キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

詩編73篇

聖書を手に取り、最初から歴史書や預言の書を理解することは、なかなかできないものです。しかし詩篇においては、心の中に表現できない感動を覚えることがあります。

詩篇73篇は、すべてのクリスチャンが体験する「深い魂の問題」を取り扱っています。この作者の経験は、わたしやあなたが経験することと重なります。そして、それは詩編全体を通してもいえることであり、詩編それぞれの作者と同じ経験を持つものにとって、それは一節ごとに深く心を揺さぶる感動を与えることになるでしょう。そういった意味では、クリスチャン生活が長くなり多くの経験を積み重ねる分だけ、感動する詩篇の数が増えるともいえます。

神を見上げる

  • 神はイスラエルに対して、心の清い人に対して、恵み深い。
  • それなのにわたしは、あやうく足を滑らせ、一歩一歩を踏み誤りそうになっていた。
  • 神に逆らう者の安泰を見て、わたしは驕る者をうらやんだ。
  • 死ぬまで彼らは苦しみを知らず、からだも肥えている。
  • だれにもある労苦すら彼らにはない。だれもがかかる病も彼らには触れない。
  • 傲慢は首飾りとなり、不法は衣となって彼らを包む。
  • 目は脂肪の中から見まわし、心には悪だくみが溢れる。
  • 彼らは侮り、災いをもたらそうと定め、高く構え、暴力を振るおうと定める。
  • 口を天に置き、舌は地を行く。
  • (民がここに戻っても、水を見つけることはできないであろう。)
  • そして彼らはいう。「神さまが何を知っていようか。いと高き神さまにどのような知識があろうか。」
  • 見よ、これが神さまに逆らう者。とこしえに安穏で、財をなしていく。

「神はイスラエルに対して、心の清い人に対して、恵み深い」(1節)とあります。この作者は、さまざまな人生の困難に直面し、その結論を「神は恵み深い」といえました。一体、どのようにして、彼は「その結論」を見い出せたのでしょうか。

この作者は、「神さまは恵み深い」ことを昔から知っていました。そして、今回の経験を通し、以前にも増して何倍も「神さまは恵み深い」と、認識できたのです。彼が1節目で「神さまは恵み深い」と言ったのは、彼の得た恵み「神の恵み深さ」があまりにも大きかったので、まずそれを伝えたかった心の表れ、といえるでしょう。人は大きな体験ほど、最初に結論を報告するものです。そして、一息ついてから詳細を語り出します。たとえば、自分の生い立ちを30分話し、その後に「それで、わたし…結婚することになりました」という人は、いないでしょう。「わたし、結婚します」といってから、「誰と、どうして」と続くものです。

この作者は、ひとつの大きな体験を「克服し勝利」しました。そして「その勝利は神によって」であり、「神が恵み深いからだ」と叫び「勝利をお与えになった神に感謝を捧げたい」と願ったのです。

神さまが恵み深いことを知ったのは、彼が一時期とんでもない方向へ歩んでいたからです。それは、「あやうく足を滑らせ、一歩一歩を踏み誤りそうになった(あやうく地獄へ落ちそうになった)」経験でした。その期間が、一年なのか、三年だったのか、それ以上長かったのか、正確なところはわかりませんが、彼の経験した重さから、短期間ではなく、かなり長い年月であったと考えられます。その間、彼は「とても危険で今にも足が滑りそうなところ」を歩み続けたのです。

みなさんは、「神さまを信じ続けようか、止めようか」と迷ったことがないでしょうか。日本では、棄教することを「ころぶ」と表現します。それほどの経験をしたことは、あるでしょうか。この作者は、まさにそこまで陥っていたのです。

彼は、自分がスランプに陥った理由を「神に逆らう者の安泰をみて、わたしは驕る者をうらやんだ」からだ、と言っています。ここに、彼の信仰がぐらついた原因が見てとれます。それは、「神さまが自分にどのような愛を与えて下さっているのか」分からなくなってしまったのです。

