キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ルカによる福音書 第6章

6章1~2節

弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。ファリサイ派の人々が、「なぜ、安息日にしてはならないことをあなたたちはするのか」と言った。

当時、安息日に関する戒めがいちばん多かったと言われます。マカバイ朝時代に、安息日に敵に攻められても、武器を取らず死んで天国へ…とまで教えられていたそうです。

「安息日を心に留め、これを聖別せよ」(出20章8節)の、「留め」は「思い返す」の意です。それは、自分が神によって造られたことを思い返し、エジプトの奴隷から救い出されたことを思い返すことです(申5章15節)。さらに、新約の時代になり、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。記念としてこのように行いなさい。…この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」(Ⅰコリ11章23~26節)と言われた主の聖餐につながります。

友よ。安息日こそ、弟子たちが麦の穂を摘んで食べ、ダビデと供の者が神の家に入り神殿のパンを食べたように(3節)、いつもの日以上に、もっと貪欲に、命のパンである主イエスを食べる(交わる)時です。「わたしが命のパンである…わたしを信じる者は決して渇くことがない」(ヨハ6章35節)。そこから、礼拝の中心は聖餐式であってほしいものです。ただし、式文を読むだけではなく、霊とまことをもって行いたいものです。

6章5節 ①

そして、彼らに言われた。「人の子は安息日の主である。」

神は、天地の創造を六日で終え、次の日を安息日と定めました。神がこの日に休まれたのは、疲れたからではなく、人と交わるためでした。

…「人が、六日目に神に創造された時は、まだ土の塵(自然生命)だった。そこで神は、七日目を人と交わる安息日に定め、その日に御自分の命の息を人に吹き入れられた。人が生きる者となったのは、七日目からであった」…とは聖書に記されていませんが、霊的見地からすると方向違いではありません。したがって、安息日は、塵である人(人間の子・肉の人)を、永遠の人(神の子・霊の人)に立ち帰らせる日です。

「人」は、両親から受けた体に、神の「命の息」を吹き入れられて生きる者となり、その命の源は御子イエスです。「天にあるものも地にあるものも、…万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています」(コロ1章16~18節)。

友よ。安息日は、教会に行くなどの形ではなく、イエスが自分の主であることを確認し、告白し、賛美し、交わる時です。そのために、礼拝が必要なのです。この日、「形式」ではなく「命」が守られますように。

6章5節 ②

「人の子は安息日の主である。」

主イエスとユダヤ宗教家たちは、ことごとく対立しました。それは、信仰におけるいちばん大切なポイントが違っていたからでした。

十戒は、「わたしのほかに…神としてはならない」から始まり、第四戒の「安息日を聖とせよ」までは神を愛すること。第五戒から第十戒までは、他者を愛することでした。福音は神が人に近づくことで、律法は人が神に近づこうとすることです。福音は、神が人に仕え、律法は、人を神に仕えさせます。福音は、神の恵みによって戒めを守る者にされ、律法は、戒めを守り(行い)神の恵みを得ようとします。イエスは、第一の戒め、「神=わたし=イエス」を信じる(守る)なら、ほかは恵みとして与えられると言いますが、律法学者たちは、イエスが神であることを必死に打ち消そうとします。

友よ。聖書が・救いが・永遠の命が・愛が・自分が…分かるのは、「イエスは主」であると信じる時です。しかしそれは、人の知識や経験を超え、「聖霊によらなければ、だれも、『イエスは主である』とは言えないのです」(Ⅰコリ12章3節)。さらに加えて、聖書や救いや永遠の命が分かるのは、「イエスを主としない罪」が分かり、悔い改める時です。この二つは、表裏一体です。

6章7節

律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた。

右手の萎えた人のいやしについて、ここでも律法学者たちと主が対立しています。

宗教熱心と、信仰熱心は違います。宗教熱心は、自分が神に向かって行き、信仰熱心は神に自分を委ねます。宗教熱心は、第四戒の安息日を守ることで、第三戒の神の名を呼ぶ権利をもち、第二戒の偶像礼拝を否定し、第一の戒めを守り、神に救われる、となります。信仰熱心は、罪から救い出してくださった神がおられる(第一戒)、だからほかの神を神としてはいけない(第二戒)、その方と真実に交わりたい(第三戒)、そのために時間をつくり礼拝したい(四戒)となります。宗教熱心は、神に愛されるために第四戒から第一戒に進み、信仰熱心は、神を愛するために、第一戒から第四戒へと進みます。体の不自由な者が、安息日を守ればいやされるとは限りませんが、苦しむ者を解放する愛の業は、安息日の戒め(神と交わる時)を完成します。「人を愛する者は、律法を全うしているのです」(ロマ13章8節)。

友よ。すべては、第一の戒め、神を愛することから始まります。神に愛され、神を愛する第一の戒めの命の力が、自分を愛し隣人を愛する第二の戒めを守らせてくださいます。方向を間違わないでください。

