キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

Ⅱペトロへの手紙 第2章

Ⅱペトロ2章1節 ①

かつて、民の中に偽預言者がいました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れるに違いありません。

諸々の宗教の教祖や教師たちは、偶像に仕える人々ですから偽預言者とは言いません。偽預言者とは、聖書の神の言葉を偽って語る人々です。

ある人曰く、「偽預言者や異端を研究する前に、『正統な信仰』は何かを学ばねばならない。そして、学ぶだけでなく自分が『正統な信仰者』でなければならない」と。実にこれこそ重要な教えとなります。

  • 正統な信仰とは…聖書を聖霊によって理解すること
  • 正統な信仰者とは…自分の中に神を取り入れるのでなく、神の中に自分が入って生きる人

自分の中に神を取り入れる人は、自分が主であり神を自分の助け主にします。神の中に自分が入って生きる人は、イエスを主として自分が従います。

だれでも偽預言者になることができます。それは、自分の肉を「主」とし、神を「従」とするので、自分の肉を喜ばせるために神の言葉を用いるからです。

エレミヤがバビロン捕囚から70年後に戻る、と言うと、ハナンヤは2年後に帰って来ると言います。エレミヤの言葉は「預言」で、ㇵナンヤの言葉は「予言(自分の考え)」です(エレ25章11節・28章2節)。

友よ。「あなた方の中」ではなく、「あなたの中」に偽預言者は住んでいませんか。ハナンヤではなく、エレミヤとなって神に従ってください。

Ⅱペトロ2章1節 ②

彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を拒否しました。自分の身に速やかな滅びを招いており、

主に「救われたのに、異端に走り、救いを無駄にし、主イエス御自身をも拒否した人々がいました。

ローマ書1章から5章までは原罪からの救いを記しています。それは、「…今や、律法とは関係なく、イエス・キリストを信じることにより…与えられる神の義…。ただキリスト…による贖いの業を通し…無償で義とされる…行いの法則によるのか。そうではない。『信仰の法則』によってです」(ロマ3章21~27節参照)。

そして、ローマ6章からは、次の救いというべき聖別(肉からの救い)を記します。それは、キリストに…結ばれ(3節)・一体(5節)共に(4節・5節・6節、8節…2回・結ばれて(11節)と記されるように、キリストと一つになることによってです。しかし、キリストと一体となることは、「五体の内にある『罪の法則』」(7章23節)が邪魔します。パウロはそれを、「わたしの中に住んでいる罪(肉の罪)なのです」(17・20節)と叫びました。しかし、「霊の法則」が罪と死から解放することができます(8章1~2節)。

友よ。「霊の法則」こそ、「己が十字架を負う」ことです。主を信じることは結婚することと似ています。しかし、結婚してからは、互いに相手に自分を捧げてこそ一体となります。それが、己が十字架です。

Ⅱペトロ2章2節

しかも、多くの人が彼らのみだらな楽しみを見倣っています。彼らのために真理の道はそしられるのです。

主が、「あなたがたの光を人々の前に輝かし…立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるように」しなさいと言いました。

輝かす光とは、人の善行ではなく、主を信じた時に受けた聖霊による行いです。それは、「肉ではなく霊に従って歩む私たちの内に、律法の要求が満たされる」(ロマ8章4節)ことです。

族長ヤコブは、家から逃げる途中で神と出会い御霊を受け取りました。しかしその後二十年間、御霊の導きに従わず自分の肉で生き、二人の妻とそれぞれの召使いたちから十数人の子たちが生まれました。その結果、妻たちは争い、母違いの子どもたちも争い家族は憎しみ合います。やがて、父ヤコブへの反感から、父の愛するヨセフを殺す計画に発展し、殺さないまでも奴隷としてエジプトに売り飛ばしました。ヤコブは神の御霊を持ちながらも肉で生き、「真理の道」を家族から遠ざけ、子どもたちも苦しみました。まさに、「霊によって始めたのに、肉によって仕上げようと」(ガラ3章3節)した結果でした。

しかし友よ。そのヤコブはヤボク川で神と格闘し、腿の関節を外され自分で歩けなくなり(肉に死に)、杖(信仰)に寄り頼んで歩み出し、彼も家族も回復されました。そうです、ここから、今からでも「聖霊によって歩む」ことは遅くありません。

Ⅱペトロ2章3節

彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にします。このような者たちに対する裁きは、…彼らの滅びも滞ることはありません。