聖所に入る

  • わたしは心を清く保ち、手を洗って潔白を示したが、むなしかった。
  • 日ごと、わたしは病に打たれ、朝ごとに懲らしめを受ける。
  • 「彼らのように語ろう」と望んだなら見よ、あなたの子らの代を裏切ることになっていたであろう。
  • わたしの目に労苦と映ることの意味を知りたいと思い計り
  • ついに、わたしは神さまの聖所を訪れ、彼らの行く末を見分けた

人は、途方にくれるものです。それ自体は、「罪」になりません。しかし、そのような時にサタンは、神さまの場所にいるわたしたちを「滑らせよう」と、戸口まで近づいて来ています。このとき人は、神さまを見あげるよりも(神さまから目をそらし)、現実(サタン)を見つめてしまいます。

この詩篇の作者は、大きな試練を経験した結果、「神は心の清い者に恵み深い」と言えました。それは、「神を見あげる者に、神は恵み深い」ということでした。しかし、彼がそうなれたのは、一朝一夕に、あるいは魔法の粉を振り掛けるように、ではありませんでした。それは、深い苦しみの体験をしたからこそ、言えたことでした。

では、この作者はどのようにして、この試練を乗り越えることができたのでしょうか。

誰でもどん底から立ち上がるには、一つひとつ、一歩一歩の経験を通し、その後ようやく「神さまは恵み深い」と言えるようになります。その試練が大きければ大きいほど、多くの時間とさまざまな助けが必要となります。ただ指をくわえて待っていれば、そこから抜け出せるというわけではありません。

それには、神さまの御心の導きに従い、歩む必要があります。「あなたの家族も救われる」というみことばがありますが、それには、「あなたが信じるならば」という条件がついています。「信じる」ということは、「あなたが神さまに従う」ということです。

どのような信仰者でも、落ち込む事はあります。そして、そのような人を見て「もっと祈りなさい」とか、「悔い改めていない罪があるから、それを悔い改めなければならない」、「もっと聖霊に満たされなさい」などの、決まりきった忠告をする人がいます。

しかし、そのような人は、「神さまは恵み深い」と口先だけで告白しているに過ぎません。「神さまが恵み深い」と心から言える人は、自分自身の体験があるからこそ言えるのです。それが、「苦しむ者への本当の愛」と「正しさに満ちた忠告」となります。

「わたしも、神さまが見えなくなるほどの出来事に直面したことがあります。でも、そこから神さまは、わたしを引き上げてくださいました。だから、『祈りましょう。悔い改めましょう。聖霊に満たされましょう。賛美しましょう』」と、言ってあげることができるなら、どんなに疲れた魂の助けとなることでしょうか。自分自身が滑って落ち込み、どん底から解放された体験を語り、「神さまは恵み深い」と言えるならば、それは本当の励ましになります。そうでない軽はずみな忠告は、「信仰の暴力」にさえなりえます。

この作者は、「神さまは恵み深い」と言葉だけで、軽はずみに言っているのではありません。彼自身どのようにして立ち直ってきたか、という経験をもとに語っているのです。

彼は、「わたしは心を清く保ち、手を洗って潔白を示した」(13節)と言いますが、その結果「むなしかった」と、続きます。それは、「自分なりに一生懸命、神さまを信じてきたが空しかった」のです。

さらに、「日ごと、わたしは病に打たれ、朝ごとに懲らしめを受け」(14節)とも語っています。彼自身、神さまを信じ、信仰深く生きてきました。しかし、ある時から、「物事が上手くいかず」、あるいは「深刻な病に襲われ」と、今までの人生が狂い始めます。その時、ふと彼は周りを見てしまいました。そして、神さまを信じないで自己中心に生きている人々は、苦しみもなく安穏と暮らしているかのように、彼の目には映りました。この矛盾する現実に直面したとき、「神さまを信じて生きる」ということが分からなくなったのです。

