キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ペトロへの手紙 第3章

Ⅰペトロ3章1節 ①

同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫がみことばを信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。

ここから夫婦の関係について神の愛の法則が記されます。それを知るには、アダムとエバが創造された時に遡る必要があります。

全ての始まりは、「神は愛」だからです。

  • 愛には「型」があります。愛は一人では成立しません。「あなた」と「私」の「継がりと交わり」が「愛と命」です。愛の型は父と御子と聖霊の三位一体です。
  • 愛には「秩序」があります。愛し合う二人の人格は対等ですが、「父」と「子」と表される秩序です。父は子を愛し、子は父に従います。父なる神は御子イエスを愛し、御子イエスは父なる神に従いました。
  • 愛には「新しい創造」があります。愛は、愛される者から、次に愛する者となります。人間の創造は、父が御子を愛し、御子が人を愛するためでした。

人は神に愛されるために造られました。それは、神の愛の型に似せて愛し合うように造られ、愛の秩序・父と子の秩序に、男と女に造られました。

友よ。聖書は、神の人間に対する説明書です。説明書を読み理解してこそ、正しく考え、正しい行動を起こせます。夫は妻を、妻は夫を愛するには愛の法則が必要です。それは、すべて父と御子の関わりの中に啓示されています。聖書から愛することを学びましょう。

Ⅰペトロ3章1節 ②

同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫がみことばを信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。

愛には秩序がありました。父と子の秩序に男と女が造られました。夫の権威は妻を守るため、妻は夫に従います。それは忍従ではなく互いに愛し合うためです。

神より、「夫よ妻を愛せよ(守れ)、妻よ夫を愛せよ(従え)」と命じられても、それを守ることはできません。人には神の戒めは一つとして実行できません。それなのになぜ神は命じるのでしょうか。

モーセの十戒は、「神を愛し(一~四戒)、隣人を愛せよ(五~十戒)」に尽きますが、その第一戒の「わたしの他になにものも神としてはならい」に全てが帰結します。それは、「だれよりも私を愛しない」です。「わたしを愛せよ」は、神の自己中心の言葉ではありません。人は戒めを守れない者ですが、神を愛する時、神が戒めを守れるように導き、力を与えることができるから、「わたしを先ず愛せよ」と命じます。夫が妻を、妻が夫を愛することはできませんが、夫は妻よりも神を、妻は夫よりも神を愛するとき、二人は愛し合うことができます。

友よ。「夫よ妻を、妻よ夫を愛せよ」の戒めに従おうとすることは、先ず神を愛することです。すると神は、相手を愛せるようにしてくださいます。戒めは人の業ではなく、神の恵みによって成就できるからです。

Ⅰペトロ3章1~2節

夫がみことばを信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。

イエスを主と信じることは、人の命が変わることです。それは、命を共有してきたと思う伴侶には、見過ごしのできないこととなります。夫や妻がみことばを信じない場合、どのように対処すべきでしょうか。

最初に、なによりも「自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。(ヘブ10章35節)のみことばを握りしめてください。信仰者に与えられる報いは、本人を超えて家族に及びます。

次は、多くの言葉を語るよりも「無言の行い」である「純真な生活」によって神からいただいた命を表わしなさいと言います。現代は高齢者の交通事故が多発し、家族は運転免許を返すことを願いますがうまくゆきません。それに対してある人が、「老人を説得してはダメです。納得させない」と言いました。説得は、自分の考えを相手に押し付け服従させようとします。納得は、本人が自分の内側から同意することで、それは忠告する人の愛に負けるからです。

家族を主に導きたいと祈る友よ。「無言の行い」とある行いは、「歩み」であり「生き様」のことです。その生き様とは、「神を畏れる(神を愛する)」生活のことです。信仰は聖霊によって与えられます。あなたがすることは、神が働き易いように自分を整えることです。

Ⅰペトロ3章3~4節

あなたがたの装いは、…外面的なものであってはなりません。むしろそれは、柔和で…朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。

