Ⅰペトロ2章1節
だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、
「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口」を捨て去れるのは、真理の朽ちない種から生まれ、魂を清め、愛に生きる神の子となったの「だから(結果)」です。
人は、過去、現在、未来の3つの時制で納得すると、実行に移すことができます。
それは単純に、これらがわかると正しい生き方かがわかります。もちろん、それは自分の真理を持つのでなく、主の真理を自分の真理(正しい生き方)とするからです。
信仰深く生きていた詩編の記者は、厳しい苦難に直面し罪を犯す直前まで追い詰められました。しかし彼は、「『彼らのように語ろう』と臨んだなら、見よ、あなたの子らの代を裏切ることになっていた」(詩73篇15節)と判断し、主に踏みとどまりました。彼が、「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口」を捨てたのは、彼の決意を超えた神の導きによってでした。それは、苦難の意味を知ろうと「ついに、わたしは神の聖所を訪れ」(17節)、神から知らされたからです。
友よ。その場の決断でなく、自分の過去・現在・未来を知って、不利に陥れる罪の罠から逃れてください。それは、いつも神殿に入り続けることです。
Ⅰペトロ2章2節 ①
生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。
赤子は、母親の乳の中に自分の命があることを知っているかのようです。同じく、神からいただく霊の乳の中に、神の子のすべての必要が入っています。
予防は、病気のマイナスを防いでも命は作れません。食べることは、命を作り、それが病原菌を駆除します。病を防ぐ最善は、命あるものを食べることです。
同じく、「…しない」と「…する」のどちらを優先するか。それは後者であり、聖書の世界がそうです。詩編73篇の記者も、「…しない」よりも、「神の聖所を訪れ、彼ら(神に反逆する者)の行く末を見分けた」ので正しい歩みができました。彼は、神の聖所に入り、霊の乳を飲む「…する」を優先したので、人生を間違わずに悪の道「…しない」に入らずに済みました。
律法主義の人とは、「…しない」を優先する大人ぶった人と言えます。一方、福音に生きる人は「…する(霊の乳を慕い求める)」幼子のような人のことです。
友よ。神を表わす名の一つに、「エルシャダイ」があります。これには「全能」と共に「母親の乳房」という意味があります。それは「子の必要を満たす神」を表します。主が「子供のように神の国を受け入れる人でなければ…入ることはできない」(マタ18章3節)と言われたことを思い出してください。
Ⅰペトロ2章2節 ②
生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。
赤ちゃんは、母乳だけでどんどん成長します。それは、「混じりけのない乳」を飲むからで、乳と共に炭酸飲料やお酒を飲ませたら成長できず病気になります。
「混じりけのない霊の乳」とは、「純粋な霊(聖霊)と乳(みことば)」のことです。その「聖霊とみことば」は、「キリスト直接」と言い表すこともできます。それが神の子には最も大切ですが、得るのは簡単ではありません。そのために、異なった教えに気をつけねばなりません。さらに、「霊の乳」ではあっても「薄められた霊の乳」があることも知らねばなりません。
そのことをエレミヤは、「生ける水の源であるわたしを捨て、無用の水溜を掘った」(Ⅰペトロ2章13節)と言いました。生ける水は「キリスト直接」であり、水溜の水は「みことば+人の考え」を指します。世の常識や指導者の個人的な考えや教会組織など、「神が人に願うこと」でなく、「人が神に願うこと」が水溜の水です。
友よ。体の食物以上に霊の乳に気をつけ、その乳が「生ける水」か「水溜の水」かを見分けてください。そのために、歴史上に神が興された霊の人の本を多く読んでください。それによって霊の目が養われ、混じりけのない霊の乳を見分けることができます。みことばと聖霊によって主イエスに直接つながってください。
Ⅰペトロ2章3~4節
あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい。
「動物は神に造られたように生きるので罪を犯さないが、人は神に造られたように生きることをしないので罪を犯す」の言葉は真実です。
人が罪を犯すのは、「人格」を持つからです。人格こそ、神が人に一番与えたかったものです。神御自身が三位一体の神であり、その愛の中に入れるために人を創造しました(ヨハ17章21節~参照)。愛は人格と人格の交わりで、それが愛であり命です。
そこから、「善と悪、義と不義・命と死・幸と不幸…」のどちらを受け取るかは、その人の決断に関わります。 神の子たちは、主の十字架、復活、聖霊の助けなど、「主が恵み深い方」であることを体験しました。ただし恵みの「細い道・狭い門」を行くには、肉を喜ばせる「広い道・広い門」を捨てねばなりません。
「東に向かったら、西のことはわからない。東の方に向いて、西の方もわかろうとする。ここに我々の信仰の不徹底さがある。西の方を知りたければ、西の人になればよい。両方をとって行こうとすることがそもそもの間違いである」(榎本保郎著より)は真実です。
