の賜物を超えます。それは三位一体の神との一体化です。

10章11~13節

呪文も唱えぬ先に蛇がかみつけば、呪術師には何の利益もない。賢者の口の言葉は恵み。愚者の唇は彼自身を呑み込む。愚者はたわ言をもって口を開き…。

インドの路上で、蛇使いが笛を吹くとコブラが壷から出て来て踊り出し群衆からお金を投げ入れてもらう、という映像を見たことがあります。

聖書は蛇をサタンに置き換えて語ります。エバに言い寄った蛇から始まり、黙示録の「年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者」(黙12章9節)と、様々の場面に出てきます。そこで、蛇なるサタンを悪の巣窟と単純に割り切り、全ての悪いものは悪魔の働きと決めつけてよいものでしょうか。否、蛇なるサタンは実在ですが、蛇使いなる呪術師のことを隠してはなりません。

蛇と蛇使いは一緒になって行動できるのであって、蛇の単独行動ではありません。蛇がエバに語り掛けて来た時、エバの心が蛇に動かされたとも言えますが、エバの心が蛇の存在を引き寄せたとも言えます。

呪術師の呪文は、自分の欲得の主張です。するとサタンなる蛇が壷から顔を出し、周りの人々の心に呪術をかけ、呪術師の思惑を成就させます。しかし本当のことは、呪術師自身が蛇に噛みつかれているのです。

友よ。「賢者の口の言葉は恵み」とある言葉こそ、「命の木(主イエス)から食べ、善悪の木の実(戒め)を食べるな」との神の言葉である戒めです。

10章14~15節

愚者は口数が多い。未来のことは誰にも分からない。死後どうなるのか誰が教えてくれよう。愚者は労苦し…疲れるだけだ。都に行く道さえ知らないのだから。

動物は神に造られたように生きます。それを本能と言います。人間も神に造られましたが、自由に考え、決定し行動する、人格によって生きる者です。それゆえに、神の御心に沿うよりも、自分の考えを優先して生きて行きます。それを罪人と言います。「遇者」こそ、まさに罪人で、「遇者は口数が多い」とは、自己主張を繰り返す罪人の姿です。

人は人として自由に生きますが、一番大事な「未来のこと」はわかりません。ましてや、「死後どうなるか」はなおさら理解することができません。もし、人生の終点が、ゼロか無になるのであれば、富んでも貧しくても、能力がある無いも、どのように生きたかは問題になりません。しかし、死後の世界があるとするならば、それに到達するか否かこそ、人生の最終評価となります。

聖書の人々は、「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」(ヘブ11章13節)。

賢者なる友よ。私たちは口数を少なく、「主の然りを然り、主の否を否」として歩みましょう。

10章16節

いかに不幸なことか、王が召し使いのようで、役人らが朝から食い散らしている国よ。

聖書で「国」とは、支配を表す言葉と聞きます。すると、それぞれの国には支配者…王がいます。この世界は神の国であるはずが、人間の堕落以来「暗闇の世界の支配者」(エフェ6章12節)なる悪魔が人間を虜にして君臨するようになりました。

主が来られ、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じよ」(マコ1章15節)と言われたのは、「罪とサタンに囚われていた者たちを奪いに来た」との宣言でした。そして、「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与え」(ヨハ1章12節)、神の国の住民に戻しました。

「神の国」が来たことは、イエスが王として君臨することですが、人の中には古い王国が残っており、その王は自分自身です。そして、イエスと言う王を認めてはいますが、実質上の王は自分(自我)です。「わたし王」が、「王の王、主の主なるイエス」を召使いとして、自分のために仕えさせます。まさに、「王(主イエス)が召し使いのようで、役人(私)らが朝から食い散らしている国よ」との現実です。

神の国に招き入れられた友よ。あなたの本当の自由と充実は、主を僕にするときでなく、「主イエスの僕」になるときに受け取ります。パウロは自分を「キリスト・イエスの僕=奴隷」と言いました。

10章17節

いかに幸いなことか。王が高貴な生まれで、役人らが…食事をし、決して酔わず、力に満ちている国よ。

この節は、先の16節とは反対のことを言います。高貴な王こそ、主イエスです。「いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来た」(創14章18節)。「主はいと高き神、畏るべき方、全地に君臨される偉大な王」(詩47・3)。

一人ひとりに、キリストの体なる教会に、全世界にとって、一番大事なことは「イエスを主」とすることです。漢字の「主」とは「王を貫く」の意で、「諸々の王たちを貫く…王の王」なるお方です。

サレムの王キリストは、アブラハムに現れて「パンとぶどう酒」を与えました。彼こそ、仕えさせるためではなく、仕えるために来られた「愛の王」です。愛の王は、「役人たち(仕える者たち)が食事をする」とあるように、十字架と復活の赦しと命、さらに霊の糧なる御言葉を聖霊によって豊かに与えます。それによって、決して酔わず(この世に支配されず)、霊に満たされ(聖霊に支配され)て過ごすことが出来ます。その者たちが集められたところは、「力に満ちている神の国(教会)となります。

友よ。神の国は、あなたのただ中と、イエスを主とする者たちの教会にあります。そこでは徹底的に「イエスを主」とし、兄弟姉妹が「愛に根差して真理を語る」(エフェ4章15節)ところです。

