キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ルカによる福音書 第9章

9章1節

イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。

主は、突風を静め、悪霊を追い出し、長血の女をいやし、少女を生き返らせる奇跡を見せました。そして、その上で弟子たちを遣わしました。

使徒とは、「遣わされた者」の意で、「弟子」も同じ意味を持ちます。彼らが遣わされたのは、神の国を宣べ伝え、悪霊を追い出し、病気をいやすためでした。さらに、杖も袋もパンも、下着も一枚だけ、との条件付きです。

遣わされる者にとって大事なことは、第一に遣わすお方の御人格(言)を知ること。次に、そのお方の御心(言葉)を良く理解していることです。御人格(言)から、御心(言葉)を理解しないと、悪霊を追い出し病気をいやすことが最も重要なことになります。御人格を知っているならば、この世界と一人ひとりを神の国(神の支配)にするために遣わされている、という目標を踏み外しません。

友よ。あなたが自分の印鑑を預ける人はどんな人ですか。まずは私をよく知っている人です。次に、自分のためではなく私(預け主)のために行動する人です。ですから、聖書を読む時、神のあなたへの御心を知ること以上に、あなたが神御自身を知ることを求めてください。その時、神の御心が分かります。

9章3節

旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。

若者たちの無銭旅行ではあるまいし、そんなことをしたら皆さんに迷惑をかけ、良き証しにならない、と常識が顔を出してきます。

主の弟子が、皆に迷惑をかけるならば良き証しになりませんが、主の弟子が弟子としてのスピリットを欠くならば、弟子にもなれません。本物の弟子になることが常識に優先します。弟子の第一条件は、存在を主に委ね切ることです。それを表すのは、言葉ではなく生活そのものです。伝道者も公務員に準ずる(給料・待遇…)と決める必要はなく、伝道者はそれ以上に良きものを主から受け取ることができます。主は、実際に杖も袋もパンも下着も持つな、と言われたのでしょうか。それは、「自分のものとして持つな」とも受け取れます。すべて主のもの、との帰属意識が、キリストの弟子スピリットの大事な条件です。

友よ。もし、何も持たないならこの世を生きて行けませんか。しかし、「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし」(使2章44節)、「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」(4章32節)が実践されたら、どうでしょうか。

9章5節

「だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい。」

右の言葉は、自分を受け入れない者への腹いせや仕返しではなく、自分自身の限界を知ることを教えています。

エリヤは、キション川で四五〇人のバアルの預言者を殺し、雨を待った後サマリアにあるバアル神殿めがけてかけ出し、真夜中に着きました。バアルのいちばん中心となる神殿を壊し、とどめを刺すためでした。しかし、その夜聞いたイゼベルの言葉に怯え、ホレブ山まで逃げて洞穴に隠れました。彼は、疲れと孤独から神から遣わされが預言者であることを失っていました。そこに「風、火、地震」が襲ってきますが、その中に神はいませんでした。神は、「エリヤよ、風(リバイバル)も地震(バアルを砕く)も火(清め=イスラエルの宗教改革)もお前が起こさなくてもいいよ」と語られたのでは。エリヤはここで引き下がりました。

神は、あなたに宣教を託されますが、時には引き下がり、後の時を待つことも命じています。エリヤが山を下り、エリシャにバトンタッチし、神の御計画はエリシャを通して成就しました。

友よ。「行け」と言われる神は、「引け」と言われる神でもあります。失望してはなりません(以上列王記上17章より)。

9章9節

ヘロデは言った。「ヨハネなら、わたしが首をはねた。いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は。」そして、イエスに会ってみたいと思った。

このヘロデは、財産をつぎ込んでローマ帝国からユダヤ王の称号を得、ユダヤ人の歓心を買うために神殿まで建てたほど権力に執着したヘロデ大王の、三人の息子の中の一人です。

父ヘロデは、幼子イエスの出現を聞き、ベツレヘムの二歳以下の男の子を殺しました。息子ヘロデは、バプテスマのヨハネの首をはねましたが、イエスの存在をバプテスマのヨハネの生き返りかと疑い恐れています。この家族は、権力と富によって幸せを得ようとした結果、不幸のどん底へ落ちて行きました。

平和は、「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって、と万軍の主は言われる」(ゼカ4章6節)。

友よ。だれの心にもヘロデが住んでいます。権力者が恐れるのは、いつでも自分以上の権力者です。ヘロデのように自分を中心(権力)とするなら、主イエスを「恐れ」ねばなりません。しかし、主イエスを自分の上の権力とする者は、主イエスを「畏れ」るようになります。自分を主とする心には神への恐れと不安があり、神を畏れる者には平和(正しい関係)と平安(正しい平和によりつくられる愛)が与えられます。

9章10節

使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。

主から遣わされた弟子たちが帰り、主に報告しました。そして、主と弟子たちは群衆を避け、彼らだけになれる所に退きました。

弟子たちは、悪霊を追い出し、病気をいやし、神の国が来たと伝え、意気揚々と帰り報告したに違いありません。しかし、今日の日本の、主のしもべである多くの牧師や主の働き人たちは疲れています。それは、主に遣わされた確信を持てず(2節)、霊的権威を持てず(1節)、さらに宣教の実を手にできずに焦っているからです。

それ以上に大きな理由は、「主と共に退く」ことが欠けているからです。主と共に退くとは、休みを増やし、良きセミナーで学ぶこと以上に、日々の生活をみことばの中に入れることです。米国より、日本のある教職セミナーに招かれた講師が、「結局、皆が聞きたいことは方法論で、本質論ではなかった」と残念がりました。

友よ。弟子たちはみことばの中に生活を入れました。それは、「何も持たず…杖も袋もパンも金も…下着も…どこかの家にとどまり…」(3~6節参照)などです。それがあってこそ、「私を遣わされた主は生きている」と大胆に権威をもって伝道できるのでは!