「八百万の神」こそ偶像の神々の名を表しています。なぜ八百万もいるかと言えば、人間の数だけ神が存在するということです。アダムの末一人ひとりが、自分が神になろうとしているからです(拙者の独想)。

偶像の神などはもともとおりませんが、人間の欲望が神々を作り出します。すると、神に敵対するサタンが応援に駆け付けます。事実、諸々の神々の中でも奇跡や癒しは起こります。なぜそれが起こるかを次のように説明した人がいます。

「・(点)は一次元、棒は二次元、一次元は二次元に含まれる。三次元は時間と空間の世界(生物)、そこに二次元(棒・物体)は含まれる。霊の世界は四次元、それは時間と空間を超える世界なので三次元(肉体や自然現象)を含まれる。悪霊も三次元を超えた霊の世界にいるので、人に超自然的に係り癒しができる」と。

人の欲望とサタンが一体となった世界は「偽りであなた方を食い物にする」世界です。

友よ。主の最後の晩餐を見てください。主は、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲め」と言い、弟子たちに御自分を食べさせ飲ませました。しかし偽りの神は、「さあ、私の下に来なさい。私があなたを食べ、飲む」と言います。人を食い物にするのが偽りの神々です。

Ⅱペトロ2章4節

神は、罪を犯した天使たちを容赦せず、暗闇という縄で縛って地獄に引き渡し、裁きのために閉じ込め…。

天使たちは、霊的存在ですが神の被造物です。「罪を犯した」とは、天使も「格(人格)」を持ちます。その天使たちの罪は、「かつて、お前は心に思った。わたしは天に上り、玉座を神の星よりも高く据え、…雲のいただきに上って、いと高き者(神)のようになろう」(イザ14書13節)と高ぶったからでした。

天使たちが創造された目的は、「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされた」(ヘブ1章14節)のでした。天使は、神の御心に従い人の救いのために仕えるのが役目ですが、創造主の上に自分が立ち、神として生きようとする罪を犯しました。

ゆえに、「お前は陰府に落とされる」(15節)存在となりました(ただし、堕落天使・サタンが完全に閉じ込められるのはもっと後です…黙20章参照)。そのサタンが生き延びる道は、神の子を罪人とすることでした。そうすれば、神は人を棄てられないので自分も生き延びれると考え、人に罪を犯させました。

しかし友よ。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」(Ⅰコリ1章25節)のです。神は、罪人を救うために、御自分が十字架で引き受けて罪を裁き、人を神の子に戻しました。主の十字架の血潮は、サタンを閉じ込め、あなたを自由にします。

Ⅱペトロ2章5節

また、神は昔の人々を容赦しないで、不信心な者たちの世界に洪水を引き起こし、義を説いていたノアたち八人を保護なさったのです。

ペトロは、堕落天使なるサタンへの裁きを記した後、ノアの時代に箱舟に入らずに救いを失った人々に言及します。彼らは、神の恵みを拒んだ人々でした。聖書で告げる裁きとは、自分の不養生や不始末に対してではありません。すなわち、「律法による裁き」ではなく、神が備えた恵みを受け取らない裁きで、「恵みによる裁き」とも表現ができます。

神が民に箱舟を造れと命じ、それに応えなかったから裁かれたのでなく、神が造った箱舟(恵み)に入らなかったから裁かれたのです。箱舟を造ったのは、ノアとその家族で、その間彼らは「食べたり、飲んだり、めとったり嫁いだり」(マタ24章38節)していました。

ノアの姿はキリストを啓示します。父なる神は、御子を人として遣わし、教え、力ある業を見せ、十字架で罪を赦し、復活の命を与え、昇天し、聖霊を遣わし、教会を造りすべてを整えました。ノアの箱舟こそ、キリストによって用意された救いの箱舟・教会です。裁きの洪水(裁き)と船の中(救い)を分けたのは、船の船腹に塗られたタール(創6章14節)でした。やがて「タール」が「贖い」の言葉になったと聞きます。

友よ。行いによる裁きではなく、恵みによる裁きを理解し、神の用意した恵みを拒まないでください

Ⅱペトロ2章6節

また、神はソドムとゴモラの町を灰にし、滅ぼし尽くして罰し、それから後の不信心な者たちへの見せしめとなさいました。

共同訳聖書は、「偽教師についての警告」と2章の前に見出しを入れました。偽教師についての教えなのに、なぜソドムとゴモラが出てくるのでしょうか。

飢饉でエジプトに下ったアブラムは、妻サラを妹と偽る罪を犯しますが、神の哀れみにより、むしろ多くの財産を得てカナンに戻りました。多過ぎる財産から、両家に争いが起こり、分かれることになりました。この時アブラムは、「あなたが左に行くなら…私は右に」と言い、先にロトに選ばせました。ロトは、「…目を上げて眺めると、ヨルダン川流域の低地一帯は、…主の園のように、エジプトの国のように、…潤っていた」(創13章9~10節)豊かな所を選びました。

