キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ルカによる福音書 第8章

8章1~3節

イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も…マグダラのマリア…ヨハナ…スサンナ…も一緒だった。

旧約聖書中に、何人かの女預言者たちが登場します。男性中心の信仰共同体がイスラエルでしたが、主イエスの後には、多くの女性たちが伝道に加わっていました。

男性にはリーダーの賜物が、女性には仕え従う賜物が備えられています。信仰は、主に対する従順のことです。そこで、リーダーの賜物を持つ男性は、主と張り合う関係になりますが、女性は主に従いやすい恵みの賜物を得ています。「マグダラのマリア、クザの妻ヨハナ、スサンナ、ほかの多くの婦人たち」(2~3節)は、なんと恵まれた女性たちだったでしょうか。

福音に接する時、老若男女、民族も超え、「人であること」の重要さを知ります。それは、神の前に立つ一人の「人」であることです。「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである」(ガラ3章28節・口語訳)。日本の社会においても、男性が霊的に成長することが難しく、一方、女性の方が霊的に成長するには有利な条件がそろっているとも言えます。

主にある男性の友よ、霊的リーダーを目指してください。

主にある女性の友よ、女性の従順の賜物をより生かして主に仕えてください。

8章5節

「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。」

これは子供でも理解できる単純なたとえ話で、人の信仰の状態を良く表します。種を蒔く人は主イエスで、畑は人で、種はみことばです。

神は畑(人)を造り、命の息(みことば)を吹き入れ、「人はこうして生きる者」(創2章7節)となりました。土くれの人が、神の命・息を受けると、ただの土くれ(肉)でなく、永遠に生きる者となり、しかも豊かな実を結びます。そして、その実を多くの人々に分けることもできます。もしも、土(人)が命の息(みことば・神の霊)を受け入れなかったら、「塵(肉の人)は元の大地に帰り」(コヘ12章7節)ます。「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」(Ⅰペテ1章23節)。

友よ。「イエス・キリスト(農夫)・自分(畑)・命(みことば)」の関係を良く理解してください。まずは、みことばを「蒔いていただく」ことです。次に、黙想し、本やメッセージや出来事を通し意味を知ること、それが「種を受け取る」ことです。さらに、「その種を守り、忍耐して成長を待つ」ことです。種の中に、実を結ばせる命と力が秘められています。

8章5節

「蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。」

人に命と実りを与える種も、道端に落ちては何にもなりません。踏みつけられ、鳥に食べられて跡形もなくなります。

道とは、表面が固く種を受け入れない人の心で、自分を神として生きている人です。また、傷ついた心も種を跳ね返してしまいます。さらに、道は皆が歩く一般的な人生観も表します。それで主は、「わたしは彼らにみことばを伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです」(ヨハ17章14節)と言われました。道である一般的人生観は、神の言葉を受け取るまいと、進化論か宗教否定を語り、信仰への恐怖心をあおります。そこにサタン(空の鳥)も加わり、受け取る前に奪います。しかし、神が不必要な所へ間違って種を落すでしょうか。いいえ、自分を神とし、偶像を拝み、罪を隠す人たちも、本当はみことばを必要としています。

友よ。あなたの心も道端でしたが、何度も何度も種(福音)が蒔かれたからこそ、救いを得たのではありませんか。道端の心を少し砕いて石地に、石地を茨の畑に、茨の畑を良い地に造り変えていくのは、鳥と人の足を逃れた、たった一粒の神の種です。一粒の種にこそ希望があります。その一粒を蒔き、育てる一日となりますように。

8章6節

「ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。」

人は、遠目には皆が同じに見えますが、近づいて見ると違い、心の中はさらに違います。

石地の心は、種を受け取り芽を出したのですから、聖霊の命を持つクリスチャンです。しかし、表面的には従順でも、心(畑)には石やがらくたが詰まっています。その人は、道端の人の罪(原罪)は除かれていますが、心の中は石ころ(罪々=肉)でいっぱいですから、芽を出しても成長できません。

神よりも自分の判断、興味本位、利益優先などの肉が邪魔します。肉の人は、困った時は神に頼みますが、困難が過ぎると神を忘れます。肉はこの世から引き継いだものなので、この世を慕います(Ⅰコリ3章3節参照)。何よりも、みことばに従うのでなく、みことばを自分に従わせ、みことばを自分の下に置く、「私(主人)とキリスト(しもべ)」の人です。

友よ。自分の心の畑の状態を知ることは不可欠です。石の心であれば、石をすぐに除けなくても、「水気(みことばと聖霊)」を切らさず、もう少し根と茎を成長させることです。なぜなら、霊の成長と肉(石)が除かれることは、同時進行するからです。本物のキリストの命を受け取ることに心を注いでください。その石ころの一つひとつを砕き、より小さな石にし、さらにそれを土に変えるのも、みことばの種の命によって可能になります。

8章7節

「ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。」

茨の畑の心は、植物を育てる豊かさを持っているので、神のみことばも成長しますが、周りの茨や雑草も同時に成長してしまいます。

この人は、外見では立派な神の子に見えますが、内側には、人生の思い煩いや富や快楽という肉も一緒に育てています。その結果、立派な茎と葉をつけているのに、ほかの植物(富や快楽)に栄養を奪われ、秋になっても目的の実を結ぶことができません。