底をつくる

そこから彼は、どのようにして立ち直ったのでしょうか。

1. 自分の心に思ったことを表現しなかった

第一段階は、「底をつくる」ということです。たとえば、泥沼に落ち体がどんどん沈み込んでいく状況にあるとします。そこで、人がもがきながら最初に探すものは…「底」です。それは、これ以上沈まない「底を見つけ足を着ける」ことです。作者は、自分の経験を「『彼らのように語ろう』と望んだなら、見よ、あなたの子らの代を裏切ることになっていたであろう。」と言いました。この言葉が、彼のつくった底を教えています。  

最初の「彼らのように語ろうと望んだなら」とは、「彼らのように語ろう」と思ったからです。「彼らのように語る」とは、「彼らのような価値基準で生きる」ということです。ですから、作者は、「彼らのような生き方に、自分の身をまかせようとしたならば」と言っているのです。

彼は、心の中で何度もそれを願ったに違いありません。しかし、その思いをぐっとこらえ、思いとどまりました。彼は「語らなかった」という言葉で、その思いを表現しています。彼らと同じように「ことば」を発したかったけれど、踏みとどまりました。

彼の歩みは、より深いマイナスの人生に向かって進んでいましたが、自分をとどめることができました。それこそ「底をつくり、足を底に着けた」ということでした。彼は、心の中に浮かんだ神さまの御心から外れた思いを、口に出さなかったことで、よりどん底に向かわないようよう、自分をとどめることができたのです。

ヤコブの手紙に、「聞くに速く、語るに遅く、怒るに遅く」とあるように、「語るに遅く」あるべきです。「怒る」とは、自分の心の中にある自己中心な思いを、そのまま口に出し表現することです。それも「遅く」する必要があります。

なぜなら、「人は心に信じて義とされ、告白して救われる」からです。それをこの箇所にあてはめるならば、「心の中に悪い思いを持ってしまう」こと、そして「それを表現すること」は、違うということです。たとえば、「あの人は本当に愚かだな」と思ったとしても、「お前は本当にバカだ」と言ってしまうことには、大きな違いがあります。

心の中には、さまざまな思いが去来します。サタンは、「清いとか、手を洗ったとか、そんなことが何になるのか。それよりお前の現実を見ろ、どんなに熱心に神さまを信じても、病気は治らないし、生活ももっと苦しくなる、現実こそ偽りのない真理だ」と語ります。弱っているときは、その偽りが本当のように思えるのが人間です。そのときに「そうだ、現実から判断したほうがいい。だったら俺だって」と、人々と同じように生き始めたならば、どうなるでしょうか。

悪魔の働きの一つに、人の「心を狭くする」ものがあります。最初から先が見えない「真っ暗闇」に落とすわけではありません。なぜなら人は、暗闇の中では真っ先に「光」を探し始めるからです。しかし、「狭く」されると、正しいことが分からなくなってしまいます。「心を狭くする」とは、ある一つのことしか考えられないように、心がコントロールされることです。

たとえば、夫婦間に問題が起こり、その問題がなかなか解決しません…そうこうする内に、お互い疲れ果て「離婚」というい言葉が出てきます…すると悪魔は、「離婚」の二文字に目をとどめさせ、他のことを見えなくさせてしまいます。さらに悪魔は、狭い部分に人を入れ、その中で物事を捉えさせようとします。すなわち、最初に離婚ありきから語らせ、家族の経済問題や子供の教育、将来のことなど、大切な要素を後回しにさせてしまいます。こんなときにこそ、わたしたちは踏みとどまらなければなりません。それは、自分の中の憎しみや怒りを、表現しないということです。詩篇の作者も、自身の余りにも惨めな現実から、「人々と同じように語ろう・生きよう」と心に思いはしましたが、その後「それを表現しなくて本当によかった」と、彼は告白しています。これが「底をつくる」という、最初にすべきことです。

2. 将来の結果を考えた

もし、自分が彼らのように語ったならば、「あなたの代の子らを裏切ることになった」と、彼は続けています。自分の心の思うままに生きたならば(語ったならば)、その結果「自分の子孫の将来をとんでもないことにしてしまう」と、わかったのです。「皆にならわず踏みとどまり、将来起こる結果について、よく考えたことが本当に良かった」と言っているのです。