9章13節

イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」

五つのパンと二匹の魚の記事は、四福音書全てに(特にマルコ書には二回も)、合計五回登場します。これは、パンを食った話でなく、人を食った話(?)でしょうか。

奇跡と異象は違います。異象は、普通ではない異常現象のことです。奇跡は、神が見えない霊の世界を見せるために起こす現象です。その典型が、五千人の給食の記事です。

自然界の法則は引き算で、化石燃料を燃やせばその分は無くなり、そこには争奪戦が起きます。世界の歴史は、引き算の法則に翻弄され、その法則が実行され行き着いた先が戦争でした。

さらに、一粒が数百粒に増えるという生命の法則もあります。これは恵みの法則ですが、温度、雨量、海中、陸地、生存競争などの一定の条件が整わないと途絶えますから、そこにも限界があります。

もう一つの法則は、愛の法則です。だれかが食べると他の人が飢えるのではなく、むしろより多く余ります。

さあ、神に招かれた友よ。自己中心の引き算も、自然界の法則も超えた、「多く集めた者も、余ることはなく、わずかしか集めなかった者も、不足することはなかった」(Ⅱコリ8章15節)愛の法則に身を置いてください。神はあなたのために多くの恵みを用意して待っています。

9章13節

「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人のために食べ物を買いに行かないかぎり。」

主と弟子たちが退いたのに、大勢の人が話を聞こうと押しかけ、夕方になりました。そろそろ食事が心配になってきました。

主が、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われたことを弟子たちは理解できず、買い出しに行こうとします。神の子たちも同じ反応をするものです。父は御自分の子たちに、みことばのパンと、湧き上がる水の井戸を与えておられますが、パンを主に求めず、命の水を聖霊に求めないで自分で買い出しに走ります。

アブラハムに、「主の山に、備えあり」(創22章14節)と語られた神の「備え」とは、一匹の雄羊なるイエス・キリスト御自身でした。その雄羊は今も木の茂みに角を捕えられている「屠られた小羊」(黙5章12節)です。

友よ。あなたにはパン五つと二匹の魚である、豊かな霊の食物が既に備えられていますが、それは自動的に口に入ってくるのではありません。毎日、壺から粉(みことば)を出し、瓶から油(聖霊)を取り出すならば、「壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった」(Ⅰ列17章16節)エリヤが滞在したサレプタの出来事があなたの現実になります。

9章16節

イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。

五千人が食事を得ました。だれかが食べると自分に無く、自分が食べれば他者に無いと言うものではなく、食べるほどに余る食事でした。

引き算の自然界の法則、条件付きの生命の法則、さらに愛の法則がありました。その愛の法則とは、「キリストを食べる法則」と言えそうです。

中国四川省の山村に住む末期がんの夫人が、夫に聖書を探してもらい読み出しました。一冊の聖書から、五年弱の間に二万人のクリスチャンがおこされました。その事実から、五千人の数は現実の出来事と信じられます(著者現地視察済)。「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。『取って食べなさい。これはわたしの体である。』」という聖餐によって、今日も何億もの人が主イエスの復活の命をいただき続けています。

友よ。この世にだれをも満腹させ、しかも十二籠もの余りをつくるものは、主イエスという命のパンのほかに何がありますか。キリストのパンは、愛・命・悔い改め・成長・自己犠牲・隣人愛などの果実を結びます。あなたは、そのキリストを信じて満腹していますか。

9章17節

すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。

五つのパンと二匹の魚は、五千人のお腹を満たし、余りは十二籠にもなりました。

十二人の弟子が配分したとするならば、弟子一人が持ったパンは一個の半分ほど、魚は一匹の六分の一ずつ持って配ったことになります。それなのに一人に分けた後、どのようにパンと魚は再生したのか? 考えれば考えるほど分からなくなります。もちろん、物理的なことは分かりませんが、霊的現実は今も見ることができます。

みことばの一節は、聖書一冊からすれば一個のパンの万分の一です。それが人の中に入ると、パン種のようにその人全体を変えます。しかし、その人は聖書全体をまだ食べて(読んで理解して)はいません。一言、一節、一章が一人の人を変え、その人によって周りにも影響を与えるのは、その人の知識を変えたからではなく、命を変えたからです。命は、出会いによって生まれます。一言、一節の中に、キリスト全体が存在しているからです。

友よ。あなたが神の子であるのは、聖書を理解したからではなく、みことばを食べたからです。あなたの命が神の子に成長したのではなく、みことばの命(聖霊)が神の子の命を与え、その命が、あなたが今まで持っていた知識と行動を変えたのです。今日も命のみことば、聖書を一節、一段落でも必ず食べてください。

9章18・20節

イエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。…『洗礼者のヨハネ…エリヤ…」…「それでは、あなたはわたしを何者だと言うのか」。

主は、御自分をより明確に弟子たちに現すために、ヘルモン山の近くに連れ出しました。

そして弟子たちに、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」と問います。彼らは「洗礼者ヨハネ・エリヤ・昔の預言者」などと答えました。今日でも、人々は主イエスを架空の人物、実在した立派な人、預言者の一人、キリスト教の教祖…などと答えています。しかし、人々が何と答えるかは重要ではなく、次の質問、「あなたはわたしを何者だと言うのか」が大事です。「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まって」(ヘブ9章27節)おり、その裁きは人々がイエスを何と言っているかではなく、「あなたは、神の子イエスをどのように信じたか」の一点に帰します。

友よ。この「あなたはわたしを何者だと言うのか」の質問は一人残らず必ず受け、その返答により魂の行く末が決まります。「もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。…彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。…その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた」(黙20章12~15節)。「裁きと死」という厳粛な現実が無ければ、主は十字架などへ行く必要はなかったのです。

