キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ペトロへの手紙 第4章

Ⅰペトロ4章1節

キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。

信仰に生きる者には、必ず迫害や困難がやってきます。ですから「あなたがたも同じ心構えで武装せよ」と、それに対する基本的態度について記しています。

「心構え」とは、「自分の欲望によらず、神の御心に従って生きる」という覚悟や決心です。受洗する時、罪が露わにされ悔い改めた時、聖書通読の決心をした時など、幾たびも覚悟と決心をしては挫折しました。

なぜ覚悟と決意が挫折するのでしょうか。それは、聖書通読は良いこと(霊・建前)とわかっても、実行するには苦しみ(肉・本音)が伴うからです。御心に沿うために邪魔になるのが本音の肉で、肉に死ななければ御心は達成できません。

主がゲッセマネの園で苦しまれたのは、私たちの罪の代価の苦しみではなく、父なる神に従う「自分の十字架」を負う苦しみでした。主はゲッセマネの苦しみ(自分の十字架)を負ったからこそ、人類の罪の代価を払う十字架を負うことができました。そして復活し昇天し、王の王、主の主とされました。

友よ。「神に従う・苦しみを受け取る」の二つの決意はありますか。この二つの決意には、主が必ず良きことに変えて下さるという希望があります。主イエスが死から復活し昇天したと同じ希望です。

Ⅰペトロ4章2節 ①

それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。

どの分野でも、一線を越えて広がる世界があるものです。信仰の世界にも一線があります。それは、肉と霊の主権が逆転するときです。

あるところに建前君と本音君がおり、二人乗りの自転車に乗って山を越えることになりました。建前君が前で本音君が後ろです。建前君が満身の力を振り絞ってペダルを踏み頂上にたどり着き、「本音君、大変だったけど二人で頑張れたね。」と声をかけました。すると、「そうだろう、ぼくは後に下がるのが怖くてブレーキをかけていたんだ。」と本音君!

ここで、本音君は「人間の欲望」によって生きようとする「肉の人」で、建前君は「神の御心」に従って生きようとする「霊の人」です。そしてほとんどの場合、本音君のブレーキによって前に進めず、信仰によって生きることが建前のままです。

「神の御心に従って、肉における…生涯」とあるように、霊に肉が服従する一線を超えるとき、信仰による自由を受け取る喜びの世界が開けます。

友よ。あなたの中にも建前君と本音君がいますが、どちらが主権を取っていますか。「あなたがたは、それほど物分かりが悪く、『霊』によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか(ラ3章2節)。

Ⅰペトロ4章2節 ②

それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。

神の子は、「私は咎のうちに産み落とされた」罪人として出発し、後に新しい確かな霊を授けて」いただきました(詩51篇参照)。ゆえに、罪人の自己中心を本音とし、新しい生き方は建前になってしまいます。

建前を本音として生きた人にフリードリッヒ・ボンフェファーがいます。その著書の中で、「安価な恵み」と「高価な恵み」を教えています。安価な恵みは、教理、原則、体系としての恵み、すなわち一般的な真理としてのキリスト。高価な恵みは、キリストが人となって私のために苦しみ命を捨てたキリスト。 

安価な恵みは、「それは神だから当然」と受け取り、高価な恵みは、「それほどに私を愛してくださった方のために、私も命を捨てよう」と必死に応えます。

彼は、ナチスのヒットラーによるユダヤ人根絶を止めようとヒットラー暗殺を計画します。神の子・神学者・牧会者の彼は自分の地獄と人々の救いを取り代える決意をする中で捕らえられ、終戦の数週間前に獄中で絞首刑にて主の御元に引き上げられました。

愛する友よ。神の子を理想(建前)に閉じ込めず、命(本音)として生きてください。そこには、「自分の十字架を負って主に従う」苦しみが待っています。しかし、その苦しみを負う者には、イエス・キリストの復活と昇天の恵みが約束されています。

Ⅰペトロ4章4節

あの者たちは、もはやあなたがたがそのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです。

3節に、「かつてあなたがたは、異邦人が好む…行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていた…」とありました。