神の創造物には一つとして無駄がなく、さらにすべて美しいものです。神が造られたものが美しいのは、神御自身が愛という美しさを持っているからです。

神は、被造物の中で人間を一番美しく造られたはずですが、神から離れ自分を神として生きる人間は、被造物の中で一番醜いものとなりました。嘘をつき、悲しませ、傷つけ、殺人も犯します。罪人は、内側の醜さを隠すために、きれいな洋服、学歴、収入、住まいや車など、外面的なもので飾ります。それ以上に、自己欺瞞の象徴である高いプライドこそ外面の飾りですが、それらは朽ちるものです。 本当に美しいものは、愛なる神からいただくものだけです。それは、聖霊に満たされた人格です。

外面的なもので造られるものは、「肉の業(姦淫…偶像礼拝…争い…怒り…不和…ねたみ…)」です。御霊に満たされた人格には、「愛(喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制)」が宿ります。

夫や妻、他の人をキリストへ導きたいと祈っている友よ。家族や親しい人に福音を語るのは難しいでしょうか。否、近くにいる人だからこそ、あなたの変化に気づきます。外面的なものでなく、内面的なもので自分を飾ってください。彼らは見ています。

Ⅰペトロ3章4節

たとえばサラは、アブラハムを主人と呼んで、彼に服従しました。あなたがたも、善を行い、また何事も恐れないなら、サラの娘となるのです。

日本の習慣では、妻は夫を「主人」と呼びますが聖書的なのでしょうか。

サラは、神の声を聴いた夫アブラハムに従いウルから出て来たのですから、夫のような信仰の人に見えます。しかし、神から、「あなたから生まれる者が跡を継ぐ」(創15章4節)の言葉に、夫は信じましたが(同6節)彼女が信じたとは言えませんでした。

アブラハム99歳の時、主の使いが来て「…来年の今ごろ…あなたの妻サラに男の子が生まれている」と言った時、彼女は天幕の中で密かに笑いました。すると主の使いは、「なぜサラは笑ったのか。…なぜ年を取った自分の子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか」とサラを叱りました。このことを通して、サラは神を畏れる者となりました。すると、今までのサラにとって、アブラハムは肉における夫でしたが、この時からアブラハムは霊における夫(主人)となりました(以上、創18章参照)

愛する夫よ・妻よ。サラが夫を心から主人と呼べたように、自分が本当の「夫・妻」になれるのも、伴侶を心から「主人(リーダー)、妻(助け手)」と信頼できるのも、神を畏れる者になるときです。アブラハムとサラを、信仰の父母として見習ってください。

Ⅰペトロ3章7節

同じように、夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。

聖書は、夫にも妻に対しても「同じように」(1節)から書き出しています。それは、「キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残された」(2章21節)を指しています。それは、妻は、「主イエスが父なる神に従ったように」。夫は、「主イエスが人々のために自己犠牲を選んだように」、互いに仕え合いなさいとの勧めです。

ある信仰に富んだ兄弟が、「夫婦の問題の六割は男性の責任である。なぜなら男性はリーダーとして造られたから」と言いました。それは、「(主は)ののしられてもののしり返さず、苦しめられても脅かさず、正しくお裁きになる方にお任せになり…十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。…わたしたちが罪に死んで、義によって生きるため」(23~24節)が証明しています。

リーダーとして立てられた兄弟たちよ。「だから…男は怒らず争わず、清い手をあげてどこでも祈ることです」(Ⅰテモ2章8節)と。その時に祈る大事な一つは、冒頭のみことば「夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい」ではないでしょうか。神に従うことは、夫婦が共に命を豊かにすることです。

Ⅰペトロ3章8節 ①

最後に言う。あなたがたは皆、心をひとつにし、同情し合い、兄弟愛をもち、あわれみ深くあり、謙虚でありなさい。

(口語訳)

この手紙の2章11節からは、「聖別」を取り扱っています。聖別とは、「神の方に分けられる」ことです。それが必要なのは、神の子となっても、自分の「肉」と「この世」と「サタン」はなお存在するからです。それらから聖別されるには、「神の僕として行動する」(2章16節)こと、神と自分の正しい関係を保つことです。そのためには、「最後に言う。あなた方は…」ともう一つ必要なものがあると言います。それが、「あなた方」と言われる「教会」のことです。