それは、イエスを主としながら、ほかのものも主としていたからです。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。…神と富とに仕えることはできない」(マタ6章24節)からです。

友よ。「…肉と霊とが対立」(ガラ5章17節)しますから、何が肉と霊かを見分ける必要があります。それには、一つの教会と一人の教師・牧師を超え、古今東西も超えたバランスある霊の本を読み、時にはほかのグループとも交わる必要があります。そうして、聖書全体からの命あるメッセージを聞き、真理を見る目を養う必要があります。肉は、自分で処分できませんが、「桑の木(強い自我・肉)」(ルカ17章6節)を海に沈める主がいます。信仰の最も困難で、最も実りある戦いは、この肉との戦いです。失望せずに祈り戦ってください。

8章8節

「ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。

これらのたとえ話から、みことばに対する聞き方が重要であることが分かります。

「道端・石地・茨の中」に落ちたみことばの種の受けとめ方は、「みことばを聞くと」とあり、良い地に落ちた種は、「みことばを聞いて受け入れ」と記されます。前者は、自分の考えを持っていて、その上で取捨選択しているように見えます。後者の「みことばを聞いて受け入れ」る人は、あくまでも神の思いに自分を従わせる人と言えます。

みことばを聞いて受け入れる人とは、畑に隠してある宝や真珠を、自分の持ち物を全部売り払って買う人です(マタ13章44~46節参照)。宝と真珠(みことば)のために、自分がなくなり(売り)、コントロールされてしまった人です。。そのことをルカは「立派な善い行い」(15節)と言いました。みことばを聞くときには、三つの立場があります。

  1. みことばの上に立つ…自分の都合で解釈(私とキリスト)
  2. みことばを横に置く…みことばと自分が同列(私もキリストも)
  3. みことばの下に立つ…みことばに自分がコントロールされる(キリストと私)

友よ。あなたはみことばをどのように聞き、またみことばに対してどの位置に立っていますか。

8章10節

「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである。」

聖書は、ここにある種蒔きの話をはじめ、たとえ話に満ちています。真理を表すのに、たとえ話にしてよいのだろうかと心配になりますが?

その理由は、主が言われる「聞く耳のある者は聞きなさい」(8節)の言葉にあります。イザヤはさらに激しく、「…よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るな、… この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することなく、悔い改めていやされることのないために」(イザ6章9~10節)とまで言いました。それは、神の言葉を人間的レベルで理解されることを恐れたからです。神の御心は、高慢な者ではなく、へりくだる者だけが理解できます。神は「高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」(ヤコ4章6節)お方です。みことばを心から聞けるようになるためには、現実の痛み悲しみの体験も必要になります。

友よ。神の御心は、人間の能力・経験・次元では理解できません。それらをもって理解しようとすればするほど分からなくなります。しかし、「主よ、お話しください。僕は聞いております」(Ⅰサム3章9節)と言う者には、聖霊の神が直接教えてくださいます。

8章15節

「良い土地に落ちたのは、立派な善い心でみことばを聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」

この一節に、百倍の実を結ぶ秘訣が書かれています。

最初から良い畑を持っている人は皆無です。アダムとエバ以来、すべての人は良い畑を失い、道端のように固い心になりました。その道端の心を、耕し、石ころを取り除き、雑草を取り除いてきたもの、それこそみことばです。エレミヤ書では、神の言葉への不従順により奴隷にされ、言葉に従順に聞き従って解放されてきました。出エジプトした荒れ野では、モーセに逆らい蛇にかまれ、石の心が神の命の通う肉の心に変えられます(民21章参照)。

また、ヨナのように、神の言葉に反抗し、船で逃げ、嵐の中に投げ込まれ、魚に呑まれて吐き出され、雑草が除かれ実を結んだ者もいます。

友よ。「みことばを聞き、守り、忍耐する」人が、柔らかにされ、石が除かれ、雑草が抜き出され、豊かな実を結ぶ人になるのです。自分の行いで良い畑を作れる人はだれもいません。みことばが土を掘り起こすクワとなって、石をすくい投げる鋤(すき)となり、雑草を切り倒す鎌となり、肉を切る御霊の剣となるのです。みことばに聞き、守り、忍耐することは、みことばによって神を信じ続けることです。

8章16節

「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。」

種と畑の関係から、みことばと受け入れる四つの信仰について話された主は、引き続きみことば(ともし火)を置く位置についても語ります。

みことばは、「わたしの道の光、わたしの道を照らす灯」(詩119・105)とたとえられました。ともし火(灯)は、寝台の下と燭台の上のどちらに置くべきでしょうか。道端の心の人は、自分が光なので、みことばの光は必要としませんでした。石地の心の人は、自分の都合の良い時だけ火をつけ、後は升の下や寝台の下に隠します。茨の心の人は、みことばを受け入れ、テーブルの上に置きますが、自分の嫌なことが照らされると寝台の下に移動して光を隠します。