命は、自分の命を満たす命を求めるものです。肉体という命は食物を求め、肉を命とするならば「好色、情欲…偶像礼拝」などを求めます。神の子は、「われわれに似せて(神と同じ命を持つ者)」(創2章26節)造られたので、神の聖霊を求めます。

そこから、人は「どんな行い」をするかよりも、「どんな命」を持つかが重要になります。行いが命を造るのでなく、命が行い(行動)を起こさせるからです。かつて同じ価値観を持っていた人々は、あなたの命が代わり、行動が変わったので「不審に思い、そしる」ようになります。この「不審に思う」という言葉は、「外国人」から派生した言葉と聞きます。それは、肌や目の色、骨格、習慣、食べ物、そして行動も違ってくるからです。

友よ。あなたは神の子となる前に係わっていた人々から、仲間と見られていますか。それとも外国人と見られますか。主イエスも、ユダヤ人から邪魔者扱いされました。「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(ヨハ1章11節)。

Ⅰペトロ4章5節

彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。

「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブ9章27節)は厳粛な言葉です。そして、神の裁きは肉体の死の後に実現するだけではなく、地上においてもなされます。

地上の裁きの初めは、アダムの末裔からくる悲しみや痛み、家族の争いから国家間の戦争まで大小さまざまです。ただしこの裁きは、神が御自分で主導して与えるものではありません。むしろ、人の「不信心と不義」(ロマ2章18節)のために、神が人に手出しできず「…するにまかせられた」(24・26節)ためです。この裁きは、人が自分を神とする位置から罪人の位置に引き下げ、真の神を求めるように導きます。この裁きを受け取る人は、主の十字架に導かれ、自分の罪を清算し復活の命を受け取ります。

この後も地上にいる間は、自分の罪と人類の罪からの痛みや苦難は続きますが、それは裁きではなく試練となります。試練は、「キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者。…義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように」(フィリ1章10~11節)なるためです。

友よ。生きる限りなお試練は続きますが、それは神の愛です。「主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからです」(ヘブ12章5~6節)。

Ⅰペトロ4章6節

死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、…肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。

先に、「霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教された」(3章19節)とありました。その霊とは、一度神の裁きにあって肉体の死を経過した人々を指していました。ここにも、肉において裁かれて死んだ者たちが、今一度神との関係で霊において救われる道があることを記しています。さらに、裁きは神の用意した救いへ導くためであるとも宣べています。

神は義と聖なるお方です。義は罪を裁き、聖は罪を退けます。罪をいい加減にして造られる天国は、この世界と何も変わらなくなります。神が用意されている天国・神の国は完全な義と聖が支配する世界です。天国に入るには罪を処断せねばなりません。裁きは罰としての裁きである以上に救いのためです。それが、ノアの時代に「神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者(裁かれた者)」(3章20節)と、「死んだ者(裁かれた者)にも福音が告げ知らされた」です。

友よ。パウロは、「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」(ロマ11章33節)と言いました。神の富と知恵と知識を理解するのは、「神は愛です」にあります。神の愛をさらに深く知りたいものです。

Ⅰペトロ4章7節 ①

万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。

初代教会では、「万物の終わり」なる終末は今以上に切実だったことでしょう。迫害の中では、信仰による命と迫害による死は隣り合わせだったからです。

終末というとすぐに黙示録に心が行きます。6章からは、小羊の巻物が開かれて六つの封印が開かれ、最後の七つ目の封印が開かれると、七人の天使のラッパと共に天変地異や悪魔との闘いが繰り広げられます。さらに進むと最後の七つの災いも襲ってきます。18章に進んでやっと小羊の勝利に至ります。

この間の出来事は理解するに難しく、また多くの解説を聞いても半信半疑です。聖書理解では、「わからないところを無理に解釈するのでなく、わかるところをより深く理解することが大事」と言われます。そこから、「出来事」よりも、「出来事を計画し実行し完成するお方」をより深く知ることが大事です。「私は初めから既に、先のことを告げ、まだ成らないことを、既に昔から約束しておいた。私の計画は必ず成り、私は望むことをすべて実行する」(イザ46章10節)

