キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

Ⅱペトロへの手紙 第3章

Ⅱペトロ3章1節

愛する人たち、私は…二度目の手紙を書いていますが、それは、これらの手紙によってあなたがたの記憶を呼び起こして、純真な心を奮い立たせたいからです。

ペトロは手紙の最後の章で、教会の中に入って来ている終末信仰を否定する者たちに惑わされないよう注意を促します。彼は、父が子たちを心配するように、「愛する者たち(8・14・17節)」と四度も言います。

愛する者たちへのペトロの忠告は、「記憶を呼び起こせ」でした。このことは、一章でも「いつも…思い出させ(12節)」「思い出させ(13節)」「絶えず思い出して(15節)」を繰り返していました。

思い出すとは、前に進むのでなく後ろに戻ることです。進化論の教育を受けた者は、過去より今、今より先に善があると考えますが、キリスト信仰に関しては逆です。なぜならば、「キリストは…多くの苦しみにより従順を学ばれ…完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源」(ヘブ5章9節)となられたからです。それは、あのリバイバルに戻るでも、宗教改革へ帰るのでもありません。帰るところはキリスト御自身へです。そこに完全なお方がおり、そこに戻るとそのお方が私と共に生き、歩んでくださるからです。

友よ。あなたの記憶はどこに戻されていますか。壮年ですか、青年ですか、幼子の時ですか。否、主イエスへ戻ってください。すべての年月が贖われます。

Ⅱペトロ3章2節

聖なる預言者たちがかつて語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた、主であり救い主である方の掟を思い出してもらうためです。

 「人類は終末に向かう、その備えは? 神は私にそれを示してくれた…教えよう」と言う偽り者は歴史上後を絶ちません。それが偶像に仕える者は論外として教会の中にも出てきました。終末論は裁きと直結し人を興奮させ、真理と偽りの判断を難しくさせます。

聖書は終末が3回あると言っているようです。

  • 第一は、主の来臨により十字架による罪の裁きの時
  • 第二は、肉体を脱ぎ捨てた時に神の前に立つ時
  • 第三は、全人類におこる最後の審判の時

この3つの中で最も重要な裁きは、最後の審判よりも、「キリストの十字架による罪の贖い」の裁きです。各自が死んだ時に受ける裁きは、第一の裁き「罪の贖い」を得ているか否かが問われます。さらに、最後の審判も「…書物が開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた」(黙20章12節)。

ここでの書物とは「聖書」であり、行いとは「信仰」を指しています。聖書は「主イエス」について書き、信仰とは「主イエスと私の継がりと交わり」です。

友よ。「使徒たちがかつて語った言葉」は、主が十字架で罪を赦し、復活して命を与えて下さったことです。そうです、主と共にいることが裁きを逃れる道です。

Ⅱペトロ3章3節

まず、次のことを知っていなさい。終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ、あざけって、

終末を恐れるのは、生死を分ける時だからです。人にとって一番の恐怖は死です。その恐怖から逃れるためにさまざまの詭弁が横行します。

「どうして死が悪いものであり得よう。それが到来したあかつきに、我々に感じられることのないものが(ギリシャの哲学者ディオエネス)」。「死は悪いものの中で最も恐ろしいものとされているが、実はなんでもない。なぜなら、我々が存在する限り死はなく、死が来た時には生はないからである(ギリシャ哲学者エピクロス)」。「生というときは生よりほかなく、滅というときは滅のほかなし。ゆえに生きたらばただ生、滅きたらばこれ滅…いとうなかれ(禅家・道元)」。

彼らは、死を自然現象・生物学的現象としてとらえ、理屈や習慣によってごまかすだけです。そうできるのは、人間の本当の「生」が何であるかがわかっていないからです。人の正しい「生」の定義は、「神との継がりと交わり」です。だから人間の「死」とは、「神との断絶」です。そしてそれを「罪」と言います。

友よ。私たちが死を恐れるのは、生物学的現象としての恐れを超えた罪への審判です。「罪の支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命です」(ロマ6章23節)。