6章6~11節

「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」

さらに安息日論争が続きます。安息日とはそれほど大事なものなのでしょうか。

ある男が安息日に薪を拾い集めているところを見つけられ、モーセとアロンおよび共同体全体のもとに連れて来られた。主はモーセに言われた、「その男は必ず死刑に処せられる」と(以上、民15章32~36節)。厳し過ぎるようにも思えますが、これは神の命令でした。

子供を真に愛する親は、食事をせずに遊ぶ子の言いなりにはなりません。その親は、強制的にでも子供を連れて来て食べさせます。神が、「今日、あなたがわたしのところに来て、食事をしなければ、あなたは死ぬ(結果的に殺す)」と言ったならば、それは脅迫でしょうか、それとも愛でしょうか。もちろん、神の偉大な愛です。

友よ。予定がなく、気が向いた時に礼拝に行き、時間が余れば聖書を読んで祈るのでは、霊の飢饉になり死に至ります。神は、私たちが安息日に来て、十字架と復活の恵みにあずかれるように、「小羊を屠って」待っておられるのです。安息日は、神が私たちの命を救うために、御自分の命を賭して待っておられる日です。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(ヨハ6章51節)。

6章12節

そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。

主は12弟子を選ぶために、一人で山に篭り、明け方まで祈られました。どれほど使徒という役目が重要であったかが分かります。

イエスは神であり、全知全能のお方ですから、御自分で何でも決めることができるはずです。しかし、主は夜を徹して祈られました。祈るということは、自分の判断に頼らず、自分以上のお方の判断、御心を知ろうとすることです。人と人の関係でも、一人では、情報、経験、賜物も限られ、独り善がりになりがちですが、二人であれば得られるものは倍になります。祈る相手が主イエスであれば、主に自分が合わされます。それは、主が持つ情報、経験、賜物、能力を自分のもののように用いることが可能になることです。特に、聖書に記されるイスラエルの歴史、使徒たちやファリサイ派の人々の言葉と歩みも、出来事の一つひとつが神からの啓示となり、自分の霊的知識と経験として用いることができます。

友よ。神であるイエスが、父なる神に祈ってから弟子たちを選んだのですから、私たちはなおさら、一つひとつのことで主に祈り、教えていただかねばなりません。「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」(ロマ12章12節)。「絶えず祈りなさい」(Ⅰテサ5章17節)は、「自分の知恵でなく、神の知恵で歩め」でもあります

6章13節 ①

朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。

主イエスに従う人々は多くいましたが、使徒と名付けられた者は、わずか十二名だけでした。彼らは、どんな能力、試験、年齢、道徳的規準などの条件を通過したのかと思い巡らしますが、それこそ方向違いです。十二名が選ばれた理由は、彼らの能力や種々の条件からではなく、「神に選ばれた」からです。

選びの理由は分からなくても、目的は明確です。それをマルコは、「彼らは①そばに集まった。…彼らを②自分のそばに置くため、また、③派遣して宣教させ…」(マコ3章13・14節)と記します。すなわち、①「物理的なそば」に置いて、日々共に生活して訓練し、②霊の命を共有して生きる「霊的なそば」に置き、そこから、③全世界へ「福音宣教に遣わす」ためでした。使徒とは、「遣わされた者」の意です。

それは、今日の私たちも同じです。聖書を読み、礼拝や集会に出席するなど、イエスの「物理的なそば」にいる必要が最初にあります。そこから、主の愛を受け、主を愛する、命の交わりである「霊的なそば」にいる必要があります。すると、「主に遣わされた者」として、福音を運ぶ器とされます。

友よ。どれほど、「イエスのそば」に近づいて生きていますか。

6章13節 ②

十二人を選んで使徒と名付けられた。

後に全世界に福音を伝えた使徒たちは、漁師などの普通の人々でしたが、彼らが全世界に福音を伝え始めたのは、イエスの「霊的なそば」にいるようになってからでした。

それは「突然、激しい風が吹いて、…一同は聖霊に満たされ〝霊〟が語らせるままに、ほかの国の言葉で話しだした」(使2章1~4節)とある聖霊降臨の時からでした。

ここは、聖霊の賜物(異言・知識・いやし…)ではなく、聖霊の満たしに強調点を置いての理解が必要です。人々が、「自分の故郷の言葉」(6節)で理解したのは、使徒たちが「他国の言葉で話した」(4節)ことが単なる異言ではなく預言だからでした(異言は、解く人がいなければ、語る本人も聞く者も理解できない)。そして預言は、「イエスが主」との信仰の確信の言葉です。それまで人々を恐れていた弟子たちは、この時から確信を持って福音を語ったので、多くの人々が信じました。

友よ。イエスの「霊的なそば」から離れないでください。それは、「聖霊の満たし=支配」の中にいることです。支配とは、「我生きる」ではなく、「主、我が内に生きる」のことです(ガラ2章19~20節参照)。あなたの中に住む御霊は、より多くの人々に福音を伝えたいと願っておられます。

6章14~16節

それは、イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、…ヤコブの子ユダ、それに後に裏切り者となったイスカリオテのユダである。

十二人の中に、後に裏切り者となるユダが含まれていますが、主は、それを見抜くことはできなかったのでしょうか?