バプテスマのヨハネは主イエスを、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と紹介し、「この人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」とも言いました(ヨハ1章29~34節)。しかし、獄に捕らわれてから僕を主のもとに遣わし「来るべき方は、あなたでしょうか」と尋ねさせます。彼の信仰は孤独により弱っていました。

人の信仰の要は、神と自分の関係と共に教会が必要です。神に生きることは、「神を畏れて生きる」ことであり「教会の中で生きる」でもあります。

友よ。「心を一つにし、同情し合い、兄弟愛をもち、憐み深く、謙虚」な命の豊かな教会であるならば、さらに神を畏れて神の僕となり、聖別の道を進めます。神の子の命は、主イエスと教会と共にあるのです。

Ⅰペトロ3章8節 ②

最後に言う。あなたがたは皆、心をひとつにし、同情し合い、兄弟愛をもち、あわれみ深くあり、謙虚でありなさい。

(口語訳)

信仰は神と自分の関係が一番大切ですが、一番を一番にできるためには、キリストの体なる教会の存在が重要です。教会が生き生きとしているでしょうか。

生き生きとした教会の姿が、「彼らは、① 使徒の教え、② 相互の交わり、③ パンを裂くこと、④ 祈ることに熱心で会った」(使徒2章42節)と啓示されています。

① 使徒の教え…聖書の解き明かし・メッセージ

三位一体の神を示す。人から見た神ではなく神から見た人について。聖書全体から主イエスと彼の御業を示す。神と人との関係を教える…何よりも語る人が、福音に命を懸けていないと命のメッセージになり難い。

② 相互の交わり…信徒同士の交わり・メッセージを分かち合う

礼拝や集会の後、互いの会話がこの世に入るのでなく、神中心であることが大事。

③ パンを裂くこと…礼拝

礼拝には、賛美、教え、祈りなどが含まれるが、中心はパンとぶどう酒による聖餐式です。それは、罪の赦しの十字架と復活の命の原点にいつも留まることで、イエスを主とすること。

④ 祈り…信仰

三位一体の神と私との人格的交わりです。祈りこそ、その実行です。

友よ。教会は発展していくのではなく、初代教会へ帰り、そこから今日も出発することです。

Ⅰペトロ3章8節 ③

終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐み深く、謙虚になりなさい。

(口語訳)

個人の信仰と教会は密接なかかわりを持ちます。戒めも、「神を愛し、自分を愛するように隣人を愛せよ」と記します。すると「自分」という存在は、「神」と「隣人(教会)」の間に存在するとも言えます。三者の関係を次のように例えることができます。

主が弟子たちを呼び寄せたことが教会の初めでした。弟子たちはその教会の中で信仰を持ちました。教会は、三位一体の神の中から始まり、2~3人主の名によって集まるところが教会となります。

教会はキリストの花嫁ですから、神の子たちにとっては母でもあります。もちろん、夫は主イエスです。教会なる母が生き生きとして健康であると、子供たちが多く生まれてきます。母親の健全さは、夫なるイエスとの正しい関係によって作られます。

命(聖霊)に満ちた母は、子供たちに豊かなみことばを与え、霊的環境を整え、品性を夫キリストに似たものに育てることができます。すると、そこで育った子供たちは成長の度合いに応じて、母(教会)を愛して一生懸命に仕えるようになります。

友よ。私たちは神の家族です。神と一人一人の継がりと交じりが信仰の要ですが、神の家族が心を一つにし、同情し合い、兄弟を愛し、慈しみ深く、謙虚であるならば、一人一人の信仰はさらに強くされます。

Ⅰペトロ3章9節

悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。

小羊イエスが諸々の悪の力に勝利し新しいエルサレムを待つとき、天使がヨハネに、「ここへ来なさい。小羊の妻である花嫁を見せてあげよう。」(黙21章9節)と言います。それは、あたかもキリストの花嫁なる教会の美しさを見せたがっているようにも見えます。