Ⅱペトロ3章4節

「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。」

この手紙の後に書かれた黙示録には、「わたしは、すぐに来る」(3章11節・22章7・12・20節)と3度も記されます。初代教会の人々は、昇天した主はすぐにでも再臨されると信じていたようです。

それから二千年過ぎた今日も、主は再臨していません。すると冒頭のように、「主が来るという約束は、どうなったのか」とのつぶやきと不信を発します。しかし、「神の子たちは霊的に、再臨の出来事をすでに体験している」とも言えます。主の再臨は、罪人を取り除き、神の国に入れて完成する時です。

すると、主の来臨と十字架、復活の命の授与、助け主の聖霊を遣わされたことは、個人の中で再臨の御業が実現されたことにならないでしょうか。主の恵みの御業(罪の赦し・復活の命)を体験した者には、主の再臨は今であろうが先であろうが大問題ではなくなります。それは、再臨の主と同じ主を内に持つからです。

しかし、主の救いを受け取ってない人には、再臨の主は恐怖です。そこで、聖書の一部分を引いて、「書いていることは嘘である。だから主の再臨はない」と言っては自分で自分を救おうとします。 

友よ。「初めに言があった。…万物は言によってなった(実現した)」を信じ続けてください。

Ⅱペトロ3章5~6節

天は大昔から存在し、地は神の言葉によって水を元として、また水によってできたのですが…世界は、その水によって洪水に押し流されて滅んでしまいました。

「天地創造以来なにも変わっていない」と言っては、主イエスの再臨を否定しようとする者たちに、ペトロはノアの時代のことを通して反論します。

神は、暴虐に満ちた世界を刷新する計画を、「人の一生は百二十年となった」とノアに告げます。これは、洪水が来るまでの年月であると理解することもできます。ノアは神の言葉に従い、箱舟を造り始めました。ノアが箱舟を造り始めた時、民は多少なりとも神の言葉を信じたかもしれませんが、年月が過ぎるほどに、「洪水は来ない。ノアの言葉は嘘だ」と確信します。しかし神は、百二十年(神の完全数・神の時が満ちた時)洪水が襲い人々は命を失いました。

万物は、「水(命)」で造られ、「水(洪水)」によって滅ぶと言います。この「水」こそ、神の言葉です。人は水(神の言葉)によって神の子に誕生し、水(神の言葉・洪水)によって裁かれます。

友よ。再臨のキリストへの信仰は、「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲むは決して渇かない」(ヨハ4章13~14節)にあります。主が与えるみことばの水を飲み続ける者に、再臨は恐怖ではなく希望になり、待ち望むようになります。そして希望は、現在の時を聖なるものに聖別します。

Ⅱペトロ3章8節

愛する人たち、このこと…は忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで千年は一日のようです。

旧約聖書にも、「千年といえども御目には、昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません(詩90篇4節)とあります。神の世界は、私たちの時間や地理感覚を超えます。それは、神は「霊」であり「真理」だからです。霊と真理の世界は、時間と空間を超えます。

ノアは六千年前、アブラハムは四千年前、ダビデは三千年前、主イエスの来臨は二千年前でした。しかし、六千年であろうとも、今日の出来事と同じになります。それは、過去が現在になり、今が数千年先にもなることになります。「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創15章6節)。義と認められるのは、主イエスによる罪の贖い以外ありませんから、アブラハムが主を信じた時、二千年後に人となって十字架で贖う主イエスに結ばれたことになります。

ノアの箱舟の出来事は、主の二千年前の罪からの贖いという救いの箱舟であり、後の再臨の時の裁きから逃れさせ天国へ入れることと一体化されます。さらに、それが時空を超えるのは、「真理」だからです。真理とは、「普遍的(時間を超える)・有機的(だれにでも当てはまる・ノアにもアブラハムにも私にも)・単純で美しい(愛である)」ものです。

友よ。なによりも、二千年前に来られた主イエスは、昨日も今日も変わりなくあなたの傍におられます。

Ⅱペトロ3章9節

ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。

「ある人たち」とは、終末が来ることをあざける者たちのことです。彼らは、「約束したことを果たせないような神は、神でない」とあざ笑います。しかし、裁きを遅らせているのは、神が愛だからです。神の御心は、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る」ことです。だからこそ、「神が御子を遣わされたのは、世を裁くためではなく…世が救われるため(ヨハ3章16~17節」です。