友よ。「主の恵みがわかない」と言っていませんか。それは、東と西の両方に進もうとするからです。冒頭の、「主のもとに来なさい」の勧めは、「主の中に自分を入れたら、主の恵みがわかる」でもあります。
Ⅰペトロ2章4節
主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。
日本の木造建築による家は、大黒柱という天井まで届く太い柱を中心に建てられます。石造りの家は、四隅に一番大きな頭石を置き、それを基にして他の石を積み上げて建てられます。家は、個人の人生であり、キリストの体なる教会でもあります。
神は、ユダヤ人にイエスという隅の頭石を与えましたが、彼らは神と認めず十字架に捨て、引き続き「律法」の上に家を建てますが約40年後に崩れました(AD70年エルサレムの崩壊)。しかし、捨てたはずの頭石は三日後によみがえり、今も「生きた石」となっています。人生という家は、神の命(大黒柱・隅の頭石)を据えてこそ造り上げることができます。
命は命によってのみつくられ、育まれ、完成されます。命のないもの(富、能力、社会、家族、人々)で建て上げる人生という家は、ある条件と時の変化により崩れ去ってゆきます。 この隅の頭石は、「あなたこそ生ける神の子です」(マタ16章16節)と信仰告白する者に与えられます。
イエスを頭石としている友よ。頭石として一度受け入れて据えたとしても、その石(主イエス)は動くことはありませんが、あなたは常に動く者であることを忘れないでください。だから、今日も「イエスを主」と告白し続けないとあなたが滑り落ちます。
Ⅰペトロ2章5節
あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。
主イエスが「生ける石」ですが、あなたがたも「生きた石・聖なる祭司」だと言われると戸惑います。
主の祈り中に大事な三つの祈りの課題があります。
これらの祈りに、冒頭のみことばを重ねて理解することもできます。
友よ。あなたの信仰が確かにされて成長して「1. 生ける石」となり、キリストの体である肢体である「2. 霊的な家」とされ、そこから遣わされてすべての造られたものに福音を伝え、洗礼を施し、み言葉を教える「3. 聖なる祭司」となれるように祈りましょう。それには何よりも、自分自身を「霊的ないけにえ」として神に献げましょう。
Ⅰペトロ2章6節
「見よ、わたしは選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は決して失望することはない。」
日本語に、「肝心要」という言葉があります。「肝・心」は、体の最重要臓器の肝臓と心臓のことで、「要(かなめ)」は、扇の骨をまとめる小さな穴の部分です。肝臓は栄養を作り、心臓が体の隅々まで送り届けます。
聖書の「肝・心」は主イエスと聖霊ともいえます。人が生きる命の栄養はイエスの中にあり、それを聖霊が隅々まで届けてくださいます。まさに、主イエスと聖霊こそ、神の子たちが生きる「肝心」です。
さらに、しっかりとした「要」が必要です。神は、罪の赦し、復活の命、食物、仕事、家族やさまざまの賜物などを神の子たちにすでに与えておられます。しかし、正しい「要」によって一つにまとめられないと、争い、貪欲、不節制、傲慢などの肉の働きにかき回され、良いものも悪しきものへ変わります。
真理こそ「要」ですが、それはみことばを超えた「わたしが真理(ヨハ14章)」というイエス御自身です。その真理なるお方イエスを「主として生きる」ことこそ、その人が「要石・親石」を据えて生きることです。
友よ。父なる神は、主イエスを「肝心要(石)」なお方として与えてくださいました。しかし、それを据えるか横に置くかは、あなたの日々の決断=信仰にかかっています。今日も、要なる真理にまとめられて一日を歩んでください。
Ⅰペトロ2章7節
この石は、…信じない者たちにとっては、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」のであり、
第二次大戦後、だれもが求めたのは豊かさでした。あれから70年を経て豊かさは増し、電話、テレビ、種々の情報はポケットに入る一台の機器に収められました。しかし。それで人は幸せになりません。物理的豊かさは、もっと大切な命は貧しくしました。この最大の原因は、「神に選ばれた尊い石」が捨てられたからです。
かつては白人社会の中心に教会があり、そこから多くの宣教師がアフリカ、南米、アジアへ遣わされました。彼らは、人生の頭石なる主を伝え、男女平等や人権を語り、平和をつくる最大の恵みとなりました。
ユダヤ人たちは頭石を捨てましたが、同じ現象が今も起きています。それは、イエスを頭石としていた神の子と教会が(人中心になっている教会)、四隅の頭石の半分から主イエスを外し、「神も人も」の半焼きの菓子のようになっているからです(ホセ7章8節参照)。
その結果、人類は精神的病、家族の崩壊、国家の破壊へと進みます。それは、「世の光、地の塩」である神の子と教会の命の力が弱ったからです。