友よ。冒頭の、「思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい」に心を止めて下さい。主イエスにしっかり繋がっているならば、その時、その場で必要なことを教えてくださいます。「主イエスが封印を開き、巻物を開くことができるお方です(黙5章5節参照)」。

Ⅰペトロ4章7節 ②

万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。

今から20年ほど前、ヨーロッパ連合が拡大された頃、ダニエル書7章の四頭の獣、第四の獣の十本の角…から、「この連合こそニューローマであり終末が近づいた」と語り人々を興奮させました。だからこそ、「思慮深く、身を慎み、よく祈りなさい」と忠告します。

先に、出来事以上に、出来事を起こし、導き、完成する主イエスをもっと知ることこそ大事であると書きました。それでは、終末に目をつむり、神の御心のままになるのだから私たちは沈黙すべきでしょうか。否、人は関連の中で考え、生き、失望し、希望を持ち、有意義と無意味とするものです。過去、現在、将来を切り離しては生きられません。聖書の世界は、過去と現在と将来は一つところにあります。それは、支配しているお方が同じだからです。

今から四千年前の人、アブラハムに現れたメルキゼデクは、二千年前に来られた御子イエス・キリストであり、今、私が出会っている方も同じお方です。何よりも中心となるのが「今」であり、今を支えるのが過去と将来です。自分の過去と将来がしっかりと考えられて、今、どう生きるべきかがわかります。

友よ。人には死ぬという一番大事な仕事が待っています。その仕事を果たすには、今日もアルファでありオメガなるお方、主イエスの中で生きることです。

Ⅰペトロ4章7節 ③

万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。

「万物の終わりが来る」と聞くと誰もが興奮します。人は、偶然に存在し、やがて死んで無になるだけならば悩まなくてよいはずです。自分の存在の生死が将来判断されることに黙っておれないのは、「神が人に永遠を与えた」(コヘ3章11節参照)からです。

諸々の宗教のセールスポイントは、現世利益と終末への恐れ(自分の宗教でないと救われない)です。神の子たちも恐れによって正しい判断を失いがちです。だから、「思慮深くふるまえ」と言います。それは、「心を確かにせよ」であり、「自分の心を正しくコントロールしなさい」でもあります。

さらに、「身を慎め」と重ねます。それは、「しらふでいなさい(なにか外的なものに陶酔されるな)との勧めです。そして、「よく祈れ」とも。祈りは神との対話です。それは、自分の願いを申すこと以上に神に聞き、そして問い、見つめつつ待つことです。

「思慮深く・身を慎んで・祈る」ことの全てには正しい判断力・見抜く力が必要です。それは、自分や世間や歴史のできごとを超えた真理・神を基準とすることで持てるものです。

友よ。「すべての人を照すまことの光があって、世にきた」(ヨハ1章9節)のですから、今日もまことの光、主イエスに照らされた真理の道を進みましょう。

Ⅰペトロ4章8節 ①

何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。

生まれて以来、小学校、中学、高校、大学と多くの時間を勉強に費やします。現代の学問は「学歴」に置き換えられ、より高いレベルの学校へ、職場へ、収入へ、そして富へ、と目指しているように感じます。

しかし、「学問」の目的は、ソクラテスが言った「無知の知」をはるかに超え、「正しい批判力」を身に付けることです。そのために必要なものは正しい基準である「真理」です。真理とは、文字にできるものでも法則でもなく、「わたしは道であり、真理であり、命である」お方、まことの神イエス・キリストです。

そして、真理なるイエスのさらなる真理の確信は、罪人の罪を贖うために実行された「十字架の愛」でした。冒頭のみことばをより忠実に訳すと、「互いに熱く心を込めて愛(アガペー)しなさい。愛(アガペー)は多くの罪を覆う」となるそうです。

正しい批判力は、主イエスの十字架の愛=アガペーを基準として、そのアガペーの中に自分自身が生かされることです。「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る」(箴1章7節)。

しかし、友よ。「愛は多くの罪を覆う」の覆うは、「隠す・見えなくする・見過ごしにする」とは違います。罪を覆うお方は主イエスのみですから、私たちが愛し合うのは、その人を主の御元へ押し出すためです。

