キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

Ⅱペトロへの手紙 第1章

Ⅱペトロ1章1節

イエス・キリストの僕であり、使徒であるシメオン・ペトロから、私たちの神と救い主イエス・キリストの義によって、私たちと同じ尊い信仰を受けた人たちへ。

この手紙は、第一の手紙に比べると「何時、どこで、だれに」などが明確でありません。しかし、「聖書は全て神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」(Ⅱテモ3章16節)とあるように、人の業を超えた神の手紙です。

全ての神の子は、使徒たちと同じ「義(救い)」と「信仰」を聖霊によって受け取っています。そこで、使徒が受けた聖霊は大きく、私のは小さいなどと言ってはなりません。同じ聖霊です。またある人は、「主よ。もっと聖霊をください」と祈りますが、それは助け主なる聖霊が内住しているのに、他の聖霊を求めることと同じでこれも違います。

聖書は、「神の聖霊を悲しませてはいけません」(エフェ4章30節)と記します。悲しませるとは、聖霊を信頼せず、自分を主として生きることです。それは聖霊を自分の自我で覆って閉じ込めることです。すると、神の力を持つ聖霊を内住させながら、肉で生きる世の人と何ら変わらない生き方になります。

友よ。使徒たちと同じ御霊を受け取り、「イエスを主」と信じる同じ信仰を与えられています。賜物は違っても、受け取っている主イエスは同じです。「我生くるにあらず、主我が内に生くる」者となりましょう。

Ⅱペトロ1章2節

神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。

ペトロの第二の手紙の主なメッセージは、冒頭の、「主イエスを正しく知ることによる恵みと平和」です。二章より違った教えについて記しますが、それに直面する前に、神の子たちはどうあるべきか、むしろ積極的にどのようになるべきかを一章で語ります。

古今東西いつも偽物が台頭しますが、それに対抗する方法も、消極的と積極的の二通りあります。なによりも、「ただしく見抜く」ことが必要です。その後、消極的対処は避けること、積極的対処は神の武具を身に着け、戦えるような自分自身に成長することです。

それを見抜くには、正しい基準が必要ですが、それこそ「真理なる主イエス」です。さまざまの本やメッセージ、人々の証しを聞いても成長しない人もいます。その人は、神が自分に語られた言葉として受け取らない人です。神の言葉として受け取るとき、聖霊が喜んで助けて主を知らせてくださいます。

友よ。原語で「知る」は、「体得する」だそうです。体得とは、その人と交わり、見て、聞いて、真似し、教えられること、古人たちがいう「体で覚える」ことです。多くの教師たちは「私の言うことを聞きなさい」と言いましたが、主は「私に従って来なさい」と言いました。「聞く」は知識で理解することですが、「従う」はみことばに自分を委ねることです。

Ⅱペトロ1章3節

主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。

神の子たちが命と信仰を持てるのは、主イエスによって与えられたからであると言います。日本には「八百万の神」がいると言いますが、本当は人に理解できる神と、理解できない神の二種類です。、前者は諸々の偶像で、後者は三位一体の真の神です。

聖書の神を人は理解できません。理解できるためには、同じ「次元・能力・経験」が必要です。偶像の神は、木や石や書などで造られたもの、すなわち人が造った神々(商売繁盛・無病息災・学問・安産…)なので理解することができます。しかし、真の神は、人の次元、能力、経験をはるかに超えたお方ですから、人には理解できません。だからこそ、神です。

聖書は、「啓示」の書です。啓示とは、神が人に理解できるように御自分を示されることです。その最大の啓示こそ、神の御子イエスの来臨でした。「言(神)は肉(人)となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(ヨハ1章14節)。

友よ。「命と信心」は、あなたの中にあるのではなく、神の御子イエスとの御霊による継がりと交わりの中にあるのです。だから、主は、「わたしにつながっていなさい」と言い続けています。