頭石の上に立つ友よ。個人も家庭も国家も崩壊してゆくのは、「イエスという頭石」を、「人間(フューマニズム・人間中心主義)」という頭石に変えたからです。あらゆる回復は、あなたが世の光と塩になり切ることです。すると、家族が、教会が、国家が変わります。
Ⅰペトロ2章8節
また、「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らはみことばを信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。
人生には多くのつまずきの石があるものです。高校、大学への進学、親友、職場、災害、事故、あるいは結婚も…と切りがありません。
しかし、どのような人生の「つまずき」であっても、本当のつまずきとはならず取り返せます。それは、「かなめ石」「親石」を受け取って据える時です。その石は、生きている石であり、全能の神、王の王、主の主、憐みと愛に満ちたお方です。
その石は、つまずき、悲しみ、どん底に落ちた者のさらにその下に横たわり、地獄の門を自らの十字架で塞ぎます。さらに、石には復活の命の力があり、倒れた者を持ち上げ再び生きる者へ戻します。「これを信じる者は決して失望することはない」(6節)と先に約束されていました。
人生の本当のつまずきは、神が用意してくださった主イエスと言う「生ける石、かなめ石、隅の親石」を受け取り据えないことです。「この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」(マタ21章44節)。
友よ。つまずきは、「みことばを信じない」からでした。み言葉を信じるとは、みことばを自分の中に受け取るのでなく、みことばの中に自分が入ることです。
Ⅰペトロ2章9節
あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それはあなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと導き入れ…力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。
聖書理解において、ユダヤ人の存在は重要ですが、度を過ぎても困ります。「アブラム」が「アブラハム(全て人の父)」とされたのは、主なる神を信じる者は皆、アブラハムの子孫であることを示しています。
それが冒頭の「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」の聖句です。それをパウロは、「内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく『霊』によって心に施された割礼こそ割礼なのです」(ロマ2章29節)とも言いました。
聖書理解に完璧はなく、完璧を求めると争いになります。聖書に求めるべきは、完璧ではなく「神の命」です。命を持つと、それが正しい理解と御心にかなって生きる人にします。「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです」(Ⅰコリ7章19節)。
友よ。あなたはどのようなプライドで生きていますか。イエスを主と信じ神の子となった者は、「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神の民」です。
異邦人のあなたが救われたのは、「神の力ある救いの業を、あなたがたが広く伝えるため」でした。神の子たちは、アブラハムの子孫であり、「神の選民(証し人)」です。さらに、イスラエル(神の王子)です。
Ⅰペトロ2章11節 ①
愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。
ペトロの手紙のメッセージを「恵みに立つ」と言え、さらに3区分に分けることができます。
神の勧告は、その人が抱えている問題に打ち勝たせるための厳しい愛です。それは、「あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを『力づける』」(詩23篇4節)のみことばにある、「力づける」こそ「慰め」であり、神の「勧め」の正しい理解となります。
神の勧めを受けた友よ。神の求める聖別は、「聖別されたら恵みを受ける」ではなく、「受け取った恵みを失わない」ために聖別という恵みに立てと言っています。勧めは、羊飼いの鞭であり杖のようですが、羊が間違った所へ行かないための「厳しい慰め」です。厳しい愛こそ、本物の愛ではないでしょうか。
Ⅰペトロ2章11節 ②
愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。
天国とは、曖昧模糊としたところではなく、その人の住まいであり、「存在場所」のことです。それは建物ではなく、愛し合う人と共に生きるところです。
その愛し合う人とは、家族、友人知人でしょうか。彼らは神が備えた愛する人々ですが、一番に愛する人々ではありません。彼らを一番に愛する人にすることは、天国をこの世に持つことになります。
そのことは、主イエスを二人称の関係におき、たとえ家族であっても三人称にすることです。それは、家族を冷たくあしらうことではなく、むしろ本当に愛することになります。神との密接な関係を持てる者こそ、家族を愛し隣人を正しく愛する人になれるからです。