正しいみことばの位置は、燭台の上です。燭台の上に掲げられたともし火によって、真理を知り、罪を照らされ、道を示され、障害物を避け、自由に生活することができます。

友よ。幕屋の聖所の金の燭台は、光なるキリストでした。みことばはその燭台(キリスト)から照らされねばなりません。みことばを置く位置は、主御自身です。みことばを自分の手で握らないで(器・寝台の下)、主の御手に持っていただいてください。人は、神の口から出る一つひとつの言葉によって生きるのです(マタ4章4節)。

8章17節

「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。」

光は便利で助かりますが、その光で、心の中を照らされる怖さもあります。

神の光は、「義の太陽」(マラ3章20節)であり、人の内側を神の義(基準・真理)で照らし、隠し秘められたものも、時には忘れたことまでもあらわにします。それは律法を超え、「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかに」(ヨハ章8節)するという主イエス御自身です。だからこそ、「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない」(ヨハネ3章20節)のです。また、その光はみことばです。みことばの光は、主イエスから出て人の姿を照らして罪を示します。そして、光は再び主イエスを照らし出し、主にある救いへと導きます。

友よ。みことばの光により罪が示されることは、悲しむべきことではなく、むしろ恵みです。「あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので…神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救い…を生じさせ」(Ⅱコリ7章9節)ます。世界と周りの状況が暗くても、あなたの内側に光があるならば、世界も周りも決して暗くはなりません。

8章18節

「だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」

「だから」の言葉は、種を蒔く人から始まり、ともし火のたとえ話まで続く、みことばの受け取り方についての結論でもあります。

持つ人が更に与えられ、持たない人が取り上げられるものとは、みことばのことです。それは、みことばの聞き方によって、さらに持つか、あるいは持っているものまでも失うか、に分かれるということです。預言者エリヤは、神の声を聞き、従い、さらに次の御声を聞き、ついにバアルの預言者たちを退けました。彼は、みことばを良く聞き、みことばに伴う勝利を得ました。

サウル王も神の声を聞きますが、最初は従い、途中から逆らい、結局は王の位を失い惨めな最期を遂げることになりました。彼はみことばに従わなかったので、最初から持っていた祝福までも取り上げられました。神の祝福を得るか否かは、みことばの聞き方によります。

愛する友よ。あなたはみことばにどのように聞いていますか。みことばを正しく聞くためにいちばん大切なことは、みことばにより主イエスというお方(御人格)を知ろうとすることです。次に、みことばにより、神の約束とその約束にどのように対応するかを知ることです。主とあなたを一つにしてくださるのは、みことばです(ヨハ17章17~23節参照)。

8章21節

「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」。

家族を知らないで成長する人も、家族を持てない人もいます。この主のお言葉から、本当の家族とは、どのような関係と状態かを知ることができます。

人は、家族のことで悩み傷つきつつ成長します。また、成人して自分が家族を持って苦しみ、さらに子に同じ苦悩を残してきました。家族なのに、悩み苦しむのはなぜでしょうか。それは、家族から命を得ようとするからです。命は、だれかと「継がり・交わる」中にあり、それを与え合うのが家族です。しかし、罪によって命が破壊され、命を与え合うはずの家族なのに、どんな他人とよりも激しい命の奪い合いをしてしまいます。

そのために、家族だからこそ苦悩を受け取らねばならなくなります。その解決は、神の言葉を聞いて、神とのかかわりの中に自分の命を持つことです。神だけが、どんな人にも命と愛を無条件で与えることができます(エフェ2章19節参照)。

友よ。あなたの家族はどうですか。皆が家族に恵まれているとは限りませんが、だれでも本当の家族を持つことができます。それは、主イエスの花嫁になり、父なる神の子になれるからです。人には家族が必要です。だから最初に、父なる神の子供になってください。その先に、肉親の家族の回復とともに、神の家族も持つことができます。

8章22節

ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸に渡ろう」と言われたので、船出した。

主は、ここに至るまで種蒔きなどの話を通し、みことばについて語ってきました。教会の中でみことばを聞くのは楽しいことですが、聞いているだけでは身につきません。

主は弟子たちを促し、「向こう岸へ渡ろう」と言い、湖に舟を漕ぎ出させました。神の子たちも、みことばを聞くだけにとどまらず、「みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」(ヤコ1章22節)との教えに従うべきです。昭和十年代に、中国の奥地、熱河地方へ伝道に行った人々がいました。その中の一人は、「向こう岸へ渡ろう」のみことばを、主から自分への言葉として受け取り、地位と平和な生活を捨てて従いました。そして、彼らの中から何人もの殉教者が出ました。しかし、彼らは、だれよりもみことばの事実を体験した人々でした。

友よ。あなたの向こう岸は、どこですか。ただしそれは、自分が行きたい所ではなく、中国奥地に渡った主のしもべたちのように、主があなたに行ってほしい所です。ある人には、夫に仕えることであり、またある人には、赦せない人を赦すことでもあります。しかし恐れないでください。あなたが一人で行くのではなく、主と同じ舟で行くのですから。