エジプトから帰るアブラムの心を掴んだのは、多くの財産ではなく、自分の罪を赦したもう神の愛でした。しかし、ロトに神の赦しの愛はわかりません。彼の心はエジプトに下った時見たエジプトの繁栄であり、今求めているのも多くの財産と繁栄でした。

友よ。神の子にとっての偽教師は人物だけではありません。物質的な豊かさ、高学歴、快楽、ソドムとゴモラも偽教師となります。しかし、エジプトもソドムとゴモラも滅びて灰になりました。「身を慎み、目を覚ましていなさい」(Ⅰペテ5章8節)。

Ⅱペトロ2章7~8節

しかし神は、…不道徳な者たち…によって悩まされていた正しい人ロトを助け出されました。 なぜなら…彼らの中で生活していたとき…心を痛めていたからです。

繁栄したソドムとゴモラを自ら選んで住み着いたロトですから、冒頭のみことば、「正しい人ロト…心を痛めていた」には少なからず違和感を覚えますが。

アブラムは、「あなたが左に行くなら…私は右に行こう」と提案します。ロトが低地を選んだ後、神は「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見える限りの土地をすべて、わたしはあなたに永久に…与える」(創13章9節)と約束します。

そこで彼が選んだ所は、ロトの低地とは反対の高地ヘブロンでした。その場所で、「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創15章6節)と記される「信仰義認」の聖地となりました。ソドムは、北の王たちに滅ぼされますがアブラムの僕たちによって奪還されます。叔父の功績によりロトは「ソドムの門に座る者(指導者)」(19章1節)となっていました。彼は、神の御業を体験しながらも、繁栄と歓楽の中にいることに悩まされていました。

神の御業を見ながらもこの世(ソドム)に座る友よ。ロトの迷いと悩みは、アブラハムの祈りから起こされました。誰かがあなたのために祈っています。誰よりも、「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」方は主です(ルカ22章32節)。

Ⅱペトロ2章9節

主は、信仰のあつい人を試練から救い出す一方、正しくない者たちを罰し、裁きの日まで閉じ込めておくべきだと考えておられます。

主の祈りの中の最後の祈りが、「私たちを誘惑に遭わせず、悪しき者から救ってください」です。(口語訳と新改訳は「試みに遭わせず」)。

聖書理解において、誘惑と試練を弁えることは大事です。「試練から救い出す」を「試練に遭わせない」としては間違います。「神はアブラハムを試みて言われた」(創22章)ように、神は人を試みられるお方です。

神がアブラハムを試みたのは、イサクは神によって与えられた「神の子」ですが、いつしか「あなたの息子、あなたの愛する独り子」とあるように、「あなた(アブラハム)」の所有になっていました。霊(神)のものが、肉(人)のものに代わろうとしていました。神の声を聞いたアブラハムは、「次の朝早く」イサクを燔祭とするためにモリヤに出かけました。その所で、イサクに代わる雄羊(贖いの主イエス)を身代わりに受け取り、アブラハムとイサクは解放されました。

友よ。冒頭の、「試練から救い出す」は、「信仰深い人は、試練を早く通り越す」としてはどうか。アブラハムは「次の朝早く…三日目に」通り越しました。しかし、試練を避けると、「裁きの日まで」持ち越すことになり、信仰の成長、喜び、確信を失います。早く試練を受け取り、主に委ね、霊の解放を得てください。

Ⅱペトロ2章10節

汚れた情欲の赴くままに肉に従って歩み、権威を侮る者たちを、そのように扱われるのです。彼らは、厚かましく…栄光ある者たちをそしってはばかりません。

この手紙の10節から20節にかけての文面は、偽教師たちに対するペトロのやるせない感情が噴き出ているようにも見えます。それだけ多く、大きな影響を与える偽りを告げる人々がいたことが察せられます。

偽教師たちの根本にあるものを、ペトロ自身が体験していました。それは、主イエスが死と復活を予告した時、「すると、ペトロはイエスをわきへお連れしていさめ始めた。イエスは振り返って、…ペトロを叱って…『サタン、引き下がれ、あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている』」(マコ8章32~33節)と。