右の質問を、ある人が牧師にしたそうです。すると、「それが分かれば、君も僕も主に選ばれなかった(だれでも裏切るものであるとの意味)」と答えたそうです。使徒に選ばれることは、生活を三年半共にし、語られる言葉をそばで聞く、特別な恵みを受けることです。しかし、それでも神は、人に与えた人格(自分のことを自分で決める自由)を重んじられます。

主は、ユダの心が揺れていたので、最後の晩餐の時、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と、ユダに渡して警告しました。そして、「ユダがパン切れを受け取るとサタンが彼の中に入った」(ヨハ13章21~30節)。ユダが、主イエスではなく、自分の思いを選ぶ決断をしたこの時から、サタンはユダをコントロールする権利を得ました。

友よ。ユダを責め、主の選びを批評する資格はだれにもありません。主は、裏切るであろう私やあなたを選んでくださいました。使徒たちと私たちは、賜物は違っても支払っていただいた命の代価、十字架は同じです。

6章19節

群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。

主が弟子たちと山を下ってくると、大勢の人が待ち受けていました。彼らはイエスから出てくる力を知り、それを求めていました。

政治家、経済人、人文や自然科学者、家族など、ありとあらゆる人々の中で、誰が本当に力ある人でしょうか。また、人間に必要な本当の力とは何でしょうか。

人に必要なのは、「主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべていやし、命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け、長らえる限り良いものに満ち足らせ、鷲のような若さを新たにしてくださる」(詩103)お方だと詩編の作者が告げます。「罪、病、死から解放し、愛(慈しみと憐れみ)と生きがい(冠)を与え、力(鷲のような飛躍)」を与えてくださるお方こそ、主イエス・キリストです。

友よ。主イエスが持つ絶大な命を求めていますか。アブラハムのように「家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです」と、自分の手で満たせるもので代用せず、「あなたから生まれる者」でなければなりません(創15章2~8参照)。主イエスから、直接出てくる力を、本気になって求めてください。

6章20節

イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。

ここから「山上の垂訓」に入ります。ガリラヤ湖の最北、なだらかな山腹に八角形の屋根をもつ山上の垂訓教会があります。主が語られた八つの祝福を表す教会堂です。

最初に、この教えを受け取る心構えを持つ必要があります。それは、「このようにすれば、クリスチャンになる」でも、「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全になりなさい」(マタ5章48節)のみことばを、完全になったら救われる、と理解してもなりません。むしろ、「天の父の完全によって、あなた方も完全になりなさい」です。

「当為」という哲学用語があります。それをある人が、「神は人のできることを要求する」と説明しました。この教えは、神によって人が完成される教え、と言うことができます。山上の垂訓を理解するポイントは、実にそこにあります。

友よ。イエスが最初に「目を上げ弟子たち」を見られたのは、彼らの罪にまみれ自己中心に生きる姿では! 次に、その弟子たちが神の子として聖くされ、愛に生きる姿を見られたのでは!さらに、天の父に目を上げ、「父よ。そのために、わたしが彼らの『…知恵となり、義と聖と贖い…』(Ⅰコリ1章30節)になることができますように」と自らのためにも祈られたのでは! この教えは、神に祈り、神によって成就されるものです。

6章20~26節

山上の垂訓…八つの祝福・「幸いな人」

マタイ福音書にはルカ福音書とは違い、明確に「八つの幸いな人(心の貧しい人・悲しむ人・柔和な人・義に飢え渇く人・憐れみ深い人・心の清い人・平和をつくり出す人・義のために迫害される人)」が記されています。

一見、生まれながら穏やかな性格の人も、心が清く憐れみ深く見える人もいます。一方で、貧しく、悲しみを負わされ、迫害の中に生まれてきた人もいます。しかし、「八つの幸いな人」とは、生まれながらの性格や気質を言っているのではありません

八つの祝福の一つひとつは、「出会い・環境・試練・生き方の変化」などによって身に着くもので、ある条件の下でつくられる「第二の天性や気質」と言うことができます。それは、神と出会い、神の国に住み、神からの教えと訓練を受け、人生の目的が変えられるなど、神の御霊によって人の中につくられる、神の御性質の一部とも言えます。

友よ。この世界では、富む者・貧しい者、能力ある者・無い者、健康な者・病弱な者、愛される者・嫌われる者…と、不公平がまかり通っているように見えませんか。しかし、八つの幸いな人は、この世の常識とは違うところに、むしろ逆転した中に本当の祝福があると伝えます。だからこそ、神からの良い知らせ、福音です。