10章18節 ①

両手が垂れていれば家は漏り、両腕が怠惰なら梁は落ちる。

事実、人が住んでいる家は長持ちし、人の住まない家は早く傷みます。両手・両腕が正しく用いられるならば、雨漏りも梁が落ちてつぶれることもありません。

人の中に造られる神の神殿という家も同じです。「両手・両腕」を正しく用いると、その神殿は雨漏りも倒れることもなく、神の命に溢れます。

多くの人々は、両手・両腕を上げて神の御前に出ました。モーセは、両手を上げて紅海を二分しました。

バビロンへ奴隷とされた民は、「主の御前に出て、水のようにあなたの心を注ぎ出せ。両手を上げて命乞いをせよ」(哀歌2章19節)。また、「天にいます神に向かって、両手を上げ心も挙げて言おう」(同3章41節)と。彼らの祈りは、神に届きバビロンから帰還したエズラと民は、神殿を修復して「…両手を挙げて、『アーメン、アーメン』と唱和し、ひざまずき、顔を地に伏せて主を礼拝した」(ネヘ8章6節)とあります。

聖書は、右手を神の側、左手を人の側と区別します。礼拝は神に両手をあげることです。右手は、神への依存です。左手は、自分自身への降参です。

友よ。神の祝福を求める右手を上げ、左手に自分の欲望を握っていませんか?モーセは前に海、後ろにエジプトの戦車に挟まれながらも、両手を上げました。その結果、民は神の両手に抱かれ、紅海(死の海)を渡りました。

10章18節 ②

両手が垂れていれば家は漏り、両腕が怠惰なら梁は落ちる。

神の神殿は、両手、両腕を上げてこそ神御自身が自由に働くことができて命が満ち溢れます。このことをサウル王とダビデ王に見ることが出来ます。

ペリシテと戦うためにサウルが王として選ばれましたが、彼にはなんの心の備えもありません。この選びは、神が一方的に彼の右の手を祝福したからでした。

彼はまよいつつも、左手も上げ戦って勝利を得ます。さらに、信仰に立つ彼の息子ヨナタンによって大勝利を得ます。ところが、勝利を見たサウルの右手は下がり、左手だけのサウル王になります。その時から、神はこれ以上サウルを用いることはできないと判断し、新しい王を探し始めます。

選ばれたのは、羊の番をするダビデでした。彼は琴の名手でした。「琴を奏でる」こそ、「神と自分の調和」の代名詞でもありました。「羊飼いと羊」を、「神と自分」の姿とする神との調和ある若者こそダビデでした。

イスラエルに戦いを挑む巨人ゴリアテに、ダビデが立ち向かいます。彼は、「万軍の主の名によってお前に立ち向かう」と右手を上げます。そして、五個の石を左手に持ち、右手の石投げ紐に入れて巨人ゴリアテの額を撃って倒しました(サム上17章)。

友よ。神に全く依存する右手、自分を神に献げる左手、両手を上げる者を神は待っておられます。

10章19節

食事をするのは笑うため。酒は人生を楽しむため。銀はすべてにこたえてくれる。

生きるための衣食住は大切です。特に、食事が十分に備えられると笑顔になり、お酒が入ると会話がはずみます。そのためにはお金が必要です。

 「食事、お酒、お金」の一つ一つは中立で、お金は汚い、酒は悪というものではありません。しかし、多くの人々の人生を狂わせているのも事実です。

ルカ福音書16章に「不正な管理人」が登場します。金持ちの財産管理人が職権を乱用した無駄使いが密告されます。怒った主人から会計報告を求められます。追い詰められた管理人は辞めさせられた時のことを考え、油100バトス(1バトス=23ℓ)貸した人の証文を50に、小麦粉100コロスを80…に書き替えさせ、後でその人の好意を得て生き延びようと考えました。それを知った主人は、不正な管理人の抜け目なさをほめ、「不正にまみれた富で友だちを造りなさい。そうしておけば、お金がなくなった時、…永遠の住まいに迎え入れてもらえる」と言いました。

世のものは中立ですが、何のために用いるかにより、「善」とも「悪」ともなります。管理人は「友・主イエス」を得るために用い、やがて天国に迎えられることを考えました。

友よ。あなたの持物や能力や賜物は、何のために使いますか。主イエスとより親しい友となるためですか。

10章20節

親友に向かってすら王を呪うな。寝室ですら金持ちを呪うな。空の鳥がその声を伝え、翼あるものがその言葉を告げる。

人には、「親友、王、金持ち」などとの関係が必要で、それぞれと平和な関係を持たねばなりません。しかし、一見平和に見える関係も、内側では争っています。それは、「私」が…楽しく・苦労なく・傷つかず・より多く…を得る自己中心からです。

王を立てるのは「私」のため、金持ちに寄り添うのも「私」のため、親友すらも「私」のためです。それが不可能になる時、呪いが出てきます。それは、相手も自分を守るために「私」を利用するからです。

すなわち、この地上にある全ては「私」という罪の中にあるので、王を立て、金持ちに寄り添い、友人に愚痴っても、行き着くところは呪いになります。どんなに頼っても呪いにならないお方は主イエスのみで、このお方には「私」がないからです。

「キリストは、神の身分でありながら、…かえって自分を無にして、僕の身分になり、…人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリ2章6~8節)。

友よ。誰を王として治めていただき、誰を生きるための金持ち(資金源)にし、誰を友とするか間違わないで下さい。ましてや自分を王にしないで、ただイエスだけを「我が神、我が主、我が友」としてください。

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