Ⅱペトロ1章4節

この栄光と力ある業とによって、…あなたがたがこれらによって、情欲に染まったこの世の退廃を免れ、神の本性にあずからせていただくようになるためです。

主イエスと聖霊は一つとなり、私たちが「義・聖・愛・永遠」なる神の本性にあずかるように働いてくださいます。しかし実際は、神の子の命を得ているのに、情欲に染まった世の退廃から抜け出せずにいます。それは、神の子の命をもっていても、なおも肉(古い人)が存在し、自分を主とするからです。 

主は助け主・聖霊を送ってくださいました。しかし、聖霊は古い人の願いを助ける助け主ではありません。むしろ、古い人を殺すことこそ聖霊の最初の働きです。そして、神の本性に似た新しい霊の人に作り変えようとします。「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和」(ロマ8章6節)ですから、肉と霊とは対立します。そこで、肉と霊のどちらを選択するかは、その人に任せられています。「肉に従って生きるなら、あなた方は死にます。しかし、霊によって体(肉)の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます」(同13節)。

友よ。パウロは「命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放した」(同2節)と宣言しました。その霊の法則とは、「自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救う者は…失い、私のため…自分の命(古い人)を失う者はそれを救う」とある、「自分の十字架」です(マコ8章34節~参照)。

Ⅱペトロ1章5~7節 ①

あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。

神の子が神の品性をもって生きるために、「力を尽して信仰には徳を…知識…自制…忍耐…信心…兄弟愛には愛を加えなさい」と勧めています。

ここに記される徳、知識、自制、忍耐などの品性を、「信仰」に加えることの勧めです。それは、信仰を豊かで強固にするためです。「加える」は、コーラスを結成する人が、より良い声の持ち主を見つけ、メンバーに「加える」ことから出た言葉だと聞きます。

信仰は、神の賜物ですが人格と密接にかかわります。信仰を得ても、正しい知識がないと間違います。知識は高慢にすることもありますから自制が必要です。さらに忍耐、兄弟たちへの愛、何よりも神の愛を求めてこそ、強固で豊かな信仰になります。ただし、信仰を豊かにすることは、奉仕や賜物を多くいただくためではなく、「わたしたちの主イエスを知るようになる」」(8節)ことが目的です。

友よ。あなたの信仰は豊かですか。貧しいならば、加えるべきものを持たず、狭い教会の池の中の蛙になっているのでは! 神は御自分の器なるしもべたち、真理を解く本やメッセージなどを数多く用意しています。数多くの賜物を利用して、もっと霊的なよきものをあなたの信仰に加えてはどうでしょうか。

Ⅱペトロ1章5~7節 ②

あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。

「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ」(エフェ4章5節)とあります。聖霊の賜物に「信仰」がありますが、これは特定の人が持つもので、大方の人は「信仰は一つ」とある同じ信仰を持つことになります。しかし同じ信仰でも、それに加えるものによって「強い・弱い」が出てきます。ペトロは、強い信仰にするために加えるものを記しました。

  • 信仰に徳…人格全般を指します。神の御霊は人の人格を器として働きます
  • 徳に知識…正しい判断力
  • 知識に節制…自己制御
  • 自制に忍耐…不屈の態度
  • 忍耐に信心…神を畏れる心
  • 信心に兄弟愛…相互の思いやり
  • 兄弟愛に愛…神の愛(愛はすべてを結ぶ帯)

善きものが加えられた信仰は、兄弟たちへの愛になり、さらに神の愛(アガペー)に至ります。信仰の実は、「異言…預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識…山を動かす信仰を持っていようとも、愛が無ければ空しい」(Ⅰコリ13章1~3節)とあるように「愛」です。

友よ。信仰はあなたを偉大な者ではなく、神と人の前に遜った人にするのです。主が僕の身分にまでなられたのは、私たちを愛するためでした(フィ2章参照)。

Ⅱペトロ1章8節

「これらのものが備わり…豊かになるならば、あなたがたは怠惰で実を結ばない者とはならず、わたしたちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう。