6章20節 8つの祝福①-A

「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。」

「貧しい人」を、マタイは「心の貧しい人」としますが、それでもなお日本語訳では誤解されます。日本語から理解できる範囲は、「謙遜な心」となりますが、それも違います。貧しいとは、物質的、知識や道徳(心)などの貧しさではありません。

この「心」は、知性・感情・意志を表す「心」ではなく、神の命を表す「霊」のことです。したがって、「心の貧しい人」とは、「霊の貧しい人」となります。心は、人と人とのの関係でつくられますが、霊は、神から受け取るものです。

人は土の塵(自然生命)で造られ、「命の息を吹き入れられ…生きる者となった」(創2章7節)、「息」こそ「霊」です。したがって、「真の神を求める者は幸いです」となり、その反対は、「満腹している人(自己満足・充足)」(25節)です。

詩人、八木重吉は、「イエスは右手に光を持ち、左手に救いを持っておられる。右手で私たちをすっかり照らし、私らに自分の底を見させ、自分とはこんなものだということを知らせ、それから左の手で救い取ってくださる」と書き残しました。友よ。心(霊)の貧しさは、神の光によってのみ見える、罪にまみれている人の姿です。同時に、その光は救いを見させ、主イエスを求めさせる出発点です。

6章21節 8つの祝福①-B

「今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。」

この節は、前節の「貧しい人」に通じます。霊の飢え渇きを持つ人は幸いであり、この飢え渇きこそ、人を神に向ける原動力です。

12年間長血で苦しむ女がいました。医者にかかり(この世の解決方法)、さんざんな目に遭い、苦しんだあげく財産(生存)を使い果たしてしまいます。彼女はイエスのことを聞き、「この方の服にでも触れればいやしていただける」と考え、後ろから服に触れた時、「イエスの内から力が出て」いやされました(マコ5章25~34節参照)。

一方、富める青年がいました。彼は自分の救いを自分でつくっていましたが、さらなる確信をいただくため、「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすれば(何を付け加えれば)よいでしょうか」と尋ねましたが、「貧しい人に財産を施し与えよ」と言われて立ち去っていきました。彼は満腹していて、新たに主のものを受け入れる余地はありませんでした(マコ10章17~22節参照)。

友よ。人は神によって造られ、神に依存して生きる者です。長血の女は貧しく、青年は富を持っていました。貧しさはイエスを求めさせ、富はさらに自分自身を求めさせます。人を満たすものは、主イエス御自身だけです。

6章21節 8つの祝福②

「今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。」

このみことばは、マタイ福音書の「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」に相当する個所です。

八つの祝福は、「貧しい人」から始まり、「悲しむ人」へ移行するように、単独ではなくそれぞれが連係しています。霊の命の飢饉に気づいて神に求め、天国を得た人は、宙に舞う喜びに浸るのではありません。もちろん喜びがありますが、その中に深い悲しみを持ちます。それは、自分の貧しさが、罪によるものであることを知るからです。これは、人の内省からではなく、聖霊によってつくられる悲しみで、これこそ幸いに通じる悲しみです。

預言者イザヤは、神殿の中で神の御臨在に触れましたが、喜び踊るどころか「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者、汚れた唇の民の中に住む者」(イザ6章5節)だと、むしろ悲しみました。神の「聖」に触れて、自分の汚れた姿を知ったからでした。

友よ。どんな悲しみであれ、神のもとに持ち出してください。すると、その原因が、誰彼でも、あの事この事でもなく、自分の罪にあることが見えてきます。罪の悲しみには、十字架という確実な解決があり、さらに復活の命と聖霊の助けが必ず与えられます。そして、悲しみを持てたことを感謝できるようになります。

マタイ5章5節 8つの祝福③

「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」

ここからは、あえてマタイの福音書を用います

柔和とは、一般的に言うお人好しや人格者ではなく、聖霊につくられる気質です。罪を悲しむ者に与えられる御霊の実が柔和です。

聖霊に示され罪を悲しむことは、自分の存在に対する失望です。しかし、アイデンティティーを失うことではなく、むしろ神の中に自分を求めるようになり、自分でつくり上げた自尊心によってではなく、神の中に自分を見出す信仰に生きるようになります。

御霊によってつくられる柔和こそ、「神の子」というアイデンティティーです。信仰は、自分の考えを通すことをやめ、神に自分を委ね従わせます。これも神の子の命がなさせる働きです。柔和な人は、主に信頼するゆえに、他者の評価に左右されずに歩むことができます。さらに、主イエスに服従することは、愛に生きることなので、隣人の心も動かします。それによって、御霊の実を豊かに受け取ることができます。

友よ。自分を通して得たものは、「今では恥ずかしいと思うもの」(ロマ6章21節)ではなかったですか。神の子は、「今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結ぶ」(同22節)ことができます。さあ、自己中心を通さず、主に従順になり、多くの恵みを受け取ってください。その延長線上に、「天の地(天国)」を受け継ぐ恵みも待っています。