主の使いがアブラムの所に来て、ロトのいるソドムを滅ぼすと宣告した時、アブラムは進み出て、「あの町に正しい者が50人いたら…45人…40人…30人…20人…10人…いたら滅ぼさないで…」と迫りました。勿論、「正しい者はいない。一人もいない」(ロマ3章10節)のですから、ソドムには裁きの火が下されました。

パウロは、「一人の人(アダム)の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです」と言います。

友よ。神が裁きの日を遅らせるのは、皆が一人の義人、主イエスの罪の赦しを受け取るためです。愛の神は忍耐されますが永遠にではありません。だから一時も早く、あなたの愛するロトを主に連れ出そう。

Ⅱペトロ3章10節

主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は…消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。

「こりゃ大変だ、死ぬのは人さまと思いきや、自分が死ぬとは…」とは故人の歌だそうだが、それは誰とて同じです。主の裁きの日は盗人のように来ます。

「主の日」とは、神が一つの計画から次の計画を実行される日です。全宇宙も自然界も同じ状態ではなく、「主の日」には熱に溶け尽くします。宇宙規模で起こるその日がいつかわかりませんが、それよりももっと重要なのは、自分自身が迎える「主の日」です。

そのことを主は、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」(マル8章36節)と言われました。人は肉体を脱ぎ捨て火で焼かれ(火葬)て土に帰るのは当然ですが、魂が火(裁きの火)で焼き尽くされてはなりません。

火に焼かれるのは、「地とそこで造り出されたもの」です。神は皆に永遠を入れる器を与えましたが、神の命を受け取った者と悪魔の毒麦の命を受け取った者がいました(マタ13章)。神のものだけが天国に受け入れられますが、それ以外は暴かれて捨てられます。

イエスを主と告白している友よ。主の日を畏れても恐れることはありません。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタ28章20節)と言われる神があなたの父だからです。

Ⅱペトロ3章11節

このように、全てのものは滅び去るのですから、あなた方は聖なる信心深い生活を送らなければなりません。

神は目的を持って世界を創造されました。その目的を果たしたならば、手段としたものは不必要になります。私たちの様々の持物も肉体もそうです。

天地創造の目的を創世記が教えています。第一日目に「光あれ」と宣言し、宇宙や太陽や地球、水や食物や動物を次々と造って行きます。そして、六日目に、「神は言われた。我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」(創1章26節)と人を創造されました。

その人間は、「我々に似せて(神と同じ命を持つ者)」、さらに、「我々にかたどって(父と御子と聖霊の三位一体の姿・男と女)造りました。ただし、神の目的は人を男と女に造ることに留めてはなりません。留めると、この世界は人間中心になってしまいます。

神の創造は六日目で終わらず、七日目に進みます。これこそ、神が天地を創造し人を創造された目的です。それは、「第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった」(2章2節)こそ目的でした。

友よ。神が七日目に安息されたのは、創造の激務に疲れたからではなく、「人間と交わるため」です。そうすると、私たちの生きる目的も、「神と継がり交わること」です。交わるとは「愛し合う」ことです。愛には、「あなただけ」という聖さが一番に必要です。

Ⅱペトロ3章12節

神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。

主の日が来るのを待ち望むことはできますが、早めることなどできるものでしょうか。

「神(主)の日」を、終末に焦点を絞ると間違った理解へ走ります。事実、異端でもキリスト教界でも終末信仰を強調し、人々の心を捕らえようとする者が後を絶ちません。また、イスラエル民族の救いを終末に結び付け過ぎる教えも考えものです。

「主の日」の目的は、「神の国の完成」です。そこで主は次のように祈りなさいと言いました。

「御国が来ますように」…御国=神の支配
① 一人一人がイエスを主とする
② キリストの体なる教会が造られる
③ 世界全体が神の支配の中に入る
「御心が地になりますように」
神の御心は一人も滅びないで永遠の命を得ること。そのためには、自分自身が真心から信頼して「天の父よ」と呼び、「御名を崇める」生き方をし、神の国を待ち望みつつ歩むこと。