これらのものと言われる、「信仰、徳、知識、自制、忍耐、信心、兄弟愛、愛」などは、努力なしに自動的に備わるものでありません。身に着けるためには、祈りと共に、力を尽し、心を尽くしてこそ得られます。

聖書に登場する人の中で、だれよりもよく備えた人の中にヨブがいます。彼は、「無垢で正しい人で神を畏れ、悪を避けて生きていた。…彼は東の国一番の富豪であった」(ヨブ1章1~3節)。しかし、ある時から神の試みに合い、財産も、子供たちも、自分の体の健康さえも失います。さらに、三人の友人たちが、この時とばかりヨブの信仰が間違っていたからだと責めます。正しい者が、しかも神に従ってきたものがなぜ苦難に合うのか、との疑問不可解さが、人類の永遠のテーマになりました。

ヨブが主の試みを受けたのは、彼は「これらのものを多く備えた信仰者」でしたが、いつしか、「キリストを知る」以上に、自分を知るようになりました。「知る」とは一体化されることです。彼は、「自分の受けている恵みは、私の信仰による」と…間違いました。

友よ。神の恵みは、「キリストを知る」ためであって、自分の信仰を誇り頼みとするためではありません。信仰に伴う努力は、キリストを知るためです。

Ⅱペトロ1章9節

これらを備えていない者は、視力を失っています。近くのものしか見えず、以前の罪が清められたことを忘れています。

この手紙に入り「これら」という言葉が4回繰り返されます。それは、神と主を知り交わる信仰のことであり、霊の世界を認識し見ることでもあります。

「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身も明るいが、濁っていれば、全身も暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」(マタ6章22~23節)とあります。見るには、澄んでいる目と光が無ければなりません。澄んだ健康な目には、神も罪もはっきりと見えます。

王に一万タラントの借金をしていた家来がいた。持ち物も家族も売って返すように命じるができないので、哀れに思って赦した。赦された者が帰る途中、百デナリオン貸していた家来に出会い、返せないとわかると牢にまで入れてしまった(マタ18章参照)。それを聞いた王は怒り、その人を牢役人に引き渡した。

この問題は、百デナリオン貸していた僕にした仕打ちが悪かったのでなく、自分が赦されたことを忘れたことです。かつて十字架によって赦された罪が見えなくなったので、隣人の罪だけが見えたのです。

友よ。信仰の視力とは、神に向かう目の角度のことです。自分の目を鍛えて神を見るのでなく、神に目を向けることで神が目を健康にしてくださるのです。

Ⅱペトロ1章10節

だから兄弟たち、召されていること、選ばれていることを確かなものとするように、いっそう努めなさい。これらのことを実践すれば、決して罪に陥りません。

パウロは、ローマ書1章18節~2章で、人の罪(原罪)と裁きについて記しました。3章に入り、人の救いは、「イエスを信じる者を義とされる…『信仰の法則』によると言い、さらにその者は「聖霊で証印を押された」(エフェ1章13節)とも言いました。

しかし、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」(Ⅰコリ3章16節)とコリントの教会に問うたのは、「聖霊の支配」ではなく、「肉の支配(罪の法則)」にある者たちがあまりにも多かったからです。

パウロ自身、内なる人としては、神の律法を喜んでいるが、私の五体の内にある「罪の法則」のとりこにされ、…私はなんと惨めな人間なのでしょう(ローマ7章22~23節参照)と告白します。彼は、聖霊の導きに従いたいが、『罪の法則(自分を主とする肉)』から抜け出せなかった信仰の戦いの経験を記しました。しかし8章に入り、「今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められない。…『霊の法則』によって」(1~3節参照)と歓喜の声を上げます。