9章20節

「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」

ペテロが正しく答えたことに安堵します。

マタイは、「あなたはメシア、生ける神の子」(マタ16章16節)と記しました。直訳では、「キリスト(メシア・神)、神の子(子なる神)、生ける(永遠の)」だそうです

完璧なペテロの答えでしたが、主は、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と諭しました。ここを意訳すると、「あなたがそう答えられたのは、天の父が遣わした聖霊の力によるものだ。あなたはあくまでもヨナ(罪人)の息子(バル)シモンなのだから、決してこのようには言えない」となります。

「イエスは主(キリスト)」と告白できるのは、決して人から出たものではなく、神の恵みの賜物です。

友よ。あなたは、主イエスをメシアと告白していますが、果たしてそのように生きていますか。あなたが主(メシア)となってイエスを従わせるなら、あなたの力で生きねばなりません。しかし、イエスをメシアとして従うなら、メシアの力で生きることができます。今日こそは、イエスを主として生きる決心をし、一歩でも前に進んでください。

8章21節

イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて…言われた。

主イエスのことを、「神からのメシア」と答えた弟子たちに、これらのことをだれにも話すなと命じられました(21節)。

なぜ、主は禁じられたのでしょうか。それは、「イエスは主」であることは、人の知恵や知識で説明しても理解されず、「聖霊によって」(Ⅰコリ12章3節参照)のみ理解され、告白されるからです。さらに、聖霊から受け取る命と共に、十字架と復活によってこそ、まことにイエスが父の独り子の神であることを確信できるものだからです。

主御自身も、「ヨナのしるし」(マタ16章4節)によって自分が神だと理解されると語られました。それは、ヨナのように魚に呑まれ(十字架=罪の赦し)、三日後に吐き出される(復活=新生)信仰体験によってです。

友よ。あなたの信仰は、知識ですか、それとも証し(体験)ですか。ヨナが神から逃げた理由は、彼が神の言葉を真剣に受け取ったからです。それで彼は、恐れが出てきて逃げたのではないでしょうか。だから、神はヨナを愛し、追いかけ、魚に呑ませ、復活の祝福を与えることができました。十字架と復活の経験は、みことばに対するヨナのような真剣さから始まります。今日も、みことばに真剣に向き合ってください。

9章22節

「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」

弟子たちの心の中には、この力あるお方に従えば自分たちの将来も開ける、との思いもあったのではないでしょうか。ですから、主のこの言葉は弟子たちを失望させました。

するとペテロは、「イエスをわきへお連れして、いさめ始め」ました。イエスが殺されてしまったら、自分が今まで主に従ってきた日々が水の泡になる、と思ったからです。それに対し主は、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」(マコ8章32~33節)と厳しく叱りました。神の御心は、イエスの十字架による罪の赦しと、復活の命による神の国の実現でしたが、弟子たちは主の十字架なしの神の国を待ち望んでいました。

ある聖徒が、ペテロへの厳しい主の言葉を、「ペテロ、あなたの地位はわたしの後であり前ではない。あなたはわたしの進む道に従って来るべきであり、自分が行おうとする道にわたしを導くべきではない」と書き残しています。これは、アーメンです。

友よ。主の前でも横でもなく、主の後に、十字架の後について行くのが弟子としての道です。神の国は、十字架を通らずには、来ることも、実現されることも決してないのです。今日も、自分の十字架を負って主に従ってください。

9章23節

それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

「自分の十字架を背負って…」のみことばは、ここを含め福音書の中に五回も記されています(同14章27節・マタ10章36節・マコ8章34節・ヨハ12章26節)。これは、神の子が成長(聖別)するための鍵となるみことばです。

多くの場合、「自分の十字架」と聞くと、自分に負わされた重荷(出生・家族・病・事故・社会の歪み・仕事・負債・償い…)と誤解するようです。また、神の子たちの中には、キリスト教は恵みの信仰なのに、行い(自分の十字架を負う)を求めるのか、と言う者さえいます。「自分の十字架」とは、負うべき「重荷」でも、求められている「行い」でもありません。十字架を負うとは、「人の肉(自己中心性)」に対する「死(十字架)」の必要性を教えているのです。

友よ。あなたに完全な神の子の命が宿っているにも関わらず、不完全な自分の命で生きていませんか。あなたは主に出会ったのに、そこから主と共に歩いていますか、それとも古い自分のままですか。出会っただけか、ついて行くかは、自分の十字架を負うか否かで分かれます。「我に従え」とは、「わたしと共に歩もう」との勧めです。

9章24節

「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」

ドイツのある哲学者が、「あれも、これも」と説き一世を風びしました。それに対しデンマークのキルケゴールは、「あれか、これか」と主張しました。ドストエフスキーの小説は文学の中の文学と言われますが、三浦綾子作品は文学にはならないと評する人もいます。その理由は、前者は「キリストも世も」であり、後者の三浦綾子は「キリストのみ」だからだそうです。

一般の評価がどうであれ、神の子であるとは、自分の生き方に足りない何かを装飾品として付け足すようなことではありません。今までの古い自分を脱ぎ捨て、新しくキリストを身に着けることです。「あれも、これも」ではなく、「キリストのみ」です。

「洗礼を受けて(古い自分に十字架によって死に)キリストに結ばれた(復活の命に生きる)あなたがたは皆、キリストを着ている(キリストによって生きる)からです」(ガラ3章27節)。

友よ。自分の命と主の命、どちらに価値がありますか。「織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎ当て」(マタ9章16節)してはなりません。あなたは、主が織ってくださった神の子の服を着せられました。その服を切り、自分の肉を繕うなら両方ともだめになります。むしろ古い服を脱ぎ捨て、いつも新しい救いの衣を着て生きてください。

9章25節

「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。」

ほとんどの人は、全世界を得ることが、自分を救う最大の方法だと考えています。だから、自己主張こそすれ、自分を退けることはしません。

自分を十字架につけるとは、自分の考えを持たず、主張せず、自分を無にし、思考を停止することでは決してありません。信仰とは、むしろ理性と意思を最大限に用いることです。