人は、「自分自身に起きていることの意味」を今わからなかったとしても、「他の人々と同じに生きる」と、どんな結果になるかを予測することはできます。それまでの彼は、「なぜ、神さまを信じたのに病気と貧しさばかりの人生になったのか」と、神さまが見えなくなっていました。しかし、彼はそこで踏みとどまり「もし、みなと同じように神さまを信じることを止めて生きるとどうなるか…」と考えました。そして、「それは駄目だ。今はまだ神さまさまの御心は分からないが、みなと同じでは駄目だ」、ということに気付いたのです。「浅はかに行動するならば、自分の将来のみか、子供たちの将来までも駄目にしてしまう」と、彼にはわかったのです。

クリスチャンの人生は、「神さまが喜ぶこと」、あるいは「自分の心のままに生きる」、このどちらを選択するかにより、その結果を大きく違うものへとします。今すぐ神さまの御心が理解できなくても、御心から外れた人々と同じように生きる…もし、そうしたなら、自分のことだけでなく子孫の未来がどうなるのか、を考えるべきです。事実、日常生活の中で、今その意味が分からなくとも、将来の結果が予測できることは多くあります。たとえ、現在のことがわからないとしても、結果を予測し耐え忍ぶのも「信仰」です。たとえば、「姦淫」という罪一つとってもそうです。今の誘惑に負け一時の快楽を得たとしても、将来の結果を考えたら恐ろしいものです。自分の2、3年先どころか、子供たちの成長過程で受ける大きな負の遺産、さらに子供たちが成長し、自分の妻や夫を正しく愛せず、親と同じ罪を犯し離婚へ…こういったケースは、世の中に溢れるように起こっています。

最近三冊の本を読みました。一つは親に捨てられた子供たちの心を綴ったもの、次は親が離婚している家庭の子供たちの心を表したもの、三番目は養子として育てられた子供たちの心を表現したものでした。それらを読みながら、わたしの中に一つの思いが出てきました。それは、「もし、親たちが神さまを知っていたらどうなったのだろうか」というものでした。親たちがこの詩篇の記者のように、「彼らのように語ろう」と望んでも、彼らのように語らず主の前に出たならば…さらに、「あなたの子らを裏切ることになったであろう」とあるように、もう少し現在のことから将来へ目を向けることができたならば…、というものでした。そうすれば、このような心に痛みを持つ子供たちをもっと少なくできたのではないでしょうか。

この考え方は、消極的かもしれません。では、これを神さまの律法にあてはめてみましょう。律法の中で一番積極的な目的は、「神さまを愛する」ということです。しかし、律法の記述の半分には「…してはならない」が続きます。律法で「…しなさい(積極的)」は、神さまに近づけるために用いられ、「…してはいけない(消極的)」は、神さまから遠ざけないために用いられています。律法には、積極的表現と消極的表現の両面があります。消極面を失うと、同時に積極面を失うことにつながります。

将来の結果を考えることは、「底をつくる」大事な要素の一つでもあります。たとえば、子供に尊敬されたいと考える親が「子供に教会の牧師や兄弟姉妹の悪口を聞かせる」、あるいは「伴侶の悪口を聞かせ、その子の父・母をけなす」などするとします。果たして、その子供は、クリスチャンになれるでしょうか?そして、その親を尊敬できるようになるでしょうか?いいえ、それは無理なことです。その結果は然りで、自分自身が尊敬を失うだけではなく、子供を神様から遠ざけてしまうことになるのです。

わたしたちの人生には、今わからなくても、将来の結果を予測できることがあります。この作者は、底をつくることから始め、心に思ったことを表現せず、将来の結果を考えました。

霊的の目で見た

「底」をつくった作者は、次に「わたしの目に労苦と映ることの意味を知りたいと思い計った」(16節)と述べています。これこそ、「霊的思考」といえるものです。「わたしの目に労苦と映ること」とは、「肉の目に労苦と映ること(災いや病などの困難など、自分には喜べない嫌なことがら)」であり、「その意味を知りたいと思い計る」とは「肉の目ではなく、霊的に思い計る」ことです。