ある人が、「良い教会とはどんな教会ですか」と問われた時、「うちに(教会に)連れてくれば大丈夫だと言える教会です」と答えました。

その教会は、北風と太陽が力比べをし、暖かさ(愛)で勝利したイソップ童話の太陽のようです。そのように、「北風作戦ではなく、太陽作戦」を実行している教会です。それが、「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いず…かえって祝福を祈る」教会です。

ただし、教会は暖かいだけではなりません。「むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます」(エフェ4章15節)。愛から出ていない真理は裁きとなりますが、愛から出た真理は神の子たちを真に成長させます。

キリストの体なる神の家族の中にいる友よ。主イエスには「愛」と「真理」がありますから、不完全な者たちに互いを愛させる力があります。そうです、教会はキリストを語り合って共に生きるところです。

Ⅰペトロ3章10~11節

命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。

だれでも幸せな日々を送りたいと願っています。それは、貧しくなく、病気をせず、不自由なく、思い通りのことができる日常のことでしょうか。

冒頭のみことばは詩編34篇からの引用で、新共同訳聖書の冒頭には、「ビデの詩。ダビデがアビメレクの前で狂気の人を装い、追放されたときに」と記されています。ダビデは、サウル王の手を逃れ、敵の中で生き延びねばなりませんでした。そのために、狂人を装ってこの危機から逃げました。彼の人生の最悪で最もみじめな時のことを歌った詩です。

狂人を装うダビデでしたが、彼はサウル王の残虐と傲慢に仕返しをすることも、サウル王を倒して自分が王になろうなどとも考えません。彼は、「舌を制し、悪を言わず、唇を閉じ、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って」いました。

幸せな日々とは、神の前に罪を犯さずに過ごす日々ですが、実際に罪を犯さずに過ごせる人はいません。ただし、聖書がいう罪とは行いや過失ではなく、神から方向が外れている(的外れ)のことです。

友よ。ダビデは自分を狂人に偽りましたが、神の御前に罪を犯していませんでした。それは、ひたすらに「主よ、助けてください」と言っていたからです。

Ⅰペトロ3章13節

もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。

幸いな日々は、神の前に聖別を求める日々のことです。聖別とは、ひたすら神を愛することです。それはまた、「善いことに熱心」であるとも記されます。「善い」の原語は「やきもち」とも訳せ、それは「あまりの熱心さのゆえに嫉妬する」の意になります。

中国の伝道者、王明道(ワン・ミンタオ)師は中3の時に主を受け入れ、キリスト教主義の学校に入学。そこに金持ちの子弟が入学し、校風は乱れに乱れた。彼らに直接言うもわからないので、担当の先生に訴えた。すると、「学校の収入を維持するためには…」と反論される。その後、彼は皆から、「道徳博士、パリサイ人」と些細なことでも責められるようになる。

後に彼曰く、「これは非常に苦しい経験であった。だが、主は邪悪な敵を用いて、私をまっすぐにしてくださったのだ」と。彼こそ、善に熱心な者でした。神の子の魂に危害を加えるのは、外的な要因ではなく、私たちの不熱心さの中にあります。外側からの迫害があっても、「善いことに熱心」であるならば、神はそれを用いても魂を健康にしてくださいます。

友よ。紅海を渡るイスラエルにエジプト軍が襲いかかろうとした時、「神の御使いは移動して後ろに立ち、エジプトの陣とイスラエルの陣の間に入り」害を加えることを許しませんでした(出14章参照)。

Ⅰペトロ3章14節

義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。 心の中でキリストを主とあがめなさい。

神の子の生活上で受ける苦しみは、単純に「義のため」とだけ言えません。むしろ、自分の無分別のために困難や迫害に遭っていることも考えねばなりません。苦しみは、自分の「肉」、罪に支配された「この世」、そして「義」のためかを見極めねばなりません。

苦しみが肉からであれば自分の十字架を負って肉に死に、この世から来ているならばそれから離れねばなりません。しかし、己が十字架を負うことも、世から離れることも自分の力ではできません。もっと大切な解決方法は、その痛みや苦しみを利用しバネにして、神にさらに近づくことです。