神は、「産めよ、増えよ、地に満ち…従わせ…支配せよ」(創1章28節)と、人の知恵と意思を重んじられます。しかし、「正しい者はいない。一人もいない」(ロマ3章10節)とあるように、人は罪に支配され、神から最初に与えられた正しい知恵と意思を失いました。そこで、神の御心が示されたならば、自分の考えや計画を自分で捨てるのではなく、神の真理の下に置くことです。それが「自分の十字架を背負う」ことです。

友よ。十字架を背負う(自分の考えや思いを、主イエスの御心の下に置く)と、神の正しい知恵があなたの考えと思いを、時に修正し、退け、あるいは確信に導きます。神に支配されることが十字架を背負うことだからです。すると、神の愛と真理によって、無理強いでない納得を得、平和な心に包まれ、愛によっての行動が始まります。

9章26節

わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。

愛の神と主イエスを恥じる人がいると言います。「恥じる」人とは、無視し退ける人ではなく、神から顔を逸らしたい人のことではないでしょうか。

「神は愛です」(Ⅰヨハ4章8節)は事実ですが、だから人は何でも許され、無視されることもない、と言うのは独り善がりな考えです。愛してくださる方には、ほかの誰によりも真実に応えねばなりません。「愛は…礼を失せず」(Ⅰコリ13章5節)です。しかし実際は、神が人から顔を背けることはなく、むしろ人が神から顔を背けます。神はみことばと聖霊によって働かれますが、人がみことばを恥じると(退け・無視すると)、その人に語りかけることができなくなります。結果的に、神が人に顔を背けたことと同じになります。

主のもとに富める青年が来ましたが、主のみことばを聞き、悲しみながら立ち去って行きました(マタ19章16~22節参照)。しかし、立ち去らずに、「主よ。私は、どうしたら財産を貧しい人に施すことができますか」と問うたならば、「人間にはできないことも神にはできる」(26節)との次に語られる主の言葉を聞くことができたのです。

友よ。みことばを恥じ、顔を背けてはなりません。

9章28節

この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。

主は、ペテロ、ヨハネ、ヤコブの三人だけを連れて山に登られました。

ルターが宗教改革を進めているころ、イギリスにウィリアム・ティンダルが起こされました。紀元五百年ごろから、聖書はラテン語とギリシャ語以外の訳は禁じられ、みことばの光を失った暗黒が千年続きました(暗黒の中世は、聖書の光を失った暗黒と言えます)。彼は、聖書が神の息吹によって書かれたもの、聖句の一つひとつが人の精神と肉体に作用を及ぼすもの、水やパンと同じに人を養う糧であると確信します。彼が道端で農民たちにみことばを語ると、彼らの魂は生き返りました。そして、ティンダルは聖書を英訳する決心をし、ドイツに逃げ、一五二五年に完成させました。しかし、七年後に牢獄につながれ、一五三六年に火刑に処されて殉教しました。ティンダルは、三人の弟子たちのように、主に連れ出された人でした。

神は、御自分の命を人々に分けるために、ある人を特別召し出します。それは、差別ではなく特権と使命です。

友よ。ペテロやティンダルだけでなく、あなたも主に連れ出されたから今の場所にいる尊い器なのです。使命は、重荷ではなく、生きる力です。

9章29・30節

祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。

ヘルモン山で祈っていると、イエスが変貌(へんぼう)し、そこにモーセとエリヤが現れてイエスと語り合っていました。

ここは、「イエスは主(神)」であることを、鮮明に表した代表的な場面でした。イエスの様子が変わったこともそうですが、モーセとエリヤが出現したからです。彼らは旧約聖書を人格化したような人物で、モーセは「律法さん」、エリヤは「預言さん」そのものでした。

そして、主と彼らの会話は、モーセ…「主よ、あなたが私に与えてくださいました律法が全うされるのは、あなたの十字架によってです」、エリヤ…「主よ、私たちが預言したメシアはあなたです。罪の代価を支払うために十字架に行かれるあなたをあがめます」…だったのでは!

ベツレヘムで生まれ、ナザレで育ったイエスは、預言者が預言したように、神が人として来られ、律法を完成する神そのお方です。

友よ。あなたは旧約聖書をよく読み、メッセージを聞いていますか。新約聖書だけでは、救い主の姿も、罪も、贖いの理解も軽薄になります。モーセとエリヤなる旧約聖書が、イエスをキリストと証しするのですから、聖書六十六巻は同じ価値をもつみことばです。

9章32節

二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。

三人の会話は、これからエルサレムで遂げる十字架についてでした。主は、弟子たちに旧約聖書が成就した現実を見てほしかったのです。

旧約聖書(旧約時代)のメッセージは、①神が万物を創造し ②御自分の「形(同じ命)」と「型(三位一体の神の姿・男と女)」に人を造られた ③しかし、人は神から離れ死を受け取る者となった ④そこで、神が自ら来て十字架で贖い、神の子に回復させる、ことでした。

旧約の大きな目的の一つは、神の来臨と御業を預言することでした。イエス・キリストこそ、旧約聖書の預言の成就でした。主が、モーセとエリヤをこの場に招いたのは、弟子たちに旧約聖書が今、成就したことを確認させたかったからでした。

友よ。旧約の人々は、動物犠牲や幕屋を通し、間接的に神を見ました。新約に入っても、肉体を持った主の姿を見た者はわずかです。しかし、現在の私たちは、旧約の人々はもとより、初代教会の人々よりも、もっと主イエスをはっきり見ることができます。それは、聖書が完結しているからです。「わたしたちが聞いた…目で見た…見て、手で触れたもの」(Ⅰヨハ1章1節)。それは私たちの実体験です。