友よ。神の国を早めることはできます。それは、「御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る」(マタ24章14節)からです。福音を伝えることが、神の日を早めることです。それは、一人でも多くの人が救われることです。それは、全ての人を幸福にすることです。

Ⅱペトロ3章13節

しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。

今の生活が精いっぱいで将来のことなど考えられない、と言う人は世の中に大勢います。しかし、神の子たちには将来が約束されています。神の国が早く来ることを待ち望む信仰には、生きる力が与えられます。 人は、「過去・現在・未来」の時制の中で生きています。その中の、どこに一番影響を受けているかによって生き様が違って来るものです。

過去が大きな人
過去から現在を見ます。親から受けた傷や、厳しかった状況から自由になれません。この者には将来も暗くなります。
現在が大きな人
今がよければ全て善となり、過去も将来も捨て、刹那的な生き様になります。
未来が大きな人(神によって)
未来に希望を持ち、未来から現在を、現在から過去を見ます。過去と現在を未来への必要なプロセスと捕らえます。

次のみことばを以下のように読むことができます。

「信仰(神との交わり)と、希望(約束された神の財産)と、愛(神と隣人との命の交わり)、この三つはいつまでも残る」(Ⅰコリ13章13節)と。

愛する友よ。あなたにとって天国は身近ですか。天国とは、単に楽しい世界のことではなく、愛する人が居るところです。主イエスとの交わりが日常になっているならば、「天国はあなたのただ中にある」のです。

Ⅱペトロ3章14節

だから、愛する人たち、このことを待ち望みながら、きずや汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい。

ペトロは、終末を待つ神の子たちに最後の勧めを与えます。それは、「聖く」生活することでした。

主は山上の垂訓の冒頭、「心の貧しい人々は、幸いである」から始めて、「心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る」と語りました。日々神を見ることができる幸いな人は誰でしょうか。

それは、聖別された生活をする「心の清い者」です。かつて主に用いられた伝道者の伝記に、「…師は、神からの特別な聖別の賜物を受け取った人ではなかった。彼は、大決断をした人ではなく、小さなことにおける決断をし続けた人でした。小さな決断とは、日々、全てのことにおいて神の側を選び取る決断です」と。

多くの神の子たちも教職者であっても、躓いたのは小さな決断からでした。聖別の決断の基準は、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブ11章1節)にあります。 それは、「誰が、望んでいることか」です。信仰とは「自分が神に」望むことではなく、「神が私に望むこと」です。聖別とは、神か自分かの決断に帰します。

友よ。聖別には神をさらに待ち望む力が与えられ、聖別されない傷や汚れは、神の国から逃げ出させます。今日も神を選び取って平和の中を歩んでください。

Ⅱペトロ3章15節

私たちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい。それは、私たちの愛する兄弟パウロが、神から授かった知恵に基づいて、あなたがたに書き送ったことでもあります。

ペトロは、パウロの手紙を目にしていました。パウロの手紙に「忍耐」の言葉が21回あります。パウロは、どこで忍耐を学んだのでしょうか。律法に生きていた彼は、ダマスコ途上で主イエスに出会います。そしてすぐに伝道を始めますが間もなくアラビアに三年退き、さらに14年後に公に活動します。

なぜ彼が17年も必要だったのでしょうか。それはローマ書7~8章から知ることができます。「イエスを信じて救われる」という「信仰の法則(3章)」は、キリストと人を結婚させる出来事でした。行いなくても信じることで、神の子となり神の国の住人になります。

しかし、結婚しても一体となって生きることは次の課題です。彼は、望むことは行わず憎むことをする自分の中に住む罪と戦っていました。その罪とは、「五体の内にある罪の法則」という肉でした(7章)。それを打ち破るのが「霊の法則」でした。それは主イエスと「一つ・一体・共に・結ばれ(6章)」となる「自分の十字架を負う」ことでした。それによって、「今や…イエスに結ばれている者は、罪に定められることはない」と宣言しました。