マタイ5章6節 8つの祝福④

「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」

柔和な人が、次に受け取る御霊の気質は、義への飢え渇きです。

「持っている人はさらに与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」(マタ13章12節)は、一見経済法則かと思いますが、大切な霊の法則です。

柔和な者は、自分ではなく主を選ぶので霊の祝福を受け取り、さらに霊の恵みの価値を知るのでますます神を求めます。反対に、恵みの価値が分からない者は神に求めません。その恵みの価値とは、神の「真理・基準」のことです。これこそ神との真実な交わりを生み出すものです。義への飢え渇きとは、「神の基準に沿って生きて行きたい」との願いです。肉の祝福を求める者はこの世に向かい、霊の祝福を求める者はみことばと聖霊により主イエスを知り、共に生きることを切望します。

友よ。あなたは、どこに、誰に、何に、幸いを求めていますか。主が示された、貧しい人→悲しむ人→柔和な人→義に飢え渇く人の順序を大切にしてください。神は御自身の万能と愛によって、あなたを八つの「幸いな人」にすることがおできになります。今日も、「貧しい人」から始めましょう。貧しさを自覚してこそ、悲しむ者へ、柔和な者へ…と進んで行けます。そして、そのすべては、あなたが愛の人になるためです。

マタイ5章7節 8つの祝福⑤

「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」

右の聖句を、「もし私が他者を憐れむなら自分も憐れまれ、赦すなら赦される」と誤解してはなりません。これも人間的行為を超え、聖霊の実として理解されねばなりません。

心の貧しい者が罪を悲しみ、柔和にされ、神の義を求めます。それぞれの段階で受ける主の恵みは、「神の愛」です。したがって、憐れみ深い人とは、「神の憐れみを受けた人」のことです。神の憐れみは、「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださった」(ロマ5章8節)ことから始まりました。

神の憐れみを受ける量に比例して、自己中心から解放され、他者を憐れむ心を持ち始めます。神の愛を受け取り、それを人々に分け与える(愛する)者は、さらに自分の中に、神と人々からの憐れみ(愛)を受け取ります。

二人の盲人が(マタ9章27節)、カナンの女が(同15章22節)、てんかんの子を持つ親が(同17章15節)「わたしを憐れんでください」と主に向かって叫びました。彼らは過去の私たちです。多くの人々が、本当の憐れみである神の愛を求めて叫んでいます。

友よ。主に憐れまれた(愛された)ように、憐れみ深い者(愛する者)になりたいものです(マタ18章33節参照)。

マタイ5章8節 8つの祝福⑥

「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」

山上での教えは、人がつくる道徳ではなく、神に求めて与えられる霊の祝福です。あらゆる宗教が求めるのは「神を見る」ことですが、人の方から神を見ることはできません。

神を見る方法は、神に啓示していただく以外ありません。神が御自分を啓示できる人は、「心の清い者」です。この恵みは「(罪に)悲しむ人」への恵みでもあります。「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだ悪に染まっている」(エレ17章9節・口語訳)のですから、神に受け入れられる清い心を持つ人はいません。

聖書が示す「清さ」とは、「健康な目」(マタ6章22節)に関係します。それは、イエスを一心に見つめて外さない目です。神は、御自分に顔を向ける者に試練と訓練を与えて引き寄せ、そこで御自分を現します。「清さ」とは、心の高い低いや広い狭いなどのレベルではなく、「方向」のことです。十字架上の強盗の一人は、「わたしを思い出してください」と主に目を向けて神を見、もう一人は「お前が…(神)…なら、自分自身と我々を救ってみろ」と目を離し地獄を見ました(ルカ23章参照)。

友よ。あなたが今、どんな状態にいようとも、そこから神に目を注いでください。神は、必ず御自分をあなたに見せてくださいます。

マタイ5章9節 8つの祝福⑦

「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」

平和の反対は争いで、神を知らない心が自己中心にふるまう中に起きます。だれも好みませんが、だれも止められません。

苦難の中のヨブは、「あの方とわたしの間を調停してくれる者、仲裁する者がいるなら」(ヨブ9章33節)と嘆きました。ヨブは、三人の友と、それ以上に神と争っていました。「平和」の言葉は、軍事用語で「両者の正しい関係」のことです。主が、「神を愛し、隣人を愛せよ」と言われたのは、「神と人々の間を平和(正しい関係)にしなさい」と言われたことでもあります。「キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において、敵意という隔ての壁を取り壊し…」(エペ2章14節)てくださった「平和の君」(イザ9章6節)です。

友よ。平和の実が「平安」ですから、不安を感じたら、主イエスを自分の中心に置いているかどうか(主との正しい関係・平和があるか)を吟味してください。自分の中に平和を持たすには、家族との平和も、世界平和もつくることはできません。自分が神の子(神との平和=正しい関係)であることから、家族へ、隣人へ、世界へ平和を運ぶ神の使徒(遣わされた者)になることができます。