聖書は、「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものは手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」(ヘブ11章)と記しました。主イエスを一番に愛する人が、地上を旅人、仮住まいとできます。
天国に移された友よ。地上の人は世と肉を求め、天国の人は神の霊を求めます。地上のものを求めると魂に戦いが起こり、天国を求める者は「心の貧しい者(霊の乞食)」となり、さらに天国を求めます。
Ⅰペトロ2章12節
異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりし…ても、あなたがたの立派な行いをよく見て…神をあがめるようになります。
「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい」(ヨハ15章18節)と主は言いました。この世もサタンも神に敵対しますから、主に従う者が迫害されるのは当然です。
迫害に直面する時、神の子はどのように対処すべきでしょうか。「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい」(マタ10章23節)ともありますが、ここではむしろ「立派な生活をして彼らを神に導きなさい」と言っています。しかし、人の力では迫害する者を祝福するような立派な生活などできません。
この「立派(カロス)」は、人間的な性格や道徳を超えた「(神の)美しさ」を表わし、「神的良さ=神による行い」のことです。主が十字架に付かれる前に香油の注ぎを受けました。主はその女に、「わたしに良い(立派な)ことをしてくれたのだ」(マタ26章10節)と言われました。「その良いこと」は、彼女から出たのでなく、十字架に行くイエスに自分を捨てて献げた自己犠牲でした。これこそ神から出た「良い」ことでした。
友よ。あなたが立派な人間になるのでなく、神に依存して必死に生きること、これが「立派な生活」です。その時、神はあなたにご自分の愛を注ぎます。その愛は隣人に注げるほどの大きな愛です。
Ⅰペトロ2章13~14節 ①
主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、…皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい
先に、聖書の言う「勧める」は「厳しい慰め」であると記しました。厳しいのは、知識や理想ではすまされない生きるための現実社会だからです。その厳しい現実の課題をペトロは5つあげました。
神はアダムとエバから人類を始め、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」と言われました。人が増えるに従って種々の制度や秩序が必要になりました。その過程で、王やリーダーや、さらに家族を営むにも戒めや制度が必要になってきます。
その中で、神の子たちは一般の人々とは違うもう一つの戒めを与えられています。それが「主のために」です。「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい」(コロ3章23節)。
世の狭間で悩む友よ。もろもろの制度や法律や人間関係がありますが、一番大切なことは、「神と自分の関係」を正しくして、そこから出発せねばなりません。「神の国と神の義」を求めることからです。
Ⅰペトロ2章13~14節 ②
それが統治者としての皇帝であろうと、あるいは悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。
有史以来、誰かが多数を支配する絶対者になり、その絶対者に抵抗して倒した者が次の絶対者になる、という矛盾を繰り返してきました。また、それらの絶対者が出現するには、進んで忠誠を尽して生き延びようとした人々が多かったからでこれも矛盾です。
ある人曰く、「人類の偉大な遺産の一つは、三権分立である」と。確かに、律法、行政、司法が独立して干渉し合う制度は、独裁者が為政者となるよりは悪を防ぐという点では歓迎されます。しかし、民主主義の最大の立ちどころである多数決が真理でもありません。
民主主義は、独裁や全体主義(共産党支配など)よりも、一人ひとりの人格を大切にできますが、そこにも大きな問題を抱えます。それは、人間中心主義(ヒューマニズム)になることです。神を抜きにした人間中心になり、かつてキリスト教国であった国々が陥っている罠です。そこでは、中絶も、同性愛も、同性婚も人権の名のもとに合法化されてゆきます。
ところで友よ。あなたの支配者は、あなた自身ではないですか。人間悪の根本は、神を神として崇めないことにあります。「神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主」(Ⅰテ6章15節)です。人の正しさは、支配してくださる方に拠るのです。
Ⅰペトロ2章15節
善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。
善をもって愚か者の口を塞ぐことなどできるのでしょうか。むしろ、厳しい教えと罰則をもって悪人の発言を封じるべきではないだろうか、と思いますが?