9章32節

ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。

主イエスの変貌(へんぼう)の姿に、弟子たちは腰を抜かしたのでなく、眠気に襲われていました。眠気をこらえた後に、モーセとエリヤが見えました。

聖書を理解するのが難しいのは、「言葉」ではなく、「言」を理解せねばならないからです。「言葉」は人の知識で理解できますが、「言」は聖霊の知恵によってのみ理解できます。

ヨハネが、「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について」(Ⅰヨハ1章1節)と伝えたのも、「言=イエス・キリスト」であり、「永遠の命」(2節)なるお方でした。さらに、モーセとエリヤに語ったのは、「言」なる主イエスです。彼らは、「言なるイエス」を伝えるために召され、旧約聖書全体の使命も、キリストを指し示すことでした。

旧約聖書を読むと眠くなると言う友よ。実に、弟子たちも、モーセとエリヤが目の前に現れても見えていませんでした。眠くならない読み方は、モーセとエリヤが主イエスと一緒にいることを思い出し、旧約の中にイエスを探すことです。すると、旧約と新約の壁は消え、すべてが生きたみことばになります。

9章33節

「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」

ペテロはまるで寝ぼけているかのようですが、多くの人も彼と同じことを言っています。

眠気から覚めたペテロは、世のものと思えない光景を見ました。彼にとっては、モーセもエリヤも、高い所にいる大聖人でした。一方、主イエスは日々自分と共にいるお方です。この時、ペテロは「小屋を三つ…あなたと…モーセ…エリヤのため」と提案しました。彼は、モーセとエリヤと主イエスに、いつまでもいてほしかったのかも分かりませんが、この提案は間違いでした。それは、モーセとエリヤを、主イエスと同レベルの人物に考えたからです。「神は(主イエスは)彼らのために(モーセやエリヤに)都を準備されていたからです」(ヘブ11章16節)とあるように、モーセもエリヤも主イエスによって救われる者たちです。

この間違いは、今でも現実に起きています。それは、教団、教会、牧師、兄弟姉妹などを、主と同じ位置に置いてしまうことです。上に立つ者の責任もありますが、あなたが彼らのために小屋を建て、キリストと同じ者として迎えてはいませんか。

友よ。「鼻から息する者」(イザ2章22節)に気を付けてください。信仰は、「イエスを主」とすることのみです。

9章35節

すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。

主イエスの変貌とモーセとエリヤの出現は、弟子たちを神の御臨在の雲に包みました。

この場面を設定された神の目的は、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と、雲の中から響いた声に要約されます。聖書の中で、多くの預言者や王や人々に語られた神の言葉のほとんどは、主イエスによるもので、父なる神の直接の声は稀です。その稀なる御声の一つが、この時に雲の中から響いた父なる神の御声でした。

父なる神はここで、「イエスはわたしの子であり、わたしが選んだ者(キリスト)」であると宣言します。さらに、イエスをキリストとして選ばれた神は、御自分がイエスにすべての権威を委ねたことを証明するために、「これに聞け」と命じました。

したがって、人の救い、成長、完成、永遠の命、死、裁きなど、すべては主イエスの言葉にあることを、父なる神が宣言したことになります。

友よ。御子イエスについて証言した父なる神は、あなたにも、「これ(あなた)はキリストによるわたしの子。わたしがキリストによって選んだ者(祝福した者)」と宣言しておられます。イエスは父なる神により、私たちは主イエスにあって生きるのです。いつもいつも、主イエスの御声を求め、聞き、従い続けてください。

9章36節

その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。

ペテロとヨハネとヤコブにとっては、イエスがヘルモン山で変貌した出来事は、畏れを超えた恐れになるほどの衝撃でした。

「これは夢か幻か」と自分を疑ったことでしょうが、しかし現実が残っていました。それは、「そこにはイエスだけがおられた」ことです。モーセもエリヤも救い主ではなく、主イエスの証人です。証人は、証言が終われば引き下がり、当人が残ればそれで十分です。

バプテスマのヨハネは、「わたしはメシアではない」と言い、「自分はあの方の前に遣わされた者だ」とも言いました。さらに「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(ヨハ3章28~30節)と加えました。後の主イエス御自身も、「ヨハネは、燃えて輝くともし火(わたしを照らし燃えてなくなる)であった」(ヨハ5章35節)と証言しました。

愛する友よ。仕事も大事な家族や健康すらも、いつまでも残るものではありません。さらに、聖書を読み、メッセージを聞き、祈りを重ねても、それらすらも消えていきます。しかし、最後に残るのは「イエス・キリスト」です。

友よ。それでいいのです。それが最も良いことです。そこに、主イエスがいてくだされば!

9章39節

悪霊が取りつくと、この子は突然叫びだします。悪霊はこの子にけいれんを起こさせて泡を吹かせ、さんざん苦しめて、なかなか離れません。

悪霊に取りつかれた息子の父親が、主に助けを求めました。息子の様子は異常に見えますが、同じ現象は昔も今も変わらず起きています。

この異常現象とは、制御不能になったことです。親も制御できず、本人も自分を制御できません。その根本原因は、神の制御から外れたからです。子供は親に、親は神に制御されてこそ正常になり、その親に子が正しく愛されて(制御され)て、自制や忍耐が生まれます。

すると、罪に支配された人は、悪霊の支配下にあるとも言えます。だから、学問を積み、理性的に見える為政者が戦争を起こして、何万人も死に、殺す人が正常で、死ぬ人が異常にされる世界が続きました。何よりも、まことの神を信じないことが正常で、信仰を持つことが異常にされる社会こそ、まさに悪霊の支配下にあります。

人類の歴史を見ると、自分が正常(自己義認)であることを主張した者ほど異常で、自分が罪人だと自覚した者は、神によって義人(正しい人)にされました。 「心の貧しい人々…悲しむ人々は、幸いである」(マタ5章3~4節)。