8章23節 ①

渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた。

自転車に付けたチャイルドシートの中で、幼子がスヤスヤ眠るように、それ以上に危険な嵐の中で主は眠っておられました。

「眠ることもない」(詩121・4)イスラエルの守り手が、なぜ大嵐の中で眠られたのか不思議です。実は、眠ったふりをして弟子たちをテストしていたのでしょうか。いいえ、主が眠っていたのは、弟子たちに眠らされていたからであり、弟子たちから不必要にされたからでした。事実、数人の弟子たちはガリラヤ湖の漁師でしたから、湖のことも、舟の操作も知り尽くしており、彼らには主がいなくても対処できる自信がありました。エリコの城を陥落させた民は、次の小さな町アイを攻めて敗北しました。エリコの戦いでは、何度も城の周りを回り、必死に主に依り頼みましたが、アイの戦いでは(アカンの罪は別としても)、主がいなくても戦えると考え、主を眠らせたために敗北したのでした(ヨシ記7~8章参照)。

友よ。人生は、舟で天国なる向こう岸に渡る途中のようです。舟は、自分の足で歩くことができないので、身を委ねる信仰そのものです。自分の力の及ばない航路で、イエス船長を眠らせたら、とたんに大嵐になります。信仰の眠りとは、イエスを主とせず、自分が主になっている状態のことです。

8章23節 ②

渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた。

神と共に、天国行きの舟に乗ったのに、イエス船長を眠らせてしまった人々は聖書の中に数多く出てきます。

族長ヤコブは、兄と父とを裏切り、逃げる途中で主と出会いました。そして、主が共にいてくださること、再び家に連れ帰ってもらうことなどの祝福を約束させ、主と共に向こう岸へ舟を漕ぎだしました。しかし、以後二十年間、彼は主を眠らせ続けました。その結果、彼は大波にのまれ死にそうになりました。

ヨナはニネベに行かず、主から逃げて別方向へ行き、大嵐に遭います。彼は船底で眠っていましたが、本当は彼の霊的眠りが主を眠らせていたのです。ヤコブはヤボクの渡しで目覚め、ヨナは魚に呑み込まれて目を覚ましました。そして、弟子たちのように、「先生、先生、おぼれそうです」(24節)と叫び、やっと主を起こしました。

友よ。三位一体の神は、ねたむほどあなたを愛している「熱情の神」(出20章5節)です。だから、あなたから無視されることに悲しみを持ちます。神は手を休めることなく、あなたに語りかけ、試練を通して手出ししています。小さなことの中に主のお言葉と御臨在を捜してください。すると、眠っていたのは主でなく、自分だったと気づきます。

8章23節 ③

突風が湖に吹き降ろして来て、彼らは水をかぶり、危なくなった。

みことばを受け取り、主と共に出かけたのに、命の危険を感じるほどの突風に見舞われました。しかし、主は眠っておられました。

神の子たちの中には、「主が共にいるのに突風」と「主がいるから突風」の二つの違う受け取り方をする者がいます。前者は、信仰は自分を助ける手段と考えるので、試練によって神に疑問を持ちます。後者は、信仰は自分を主に結びつけるためと考えるので、突風(試練)に自分の無力を知り、「心のうちで死を覚悟し、自分自身を頼みとしないで、死人をよみがえらせてくださる神を頼みとするに至った」(Ⅱコリ1章9節)とパウロのように受け取ります。パウロは、自分に起こる出来事が思わしくない時、自分が主に結び付くための恵みの「突風(試練)」と考えて受け取りました。

沈みそうになっている友よ。死と背中合わせの弟子たちと共に主がおられたように、あなたと共にいる主は眠ってはいません、むしろ、あなたの眠ってしまっている眼を覚ましてくださいます。だからあなたは、神の前で良い子をやめ、教理も理屈も投げ捨てて、一人になり、幼子になって感情を注いでただ泣いてください。「主はわたしの泣く声を聞かれた」(詩6・6)。主は、あなたを見捨てて孤児にはしません。

8章25節 ①

イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた。

日本人には、「信仰」と「悟り」の区別が分かり難いようです。それは、絶対神への信仰か、自分を神とするかの違いがあるからです。

悟りは、自分で修業し知識を蓄え鍛えて持つもので、自分が身につけた分だけいつでも用いることができます。突風に対する悟りによる対処法は、身に付けた冷静さと技術を用いて抜け出そうとすることです。一方、信仰は人の能力ではなく神からの賜物です。賜物ですから、その与え主であるイエスとの関係によって受け取ります。信仰による突風に対する対処は、まず、イエスを起こすことから始めます。そして、イエスにお願いし(祈り)、イエスの「黙れ、静まれ」(マコ4章39節)との権威の力を受け取ることで嵐を静めます。

悟りは自分で実現し、信仰はイエスによって実現されます。悟りは自分の能力以上のことはできません。信仰は、人の能力や努力を超える神の恵みを受け取ることができます。

友よ。「あなたの信仰はどこに」の質問に対して、「私の信仰は主イエスに」とすぐに答えられますか。悟りは自分で自分を持つことですが、信仰は主に自分を持っていただくことへの同意です。あなたが主を向こう岸へ連れて行くのではなく、主があなたを向こう岸へ連れて行ってくださるのです。

8章25節 ②

弟子たちは恐れ驚いて、「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と互いに言った。

「黙れ、静まれ」の一声のもとに、大暴れしていた湖は静まり、なぎになりました。

今に至るまで、数多くの歴史上の奇跡が語り伝えられていますが、それらは特定の人が、ある地域で、ある時に、特別な経験をしたことで、ほとんどの人々には遠い話です。しかし、聖書の世界に入ると、誰彼ではなく自分自身がその奇跡の当事者になります。