Ⅰペトロ4章8節 ②

何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。

万物の終わりは、命に係わることなので人の平常心をマヒさせます。そこから守られるために、「愛(アガペー)」を基準として生きよと勧めます。

愛を基準として生きるには、「批評・非難・批判」の区別が必要です。最初に、その人の欠点や罪を正しく見分けねばなりません。聖書は、「批評するのでなく、非難するのでなく、批判せよ」と告げています。

「批評」
相手の欠点や罪を、真理によって正しく判断するが、論評するだけで何もしない
「非難」
相手の欠点や罪を、神の基準以上に自分の基準で判断して裁く
「批判」
相手の欠点や罪を、真理によって正しく知る。そして、まずは自分自身をその基準で批判して悔い改め、主の御前に相手よりも先に自分自身が立つ。そして、相手の立場を理解し、神の御元へ行けるように行動を起こす

正しい批判は、自分の罪が見える者にこそできます。自分自身が霊の人にならねば、他者を批判することはできません。神に最初に自分を取り扱ってもらいます。

友よ。相手の罪や欠点を知ることは傲慢ではありません。しかし、非難して裁くのでも、無関心の批評家で終わるのでなく、批判して「罪を覆う」ことです。主イエスは、罪人の私たちを批判して罪を覆いました。

Ⅰペトロ4章8~9節

何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆う…。不平を言わずにもてなし合いなさい。

人間にはただ一度死ぬことと(地上で)、その後に裁きを受ける(霊の世界で)ことが定まっています(ヘブ9章27節参照)。その裁きには二通りあります。

全ての人に…「神の義を持っているか否か」。次に神の救いを得た者に…「どれだけ愛をもって生きたか…罪を覆ったか」。「だから、全て人を裁く者よ。弁解の余地はない。他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからだ」(ロマ2章1節)。

《裁くことを教えた寓話》

王が王宮に二人を招いた。一人はねたみと嫉妬の奴隷であった。彼に、「さあ、お前の欲しいものをやる。だが条件がある。お前が最初に選ぶ権利があるが、もう一人の者はお前の二倍を受ける」と。彼は二番目の男が二倍の富を得ることに我慢できなかった。そこで自分の願うものを半分にしようとしたが、それでも後の者が有利になる。そこで彼は、自分の片目を取れば、相手は両目を失うという方法を選び取った…。

主の愛(アガペー)に覆われた友よ。原則的には、他人を裁く者もねたみの人の考えと似ています。罪を覆うことは、あなたが相手を許すことではなく、その人を主に連れてゆくことです。主だけがすべての人の罪を覆うお方です。(寓話…スポルジョン著より)

Ⅰペトロ4章9節

不平を言わずにもてなし合いなさい。

「愛は多くの罪を覆う」の恵みを受けた者は、まことの光を与えられた者です。真理の光を受けた者は、何が重要であるかを理解します。それは、今度は自分が「他者の罪を覆う」ことです。

それは、「相手の罪を許す」ということも含みますが、それ以上に、「不平を言わずもてなせ」と言われた言葉へ進ませます。他者の「罪を許す」は、マイナスをゼロにすることですが、「不平を言わずもてなせ」は、ゼロでとどめずプラスにして行く行為です。

実際、旅人に宿を貸し、食事をもてなすことなどは、どれもこれも煩わしく不平が出てきます。不平は、自分は与えているが相手からもらっていない、と思うからです。そこで、不平を言わずは、「損得を勘定せず」ということです。

主が十二弟子を選び派遣する時、「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(マタ10章8節)と命じました。

友よ。「罪を覆う」ことのさらに積極的な行為は「もてなし合う」ことです。主イエスこそ、不平を言わずに、私たちに十字架のもてなしを与えてくださいました。「そこで、イエスは言われた。『行って、あなたも同じようにしなさい』」(ルカ10章37節」と。

Ⅰペトロ4章10節 ①

あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。

損得勘定せずに仕えることが、「愛は多くの罪を覆う」ことでした。そのためには、それぞれが与えられている賜物を生かして用いなさいと言います。

「賜物」と聞くと、「使徒・預言者・福音宣教者・牧者・教師」(エフェ4章)「知識・信仰・いやす力・奇跡・預言・異言」(Ⅰコリ12章)などを思い浮かべます。さらに、「他人より秀でているもの」とか、「神から直接与えられた霊の賜物」などとも考えます。そして「私にはどれもない」と結論付け失望します。