友よ。罪の中にとどまらず、聖霊に満たされて(支配されて)歩んでください。

9章41節

「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子供をここに連れて来なさい。」

弟子たちには、悪霊に支配された子供を解放することができませんでした。その姿を見た主は、弟子たちにがっかりしています。

悪霊から解放するには、権威がなければできません。権威とは、神から移譲されて持つものです。イエスと律法学者の違いは、「彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった」(マタ7章29節)に見ることができます。律法学者たちは「説教」をし、イエスは「メッセージ」をしました。「説教」は、「説」明し「教」えることで、人の知識でもできますが、そこに権威はありません。

メッセージは、「神の言葉」なので権威を持ちます。悪霊から解放するメッセージは、罪からの解放のメッセージでもあります。それは、罪を示し、悔い改めさせ、十字架を示し、イエスを主とすることへ導きます。

友よ。あなたが聞いているのは説教ですか。それともメッセージですか。説教ならば頭の理解でも十分ですが、メッセージならば従い実践せねばなりません。「みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて聞くだけで終わる者になってはいけません」(ヤコ1章22節)。

9章41節

「あなたの子供をここに連れてきなさい。」

悪霊に取りつかれた男の子をどうにもできない弟子たちの様子を見ていた主は、子供を自分のところに連れてくるように言われました。

日本の教会に集う兄弟姉妹は高齢化し、子供や青年たちは少数です。クリスチャン家庭の子でも、教会につながらない現状に心が痛みます。その理由の一つは、親が教会まで子を連れて来ても、その先の主イエスのところに連れて行けなかったからです。

悪霊に取りつかれた子の親は、初め弟子たちのところ(教会)へ連れて行きましたが無力でした。教会を超えて主イエスに結び付けねば、悪霊から自由になれません。では、なぜ主ではなく弟子たちのところなのか? それは、親自身が主イエスに直接つながらず、教会や兄弟姉妹に連なって生きているからです。

友よ。教会に連なることと、主に直接つながって生きることは違います。主に結ばれるとは、「イエスを主」として生きることです。教会に連なるとは、兄弟姉妹との横の関係で満足することです。父親は、「信じます。不信仰なわたしをお助けください」(マコ9章24節)と叫びました。不信仰とは弟子たちのところに連れて行くことで、信仰とはイエスのところに連れて行くことです。

9章42節

その子が来る途中でも、悪霊は投げ倒し、引きつけさせた。イエスは汚れた霊を叱り、子供をいやして父親にお返しになった。

親は子供を救うためにあらゆることをしますが、子には通じません。そこには、親と子の心を超えた、ある存在の働きがあります。

いちばんの血肉関係である親子でも、どうすることもできないのは、「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手…」(エフェ6章12節)にしているからです。親の信仰の質や、置かれている地域や教会などの影響もありますが、それを超えた悪霊の存在は無視できません。

この父は、主イエスが解放者であると分かり、そこに連れ出そうとしますが抵抗されます。否、子供を支配しているものが抵抗していたのです。

この父親と同じ戦いに疲れて、途方に暮れている友よ。今一度、解放の手順を確認してください。まずは、あのこと、あの人ではなく、あなたと神との関係を確かにすること。次に、子供も罪人であることを受け取ること。さらに、背後にある悪霊の存在に気づくこと。この順番を逆転してはなりません。そして、それら一つひとつのことで、ただ主イエスにだけ依り頼むことです。主だけが、解放者です。

9章43~44節

イエスは弟子たちに言われた。「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」

弟子たちは、主イエスに人生を賭け、仕事を捨て、家族を置いて従ってきました。

だれでも最初から完璧な献身者、とはいきません。献身すればイスラエルに行ける、との一抹の希望と共に主に献身した愚か者(著者)を、主は今も導いています。献身する者の心には、自分の願い・希望・欲得が入り交じるものです。弟子たちは、「人の子は人々の手に引き渡される」との言葉に戸惑いました。献身することは、相手に自分を委ねることです。だから、相手がいなくなれば、自分の願い・希望・欲得も同時に失うことになります。しかし、主がいなくなることが、自分が今持っている計画よりもより良いとは気づけません。

友よ。神に期待していることが実現しないことを、「主が引き渡され」たように考えていませんか。自分の願いが通るより、神の願いが実現されることが素晴らしいことです。

主が十字架へ引き渡されるのは、弟子たちの罪の赦しのためで、彼らの祝福でした。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」(エレ29章11節)。都合の悪いことが起こりますが、さらに先には復活の主が待っています。

9章45節

弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである。彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった。

主イエスが十字架につかれる、という最も大事なことを、「理解できないように隠されていた」ということこそ理解できませんが?

聖書は「黙示」と言い、「黙(もく)」は隠され、「示(し)」は示すことです。二つの矛盾を解く言葉は、「啓示」です。啓示は、人の側からは分からないが、神が示す時に分かる、という意味です。なぜ、人から理解してはならないのでしょうか。

それは、人の知恵や知識で理解すると真理が曲げられるからです。二十世紀最大の発見の一つ「死海文書」は、二千年前の旧約聖書写本でした。そして、それは「一点一画も消え去ることはない」(マタ5章18節)と語った主のお言葉どおりでした。アブラハム、モーセ、エリヤ、バプテスマのヨハネ、十二弟子、そして現代の私たちでも同じ理解を持つことができるのは、神が直接、その時代、国、民族、習慣、立場…あらゆる条件を超えて啓示しているからです。

聖書が分からないという友よ。それは当然で、聖書は神から直接語りかけられて理解するものだからです。「父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである」(ヨハ15章26節)。