マイナス(肉・世)を消し去ること以上に、プラス(神)を大きくすることです。マイナスを消してプラスにすることは律法主義の道に陥ります。プラスを大きくしてマイナスを小さくすることが、福音によって、恵みによって生きる信仰の道です。「事実、恵み(神の御業)により、信仰(恵みを受け取る)によって救われました」(エフェ2章8節)。

友よ。義のための苦しみとは、伝道して得る苦しみだけではなく、神の御心に従う内的な戦いも含まれます。宣教の戦いも、内的な戦いも、神の御心に従おうとする「義のための戦い」です。

Ⅰペトロ3章16節 ①

穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明…しなさい。そうすれば、キリストに結ばれた…善い生活をののしる者たちは…恥じ入るようになるのです。

善いことに熱心な者に害を加えようとする人々がいます。その人たちに対する弁明について、冒頭のみことばが教えています。

「穏やかに(やさしく)」
相手の非を攻撃するのでなく、無知を軽蔑せず
「敬意をもって(慎み深く)
神はその人のためにも十字架で死んでくださっていることを覚えて
「正しい良心で(明らかな良心)」
自分自身が神に従うことを第一として
文中( )は口語訳

「良心」は難しい言葉です。「あなたの・私の・国民の『良心』」などと混乱します。ある人が、「良心とは、私と共に他者が私の中に入り込んで、他者が主導的役割を演じ、自分は従うこと」と言いました。それを神の子に当てはめるならば、「良心とは、神と私が互いに語り合い、そして神に私が従うこと」とも言えます。神に服従する心こそ「良心」では。

友よ。誰もが自分を「良心=基準」としたがりますが、神の子は自分ではなく、神を「良心」とできます。すると、そこから出てくる行いは、「アガソス(神的行い)」となります。「人々が、あなたがたの立派な行い(カオス・神的行い)を見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(マタ5章16節)。

Ⅰペトロ3章16節 ②

穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明…しなさい。そうすれば、キリストに結ばれた…善い生活をののしる者たちは…恥じ入るようになるのです。

迫害し苦しみの原因をつくる人々に対し、事実、聖書のみことばに従って立ち上がった歴史上の人物が多くいます。その中の一人が、「マルチン・ルーサー・キング牧師です。(1968年暗殺により召天・39歳)

彼の言葉の中に、
  • 「我々の子供(黒人たち)らを脅すがよい。それでも我々はあなたがたを愛する。」
  • 「苦しみを負わせるあなた方の力に、苦しみに耐える神の愛をもって対抗する。」

このような行動は、「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません」(3章9節)そのものでした。その結果、「そうすれば、キリストに結ばれた善い生活をののしる者たちは、恥じ入るようになるのです」が実現します。キング牧師が指導者として立っていた間、黒人暴動は起きていないとも記録されています。 

愛によって、正しい良心(神の御心に従う心)によって人々は「ののしったこと(差別したこと)を恥じた」のでした。

信仰によって戦っている友よ。どのような場面でも、あなたが勝ってはなりません。主に戦って勝っていただくのです。キング牧師は主に負け(主に従う正しい良心)たので、苦しめる敵に勝利できたのでした。

Ⅰペトロ3章17節

神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。

神に贖われた者にとって、善とは神に従うことであり、その道を歩みたいと願うものです。しかし、現実はその逆の道を歩んでしまいます。

パウロは、ダマスコ途上で主と出会い、明確な救いを体験しました。そして、すぐに宣教しますが間もなく3年程砂漠に引き籠り、さらに14年してから使徒として公に活動しました(ガラ2・3章参照)。その間、彼は「霊と肉」の戦いをしていたことがローマ書7章でわかります。主は「狭い門から入りなさい。…その道も細い」(マタ7章13・14節)と言いました。狭い門、細い道は「霊の道」です。それは、肉に死んで霊に生きる道です。