友よ。肉と霊の戦いは一生続きます。必要なのは忍耐です。忍耐とは我慢ではなく主を見続けることです。

Ⅱペトロ3章16節

彼は、どの手紙の中でもこのことについて述べています。その手紙には難しく理解しにくい個所があって、無学な人や心の定まらない人は、それを聖書のほかの部分と同様に曲解し、自分の滅びを招いています。

「パウロの手紙はペトロにも難しかったの!それで私にも…」と言った人がいます。たしかに、ペトロはガリラヤの漁師、パウロは最高の律法学者でした。

パウロは、旧約聖書の学者でしたがイエスが主なる神であることは理解できませんでした。理解できたのはアナニヤが主から遣わされ、「聖霊の満たし」を祈った時からでした。聖書を理解することは、イエスが神であることがわかることで、それは聖霊によります。

パウロは、聖霊による理解について記しました。

「わたしたちには、…神が『霊』によって…明らかに示し…。『霊』は一切のことを、神の深みさえも究めます。…神の霊以外に神のことを知る者はいません。…霊的なものによって霊的なことを説明する…霊によって初めて判断できるからです。…霊の人は一切を判断しますが」(Ⅰコリ2章10~15節)。

友よ。どうして「霊」のことを理解できるでしょうか。それは、「信仰」によって「みことば」に歩み出すことです。すると「聖霊」はその人に自由に働くことができます。「みことばと信仰と聖霊」は、一体となって、あなたに主イエスを与えます。主を知り主と交わることのできる人、この人が霊の人です。

Ⅱペトロ3章17節

それで、愛する人たち、あなたがたはこのことをあらかじめ知っているのですから、不道徳な者たちに唆されて、堅固な足場を失わないように注意しなさい。

ペトロは、終末に向かっての信仰者の心構えとして、聖い生活と忍耐を上げています。そこで、不道徳な者たちとの付き合いに気をつけるように忠告します。

聖書は、救いは個人的であるが、教会の必要性を強く説きます。「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根差し、愛にしっかり立つ者としてくださる。…教会により、また、イエス・キリストにより…」(エフェ3章17~21節)。

ルツ記に出てくるエリメレクとナオミ家族は、飢饉のためにユダヤのベツレヘムからモアブに移住しました。その結果わずか10年の間に、夫(主・神)を失い、二人の息子たちはモアブの女を妻とし(世に深く根ざし)、彼ら二人も死にます(跡継ぎの死=永遠を失う)。しかし、彼らに移住する必要はありませんでした。ベツレヘム(神の家族・教会)には親戚(贖い人)のボアズ(主イエス)がいたので彼に頼ればよかったのです。ボアズを頼り、彼の家族・教会との交わりの中で十分に飢饉に耐えられたはずです。

神の家族とされた友よ。あなたは堅固な足場(主と教会)を失わないで下さい。神の家族(ベツレヘム)から、多くの兄弟姉妹がモアブ(この世)へ移っていく現状を悲しみ、戻って来られるように祈って下さい。

Ⅱペトロ3章18節

わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい。このイエス・キリストに、今も、また永遠に栄光がありますように、アーメン。

神の子の命は信じるだけで与えられる恵みで、そこには何の行いも必要ありません。しかし、命を持てば自動的に成長するとは限りません。成長は、イエス・キリストとの交わる量と質によります。

ペテロの最後の勧めは。主の「恵みと知識において成長しなさい」です。恵みは、自分で考え行動して得るものではなく与えられて持てるものです。

知識は、恵みを得るために必要な判断を与え、恵みを正しく保ち用いるために必要なものです。 ペトロが恵みと知識が増されることを勧めるのは、知識が恵みへ導き、恵みがさらに深い知識を作り、二つはイエス・キリストの御人格と、彼の御業を受け取るために一体となって働きます。

信仰による恵みは、病気が治り、繁栄し、家族が平和になり、自分も高められるなどでもありません。イエス・キリストと一つとなって生きることです。それは、出来事や不足からの解放ではなく、全てを解放できるお方と共に生きることです。

愛する友よ。これまでペトロの手紙から教えられ導かれたことを感謝します。さらに命の恵みを体験してください。そのために、さらに聖書から御霊の知識を得てください。主イエスに栄光がありますように。

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