彼が主に忠告したのは、主ではなく自分を愛していたからです。それは、主イエスに死なれては、ここまで従ってきた自分の今までと将来が失われるからです。自分の理想の神、自分のための神にすることこそ、「神のことではなく、人間のことを思う」ことです。

モーセの十戒の1~4戒までは神を愛すること。その後に人間同士のことが記されます。主の祈りの最初の三つの祈りも、「『あなたの」…御名・御国・御心」とあり、次に「私たちの」が続きます。

友よ。偽教師の根本は、神よりも自分(人)を優先することです。偽教師は外にいる人々でもありますが、自分の内側にも常に存在して自己主張をします

Ⅱペトロ2章15節

彼らは、正しい道から離れてさまよい歩き、ボソルの子バラムが歩んだ道をたどったのです。バラムは不義のもうけを好み、

偽預言者を語るに、民数記22章からのバラムを登場させます。彼は興味ある預言者でした。モアブの王バラクは、エジプトから上ってきたイスラエルを恐れ、バラムを呼び呪いの言葉をかけるよう頼みます。しかし神はバラムに、「あなたは…この民を呪ってはならない」と言います。そこで、バラムは主を畏れ「家に満ちる金銀を贈ってくれても…主の言葉にさからうことは…できません」と返答しました。

ところがその夜、「神はバラムのもとに来てこう言われた『これらのものがあなたを呼びにきたのなら、立って彼らと共に行くがよい。しかし、私があなたに告げることだけを行わねばならない』」と。しかしこの幻は、金銀に目がくらんだ彼の偽りでした。

その証拠に、彼がロバに乗って行く途中、主の御使いが立ち塞がります。欲にかられた彼には見えませんが、ロバには見えました。前に進まぬロバを何度か打ちたたいた時、ロバがものを言いだしました。バラムは、神の声を聞きつつも欲得に負け、神の名を用いて「不義のもうけ」を得ようとしました。

友よ。いつでもバラムの心が出てきます。バテシェバ事件の後のダビデのように、「神よ。私の内に清い心を創造して下さい(詩51)」と祈らねばなりません。

Ⅱペトロ2章16節

それで、その過ちに対するとがめを受けました。ものを言えないろばが人間の声で話して、この預言者の常軌を逸した行いをやめさせたのです。

神を利用して「享楽にふけり・はめを外し・姦通相手を探し…(13~14節)」を求めることへの警告が続きます。その者への神の取り扱いについて、ここでも偽預言者になりかかったバラムを引き合いに出します。

「行くな」との神の声を聞いたのに、下心に負けて出かけたバラムの前に、抜き身の剣を持つ天使が道を塞いでいました。ロバには見えても彼には見えません。それで前に進まないロバをバラムは打ちます。するとロバがものを言い、やっと彼に天使が見えました。その天使は、「私は妨げる者として出て来たのだ」と。

「神に従って(神が語ることしか言わないと言いながら)、あわよくば自分の肉の満足も得たい(財を得たい)」心を、主は「だれも、二人の主人に仕えることはできない。…あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタ6章24節)と戒められました。

友よ。自分の計画が挫折し、自分の思い通りに行かない時、それは天使が立ちふさがっているのではないですか。また、「ものを言えないロバ」は、私たちの周りにも多くいるものです。例えば、病気・事故・知らない人・自然現象・本や新聞の記事…なども、神の御心を話すロバです。何よりも、神はバラム(あなた)を追いかけて、道を塞いでも守ろうとしています。

Ⅱペトロ2章18節

彼らは、無意味な大言壮語をします。また、迷いの生活からやっと抜け出て来た人たちを、肉の欲やみだらな楽しみで誘惑するのです。

キリスト教の歴史の中で、様々のムーブメントが起きては消えるのを繰り返しました。その中でいつでも顔を出すのは、癒しや悪霊の追い出しや繁栄信仰です。

聖書には、主と弟子たちが病をいやし、悪霊を追い出した記事が沢山あります。事実、肉体を持つ人間にとって癒しや奇跡や繁栄は切実な欲求です。そこで、「聖霊の御業は初代の教会で終わった」と言うのは論外ですが、「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い…もっと大きな業を行う」のみことばを引用し、聖霊の御業をアッピールし過ぎるのは、「迷いの生活から抜け出て来た人たちを、肉や欲やみだらな楽しみで誘惑する」ことになりかねません。