宗教改革が行われている頃、アナバプテスト(再洗礼派)の人々は幼児洗礼を否定し、国教会から激しい迫害を受けました。ある捕らえられた兄弟が隙をついて逃げ出し凍った湖面を逃げていた。ところが後を追ってきた役人は氷が割れて沈みました。逃げる彼は引き返し助けましたが、後から追ってきた役人に捕らえられ殺されたという記録が残っています。

友よ。「人、友のために死ぬ、これより大きな愛はない」は「人、自分の肉に死んで友のために死ぬ、これより大きな善はない」ではないでしょうか。小さな善のために、小さな苦しみを喜ぶ一日となりますように。

Ⅰペトロ3章18節

キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。…キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。

「主イエスが十字架で人の罪を身代わりに受けとり、罪の価の死を支払われてので人は罪を赦されて義人とされる」は神の子の誰でもが信じていることです。しかし、「肉では死に渡されたが、霊では生きる者と…」を、「肉では死んだが霊では生きているので復活した」と解釈する人もいます。それは、「命あっての物種」となり、罪の本質が失われ全き救いはなくなります。

主の十字架上の死は、肉と霊の両方の「死」でした。ゲッセマネの園で「この杯を取り去って…」と三回祈るほど恐れていたのは、父なる神から離される「霊の死」でした。それが「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」との叫びとなりました。

「罪」が「死」なのは、命なる神から「断絶」するからです。主が十字架で人の罪の代価を払ったことは、「ハデス(陰府)」を過ぎた「ゲヘナ(第二の死の場所)」へ下る完全な死でした。主の復活は、イエス自身の命ではなく、「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」と父に委ねるほかありませんでした。

友よ。あなたは「キリストに死んで、自分で生きている?」ことはありませんか。それは、「建前では罪に死に、本音は自分で生きている」ことです。「我生くるにあらず、主我が内に生くる」となってください。

Ⅰペトロ3章19~20節 ①

そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。

ペトロはノアの洪水物語から、神の救いの御計画の奥深さと愛の深さを語っています。

ノアの箱舟に入ることは信仰告白であり、救い・神の国・教会を表していました。しかし入った者は8人だけで、他の者は裁きという洪水によって死にました。冒頭の「そして」とは、主がゲヘナに下り、父の神により復活させられてからのことを指します。すると復活の主は、弟子たちに御自分を現す前に、救われていない者(霊)たちの所に行き宣教されたことになります。しかし、この教えに異議を唱える者も多くいます。それは、「それなら地上でイエスを主と告白する必要がない」が理由です。

神の救いは地上で「信じて告白して」が条件であれば、フランシスコ・ザビエルが来た1549年までの日本人は皆ゲヘナに行ったことになります。それ以後も福音を聞いた人はほんのわずかですし、堕胎された子たちも救われずに地獄の火に焼かれたことになります。

友よ。「神は愛である」が確信です。神の愛は、「一人も滅びずに永遠の命」を与えようと主イエスを十字架に付けました。西洋神学を超えて、神の愛にもっと目を注ぐべきではないでしょうか

Ⅰペトロ3章19節 ②

そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。

神は裁き主でもあります。裁くのは、過失の罪ではなく本質の罪、すなわち神の命を持っているか否かです。神の命がない者を罪人、命ある者が義人です。神を「信じる・信じない」が決め手となるのは、信じる者には神が御子イエスにより、罪の贖いと霊の命を与えることができます。しかし、不信仰者には手を出せず、自分で自分の罪を支配せねばなりません(創4章7節参照)。罪の価は死です。

金持ちとラザロがいました(ルカ16章)。死んだ後、金持ちは神を礼拝していたはずなのにハデス(陰府)に、ラザロは信じたと記されませんが、アブラハムの所へ行きました。ここに地上を超えた霊の世界があります。そしてその目的は、「一人も滅びないで永遠の命を得させる」神の愛の配慮です。

ただし、神は厳格な救いの基準を定めています。それは、「イエスを主と信じ(告白し)、血潮により罪を赦され、神の命(復活)を受けて救われる」です。それは、地上でも霊の世界でも同じ原則です。