友よ。『罪の法則』打ち破る『霊の法則』とは、自分の十字架です。「イエスに結ばれて」とは、「主の十字架」に対し「自分の十字架」を差し出すことです。

Ⅱペトロ1章11節

こうして、私たちの主、救い主イエス・キリストの永遠の御国に確かに入ることができるようになります。

見えるもの(自然界)は見えないもの(霊の世界)から出てきたとあります(ヘブ11章3節参照)。そこから逆に、見えるものから見えないものを見ることも可能です。神はその一例として、「トンボとヤゴ」を通して人の人生を教えています。

トンボは空気の世界(霊の世界)を飛び回り、池(自然界)の中に卵を産み落とします。やがてその卵は孵化してヤゴになります。人の誕生です。

ヤゴは何度も脱皮を繰り返します。小学生になる、これ一つの脱皮です。中学、高校、大学、社会人、仕事、結婚、子供の誕生、家を持ったなども人生の脱皮です。ヤゴは小魚も食べ、エサが無いと共食いをするどう猛性は、殺人まで犯す人間と同じです。

しかしヤゴは、何度脱皮しても池の中(自然界)では死にます。ヤゴは羽化してトンボになり空気(霊の世界)の世界に入って救われねばなりません。そこで、水の中(この世)のもの(健康・富・宗教…)にしがみついても羽化(復活)はできません。

友よ。ヤゴがトンボになるためにしがみつく棒は、主イエスの十字架のみです。この十字架こそ人を自然の生命から、霊の命へ移す唯一のものです。「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使4章12節)。

Ⅱペトロ1章13~14節

わたしは、自分がこの体を仮の宿としている間…。自分がこの仮の宿を間もなく離れなければならないことを、わたしはよく承知しているからです。

「水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息(霊)を吹き入れられた」(創2章6~7節)のみことばは、人の何たるかを良く教えています。

水の中のヤゴは、何十回脱皮を繰り返しても土に帰るほかありません。同じく、人も成長し、成功し、より多くの人々と交わっても、最後は土に帰ります。土の塵で造られた人の体と心は、「地下から湧き出る水(人間同士の交わり・食物)」によって支えられます。しかし、人の本当の命はそこにはありません。肉体は心の器、心は人のまことの命である神の「命の息(霊)」を入れるための器です。

イサクに生まれた双子の兄エサウは、猟から帰り空腹に負けて、「長子の権利などどうでもよい」(創25章32節)と言って、器と命、手段と目的を間違いました。目的は命であり、器は手段であり仮の宿です。

友よ。ペトロは、「この体を仮の宿」とし、「この仮の宿を間もなく離れる」とも言いました。人生の取り返しのつかない悲劇は、命と器、目的と手段を間違うところで起こります。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる」とある原点を見失わないでください。

Ⅱペトロ1章15節

自分が世を去った後もあなたがたにこれらのことを絶えず思い出してもらうように、わたしは努めます。

死と隣り合わせの迫害の中にいたペトロは、自分が死んだ後にも、イエス・キリストを思い出してもらえるように生きていました。

人には三つの時計があります。

自分時計
全ての基準が自分。24時間人生の1時間が自分の全てで、目先だけしか見えません。
世間時計
世間に自分を合わせる人生。自分を少し超え、子や孫までの時空で計算します。
永遠時計
神が基準。その時空は、自分の死を超え、子や孫の死も超え永遠の神の国です。

エジプトの宰相となったヨセフの遺言は、「私は…死にます。…神は必ずあなたたちを顧みて…この国からアブラハム…に誓われた土地に導き上ってくださいます。…そのときには、私の骨をここから携え上ってください」(創50章24~25節)でした。彼は、エジプトに豪勢な墓を造り功績を誇ることもできました。しかし、自分の墓をエジプトに造り、民がここに居着くことを恐れ、ミイラにして保存し出エジプトの時に携え行くように命じました。

友よ。墓地が不要というのではありません。墓地を造るならば、自分ではなく主イエスを表す十字架とみことばを刻むのはどうか! ヨセフやペトロと同じ永遠時計を腕にはめて(支配されて)生きてください。

