Ⅰペトロ5章1節
さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。
ペトロは使徒であり、十二使徒の筆頭と言える存在でした。その彼が、「わたしは長老の一人として…勧めます」と言います。ここに初代教会の姿を見ると同時に、リーダーたる者の謙遜を見ることができます。
現代において教会の姿を大きく分類すると、監督制、長老制、会衆制の三つに分けることができます。それぞれの組織の中で学んで教職と認められて牧師、伝道師とされた人、あるいは、主の直接の召命に応えて聖書を教え牧会する者など千差万別です。
日本における教職者は「先生」と呼ばれるのが一般的になっていますが、ペテロが教会の中では使徒というよりも長老と呼ばれていることに心惹かれます。主ご自身が、「だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ」(マタ23章8節)と言われました。
ここで大切なことは、教職者の呼び方ではなく、「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」(ルカ22章26節)と言われた「霊性」です。
友よ。この霊性は兄弟姉妹すべて同じく必要です。そしてこの霊性は、「あなたがたの師は一人=イエス」とあるように、「イエスを主」とする者が受け取ります。
Ⅰペトロ5章2節
あなたがたに委ねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。
かつてペトロは主イエスから、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マコ1章17節)と言われ、主と三年半寝食を共にしました。しかし、ピラトの裁判の庭で三度主を否み逃げ出しました。
復活の主に出会った時、「『ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか』と言われた。ペトロが、『はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです』と言うと、イエスは、三度『わたしの小羊を飼いなさい・世話をしなさい・飼いなさい』」(ヨハ21章15~18節)と言われました。裏切ったシモンを赦し立ち直らせたのは、「愛」でした。
主は、最初に「魚を取りなさい」と言い、ここで「飼いなさい」と言いました。魚を捕ることは「伝道」、羊を飼う・世話することは「牧会」とも言えます。魚を取ることは「業」でもできるものですが、飼うことは「愛」がなければできません。主と出会ってからここに至るまで、彼は弟子として成長させられました。
友よ。今あなたにも、「委ねられている神の羊の群れを牧しなさい(飼いなさい)」と言われます。ですから、「いいえ、私など…」と言わずに神から受け取った愛を家族や隣人に注いでください。牧会(羊を愛する)者が、誰よりも主に牧会=愛されるのですから。
Ⅰペトロ5章2~3節
卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。
「万人祭司」という言葉があります。神に救われたすべての者は、自分の周りの人々に対しては祭司としての務めを与えられている、との意味です。
祭司に必要な資質は、神からの権威を持つことです。それは、特別な資格や能力を持つことを超え、その人の神への確信の深さです。神を信じ委ね切っている人は、老若男女を超えて神の権威を持ちます。上からの権威を持っても、それが皆に通じるわけではありません。上(神)からの権威は、下(人々)からの権威を得て行使できるものです。その権威とは、人々からの信頼です。神からの信頼と人々からの信頼によって祭司の務めを全うできます。
人々からの信頼という権威こそ、冒頭のみことば、「卑しい利得・権威を振り回さず。献身的に、群れの模範となって」などの言葉です。「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行い(神から来る行い)を見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(マタ5章16節)。
友よ。人々は、あなたの他者への献身の姿をよく見ています。しかし、その献身を最初に人々に向けてはなりません。献身は、「神へ」です。すると神は、人々に仕える必要な力と権威を与えてくださいます。