友よ。だから、今備えられた救いを受け取ることです。また、家族や友人知人にもそれを伝え、魂の救いのために祈ることです。また、自分が隣人に届かなくても、霊において主が届くことができますから、失望せずに祈り続けることです(ロマ10章11節参照)。

Ⅰペトロ3章19節 ③

そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。

一般的に、「人が死んだら天国か地獄へ行く」と考えますが、金持ちとラザロが死んでから行った所が違うことなどから、もう少し複雑であるとわかります。

パウロは、「私は、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられた」(Ⅱコリ12章2節)と言いました。すると、第三の天があれば第二の天があって当然です。そこから、この世の神の国が第一の天となります。

主は、「いまだかって、神(父)を見た者はいない、父のふところにいる独り子(イエス)である神」が父を示したと言いました。父のいる所が第三の天になり、ラザロが行った所は第二の天、金持ちはゲヘナではなくハデスでした。

なぜ神は、第二の天とハデスを備えたのでしょうか。それは、全ての人を救いたいからです。堕胎された子など、地上で福音を聞けなかった者は、第二の天のアブラハムの懐へ導かれて神を信じるように。金持ちは、自分勝手な信仰に気づき悔い改めて救われるためにハデスへ導かれました。神は未信者であっても「良心によって」も判断します(ロマ2章15節参照)。

友よ。一番確実な救いの道「主の十字架と復活」を、今、常時選ばねばなりません。「壺に油を入れていた賢いおとめたち」でいてください(マタ25章4節参照)。

Ⅰペトロ3章21節

洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。

ペトロは、地上でも霊の世界でも福音が伝えられていることをノアの洪水物語を通して語っています。洪水の裁きから救われたのは、ノアの家族8人だけでした。それでは、8人には洪水(裁き)は来なかったのか、否、他の人々同様に洪水が臨みました。神を信じなかった人々に臨んだ洪水は、彼ら自身が受け取らねばなりませんでした。それは死でした。

ノアと家族に臨んだ洪水は、彼らではなく、乗り込んだ舟(イエス)が受け取りました。それが「洗礼」でした。洗礼は、「体を水で清めることではなく、水に沈むこと…死ぬこと…罪の裁きを受け取ること。ただしイエスの十字架による」を表しました。彼らは、イエス・キリストによって洗礼・罪の裁きを受けました。彼らが舟に入ると、「主は、ノアの後ろで戸を閉ざされた」(創7章16節)のは、罪の裁きから守られるためでした。やがて水が引き、彼らは新しい命をもって、新しい神の国に生きる者となって行きました。

友よ。ダビデはバト・シェバ事件の後、罪を深く悔い改めますがそこで終わらず、「神よ、わたしの内に聖い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」(詩51篇12節)と求めました。すでに洗礼を受けている友よ。もっともっと聖い霊・聖霊を求めましょう。

Ⅰペトロ3章22節

キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力はキリストの支配に服しているのです。

ペトロは、「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました」(18節)と十字架を語り、次に「キリストの復活によって」(21節)と復活を語り、さらに進んで「キリストは天に上って」と昇天について語ります。

主イエスが通られた、「十字架、復活、昇天」には、それぞれに対する「勝利」がありました。

  • 十字架…「罪」に対する勝利
  • 復 活…「死」に対する勝利
  • 昇 天…「この世の権威や勢力、霊の世界の諸々の存在(天使や悪霊なそ)」に対する勝利

神の子は、主イエスの十字架によって罪に勝利し、復活の命にあずかって死に勝利しています。しかし、それですべてに勝利したとは言えません。それは、国家権力や独裁者や権力者、さらに悪霊もこの世に存在し、神の子たちを倒そうと襲いかかってきます。

しかし、それらに打ち勝つお方こそ、昇天し父なる神の右におられる小羊イエスです。「この者どもは小羊と戦うが、小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ」(黙17章14節)。さらに、「小羊と共にいる者、召された者、選ばれた者、忠実な者たちもまた、勝利を収める」(同節)と記されます。

友よ。人生におけるすべての戦いは、小羊イエスによってだけ勝利できます。自分で戦ってはなりません。

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