ベトナム戦争中の厭戦気運から、たくさんのヒッピーと呼ばれる若者たちが現れたころ、一人の伝道者が彼らに福音を語りました。麻薬、セックス、暴力に翻弄されていた多くの若者たちが聖書を学び、神を賛美し、伝道者になり、大きな教会、小さな教会を含めて、今では全米だけでも千五百を超える教会ができました(チャック・スミス師、カルバリーチャペル)。それは、若者の荒れ狂う魂の海と風に、「黙れ、静まれ」と主が命じたからです。

友よ。あなたが大海の中にいるのではなく、あなたの中に大海があるのです。それが、憎しみ・ねたみ・蔑み・仕返しなどの大嵐となって暴れます。その嵐を静めていただかねば、眠ることもできません。ガリラヤ湖上の奇跡は、何度も経験するものです。嵐に翻弄(ほんろう)される自分を静めることができるのは、主イエスだけです。

8章26節

イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。

主と弟子たちがゲラサ人の地に着くと、そこに待っていたのは悪霊に取りつかれた男でした。なぜサタンが彼を支配したのでしょうか。

神の子たちの間で、神とサタンについての理解がかなり違っているようです。ある人は悪しき出来事を、すぐにサタンの所為(せい)にし、そして悪霊の追い出しへと発展させます。しかし、神は人の同意なく、その人の霊に立ち入らせない制限を設けています。(「ただし彼には、手を出すな・ヨブ1章12節参照)。

それは、神であっても、人の信仰の告白なくては、人の中に住むことができないのと同じです。聖書全体は、悪霊の存在を認め、その力が人の業を超えていることを伝えますが、悪霊が人を自由に翻弄することはできません。サタンは、人の罪に働きかけ、その人の同意を得てこそ活動できるようになります。

友よ。出来事を悪霊の所為(せい)や、あるいは神の御業と単純に置き換える前に、自分の罪から目を逸らさないでください。聖霊は罪を指摘し取り除こうと働きますが、サタンは罪を隠し助長しようと働きます。聖書は、悪霊よりも人の罪をより重視します。なぜなら、罪の聖め(きよめ)こそ、悪霊の働きを無力にする最大の防御だからです。

8章28節

イエスを見ると、わめきながら平伏し、大声で言った。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。」

悪霊と呼ぶものにも、偽りの霊(Ⅱ歴18章21節)、汚れた霊(マコ5章1節)、病の霊(ルカ13章11節)、占いの霊(使16章16節)、奴隷の霊、惑わす霊、臆病の霊、反キリストの霊…とさまざまな表現がされています。

昔から、人類は「生老病死」の現実から、それらを招く自然界、悪霊、病、死を恐れて生きてきました。その恐れからもろもろの神々を造り出しましたが、むしろそれこそ悪霊に活動の場を提供することになりました。各宗教にも、悪霊の追い出しや浄霊なるものがあります。しかし、それらは「悪霊によって、悪霊を追い出す」ことであって、本質的に解放することも、聖くすることもできず、むしろ以前にも増して悪霊の支配を強めるだけです(マタ12章45節参照)。また、悪霊を意識し過ぎて、悪い影響を受け取った教会と神の子たちも多くいます。

友よ。悪霊の世界のことは十分に知らなくても、悪霊が「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい」と叫んだ事実が重要です。この悪しき勢力に対して唯一勝利できるお方は、私たちの主イエス・キリストだからです。悪霊の力を恐れる以上に、主イエスを畏れることが、悪霊に惑わされないことになります。

8章29節

この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。

悪霊に取りつかれた男は、人間というよりも、何か獣のような行動をとっていて、だれも近づくことができない状態です。

彼の行動の特徴は、①墓場を住まいとする(27節)…墓場=死の世界 ②鎖でつながれる…自由に生きられない・偶像礼拝・占い・先祖崇拝 ③鎖を引きちぎる…だれもコントロールできない・本人の意思も超え他者も制御できない、などです。大方の人は、この男のような顕著な出方ではなく穏健であっても同じような状態にいます。サタンは人の罪の中に居場所を確保し、本人に気づかれないように隠れて働きます。さらにサタンは、④荒れ野へ駆り立てる…神の命の水が枯渇し実を結べない霊の砂漠へ押しやります。

これは、未信者だけでなく、神の子たちにも起こります。詩編七十三篇の作者は霊的指導者でしたが、大きな試練に出会い、弱り、信仰する意味を失いかけました。その時を振り返り、「わたしは愚かで知識がなく、あなたに対して獣のようにふるまっていた」(22節)と告白しました。

友よ。あなたは、主イエスに聖霊の鎖でつながれて、主の宮にとどまり続けてください。

8章30節

「名は何というか」とお尋ねになると、「レギオン」と言った。たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである。