それまでの彼の心は、「自分が嫌に思うこと(肉)」に囚われていました。しかし今は、起こっている事柄の中に自分を置くことを止め、そこから少し離れたところで問題を見ようとしています。それが出来たのは、底ができたからです。

自分が泥沼に沈み込んでいるときは、ただもがくだけで他には何も見えなくなります。しかし、泥水が首から口に届きそうなときに足が底に着いたとしましょう。すると、その人の精神状態は、沈むだけのときとは違い、かなり冷静に物事を考えることが出来るようになります。「もうこれ以上は沈まない」と分かったときから、次にすべき「脱出」について冷静に考え始めます。そのとき、「労苦と思えることの意味を知りたいと思い計る」ことができるのです。

生身の人間が生きている世界は、「平面の世界=この世(肉)」です。そこでは、感情や本能に左右されることなく、経験や知識をもとに物事を見極め(理知的)、誰もが納得できる理由が備わっている(合理的)べき世界であり、人はそれが現代的であると思っています。しかし、人は合理的な世界に生まれたのではありません。神さまは「土の塵(自然界や両親)」でわたしたちを造り、そこに「いのちの息」を吹き込みました。それは、平面の世界(肉)にいながら立体の世界(霊)に生きることを意味します。その立体の世界こそ、「霊的世界」のことであり、人の支配する世界ではなく「神さまの支配する世界」です。彼は、それまで平面の世界にいましたが、足を底に着けることから冷静に上を見ることができるようになりました。霊的世界に戻ることができたのです。霊的世界は、人の合理的な考えをはるかに超えています。

では、合理的とは、どのようなものでしょうか。それは、「ゴール(目的)までの最短ルートを考え実行しようとする」ことです。平面(肉)の世界における究極的な「目的」は、「生きる」ということにあります。それを突き詰めると、「他者より有利に生きる=欲望」という思考がベースになっていることが分かります。ですから、合理的と呼ばれる世界は、「それぞれが自分を中心とした価値観で過ごす世界」といえます。詩編の作者は、合理的世界に入り込んだとき、他者と自分を比較してしまい、自分に起こっていることが「労苦と映る」ようにしか、見えなくなってしまいました。「自分を守るために神さまが起こしている」などとは、夢にも考えることはできなかったのです。

合理的にこの世で生きようとした人に、創世記のヤコブがいます。長子の特権や父の祝福を奪うことは、実に合理的な判断でしたが、その結果、彼は家を出で行くことになりました。叔父ラバンのところにいた20年間、彼は知恵を最大限に働かせ、最後には叔父の全ての財産を自分のものにしました。しかし、合理的に全てが計画通りに進んだはずなのに、「兄を出迎える」という出来事に直面し、行き詰まりました。彼の人生は、平面の合理的なことによってではなく、立体の霊的なことにより、大事な人生のポイントへと導かれていました。「祝福を奪い家から逃げるとき、天からのはしごが降りてきたこと」(創世記28章12節)、「ラバンから逃げ、兄エサウを前にしたヤボクの川の事件」(創世記32章25節)、共に霊的世界の体験でした。

ニコデモもそうでした。「人は新しく生まれなければ神さまの国を見ることができない」と、主に言われたとき、彼は「人は年を取ってからどうして母の胎内にもどって生まれなおすことができようか」(ヨハネによる福音書3章4節)と、平面の世界において主の言葉を捉えました。だから「それは不可能だ」に思えたのです。しかし、主は「人は水と霊によって新しく生まれることができる」と仰いました。立体の世界から霊の世界に入るとき、行き詰まりはなくなります。

作者は、「底をつくり」そして「立てた」からこそ、「わたしの目に労苦と映る出来事の意味をしるべきだ」と、考えられるようになりました。そして、今まで自分が考えてきたことと違う意味が、この出来事の中にあるのではないだろうか、と思い始めます。これは素晴らしい世界の始まりでした。彼の目は、「平面な人中心のこの世」から、「立体の神さまによる霊の世界」に入り始めたのです。それは、「自分の考えの間違いと不可能を知る」ことでした。それと、同時にわたしたちは、「神さまの思いは人の思いとは異なる」ということも知らなければいけません。では、神さまと人の思いはどのように異なっているのでしょうか。それを主は、「天が地を高く超えているようにわたしの道は、あなたたちの道をわたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。…」 (イザヤ55章8節~)と仰っています。結局のところ、どのように異なっているのか、人にわかることではないのです。だから、人は「もしかしたら、自分の思いと神さまの思いは違うかもしれない…」と考え、踏みとどまる謙虚さが必要になるのです。