Ⅰペトロ5章5節
同じように若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。
ペテロは最初に長老たちへ、「委ねられている羊の群れを牧し…利得のためでなく…献身的に…群れの模範となりなさい」と勧めました。そして若い人たちへの勧めは、「長老に従いなさい」です。
神の子がキリストの御形のようになるには、「知的、人格的、霊的」の三つの部分から造られます。
その中で、「長老に従いなさい」は、人格形成にとって重要です。とくに、信仰の篤い長老的な人の下で服従を学ぶことは、なにも代えがたい霊性豊かな人格を作り上げます。「鉄は鉄をもって研磨する。人はその友によって研磨される」(箴27章17節)。
神の霊の命を持ち運ぶのは人格です。そこが独善的だと、神に服従することが難しく、神の恵みをもって高慢になり他者を裁き、人々の不振を買います。
友よ。「小事に忠実な者は大事にも忠実で、小事に不忠実な者は大事にも不忠実」と主が言われた、小事を人との関係、大事を神との関係とすることもできます。神の明確な啓示があるまでは、神の人に仕えて謙遜を学ぶことは、主の恵みを受けるために重要です。
Ⅰペトロ5章6節
だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。
ペトロは、5章に入ってから長老たちにも若い人にも、「謙遜」であることを勧めています。謙遜な者が主から誰よりも愛される者になると言います。その謙遜は、どこから出てくるのでしょうか。柔和な心、世間を知った者、他者より劣ることを認めることでしょうか。否、それらは一時の謙遜を作り出しても長続きはしません。
信仰の先人曰く、「謙遜は人の本性にはない。すべての人は、王になりたがり、王と思っているか、王になりそこなっているからだ」と。そこでペトロは、「神の力強い御手の下で自分を低く」することで謙遜になれると勧めます。
そのことをアンドリュー・マーレー師は、「あがないの愛の圧倒的な大きさのうちに、私たちが自分自身を失うとき、謙遜が永続する幸いと神への賛美を完成する」と言いました。謙遜は神の愛から作られます。
友よ。「謙遜」ほど「愛」と同義語にできる言葉はありません。聖書は、御霊の実は「愛」であり、愛の中に「喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」が詰まっていると言います。そのことをマーレー師は、「御霊の実の中に謙遜がないのは、謙遜は御霊の実ではなく、実を入れる『籠(愛)』だからである」と言いました。神は、十字架の愛の中にとどまり続ける者を、必ずご自分の元に引き上げてくださいます。
Ⅰペトロ5章7節
思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。
謙遜ほど難しいものはありません。それは、自分自身を主イエスに委ね切らないと持てないからです。それが、「何もかも神に委ねなさい」の言葉です。
5節の謙遜を身に付けなさいの「身に着ける」は、原語では「結び付ける」だと言います。それは、訓練された善い性質を身に付けることではなく、自分自身を主に結び付けることです。それが、身動きできないほど強く主に結び付けるほどに謙遜な人と言えます。
反対に「思い煩い」とは、自分に自分を結び付けることです。すると、首尾よくことが進めば高慢になり、しくじれば他者を裁くか、あるいは自分自身を責めます。この者は、自分の力と知恵で生きようとする人です。自分から自分を離して主に結び付く方法は一つです。それは、自分が主であることを止めることです。
主イエスですら、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(ルカ22章42節)と祈り、自分を父なる神に結び付けました。これこそ「自分の十字架を負う」ことです。
友よ。小さな自分にしがみつく愚か者にならないで、偉大な主に自分を委ねる者になってください。その時に謙遜な者にされ、神があなたのことを心にかけて責任を取ってくださいます。
Ⅰペトロ5章8節 ①
身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。