Ⅱペトロ1章16節

私たちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、私たちは巧みな作り話を用いたわけではありません。私たちは、キリストの威光を目撃した…。

新約聖書がまとめられるまで、さまざまの書簡や文章が行き交いました。そして、聖典、儀典、外典と分けられて新約聖書が定められました。

聖典に入れる基準は、十二使徒たちが書いたものか否かだったと聞きます。主は荒れ野の試みの後ガリラヤ地方に行き、最初にペトロとアンデレ、次にヤコブとヨハネたち十二人を選び、使徒(遣わされたものの意)として三年半寝食を共にしました。彼らは、主イエスの言葉を直に聞き、病が癒され、悪霊が追い出される瞬間を目の当たりにしました。特にペトロは、変貌の山でもゲッセマネの園でも主の傍におり、主の姿をだれよりも近くで見ていました。

旧約の預言者たちは霊において神を見ましたが、使徒たちは人性と神聖の両方を持つ神と共に生活しました。従って、旧約聖書の理解でも、「使徒たち」がどう理解していたかが重要です。旧約聖書を正しく理解するためには、パウロ書簡やヘブライ人への手紙をもってこそ、霊的に正しく理解をすることができます。

友よ。私たちの信仰の要は、使徒たちの教えに戻ること、と言えます。それは、使徒たちが理解したキリストを私たちも信じることです。そのためには、聖書を毎日毎日読み続けることが基本です。

Ⅱペトロ1章17節

荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。

旧約聖書はやがて来られる神・主イエスを語り、新約聖書は人となって来られた神を語ります。「聖書はわたしについて証しをするものだ」(ヨハ5章39節)。

ペトロは、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」との父なる神の声を、変貌の山と言われるヘルモン山で、他の二人の仲間と共に聞きました。その時、モーセとエリヤが現れて主と語り合っていました。それは、主がここからエルサレムへ、そして十字架へ向かう決意の時でした。

モーセ(律法)
「主よ。私たちが語ったことの一点一画も失われることなく成就するのはあなたです。」
エリヤ(預言)
「主よ私たちが預言したのはあなたです。これからあなたは十字架に進まれ、旧約聖書を完成してくださるのですね。」
-以上著者の推測-

旧約聖書の骨格は律法と預言でした。モーセとエリヤの登場は、旧約聖書全体の登場でした。変貌の山は、父なる神、御子イエス、旧約聖書、そして使徒たちに書かれる新約聖書、そしてこの場を導いている聖霊、聖書の全てが集合した時でした。

愛する友よ。あなたも「これはわたしの愛する子(主イエス)、わたしの心に適う者」との声が聞こえませんか。そうです、それは聖書全体から響く声です。

Ⅱペトロ1章18節

わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。

変貌の山で三人の弟子は、「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」のを目撃しました(マタ17章2節)。

アドニラム・シャドソンが帰国して小さな町に友人を訪ねた時、道端で遊んでいた少年が彼の輝く顔を見て心を奪われた。その少年は、後にかの有名な説教家となったチャールズ・G・トランブルでした。

色には、「減色混合」と「加色混合」があります。減色混合は絵具の世界で、赤、青、黄色を混ぜると黒になります。加色混合は光の世界に起こる現象で、赤、青、緑を混ぜると白になります。主イエスの顔が輝き、服は光のように白くなった現実こそ、まさに変貌の山と言われる所以です。 

それでは、何と何を加える(加色)と白く輝くのでしょうか。主イエスが輝き白くなったのは、①父なる神を礼拝し ②父なる神と会話し(祈り)③父なる神の目的に自分を合わせ ④人々の救いのために仕える道を進んだ(十字架)、などが考えられます。

友よ。神を礼拝し、祈り、服従し、人々に仕える人の顔はシャドソンのように輝きます。「…神は、私たちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」(Ⅱコリ4章6節)。友よ、もっともっと御顔を仰ぎ見ましょう。