マタイ5章10節 8つの祝福⑧

「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」

8つの祝福に従って導かれる霊の人と、生まれながらの肉の人とは、命、生きる基準、人生の目的が明確に違ってきます。

神は、皮の衣を着て(動物犠牲・罪の贖い)来る者を受け入れると言いました(創3章21節)。弟アベルは羊(皮の衣・神の業・贖いの小羊)を差し出し、兄カインは地の産物(自分の業・自分で作り出したもの)を差し出しました。弟は受け入れられ、兄は拒まれました。そのカインが自分を救う方法は、自分より正しい弟を殺すことでした。

主こそ、「義の王」(ヘブ7章2節)ですから、その弟子に起こることを以下のみことばが教えます、「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられ…」(マタ5章11節)、「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます」(Ⅱテモ3章12節)。人々が、善良な人や気高い人でなく、義人を迫害するのは、善良な人や気高い人は彼らの憧れと目標になりますが、義人はカインのように自分が否定されると思うからです。

友よ。あなたは、どれほど神に根差して生きていますか。真理に妥協せずに迫害に甘んじた人々によってのみ、福音が伝えられたことを覚えてください。

6章24~26節

「富んでいる人…今満腹している人…今笑っている人…人にほめられるとき…不幸である」。

幸いな人の反対は、不幸な人です。右に記される人々は、この世では幸いな人ですが、神の目から見ると不幸だと言われる人々です。

この違いは、基準の違いからくるものです。世の幸いの基準は、自分を誇り、自分に満足し、不自由がなく、笑って過ごし、称賛されることです。それは、神から与えられた土の塵(自然生命)を、「命」としているからです。

しかし聖書は、親と社会を通して受けた土の塵(肉・自然生命)は、「神の命・霊」を受け取る器だと考えます。器の役目は、命を守ることです。したがって、手段と(器)と目的(命)が逆転していることから、幸いについて真逆の理解が出てきます。「わたしたちは、このような宝(神の命)を土の器(肉体・心)に納めています」(Ⅱコリ4章7節)。

友よ。あなたの命は、器(肉)にありますか、それとも神からいただく「命・霊」にありますか。器は、やがて役目を終えて消え去ります。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(ヨハ6章27節)。ただし、土の器を軽んじるのではありません。器(肉)が命(霊)に仕えるとき、命によって器は聖なる尊いものにされます。

6章27節

「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。」

8つの「幸いな人」を示した主は、その恵みを受けたか否かをテストするかのように、「敵を愛し…悪口や侮辱する人のために祈り、上着に対し下着も与え、奪う者に与え…」と、難しい命令をします。

神を信じない者たちは、自分を中心に他者のことを考えますが、神の子たちは、神を中心に自分と他者を考えようとします。それは、聖書から「わたしの言葉を聞いている」からです。

主の言葉を聞くとは、最初に「主の願いを知る」こと、次になぜそう願うかを「理解する」こと、そして「従う」ことです。

「敵を愛せよ」との難題は、主のみことばを聞き、理解し、自分の考えをおいて従う者に、神のアガペー(自己犠牲愛・十字架の愛)が与えられることで実現されていきます。

人を愛せず苦しむ友よ。今日従えなくても、このみことばを明日も聞き続けてください。一か月後も、三か月経っても…聞き続けてください。聖霊が「弱いわたしたちを助け…うめきをもって…。神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成して」(ロマ8章26~27節)くださっています。みことばに真剣に聞く者を、神は決して軽んじられません。

6章28節

「悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。」

山上の垂訓を、「天国の基準」と表現した人がいますが、それは適切な理解です。

天国の基準は、「アガペー(神の愛・絶対愛・自己犠牲愛)」ですから、主イエスの厳しく見える教えも、愛を基準にすると「アーメン(真理です)」というほかありません。しかし実際に、これに取り組むのは至難の業です。特に、人格攻撃である悪口を言い侮辱する者に対しては、神の子であることすら忘れ、むしろ感情に負けて、反撃して自分を守ろうとします。

そこで、人の弱さを知る主は、「祝福しなさい」ではなく、「祈りなさい」と言われます。パウロも、「どのような時にも、〝霊〟に助けられて祈り、願い求め、…根気よく祈り続けなさい」(エぺ6章18節)と勧めました。

祈る時、神のこと(罪人のために十字架に)、自分のこと(主に赦された者・愛のない姿)が見えて、聖霊による理性が戻されます。また、悪口を言い侮辱する相手のこと(傷・弱さ・無知・悲しみ)も、聖霊は神の基準で示します。

「真理はあなたを自由にする」は、ここでもアーメンです。祈る者には、最初に「聖霊の知識」が与えられます。次に、「神の愛」が与えられます。そして、「実行する力」が与えられます。