悪霊は、男を墓場に住まわせ、鎖を断ち切らせ、砂漠へ押しやるなどの行動を起こしますが、さらに自分の姿をさらけ出しています。

悪霊は、イエスを神と知っています…「平伏し…『いと高き神の子イエス』」(28節)。主イエスがすべての権威を持つことも知って…「かまわないでくれ、苦しめないでほしい」(同)と懇願します。ここから、悪霊はイエスを権威ある神と認め、自分たちを滅ぼす力ある方だと恐れていることが分かります。さらに、「レギオン」というローマ軍の師団名を持っていました。それは、大人数で組織的に動き、それを指揮する存在がいることも匂わせます。

過去から今に至るまで、血を流さずとも人の魂を殺すレギオンは、何十万、何百万と存在し、組織的に戦いを挑んで、人々を罪の中に閉じ込めています。

友よ。私たちには悪霊と戦う力はありません。しかし、悪霊が恐れているのは、私たちの主イエスです。主は「わたしは御名を彼らに知らせ(与え)」(ヨハ17章26節)た、と言われました。「イエスの御名」とは、イエスの全存在です。イエスの御名によって、悪霊に立ち向かうことは、イエスの中に自分が入って、ということです。 

8章31節

悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った。

悪霊を追い出す権威と力は、主イエスがお持ちです。それでは、いったいどのようにして悪霊を追い出すことができるのでしょうか。

ある人々とグループは、「主イエスの御名によって命じる。悪霊よ、出て行け」と祈りますが、それだけでは解決できません。なぜなら、悪霊を人から追い出しても、その人の罪が解決されていなければ本当の解決にはならないからです。たとえ悪霊が出たとしても、すぐに入り直すこともできます(マタ12章44節参照)。なぜなら、悪霊は罪の中に住むからです。

したがって、悪霊を追い出す行為も必要ですが、それ以前に、あるいはそれ以上に、罪の解決が悪霊から自由になる根本です。事実、イエスの救いの目的は罪を解決することであり、悪霊の追い出しや病のいやしは救いの手段に過ぎませんでした。

友よ。イスカリオテのユダは、神の国について間違った考えを持ちました。彼は、罪の赦しによる解決ではなく、主の力と権威による神の国の樹立を考えました。しかし、神の方法は、罪の赦しによって悪霊や死や病などから解放することで、神の国を成就させることでした。それは、悪霊を追い出す権威と力による救いではなく、十字架の罪の赦しにより、愛によって造る神の国=神の支配でした。

8章33節

悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ。

悪霊が主の命令により豚に入り、二千匹(マル5章)が崖を下り湖で溺死しました。理解の難しい個所ですが、以下のように理解することは許されるでしょうか。

悪霊を追い出しても別の場所へ移動するだけですから、悪霊からの解放は、悪霊を殺すほかありません。それができるのは、「彼(イエス)はお前(サタン)の頭を砕く」(創3章15節)主の十字架だけです。豚は、当時異邦人を表し、呪われた獣でした。主は、豚の中に入ることを許可しました(32節)が、それは悪霊を御自分の十字架へ誘い、自ら呪われたもの(豚)となられ(イザ53章3~4節)、十字架で死ぬことで悪霊を滅ぼすことを表している…と考えることもできます。事実、主の十字架は、聖い神の御子が罪人の罪を引き受け、サタンの頭を砕いた出来事でした。

友よ。以上の理解が正当か否かは別として、「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのため…咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によってわたしたちはいやされた」(イザ53章5節)ことは事実です。神の愛に目を留めてください。

8章35節

悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足もとに座っているのを見て、恐ろしくなった。

主に悪霊を追い出していただいた人の姿に、彼を知る人々は驚いていますが、人々は一刻も早く主を町から追い出そうとしています。

「一人の人を正気にするために、二千匹の豚を失った人はたまらない」と言った人がいました。確かに、傍(はた)迷惑です。しかし、悪霊を受け取って死んだ豚がイエスの十字架を表すとするならばどうでしょうか。事実、豚が人の悪霊の身代わりに死ぬことは不可能であり、それは主の十字架以外にありません。

二千匹の数字の上に、主の十字架の犠牲の大きさを見ることもできます。一人の人が救われるために払われる犠牲は、二千匹を超え、全世界よりも重い代価、神の御子イエス・キリストの罪無き命以外にありません(詩49・9、マコ8章36節参照)。

友よ。周りの人々がこの出来事に恐ろしくなったのは、この男に自分の姿を見たからではないでしょうか。私たちも、「未成年(未信者)であった時は、世を支配する諸霊に奴隷として仕え」(ガラ4章3節)た者でした。しかし今は、「『アッバ・父よ』と叫ぶ御子の霊」(同6節)をいただいています。

8章41~42節

ヤイロという人…この人は会堂長であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来てくださるようにと願った。十二歳ぐらいの一人娘がいたが、死にかけていたのである。

会堂長であるヤイロが、主のもとに駆けつけ、死にかかった十二歳の娘のために家に来てくださるように頼みました。

自然の脅威(22節~)、悪霊の力(26節~)、死への恐怖(40節~)、病(42節~)と続きます。人がこれらを恐れるのは、それらに対して無力だからです。ここで聖書は、それらすべてを支配するお方が主イエスであることを22節から56節まで記しています。

人の平安は、それらに打ち勝って支配することではなく、それらを支配する主イエスに自分が支配されることです。「お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」と。しかし民に対して、「お前たちはそれを望まなかった」(イザ30章15節)とも続きます。ヤイロは会堂長としてイエスを招いて話をさせる立場ですが、彼は主イエスのもとに駆け込みました。