しかし、「賜物」は「恵み」から出てきた言葉で、恵みの具体的な現れが「賜物」です。すると、自分がどんな恵みを神からいただいているかを知ることは、自分の賜物を知ることになります。健康・本が読める・歌える・楽器演奏・話せる・世話が好き・捧げる・祈れる…さらに、弱さ・傷・病・悲しみを経験したことも神の賜物となります。

自分にはなんの賜物もないと思う友よ。あなたは、「私が神になにができるか」ではなく、「神は私になにができるか」を考えてください。そこから、「霊的な礼拝は神に自分を献げる」(ロマ12章1節)ことですから、自分の能力や技術ではなく、自分自身を献げることが、賜物を生かして仕えることになります。

Ⅰペトロ4章10節 ②

あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。

《マザー・テレサの言葉》

「完全な自己放棄は、神に自分のすべてを捧げることです。神も御自分を私たちにお与えになったのですから。神が私たちに対して何の借りもなく、御自分を余すところなく、喜んで私たちにお与えになろうとしている時に、私たちが私たちの一部分のみで、神に十分に応えることができるでしょうか。

自分自身を棄てることで、私は神が私のために生きて下さるようにいたします。神を自分のものとするためには、私たちが神のものとならなければなりません。私たちが自らを神にお捧げする力を神がお与え下さらなかったら、私たちはなんて貧しかったことでしょう。今はおかげで、こんなにも富んでいる私たちです。

神の心をつかむのは、なんて簡単なことでしょう。私たちが自らを神に捧げると、神は私たちのものとなります。神ほど「私たちのもの」であるものはありません。私たちの自己放棄に対して、あがなって下さるのは神御自身です。」

愛する友よ。神に対して、「あれをする、これをする」などではなく、神に自分自身を献げて、神に使っていただきましょう。これこそ、「恵みの善い管理者」です。

Ⅰペトロ4章11節

語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。

神の子たち一人ひとりは、キリストの体です。心臓は肺に血液を送り、肺は心臓に酸素を送ります。心臓が自分を優先すると自分が死に、他者を優先すると自分が生きることができます。これが体の法則です。

聖霊の「賜物」と「満たし(支配)」にも、親密な相関関係があります。賜物は神から賦与された「能力」で、満たしは神の「命」ですから立場が違います。

賜物は、神の子たちが聖霊に満たされるためと、キリストの体を造るために備えられました。それは、個人に与えられた以上に教会に与えられたものです。「語る」賜物を、自分の売名や金銭に代えたりすると、その人は聖霊の満たしを失います。キリストの体のために用いると、人々が聖霊に満たされ、自分自身もさらに聖霊に満たされるようになります。

聖霊の賜物は、聖霊の満たしを造るためです。そして、聖霊に満たされた者が聖霊の賜物をさらによりよく用いることができ、全体の益となります。

友よ。神がすべての神の子に願っているのは、「聖霊に満たされよ」(エフェ5章18節)「聖霊によって歩め」(ガラ5章16節)です。聖霊の願いは、「イエスを主として生きよ」です。みことばを語る者、奉仕する者、神から受けた賜物と力に応じで仕え合いましょう。

Ⅰペトロ4章11節

それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。

「愛は多くの罪を覆う」は、相手の罪を許す以上に「互いにもてなし合う」ことでした。それは、相手に積極的に仕えることにまで及んでいました。

《ある牧師の体験記より》

「…教会に大黒柱のような老兄弟おり、学問のある人でもなかったが一生懸命教会に仕えていた。ある時、教会の懇談会を持った。あるインテリで弁舌爽やかな人が、この教会はいろいろと足りないものばかりだ。あちこち欠けているし、会堂にも欠陥があり開かない窓や戸など…と言い放った。

翌朝早く老兄弟は、『わしゃ恥ずかしくて』と言って黙って窓を直していた。彼は、弁舌は立たないが金づちをもってくぎを打つことぐらいはできると思い一人で修繕していた…。彼は、教会の恥は自分の恥だと思っているのです…。」