この手紙を終えるにあたり、大切な勧めをペトロは記しました。その最初は「身を慎んで目を覚ましていなさい」です。身を慎むことは、罪に支配されている自分とこの世の姿を正しく弁えることで、「目を覚まして」とは、周りをよく見ることではなく、主イエスに目を注視することです。聖書で言う信仰の眠りとは、主イエス以外のものを見ている状態のことです。
悪魔の目的は、三位一体の神から人の目をそらせることです。主の荒れ野の試みは、イエスを「父なる神から離した神」にすることでした。「石をパンに」…あなた自身が命を造りなさい。「ここから飛び降りよ」…あなたが自分で計画して行動せよ。そして「ひれ伏して私を拝め」…これこそ悪魔の目的でした。
しかし主は、「いのちは父の口から出る言葉」…父なる神に。「神を試みてはならない」…父の御心に従う。「父なる神を拝み、仕える」と言い、決して父なる神から独立した神になろうとはしませんでした。
友よ。悪魔は、人の肉の思いに手がかりを探しています。それから守られるには、ひたすら「身を慎んで=自分を弁えて」、「目を覚まして=主イエスから目を離さない」ことです。
Ⅰペトロ5章8節 ②
身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。
身を慎んで目を覚ましていることは、「酒に酔いしれ(支配)てはなりません。…むしろ、聖霊に満たされ(支配)」(エフェ5章18節)のみことばそのものです。
悪魔の攻撃には、激しく責め立てることも、その逆の「ぬるま湯攻撃」もあります。ぬるま湯とは、霊(熱い)と肉(冷たい)の中間を提供することです。現代はこの「ぬるま湯」なる、ヒューマニズムなる人間中心主義に浸かっています。そこには、「人権尊重・民主主義・差別撤廃・同性愛・同性婚…」と叫びますが、「主なる神」は除外されています。
教会も、神と人の中間に立とうとします。その最たるものが自由主義神学と呼ばれ、自分の納得のできる神、人から見た神について語ります。しかしそれは、主イエスから目を離した眠った人を作り出します。
「聖書」の意味は、古代の石工が使った定規(日本の「差し金」)です。これを定めた方が神であり、「善悪を知る木(十戒・律法)」という形で表しました。それは、単なる数値ではなく、「わたしは真理である」というイエス御自身であり、愛(アガペー)でした。
友よ。仕事、お金、異性、健康…などの酒に酔わされて(支配されて)いませんか。悪魔は、心地よい酔い(支配)で食い尽くそうとしています。
Ⅰペトロ5章9節
信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。
「信仰に踏みとどまることは、悪魔に抵抗すること。悪魔に抵抗することは、信仰に踏みとどまること」と単純明瞭に答えた人がいました。実に、神の子たちの信仰の戦いは、初代教会で、宗教改革で、共産主義や独裁者に対して、そして日ごと聖書を読むことにもあります。キリストに留まるための悪魔との闘いは天国へ帰るまで続きます。
クリスチャン大名高山右近は、秀吉に信仰を棄てるように迫られた時、「私は…ただ一つのこと以外は太閤様のご命令には絶対に背くものではない。それは、「信仰を棄てデウスに背けとの仰せには、たとえ右近の全財産、命にかけても従うことはできないのです」と。その結果、彼は城も家族も失い、フィリピンに島流しされマニラで生涯を終えたと言われます。
友よ。あなたは「私は右近ほどの者ではなく一介のクリスチャンです」と言っていませんか。しかし、右近と同じ決断は、日々の小さな出来事に満ちています。日ごろの小さな決断をし続けてこそ、大きな決断ができのでは。さらに、大小の試練こそ私たちの霊の目を覚まし、立つべきところをはっきりさせます。「信仰に留まることは、悪魔が攻撃してくること。悪魔の攻撃は、信仰をより強めること」でもあります。
Ⅰペトロ5章10節 ①
あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、
世には諸々の神々が出現しては消え、消えては形を変えて出てきます。それらの神々には、癒し、商売繁盛、学問、結婚などの得意分野?があるようで、それによって人々を集めています。しかし、聖書で示された神は、「あらゆる恵みの源」である神です。諸々の神々と言われるものの正体は、源である真の神によって造られたものを、あたかも自分がその創造主であるかのように偽って提供しているだけです。
聖書の神の名は、「ヤーヴェ」と言い、名詞でも形容詞でもなく使役形で、「…させる」です。それは、何かによらず「自存する神」であり、モーセに「わたしはあるという者」(出3章14節)と表しました。それゆえに聖書は、「初めに、神は天地を創造された」と書き出し、「あらゆる恵みの源である神=創造主」であることを示します。