友よ。ヤイロの姿に私たちのあるべき姿を見ます。人生のあらゆる問題の解決は、主のもとに駆け込み、主の中に自分を入れていただくことです。自分で解決するのではなく、解決できるお方を持つことです。自分で勝利するのではなく、主に勝利していただくことです。

8章43節

ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。

死にかかっている娘を持つヤイロは急いでいました。しかし、そこに邪魔者とさえ思えるような、十二年間も長血を患う女が現れました。

ヤイロの娘は十二歳、長血の女の病歴も十二年の完全数で、娘は「死」に、女は「病」に打ちのめされていたことを表します。二人の問題は、等しく「命・血」の問題でした。罪の血も、体内の血の流出も、共に人を死に追いやります。その死からの解放は、罪の血を聖い血に変えることです。「血はその中の命によって贖いをする」(レビ17章11節)。

血が流出したときは、新しい血の注入(輸血)を得てこそ命を保つことができますから、ペテロは、「その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです」(Ⅰペテ1章2節)と言いました。それらすべては罪の解決から、「血を流すことなしには罪の赦しはありえない」(ヘブ9章22節)主の十字架に帰します。

女が使い果たした「財産」とは「生存」の意です。人の血・命の問題は、人間の財産を使い果たしても解決できません。罪の代価を自分の命で支払うこともできません。

友よ。主の血を受けてください。主は、罪を赦し、日々新しい命を注いでくださいます。

8章43~44節

十二年間…出血が止まらず、医者に全財産を使い果たし…だれからも治してもらえない女がいた。この女が近寄って来て後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。

「財産」とは「生存」のことですから、地上の財産を使えば使うほど(財産を消費=生存を削る=命を削る)、治るどころかさらに弱っていくだけです。

サタンはヨブに、「皮には皮を、と申します。まして、命のためには全財産を差し出すものです」(ヨブ2章4節)と、地上の財産に目を向けさせます。長血は命の流出であり、やがて必ず死に向かう罪人の姿を映しています。この女もそれを止めようと、全財産を医療費に使い果たしましたが無駄でした。彼女は、救いを求めた相手と方法を間違えました。

人は、神の「命の息」を受け取ることで、「人はこうして生きる者」(創2章7節)となることを知りませんでした。救いは、人の財産によるのではなく信仰によります。

友よ。あなたの財産(能力・時間・財・賜物・健康…)をどこに使っていますか。地上のものをより豊かに得るためですか。それも生きる上で必要なことはもちろんですが、地上の財産は「イエスに触れる」ために神に与えられた賜物です。主に触れるごとに、あなたの財産は、お金や能力などの朽ちるものから、信仰、愛、平和、霊の命へと、永遠のものへと変えられていきます。

8章45節

イエスは、「わたしに触れたのはだれか」と言われた。…ペトロが、「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」と言った。

長血の女のいやしは、主イエスのことを聞いたこと、自ら出かけて行き求めたことでした。救い主を間違わず求めたことで、病の女に救いが成就しました。

神の子たちは、天の父なる神が、救い主・いやし主・解放者・助け主であるとよく知っています。しかし、天の父の恵みを十分に受け取っていません。それは、恵みを求めてはいても、その求め方が弱すぎるからです。求めが希薄なのは、ほかのもので満たしているからでもあります。強い求めは、自分と世への絶望から出発します。

かつて、偶像を慕い自分の力を誇るイスラエルの民を、神はバビロニアの捕囚としました。捕囚になった民は、心から悲しみ絶望して、「バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って、わたしたちは泣いた」(詩137・1)。そして、「天にいます神に向かって両手を上げ、心も挙げて言おう」(哀歌3章41節)と激しく祈り求めるようになりました。

女がイエスの服の房に触れた時、主は、「待っていたよ。今まで苦しかっただろう。でも、もう大丈夫。さあ、あなたの血とわたしの血を交換しよう」と言われたのでは。事実、十字架は血の交換でもありました。友よ。今日もみことばで、祈りで、主に触れましょう。

8章44・48節

イエス…に触れると、直ちに出血が止まった。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」

主イエスから出た力は、十二年間続いた病を直ちにいやしました。青白い痩せた女の体の内に、永遠の命が湧き出し始めました。

マルコは女のいやしの状況を、「すると、血の元がすぐにかわき」(マコ5章29節・口語訳)と記しています。血の元とは、命のさらなる中心の命のことです。人の肉体の奥には、心(知性・感情・意思)という命があり、その奥には「神の霊」が入る場所があります。そこは神からの命(血)が入る部分で、そこに神の命がないと、人は自分の命(心と肉体)で生きねばなりません。人の命からは、自己中心の血が噴き出します。しかし、イエスの命が宿ると、自己中心の「血の元」はかわき、力を失います。

友よ。信仰によって主に触れる時、私の肉の命が、主の霊の命に代えられます。それは、アダムから受け継いだ罪の命(血)がかわき、最後のアダムであるイエスの血(罪の赦しによる聖霊の命)が満ちることです。主は、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハ4章14節)と言われました。イエスの血は、人の根本的な病、罪を枯れさせます。