Ⅱペトロ1章19節

私たちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。

預言の言葉を本当に理解できるのは、「その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることが分かる」(エレ28章9節)その時です。

旧約聖書最大の預言「救い主来臨」はすでに成就しましたが、実際に見た者はほんのわずかでした。しかし今は、「世が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るとき」、人となられた救い主イエスを「明けの明星」なる聖霊によって見ることができます。

聖霊は、「自分から語るのではなく、私から聞いたことを語り、…私のものを受けて、あなたがたに告げる」(ヨハ16章13~14節)。さらに、「助け主・弁護者」(15~16節)とも呼ばれ、主を私たちに与え、私たちを主に連れて行く最大の弁護者・助け主です。

主は、「ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く」(マタ5章15節)と。ともし火こそ聖霊を表しますが、升の下や寝台の下に押し込めて聖霊を悲しませてはなりません(エフェ4章30節参照)。

友よ。内住する聖霊にもっと自由を与えて下さい。聖霊は、罪を示し、キリストを示し、十字架へ導き、キリストとあなたを一体化させるお方です。命は命でしか理解できません。命の聖霊によってです。

Ⅱペトロ1章20節

何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。

世界で印刷される本の中で、聖書はけた違いに一番だと言われます。しかし、手にしたどれほどの人が聖書を神の言葉として読み、命を得ているでしょうか。

聖書が神の言であり、人の命となるためには、自分勝手に解釈せず、聖書の法則に従わねばなりません。

① 使徒たち

六十六巻の聖書は、主が選んだ使徒たちの理解したことを受け取る。初代教会に立ち帰る。

② 聖書全体

旧約と新約聖書全体から、歴史書、預言書、福音書、書簡などを理解する。旧約聖書をあまりメッセージしない教会があることは残念。

③ 聖霊によって

霊のことは霊によってしか理解できません。聖霊は何よりもみことばを用いて語ります。

④ 歴史を踏まえて

初代教会以降多くの異端が出ました。なにが真理かは、歴史が証明します。

⑤ 自分の体験によって

聖書は命の書ですから、自分自身がその命を体現できます。

初代教会の人々はいつも共に集い①使徒の教え…聖書を学ぶ(メッセージ・本など)、②信徒の交わり…みことばによる交わり(世間話ではなく神中心の交わり)、③パンを裂き…礼拝、④祈って…いました。

友よ。聖書は知識ではなく霊です。霊こそ命です。命は相手を信じて従うところに生まれます。みことばに従う時、聖書の中に入り、命を豊かに感じ取れます。

Ⅱペトロ1章21節

なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。

「聖書の預言は、自分勝手に解釈すべきではない」と前節にありました。申命記13章や18章には、神からの預言者と偽預言者について多く記しています。

預言とは、神の言葉を預ることですから、「あなたたちは、私が命じることを全て忠実に守りなさい。これに何一つ加えたり、減らしてはならない」(申13章1節)と命じています。しかし、神の預言と称して自分の利益や相手の肉を喜ばせることもよく行われます。

そのことを、「そのしるしや奇跡が言った通り実現したとき、『あなたの知らなかった他の神々に従い仕えようではない』と誘われる」(3節)とも記されます。偽預言者も奇跡やしるしを見せることができるものです。本来、神の預言は、堕落した罪人に語られることから始まるので、神を信じず偶像に仕える罪を示し、悔い改めさせ、神に服従するように勧め、その結果として豊かな祝福を受け取る、となるのが預言の本筋です。

友よ。あなたは神の福音と自分の福音(自分の願い)のどちらを求めていますか。神の預言は霊ですから、肉を切り取ろうとする厳しいものです。本当の祝福は、自分の願いが適うことではなく、神の願いが自分に成就することです。自分の願いを置いて神に従う時、神はあなたに自由に働き出します。それが祝福です。

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