御子イエスが来られた時、御自分の存在を「わたしはある(ヤーヴェ・存在者・創造者)」と三度宣言しました(ヨハネ8章24・28・58節)。
友よ。私たちの信じている神であるイエス・キリストは、ありとあらゆるものの源である、「王の王、主の主」(Ⅰテモ6章15節・黙17章14・19章16節)なるお方です。恵みの源なる神をほめたたえましょう。
Ⅰペトロ5章10節 ②
あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、
ヤーヴェなる神は(一般には「アドナイ」が使われ「エホバ」とも呼ばれていた)、さらに「エロヒーム」なるお方でした(聖書では、ヤーヴェを「主」、エロヒームを「神」と訳しています)。
「エロヒーム(神)」は、「我々にかたどり、我々に似せて人を造ろう」(創1章26節)と記されたように、「我々」と複数で表わされました。我々とは、「父なる神・御子イエス・キリスト・聖霊」なる三位一体の神です。あらゆる源なる神は、外側から見ると、力と権威を持つ「創造主(ヤーヴェ)」ですが、その内側は「愛なる神(エロヒーム)」です。
「愛」は一人では成り立ちません。愛は、「あなた」と「私」の二つの人格が継がり交わる中に造られます。それは、命も同じです。ですから、人の命は、神との継がりと交わりの中に与えられます。人と人との継がりと交わりには、「人の命」が生まれますが、それは自己中心な罪の命で天国には入れません。
友よ。あなたは主イエスから、「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている」(ヨハ6章47節)と宣言された者です。あなたの命は、家族にも、この世にも、肉体にでもなく、命の源なる三位一体の神の中にあることを忘れないでください。
Ⅰペトロ5章11節
力が世々限りなく神にありますように、アーメン
聖書には、「神がほめたたえられますように」、「栄光が神に永遠にありますように」、そしてここでも「力が神に在りますように」と記されます。神は人を愛し、人を祝福してくださるお方なのに、なにかご自分に関心が集中しているようにさえ感じますが…
主の祈りは二つに分けることができます。
人の命と幸福は、神に依存しているのであって、自分自身にも家族にも世にもありません。神との関係を優先することこそ、本当の恵みと祝福を受け取る最善のことだからです。
友よ。神はあなたを愛しているからこそ、「わたしを最初に愛しなさい」と言われるのです。神を優先する生き方こそ最も高貴な人の生き様です。それは、神に仕えることではなく、神に仕えていただける人生だからです。今日も神の栄光のために生きてください。
Ⅰペトロ5章12~13節
わたしは、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなたがたにこのように短く手紙を書き…。共に選ばれてバビロンにいる人々と、わたしの子マルコが、よろしくと言っています。
ペトロもパウロも、一人で伝道牧会を担っていたのではありませんでした。かつてシルワノは、テサロニケへの手紙から「パウロ、シルワノ、テモテから」とあるように、パウロと共に働きました。そして、今ここではペトロと共にいて、彼の語った言葉をギリシャ語の手紙にする働きをしていたことがわかります。
「わたしの子マルコ」と言う人物は、最初パウロと共に伝道しましたが意見が合わず、途中から別々に歩むことになりました。しかし、今はペトロと共に宣教者として良き働きをしていることがわかります。
「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ」(エフェ4章5節)ですから、カソリックとプロテスタントも超えて世界に教会は一つしかありません。「あなた方はキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(Ⅰコリ12章27節)。違うのは、手や足や耳や口や各部分に分かれて担わされている働きです。
キリストの体とされている友よ。あなたが通う教会だけがあなたの教会ではありません。近隣の教会に通う兄弟姉妹もあなたの教会のメンバーで、あなたも他教会のメンバーです。ペトロ、パウロ、シルワノ、マルコも、神にあってあなたの家族です。