皆さんの今までの経験と、この作者の経験をあわせてみるとどうでしょうか。どうか、「彼らのように語ろう」という思いをとどめ、「労苦と映ることの意味」を知ろうとしてください。「平面の世界」から「神さまの世界」に目を移してください。

聖所に入る

わたしたちは問題に出会うと、あちらこちらに相談に行きますが、この作者はそのようにはしませんでした。彼が行ったところは「聖所」でした。神さまは、この世界に聖所をつくられました。

第一番目は、「あなた方は聖霊の宮である」といわれたように、わたしたちの中につくられました。しかし、それだけでなく別の聖所も用意してくださっています。それは、「あなたがたはキリストの体である」といわれた「教会」です。キリストの体である教会が、一人ひとりにとっての聖所でもあります。

彼は、「心を清く保ち…潔白をしめしたが、むなしかった」(13節)というほどに、神さまに人生の全てを賭け生きてきたつもりでした。しかし、大きな失望を経験し、その中で「底をつくり立った」彼には、それまで見えなかったものを見ることができるようになりました。そうです、再び聖所を訪れることができたのです。しかし、そのときに問題があります。それは、「訪れた教会が本当に聖所となっているか」、ということです。たとえば、「礼拝に行けば行くほど問題を抱えて帰ってこなければならない」、「祈り会に行くともっと心がかき乱される」では困ります。このような教会(聖所)に行く意味があるのでしょうか…そのようなことでさらに失望し、完全にこの世の世界に戻ってしまった例も聞きます。ですから「教会」は、一人の人が立ち直り、「神さまは(わたしに対して)恵み深い」といえる「聖所」になっていなくてはいけないのです。

そこで皆さん、このように言わないでください。それは、「信仰とは、神さまと個人の関係ですから、教会に行ってみんなに相談したりするのが聖所に入ることではなく、神さまの前に一人でしっかり立って、直接神さまに祈り慰めをいただくのが信仰ではないでしょうか」と…。

愛する友よ、あなたに質問しますが、あなたにはそれができたでしょうか。それは必ずできなければならないでしょうが、すぐにできる人は誰もいません。それが出来るようになるには、教会に行き兄弟姉妹に打ち明け祈っていただき、みことばの励ましをいただいた後です。教会は、「聖なるところ=聖所」となっていなければならない、とても大切な場所です。

それでは、教会とはどのようなところでしょうか。それは、「そして一同はひたすら、使徒たちの教えを守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた」(使徒言行録2章42節)の中に見出すことができます。教会とは、この4つのあるところです、「この4つがバランスよく適宜にあるところ」が、より良い教会だといえます。