さあ友よ。愛せなくても、祝福できなくても、まずは祈り始めましょう。

6章29節

「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。」

右は、聖書を読んだことのない人でも知っている有名な言葉の一つですが…。

他者とのかかわり方には、「権利・義務・愛」の三通りあります。「権利」は、自己を守る生き方…もう一方の頬も上着も拒む。「義務」は、相手に自分を合わせる生き方…頬を打たれ、上着を取られるままに耐える。「愛」は、相手のために自分を捨てる生き方…もう一方の頬を向け、上着だけでなく下着も与える。

ただし、人は権利でも義務でも人は変われません。なぜなら、その人の「命」が変わらなければ、人は変わらないからです。主の十字架は、罪人の命を消し、復活したイエスの命に置き換えます。

友よ。私たちは神の子イエスの頬(存在・自尊心)を打ちまくり、衣(聖さ・権威・永遠の姿)を剥ぎ取りました。しかし父なる神は、「そのわたしたちの罪のすべてを、主(父なる神)は彼(イエス)に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった」(イザ53章6~7節)。だから、私たちの罪の命は死に、復活の命に変えられました。私は、神の愛に負けたので「イエスを主」とします。

6章30節

「求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。」

「求めよ、さらば与えられん」の反対の言葉に聞こえる、「奪う者から取り返すな」がここに記されています。

「神は…。人の心に永遠への思いを与えられた」(伝3章11節・新改訳)ので、人の究極的求めは、神であり永遠の命です。したがって、人が求めるものも、与えるべきお方も神です。このことを知って仕え合うと、互いを豊かにします。しかし、神を根底に置かない人間関係は、奪い合いへと発展します。「あなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか」(Ⅰコリ4章7節)とあるように、すべてのものは、神からいただいたものです。

「どうして、そんなに人に与えることができるのか」と問われたマザー・テレサは、「①無いものは与えられない。②自分で得た(自分を救うため)ものは与えられない、③与えて無くなるものは与えられない」と答え、そして「私は、神のものを神から受けとり、それを人に与えます。するとさらに神は私に与えてくださいます」と答えたそうです。

友よ。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(マタ10章8節)を、あなたの生きる基準の一つに加えてはどうでしょうか。

6章31節

「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」

マタイはこのみことばの後に、「これこそ律法であり、預言者である」(7章12節)と加え、ここから「黄金律」という言葉が生まれました。

道徳や倫理は福音とは違う、と一蹴することは危険です。福音は神から、道徳は人から出てきますが、福音を正しく受け取るほどに、道徳と倫理は正しい基準と力を持ちます。それを一言したのが、「人にしてもらいたいことを、人にもしなさい」の黄金律です。人に求めることはだれでもできますが、人に与える力は福音の中にこそあります。

福音には、「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ロマ5章8節)とある、人を愛する力があります。そこから、「人を愛する者は、律法を全うしているのです」(ロマ13章8節)が実現します。これぞ、「黄金(神)の律法」です。

神に愛された友よ。自分の心の中に浮かぶ、人からしてほしいことがあるなら、あなたはそれを神に求めてください。そして、隣人にはそれを実行してください。「神を愛する者は、人を愛する者とされて律法を全うできます」は、黄金律のさらなる中身です。なぜなら、「「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」(19章26節)からです。

6章31~34節

「自分を愛してくれる人を愛し…。自分によくしてくれる人に善いことをし…。 返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。」

これも手厳しい言葉ですが、生きる上での肝心な教えが隠されています。

「右の頬に左の頬…一ミリオンに二ミリオン…下着に上着」(マタ5章38~42節)は、拒否して「権利」を守ることでも、仕方なく相手に合わせる「義務」でもなく、「愛(左の頬・二ミリオン・上着)」による解決を示しました。ここでも、「自己中心(権利)」や「相手次第(義務)」ではなく、「神中心(愛)」でなければならないことを教えます。特に日本人は、島国の狭い耕作地で生活する宿命から、他者に自分を合わせる処世術を身につけました。しかし、それは互いの自己中心を隠しただけで、いつも不満が募りますから、このような歩みに「どんな恵みがあろうか」と主は繰り返し言われます。

「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹…捨てて…」(ルカ14章26節)とは、「神の祝福以上に、人の祝福を求めてはならない」とも理解できる言葉です。

友よ。人からの恵みを優先すると神が疎(うと)ましくなり、神からの恵みを優先すると人が愛(いと)おしくなることを知っていますか。神の恵みは、わたしはお前を愛している、という「神の愛」です。愛には恐れがありませんから、不安は消え去ります。

6章35節

「あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。」

ある人が、右のみことばを一言にまとめると、「神の子たちよ、自分のことは心配するな」と言っているのだと言いました。アーメンです。

マタイ6章25節の、「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか…」から始まり、34節までに6回も「思い悩むな」と出てきます。