癒しや奇跡は、主からの恵みであって、それが目的ではなく、恵みは命へ導くための手段です。それは、御霊の賜物は御霊の実(神の子の命、成長、神の愛)を造るための手段であるのと同じです。

先に救われた友よ。罪とこの世から救い出されて主イエスの元に来た人々を、「救い主」から、救い主の「恵み」に目を移させてはなりません。神がすべての人に与えたい恵みは、「神の賜物は、わたしたちの主イエス・キリストによる永遠の命なのです」(ロマ6章23節)。主にだけ目を向けさせてください。

Ⅱペトロ2章19節

その人たちに自由を与えると約束しながら、自分自身は滅亡の奴隷です。人は、自分を打ち負かした者に服従するものです。

偽預言者や偽教師たちの言葉は、一見幸福や恵みを与える教えに聞こえます。ただしそれは、その人の肉で感じられる恵みや幸福のことであって、肉を助長して不自由にし、むしろ罪の奴隷に導きます。「偽預言者たちは世に属しており、そのため、世のことを話し、世は彼らに耳を傾けます」(Ⅰヨハ4章5節)。

主の器か偽者かは主の祈りによっても判断できます。

  • 「天にいます父よ…」これは偽預言も信じています
  • 「あなたの御名が崇められるように…」(偽)私の名前(存在)が認められるように
  • 「あなたの御国(支配)が来ますように…」(偽)私の支配が及びますように
  • 「あなたの御国(支配)が来ますように…」(偽)私の支配が及びますように

(注)日本語聖書には「あなたの」がないのが残念。「あなたの」が大切な祈りの意味を持ちます。

友よ。彼らは、「主よ、主よ」と言いますが、本心は「私が、私が」ですから、サタンに打ち負かされ服従しています。「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです」(一ヨハ4章1節)。それは、「神か」「私か」によってです

Ⅱペトロ2章20節

主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、…後の状態は、前よりずっと悪くなります。

主イエスが人として来られ、弟子たちと寝食を共にし、教え、病の癒しや力ある業を行い、十字架で罪を赦し、復活して昇天し聖霊を遣わされました。

イエスを主とする福音は、皇帝を主とするローマ帝国の迫害を受けますが、弟子たちは命を賭けて福音を伝え続けました。迫害はむしろ福音の真実を実証し、キリスト教はますます広まって行きました。 ついにローマ帝国は、キリスト教を313年に公認、392年に国教に定め、新約聖書も完成しました。

しかし、サタンの攻撃はここから始まりました。福音はローマ帝国の組織に閉じ込められ、500年に入り、聖書はラテン語のみが許可され、ほんの一部の人だけのものとされました。そこから暗黒の中世が千年続きます。この暗黒こそ、みことばの光なる聖書が隠され、主イエスが見えなくされた年月でした。

命がけの信仰は、ローマをキリスト教国にするほど燃えましたが、その後の千年間は世に「巻き込まれて打ち負かされ…前よりずっと悪くなり」の現実でした。

友よ。「…この世と妥協してはならない。…心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨で…何が善で…、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである」(ロマ12章2節)。

Ⅱペトロ2章21節

義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったであろうに。

義の道を知りながら、間違った方向へ行き続けるのであれば、むしろ義の道(神の救いの道)を知らなかった方がましである、と単純に読んではなりません。

なぜ、義の道から離れるのか。もちろん神よりも自分の道を選んだからですが、さらなる原因は「正しい義の道」を本当は知らなかったからでは。それはまた、「義の道を正しく教えなかった」から、とも言えます。 聖書は義の道を教えます。

出エジプト記では、

● エジプト

この世・パロの支配、罪の奴隷、死

● 紅海を渡る

信仰告白、洗礼、神の子となる

● 荒れ野

神の子の命を持つが肉との闘い、律法による統制、モーセへの反抗、エジプトを慕う

● ヨルダン川を渡る

肉に死んで霊に生きるためにカナンへ(聖霊に満たされた生活に移る)

「第一の義の道」は、エジプトで過ぎ越しの血で贖われ、紅海を渡り荒れ野に入ることです。しかし、荒れ野では肉との闘いには勝てません。そこを早く出てカナン(聖霊の満たされる生活)に行く必要があります。そこを教えることが「二番目の義の道」です。

愛する友よ。洗礼を受けて教えられたのは、礼拝順守・奉仕、献げ物などのことでしたか、それとも自分に死んでカナンに入るヨルダン川を渡ることでしたか。

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