誰が見ても、開かない窓は窓です。そこで、それを指摘して何もしないことこそ、開かない窓がある以上に問題です。神の子たちは「愛」という真理、罪を覆い合うためにもてなし合いなさいと命じられています。

友よ。この「もてなし」こそ「ホスピス」です。それは掛け値なしに与える主イエスの心です。「汝ら、キリスト・イエスの心を心とせよ」(ピリ2章5節・文語訳)。その時、父なる神が栄光を受けられます。

Ⅰペトロ4章12節

愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。

聖霊降臨後の弟子たちは、力強く神の国の福音を宣べ伝えました。しかし、ネロ皇帝(在位54~68年)とドミティアヌス帝(96年まで在位)などは、権力欲が強く皇帝崇拝を強い、市民権剥奪、財産募集、火刑、ライオンの餌食…と激しく迫害しました。黙認した皇帝もいましたが、三百十三年の公認まで続きました。

その後の歴史を見ても、共産革命、絶対主義たち、異教徒から、日本では徳川幕府による迫害など、今日まで止むことはありませんでした。

神の子たちが迫害されるのは、主イエスが「わたしは道であり、真理であり、命である」からです。すると、信じない者は、「道を誤り、偽りの中、命を持てず死ぬ」ことになります。それを否定するために、カインのように正しいと認められたアベルを殺し、自分が正しい者にならねばなりません。相対の世界では、相手を倒し自分が「道・真理・命」になる方法を取ります。それが迫害です。

友よ。先に、世は神の子を「不審(外国人・異質)に思い、そしる(迫害)」(4節)とありましたが、それは、「思いがけないこと」ではありません。むしろ迫害を受けることは当然です。それは、あなたが世を友とせず、主イエスの友となっているからです。

Ⅰペトロ4章13節

むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。

ローマ帝国の迫害史で、コロシアムで獣を用いた迫害は長く続かなかったそうです。理由は、そのことによって、むしろ神を信じる者が増えたから…と。

迫害は、信者をキリストから遠ざけるどころか、むしろ近づけました。主に近づくほど、聖霊の力は満ち、「神に従わないであなたがたに従うことが…。私たちは、見たことや聞いたことを話さないではいられない」(使4章19節)とむしろ大胆に語りだします。

なぜ迫害は、信仰を失わせるどころか燃やすのでしょう。そこで、迫害は一体なにを殺すのでしょうか。迫害は、「神と世・霊と肉」の選択を迫ります。世と肉を選ぶ人は信仰を失い、神を選ぶ者は肉に死んで霊に生かされます。その人は神の命、力、知恵に満たされ、「全世界に行って、全ての造られた者に福音を宣べ伝え…。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉…それに伴うしるし」(マコ16章15~20節参照)によって罪人を救い、神に命を献げる者を新たに興します。

友よ。「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない」(ルカ12章4節)と主が言われました。迫害や、困難、試練、悲しみなども、キリストの苦しみに与ることでもあります。なぜなら、そこでキリストの栄光が現れるからです。

Ⅰペトロ4章14節

あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。

フランシスコ・ザビエルが1549年に到来し、秀吉が天下を取り(1583年)、1587年に耶蘇禁令が出されました。その時の記録に「耶蘇は九州全土で20万」と記されていたようです。その後、宗教狩り(1596年)、26聖人殉教(1597年)と続き、徳川の大阪夏の陣(1615年)以降はさらに激しくなり、「五人組制(1659年)」へ、さらに進み「耶蘇類族改め(一人の耶蘇が発見されると身内の者一族郎党、男は七代目、女は4代目まで監視)」に至る究極の迫害が行われました。

しかしこの百年に及ぶ迫害の中で、日本には多くのクリスチャンが出ました。それは、「迫害」は「追いやる」から出た言葉で、迫害が追いやるのは「この世」か「神の国」へです。それは、「熱くもなく冷たくもない」神の子を追い払い、神の国へ追いやられた熱いクリスチャンが多く輩出したからこその現実でした。 