9章46節

弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。

愛のお方イエスの膝もとにいても、なお人間は争いを起こします。争いの根本はいつも、「私が」であることは普遍的です。

人は、個人(個は、人が固い=自分)であり、人間(人間は、人の間)なので、「個」と「間」のバランスがとれません。個を強くすると他者との関係(人の間)を損ない、他者との関係第一にすると自分(個人)を失います。そして両者とも結論は同じで、どう自分を保ち、自己中心を貫くかです。自分を割っても(人に合わせる)、貫いても(個を通す)自己中心は変えられません。

しかし主は、「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(ピリ2章6~7節)。主が自分を割られたのは、自分が割れても父なる神が自分を支えてくださるとの信頼があったからです。むしろ、人々に自分を与えることは、父なる神にさらに愛される道でした。

どう生きるか悩む友よ。人間社会を自分の命で生きようとすれば、自分を主張しても相手に合わせても、どっちに転んでも自己保存から離れられません。しかし、神の命で生きようとするならば、自己主張も人々から認められることも小さなことになります。

9章47節

イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、言われた。

争う弟子たちの心を見抜いた主は、そばにいる子供を引き寄せて実物教育を始めました。なぜ幼子がメッセージになるのでしょうか。

人間社会には秩序が必要なので、何かしらのリーダーが立てられます。その結果、リーダーは多くの特権を持つようになり、より自己主張ができる立場に立ちます。そして、自己主張して何かを得ることで、さらに幸福になれると勘違いします。その点、幼子は何もできずただ受けるだけです。

人間の幸福は、何かをすることによってではなく、受け取ることで得られます。それは、「悔い改めて、福音(主イエスと彼の御業)を信じる(受け取る)」ことです。神から受け取ったもので生きると、奪う者から与える者に変えられます。「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(マタ18章3節)こそ、実物メッセージです。

友よ。偉い人とは、「天国に入れる人」ではないでしょうか。それは、富、他人の称賛、知識、能力、健康を誇る者ではなく、罪深い無力な者であることを自覚し、へりくだる者です。その人は、何よりも主イエスを必要とするからです。「誇る者は主を誇れと書いてあるとおりになるためです」(Ⅰコリ1章31節)。

9章48節 ①

わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

このみことばを、子供好きの人は神から祝福される、と受け取ってはなりません。

子供の代名詞は「受け取り名人」ですが、裏を返せば「何もしないで求めるだけ」でもあります。ここでの子供とは、他者にやってもらうだけで何も返さない、「自己中心な人」のこと、と理解することができます。

主は、さらにこの言葉を超え「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタ5章44節)とまで言われました。これも、彼らを愛し祝福するなら、あなたが神に祝福され救われるというものではなく、嫌な人や迫害する者にみことばに従い立ち向かう神の子は祝福される、と言ったのです。主イエスのゆえに、自分の意に添わないことでも従うならば、主御自身と共に父なる神に愛されるとの約束です。

友よ。嫌な人、要求するだけの者を受け入れることはとても難しいものです。しかし、真剣に神の言葉だからと信じる者はそこから逃れられません。だからこそ、そこに祈りが出てきます。そしてすぐに幼子を受け入れられないでいても、祈るあなたは既に主イエスと父なる神に受け入れられています。

9章48節 ②

「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」

1570年代に来日した二人の宣教師のうちの一人は、「私は日本人ほど、傲慢、貪欲、不安定…な国民を見たことがない」と本国に報告しました。もう一人のフランシスコ・ザビエルは、「この国民は、私が出会った民族の中で最も優れている…良い素質を持ち、悪意がなく」と報告しているそうです。前宣教師は自分を大きな人物とし、ザビエルは小さな者としました。さらに、前者は自分の目で見、後者は神の目で見ました。さらにそれは、「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」(マタ18章5節)の主の言葉に帰ります。

「最も小さい者」の最大の特徴は、「こんな罪人が神に受け入れられた」との思いを持ち、そこから神の目で幼子(自己中心)を見、「あの人も神に出会い、受け入れられねばならない」と願い祈ります。

友よ。「キリストは、…神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(ピリ2章6~8)。このキリストから目を離さないでください。

9章50節

「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである。」

弟子たちが、「わたしたちと一緒にあなたに従わないので…」(49節)と、悪霊を追い出している人のことを言った時の答えが右の言葉です。

幼子の姿を通して、へりくだることを教えられた矢先に傲慢が出てきました。彼らは本心では、「あなた(主)に従わない」ではなく、「私たちに従わない」ことが気にいらないのです。

弟子たちに非難された人は、御名によって悪霊を追い出すほど、実に熱心な兄弟です。神の子たちや教会同士がこのようにしていたら、神の国の建設は前進どころか後退します。パウロは、「とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます」(フィリ1章18節)と言いました。

友よ。あの人やあの教会が、神の御心に適わないのか、それとも自分の御心(?)に適わないのかを吟味してください。「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」(エペ4章2節)を自分の胸に刻まねばなりません。教会は、全世界にキリストを頭とする一つだけです。全世界の教会が一致して一つのキリストの体とされ、全体で一人のキリストの御業を行うのです。ここに神の栄光が現れます。

9章51節

イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。

主がヘルモン山に来た目的は、御自分をキリストとして弟子たちに顕すとともに、十字架へ進むための決意を固めるためでもありました。

主イエスは、父なる神から遣わされ、父の御もとに帰られますが、その間にエルサレムで十字架につく最大の使命が待っています。時に神の子たちは、「…御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように…」(ロマ8章28節)のみことばを安易に受け取りますが、その前に書かれている、「神を愛する者」のみことばは見過ごします。

愛するとは、相手のために自分を捨てることですから、相当の「決意」が必要です。主は、父なる神に従い、人々を愛する決意をし、まっすぐにエルサレムに(十字架に)顔を向けられました。

友よ。神の御心を知り、自分に嫌なことでも受け取る「決意」をするとき、それは神の霊の領域に移されます。「〝霊〟は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださる」(同27節)お方です。人にとって大事なことは、霊の世界から始まります。あなたの決意がないため、聖霊の働きを止めていることはありませんか。決意できないなら、そのことで聖霊の助けを求めてください。