「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなく…」とある「栄光」は、「命・愛」の言葉に置き換えられます。人は、神の栄光を得られないので世に求めます。しかし、世も自分の栄光を求めるだけなので、自分の栄光を自分で作らねばなりません。
そこで造り出す栄光(命・愛)は、「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、ねたみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、泥酔、酒宴」などです。自分から出てくるものは肉の業だからです。
神の「善(カロス)」は、聖霊によってつくられます。そのすべては愛です。霊の結ぶ実は「愛(喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制)」です。「善」なる良き業は、神によらねば作れません。 「父、母、妻、子…捨てねば」の主の言葉は極論に聞こえますが、「捨てる」とは愛する順番を主イエスの下にする(捨てる)ことを指します。すると、聖霊は喜んでその人に仕え、以前よりも「父・母・妻…」を愛する御霊の実を結ばせてくださいます。
友よ。信仰の戦いは、最初に神を愛する戦いです。その勝利(神に負ける)によって善が生まれます。
Ⅰペトロ2章16節
自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。
ある国の国旗は、青(自由)白(平等)赤(友愛)の3色ですが、それら3つはどこにあるでしょうか。3つの中でとりわけ「自由」は最も大切と言えますが、何でもできる自由ではありません。自由の基準は、エデンの園の中央に置かれていました。園の中央は霊的世界を示し、「命の木」は「主イエス」を、「善悪の木」は「戒め」を表わしました。
善悪の木は、神が人に人格(主体的自由)を与えたゆえに置かれました。戒めは、神に継がり命を得る道と、神から離れ死に至る道を明確に教えていました。
また、「戒め・真理」を握る者が神ですが、アダムとエバはこの木の実(善悪・真理)を取って食べ、自分を神とする罪を犯しました。戒め・真理は、神に握られているからこそ真理となり命の道となります。
それは、神の戒めに従うこと、すなわち神に自分を支配していただくことで、ここに人の自由があります。 人の自由は。神への服従にあります。神を神とせずに人間中心主義の考えと行動は不自由を作り出します。
友よ。自由な人とは、「神に支配された主の奴隷のことです。冒頭の「自由な人の生活」とは、それは、「聖霊に満たされた人」(エフェ5章18節)であり、「聖霊の導きに従う人」(ガラ5章16節)のことです。
Ⅰペトロ2章18節
召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。
エデンの園の中央に、命の木(主イエス)と善悪を知る木(戒め)が置かれました。戒めに従うことは、主の奴隷となりますが自由人になれます。戒めを取って食べると、罪と死の奴隷となり不自由になります。
冒頭のみことば、「召使たち、心からおそれ敬って主人に仕えなさい」は、「召使たち、心から(神)を畏れ敬い、そしてこの世の主人に仕えなさい」ともできます。ここに、神を畏れ敬うことで世の主人に従うことができる、という優先順位が示されています。
さらにそれは、神の奴隷・僕・自由人にならないと、自分の気に入る主人には仕えても、無慈悲で気難しい主人に仕えることはできないと教えます。神による自由人になるか、自分で自由人として生きるかは「仕える ⇔ 仕えさせる」、「愛する ⇔ 愛させる」、「与える ⇔ 奪う」の違いが出てきます。
愛せない主人を持ち、戦う友よ。無慈悲な主人に束縛されたくないなら、主に束縛される本当の自由人になる以外ありません。もっと主に近づいてください
Ⅰペトロ2章19節
不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。
人の存在で一番大事なこと…両親、男女、人種、出生日、国籍、時代、能力…などは、本人の選択と責任を超えて決められました。唯一結婚は自分で決めたはずですが、そこにすら苦しみと苦痛が発生します。
人生の苦しみ苦痛の大きな要素に、存在したことや生きる「意味がわからない」苦痛があります。それがわかれば、出来事と状況は今までと変わっていないのに、苦しみと苦痛から解放され、むしろ今まで以上に明るく生きることもできます。
パウロは、「投獄…むち打ち…難船…盗賊の難…同胞からの難…偽兄弟たちの難…」(Ⅱコリ11章)など数知れない苦しみを受けていました。それに彼が負けなかったのは、苦しみの意味を知っていたからでした。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」(Ⅱコリ12章9節)「わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために」(Ⅱコリ12章9節)と。
友よ。詩編の作者も苦しみに呻きもがきました。そこからその意味を尋ねて、「ついに、私は聖所を訪れた」(詩73・17)時に納得できました。彼は、そこから再び雄々しく立ち上がって歩みだしました。