日本の迫害の特徴は、一個人の信仰が一族郎党の命へ直結したことでした。神を愛し自分の首を切られて本望としても、信仰を棄てねば家族を殺すことになります。激しい霊の戦いを経ねばなりませんでした。

しかし、友よ。困難に勝利できるのは、自分の力ではありません。「栄光の霊、神の霊があなた方の上に留まる」のです。主の御名によって戦ってください。

Ⅰペトロ4章15~16節

…だれも、人殺し、泥棒、悪者…として、苦しみを受けることがないようにしなさい。しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら…神をあがめなさい。

神の子たちは、周りの人々から「不審に」(外国人のように)」(4節)思われます。それは、彼らの常識と違う生き方をするからです。しかし、違う生き方で注意せねばならないことがあります。それは、神を知ったことで自分の肉を、神によって正当化する生き方です。人殺し、泥棒…はしなくても、自分の肉を霊で包んで正当化することです。

ギデオンは、大勝利を得て人々の賞賛と信頼を得ますが、その信頼を利用し戦利品として獲た金の装飾品を集め、自分の名声と功績を顕すためのエフォドを作りました。それは、肉を霊で包むものでした。やがて民はそこで姦淫にふけりました(士師8章参照)。

イサクは、族長として民を導く中で、アビメレクの迫害により何度も井戸を塞がれ、それらの井戸に「争い」や「敵意」の名を付けました。しかし彼は争わず、次の井戸を掘り当てて移動して行きました。彼は、「わたしはあなたと共にいる」という神の声に支えられ、肉に死んで霊で生きました(創26章参照)。

友よ。ギデオンの苦しみとイサクの苦しみには天地の差があります。ギデオンの苦しみは地獄へ落ちる苦しみで、イサクは天に上る苦しみです。神により近づくための苦しみを味わう者となってください。

Ⅰペトロ4章17節

今こそ、神の家から裁きが始まる時です。私たちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者達の行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。

「神の家から裁きが始まる」と聞くと、不可思議な恐れに捕らわれます。それは、神の子たちは主の十字架により裁きは過ぎたはずなのに、と思うからです。

神は愛なるお方ですから、「神の裁き」は世の裁きとは違います。世は罪に定め罰を与えるのが裁きですが、神の国では、肉の罪を示し、悔い改めさせ、聖別し、御霊に満たし、御霊の実を結ばせる愛の業です。

最初の裁きは、「あなた方は聖霊の宮である」とある、一人の中にある神の家からです。「イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された」(マタ21章12節)との記事は、個人の中も同じです。

次に、キリストの体なる教会である神の家です。教会の最大の問題は、イエスが頭(主)とされていないことです。「御子はその体である教会の頭です」(コロ1章18節)。しかし、組織や人が主イエス以上になっているならば、多人数でも歴史が長く働きが大きくても神は喜ばれません。

友よ。今、自分や教会が裁かれることは幸いです。神の裁きは、「主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」(ヘブ12章6節)。主の裁き、鍛錬、鞭は神の真実な愛です。

Ⅰペトロ4章19節

だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。

ある哲学者が、人は、「個人」であり「人間」であることに難しさがあると言いました。「個人」の字は、「人(自分)が固くなる」です。「人間」の字は、「人(他者)の間」です。すると、自分を保ち、他者と共に生きねばなりません。このバランスが難しいのです。

そこで、共存せねばならない「他者」が誰であるかが重要になります。冒頭のみことばにある、「自分の魂をゆだねなさい」とある委ねるお方を間違うと、自分の命を失うことになりかねます。そこから、「人間」とは「愛」が命であるとわかります。愛は一人の中には存在できず、誰かとの「継がりと交わり」の中にあります。人と人の継がりと交じわりは自己中心という命を生み出し、不完全なものです。

しかし、神と継がり交わると永遠の命を受け取ります。「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」(ロマ6章23節)。

友よ。地上における最も「善い行い」は、「わたしにつながっていなさい」(ヨハ15章4節)と言われる、主イエスの中に入り続けることです。それは、今までの関係から離れることで、そこに「御心に沿う苦しみ」が生じますが、主に魂を委ね続けてください。

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