8章49節

人が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。」

長血の女よりも、瀕死の人を助けるべきだったのでは、と思いたくなります。しかし、主イエスが間違われることはありません。

ヤイロは、自分の前で起こった長血の女のいやしの事実を、目を凝らして見ていたに違いありません。それを見終わり、我に返った時、自分の家の者が来て、「お嬢さんは亡くなりました」との報告を受け取りました。すると主はすぐに、「恐れることはない、娘は救われる」(50節)とヤイロに声をかけました。

主は、「ヤイロ、恐れるな。今、目の前で長血の女のいやしを見たであろう。それは、あなたへの証しだ。あなたも信じるなら、娘は救われる」と言っているかのようです。その時ヤイロの心に、イエスへの信頼と、娘の救いへの確信が与えられたに違いありません。

主よ、一刻も早く私の所に来てください、と焦っている友よ。「神は霊」(ヨハ4章24節)なるお方ですから、ほかのだれかの所へ行かれても、あなたをおろそかにするお方ではありません。長血の女は、ヤイロの信仰のために必要であったし、「娘は亡くなりました」との最悪の報告も、ヤイロがイエスだけにしがみつくために必要なことでした。問題がすぐに解決しないこの時間も、恵みの時です。

8章50節

イエスは、これを聞いて会堂長に言われた。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」

神を信じれば、死人も生き返るのでしょうか。確かに、肉体は生き返らなくても、「魂(娘=子→永遠の命)は救われる」ことは事実です。

預言者エリシャは、水を清め(列下2章21節)、涸れた谷に水を湧かせ(3章17節)、壺に油を満たし(4章5節)、不妊の女に子供を与え、その子が死んだ時は生き返らせる(18~38節)など、そのほかにも数々の奇跡を起こしました。その彼が、「これは主の目には小さいことである」(3章18節)と言いましたが、それらは人の目にはとても大きなことです。

その違いは、神と人とでは、見る目が違うからです。神にとって奇跡を起こすことは小さなことで、人の心を変えることは大きなことです。しかし人には、自然界の奇跡や病のいやしは大きなことで、魂のことは小さなことにしか見えません。

友よ。神が奇跡を起こすことは、人の魂を救うことより小さなことです。なぜなら、人の魂を救うには、神が十字架につかねばなりませんが、自然界を動かし肉体の病をいやすには、神の指を動かすだけで済むからです。主は、「娘は生き返る(死なない)」と言わず、「娘は救われる(魂)」と言われました。主は、信じる者にいちばん必要な奇跡を行われます。

8章52節

イエスは言われた。「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」

使いの者が「亡くなりました」と言ったのに、主は「眠っているのだ」と言います。

主は、ヤイロの娘の肉体は死んでいるが、霊は眠っている、と見ていたようです。「人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(Ⅰサム16章7節)とは、人の命についても神と人の見方が違うことを教えます。

人は体などの外見を見、神は内側の霊を見ます。一見、健康に見えるのに、霊の死者(神から離れている霊的死者)がおり、重病人なのに霊が健康な人がいます。

エリシャは老夫婦の死んだ子供のために神に祈り、「寝台に上がって、子供の上に伏し、自分の口を子供の口に、目を子供の目に、手を子供の手に重ねてかがみ込み」、自分と子供を一体化させました。その結果「子供の体は暖かく」(列下4章34節)なりました。

友よ。私たちも必ず死ぬ肉体なのに、永遠の命(神の霊・命)を持てるように創造されましたが、そこに神の霊を持てずに眠ったままでした。その命は、エリシャと子供が一体化されたように、主イエスの十字架と、死からの復活に一体化することによって回復させられます。人の救いは、「キリスト・イエスに結ばれ…共に葬られ…共に十字架に…共に死に…共に生きる…」(ロマ6章1~11節)ことの中にあります。

8章56節

娘の両親は非常に驚いた。イエスは、この出来事をだれにも話さないようにお命じになった。

死者が生き返るほどのビッグニュースはほかにありません。しかし、全世界に福音を伝えよと命じる主が、ここでは厳しいかん口令を発しました。

奇跡に対しては、注意深くある必要があります。奇跡は、結果的に人の肉の欲求と重なるからです。健康、富、名声、豊かさは、だれもが求めていることです。それが神の御業であっても、そこにだけ目をとどめると、「あの人が祈ったから・あの教会で…」と、神以上に人が見え、ついにはご利益宗教に成り下がり、主が奇跡を起こす目的の本質を見落としてしまうものです。奇跡の本質は、「神の愛」です。その愛は、神の自己犠牲である「十字架」から生まれてきます。「奇跡を信じるのではなく、奇跡を起こすお方を信じよ」は、信仰の先人たちの口癖でした。

友よ。あなたも、病のいやし、家族や生活のことについて祈るでしょう。それらは主が勧めていますが、しかし、本当はそこに何を求めていますか。病がいやされ、家族が仲良く、生活が豊かになることも必要ですが、人生のあらゆる営みは、主イエスをより近くに見て触れるためにあります。主が、「だれにも話すな」と言われたのは、外側の出来事に気を取られると、内側の命を見失うからです。いちばん大事な奇跡は、「霊が戻った」(55節)ことです。

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