9章53節

使いの者を出され、彼らは行って、イエスのために準備しようとサマリア人の村に入った。しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。

イエスと一行は、エルサレムに向かう途中のサマリア人の村では歓迎されませんでした。その理由を、「エルサレムを目指して進んでおられたから」と記されています。

「わたしにつまずかない人は幸いである」(ルカ7章23節)を、「人の子(イエス)につまずかない者は幸いなり」とキルケゴールが言い直しました。彼は、イエスが王冠を戴き、金の笏を持ち、天使の軍団と共に天から来られたならば、人々は平伏しただろう。しかし、貧しい大工の家の赤子として生まれ、病の者や罪人の友となり、ついに十字架で殺された人をだれも神とは認めない、と言います。

同じく、「神の子は自分の十字架を背負わねばならない」と語ると、歓迎されなくなります。だれもが自分の願いの達成を望み、失うことを嫌うからです。

友よ。イエスが十字架につくことは大歓迎なのに、自分が主のために十字架につくことは避けますか? 主の御心に自分を従わせる「十字架を背負う」ことは、自分(自我)に死にますが、キリストに生きることです。それは、イエスが自分に死んだから私たちの中に宿ったように、私たちが自分に死ぬことでキリストの中に宿る(生きる)のです。

9章54節

弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。

主は、ヤコブとヨハネの兄弟を称し、「ボアネルゲ=雷の子」と呼ぶようになりました。それは、彼らがすぐに怒る(怒鳴る)者たちだったからのようです。

彼らの怒りは、歓迎されなかった不快感とともに、霊的高慢からも出ていました。霊的高慢とは、少しの霊的経験や知識をもって、信仰のすべてを知った錯覚を持つことです。

ヨブは、皆から「信仰の人」と認められる者でしたが、いつの間にか彼自身も自分の信仰を過信するようになりました。それは、「私の信仰による神の義」に陥ってしまったからでした。そこに神からの試練を加えられた後に、彼は「『これは何者か。知識もないのに神の経綸を隠そうとするとは。』そのとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた驚くべき御業をあげつらっておりました」(ヨブ42章3節)と告白しました。

雷の子になりがちな友よ。霊的理解とは、神の愛、十字架を理解することであり、霊の賜物を持つことや奇跡を体験することではありません(Ⅰコリ13章参照)。霊的な人とは、「愛の人」のことです。雷の子ヨハネも、後に愛の人に変えられました。「主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます」(ヤコ4章10節)。

9章57~58節

「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。イエスは言われた、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」

一人の青年が、イエスと弟子たちの姿に感動し、「どこへでも従います」と申し出ました。しかし、それに対する主の言葉は冷たく(?)思えます。

何事も感動から始まりますが、目的に到達するには感動を超えねばなりません。主が、青年の注意を狐や空の鳥に向けさせたのは、「あなたの願うことは素晴らしいことだ。しかし、それを実行しようとするほど、わたしを愛しているか」と問うているのです。

それは、「好き」と「愛する」の違いです。好きは「自己犠牲のいらない愛」で、愛するは「自己犠牲によってつくられる愛」と言われます。そこから、「好きには税金(犠牲)はかからないが、愛には税金がかかる(?)」との諺(ことわざ)もできそうです。

最初から最後までを見据えた決断のできる者はいません。一つの感動、とくに一つのみことばが良きパン種となり、「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださる」(ピリ1章6節)とパウロのように確信して祈るだけです。

友よ。過去に、あなたもこの青年と同じ思いを持ったのでは! それならば、今一度、同じ思いを抱いては!

9章59節

そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。

「主に従う」と申し出た人には厳しい言葉を、別の人には「わたしに従いなさい」と自ら声をかけましたが、彼には従う決断ができません。

ユダヤ社会では家父長制度が強く、ヨセフもヤコブを丁重に葬りました。父の葬りをせねばならないこの青年は、当然のこととして「父を葬って後に、従います」と答えました。しかし主は、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」(60節)と迫ります。

この問題について、ある人がこの個所を評して、「まず、父を」と言ったことが問題であると言いました。聖書は、家族を愛しなさいと命じますが、「何よりもまず、神の国と神の義とを求めなさい」と言い、「そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタ6章33節)と言います。

決断に迷う友よ。「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです」(ヤコ1章17節)。命の水も、上(神)から下(人)に流れます。天の父の愛を優先すれば、あなたに、そして家族へ、友人知人へと神の命の水は流れていきます

9章61~62節

「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。

献身についての一連の問答の厳しさに、自分にはできないと尻込みしたくなります。しかし、主の真意はどこにあるのでしょうか。

厳しい主の言葉ですが、本当は愛に包まれています。人は、自分の生活に責任を持てるのか(狐や鳥の話・58節)。子供でも父親を天国へ送り出せるのか(父を葬る話・60節)。さらに、家族を満足させることができるのか(家族の面倒を見る話・61節)。これらのことを考えると、自分の髪の毛一本もどうにもできない者には、何の責任も持てません(マタ5章36節参照)。

しかし、空の鳥を養う神は、御自分の独り子を与えたほどに、あなたのことを愛し大事に思い、心配してあらゆる配慮をするお方です。厳しい主の声は、「友よ。わたしがあなたの住まいも、家族の救いも、生活も、すべての面倒を見ます。だから、あなたをわたしに委ねなさい」と言っているかのようです。事実、主は「明日のことを思い煩うな、明日のことは明日自らが思い悩む」(同6章34節)と言われました。

主に従う友よ。主はあなたに、「後ろはどうでもよいから気にするな」ではなく、「後ろもわたしに委ねよ」と言われます。あなたを先に導く神は、後ろの責任も取られる神です。

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