第一番目 「使徒の教え」
これは「聖書」ということです。聖書は、最初から自分だけで読めるものではなく、必ずだれかの手引きが必要となります。それは、「成長するため、神さまの御心を知るため」に必要となる、大切なことです。それを「単なる文字」としてではなく、「霊のもの」として受け取ることから、神さまと自分の関係が始まります。だから教会は、「神さまのことば=メッセージ」として語られる必要があるのです。それは、「人から見た神を説明する神学」ではなく、「神から見た人」についてのメッセージであるべきです。そのメッセージは、神さまの救いと恵みからくる義とともに、自分の罪、汚れ、裁きなどが示されます。決して「安価な恵み」ではなく、「あるときは神さまに怒られ、あるときは愛に包まれる」という経験を伴うものです。これらの経験は、みことばと聖霊の働きによるものであり、メッセンージャーはそのような意味においても、とても重要な役割を担っているといえます。ですから、その担い手のためにもわたしたちは、祈らなければならないのです。
第二番目「相互の交わり」
「交わり」は、とても重要な要素です。教会ほど、社会全体が見えるところはありません。普通の社会での交わりは、主婦は主婦たち、学生は学生同士、社会的地位、知識階級、趣味などにより、それぞれの中で同等の関係にある人たちで均一化されています。しかし教会は、唯一の共通点である「イエス・キリスト」に結びつく人の集まりであり、社会的地位、知識、年齢、老若男女などの違いを超えた集いがあります。「色んな人が集う」ということは、そこには「さまざまな経験がある」ということです。
教会では、時間を超越した交わりがあります。それは、いま現在、詩篇73篇の記者がわたしの傍で自分の経験を語っているように、「メッセージを通し交わることができる」ということです。このような「神さまを中心とした、神さまを基準としての交わり」これこそすべての人に必要なことだ、といえます。特に、神さまが遠く離れて見えている人には、なおさら必要となります。
第三番目「パンを裂く」
キリストの体として互いに仕え合うことです。一つのパンを互いに食べることにより、「同じいのち」を「同じ主の血」により赦された者同士として、受け取ることができます。それは、ただ人同士が一つになることではなく、なによりも「キリストと一つ」になり、その結果「あなたとわたし、兄弟姉妹が一つになる」ということです。共に神さまの家族として、主を崇め互いに愛し合うことが礼拝です。
第四番目「祈り」
祈りは、神さまと一人ひとりの交わりです。そして、「一番難しいこと」でもあります。なぜなら「祈り」には、個人の問題を超えた、教会全体の問題でもあるからです。詩篇の作者も、彼の魂は一人で祈れないほど落ち込み、教会からも離れそうになっていました。しかし、彼は「底をつくり」再び教会に行きました。その教会には、「彼の求める強さと、彼と共に祈る誰か、教会での祈り」があってのことです。
祈り合うことは、ただ「教え合い、励まし合う」というものでもありません。そこには、その人をキリストに向かって背中を押す働きがあります。その時、その人の前に立って引っ張ろうとしてはいけません。そうすると、引っ張った人がキリストを押しのけ、偶像の位置に立つことになるからです。

「ついに、わたしは神さまの聖所を訪れ、…」(17節)は、具体的にいうならば、「教会に入った」と表現できます。ここに入るとき、一人ひとりが「自分のこと、自分に起こっていること、周りのこと」も冷静に見えるようになります。なぜなら、「みことば」があるからです。孤独から解放され「交わり」があるからです。ともに神さまを神さまとしての「礼拝」があるからです。互いに仕え合う「祈り」があるからです。

真理によって、まことの光によって、今まで見えなかった暗黒の世界と将来の希望が見えてきます。そうすると、現在がよりはっきりと見えてきます。自分の「歩みが、過去が、今が、未来が」神さまの光によって見えてくるのです。そうすると、「神さまはイスラエル(わたし)に対して恵み深い」ということがわかります。

人は誰でも、落ち込みます。神さまより、この世が大きく見えることがあります。問題の意味がわからず、むしろ神さまが与える問題の意味の反対のことを考えてしまうものです。そして、「孤独」という敵と戦わねばなりません。「孤独」こそ、サタンが導こうとしている場所です。そこに辿り着くと、正しい判断ができなくなります。そこでは神さまが見えなくなり、「自分とこの世だけ」が見えるのです。それらの人が帰ってきたくなるような、帰ってきたときに回復できるような、再び「神さまが恵み深い」といえるような場所に、教会はなる必要があります。

愛する友よ。あなたは今どのようなところにいますか。詩篇の作者とは関係ないところですか、あるいは同じところですか。少なくとも、全く関係のない人はいません。誰でも少しは同じ霊的立場に立っています。そうだとわかるならば、この作者の経験はあなたの経験です。まずは、「彼らのように語ろう」と言わないでください。次に「聖所」を訪れてください。そうすると、自分と神さまとの間にある問題が見えてきます。そして、自分にとって苦であったものが、実は「必要不可欠な神さまからの恵み」であったことが分かります。

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