それは、衣服よりも体がまさっている以上に、「お前は、わたしの子供なのだから」という、文字で書かれていない言葉が、この文章全体を支配しているからです。

それは、衣服よりも体がまさっている以上に、「お前は、わたしの子供なのだから」という、文字で書かれていない言葉が、この文章全体を支配しているからです。

神の御心に従ったからといって、敵からの愛や理解を必ず受け取れるとは限りません。しかし、神御自身をより大きく深く体験できることは確実です。まさに、「わたしがいるから、自分のことは心配するな」です。

6章35~36節

「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」

「憐れみ」という言葉は、人の道徳の次元で理解されがちですが、神の憐れみは十字架から出てくるものです。

ボンフェッファーは、「安価な恵みは、我々の教会にとって許すべからざる宿敵である」と言いました。それは、「神は愛ですから、罪や弱さを赦してくださる」と言いながら、そこに「十字架」がないことです。十字架の尊さが分かるには、罪があらわにされねばなりません。それには、いつも聖書の基準が明確に語られることが必要です。

罪を曖昧にした「憐れみ深い」ことは、人を罪から解放しない安価な恵みです。教会は、「罪人探し」ではなく、「罪探し」をせねばなりません。そして、その人の罪を主の十字架の前に持ち出さねばなりません。そこには、「自分に死ぬ」(マタ10章39節参照)という戦いがありますが、そこでのみ神の憐れみ(十字架の赦し)を受け取ることができます。

友よ。憐れみ深い者とは、罪を寛容に扱わずに、主の十字架へ連れて行く者のことです。「教会(罪・十字架・復活)」を、「協会(人間同士の恩・情け・憐れみ)」にしてはなりません。教会に、高価な恵みが満ちることを祈りましょう。

6章37節 ①

「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。」

「罪を憎み、罪人を憎まず」の名セリフは、実はこのみことばに根拠があったのでは!

旧約聖書に登場するヨナは、神の命令に逆らって船で逃げますが、大嵐に遭遇します。船員たちは、災難が「誰のせいで」(ヨナ1章7節)起こったかを探しました。いつでも、誰のせい、と「罪人探し」をしますが「罪探し」はしません。戦争は軍部の暴走が財閥のエゴのせいで…と探しますが、「神から離れ、自己中心に生きる人の罪」は探しません。すると、戦争に反対できなかった自分の罪は隠し込めるので、罪人探しにはフォㇽティシモの記号が付き、逆に、罪探しにはピアニシモが付けられます。

罪が分からなければ問題は解決できませんが、他者から罪を指摘されても受け取れず、自己弁明か反撃に転じます。罪を受け取れるのは、ヨナにくじが当たったように(同節)、神から直接指摘されたときです。

人が人の罪を示し、裁くことはできないのでしょうか。いいえ、教会で「愛の剣」としてみことばが語られる時、聖霊がその人に罪を示します。人が罪を裁こうとするときは、罪人を仕立ててその人を裁きます。神のもとに罪の裁きを持ち出すならば、罪を主の十字架に持って行くために、共に祈り合えます。

6章37節 ②

「そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。」

この言葉は、自分が罪人にならないためには、他者を罪人と思わず、自分が赦されるためには相手も赦しなさい、と聞こえてきますが、それは道徳であり福音ではありません。

「律法が霊的なもの」(ロマ7章14節)であるように、罪も霊的なものですから、人が人の罪を処分することはできません。

大嵐が、自分の罪から来たことをヨナが気づき告白した後、「乗組員たちは、船を漕いで陸に戻そうとしたが、…海はますます荒れて」できませんでした(ヨナ書1章参照)。「だれでも過ちは犯すから・互いに赦し合わねば」などと、人間同士の同情によって罪を消そうとするなら、混乱に拍車をかけるだけです。罪は、代価を払うまでは消されません。「血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです」(ヘブ9章22節)。

友よ。「罪人同士だから互いに赦し合いましょう」ではなく、むしろ、「罪人同士だから、自分の罪が赦されなければ、あなたを赦すことができない」の立場に立ってください。神に赦された人こそ、相手の痛みを知って、罪の赦しを神に執り成すことができます。それが本当の赦しへ通じる道です。

6章38節 ①

「与えなさい。そうすれば…与えられる。」

「さあ、愛する兄弟姉妹。あの人は教会に多くの献金をしたので、今、こんなに豊かになっています…」では、心からの「アーメン」どころか、首をかしげたくなります。

ハドソン・テーラーが自分の証しを述べていました…。

伝道旅行の必要経費の半分にも満たない二十一元ほどのお金が与えられました。ところが、ある兄弟に二十元与えよ、と神に言われて差し出しました。旅行中に献金を期待するも適いませんでしたが、神に祈り、神の知恵が与えられ、無事旅行から帰りました。そこで、先に二十元渡した兄弟が、そのお金を本当に必要としていたことが分かりました。そして、「そのことで私は再献身し、それから私は与え続けています」と証ししました。彼は、友人に二十元与えたのではなく、自分自身を神に与えたのでした。そして彼は、お金や物ではなく、今まで以上に主イエスを受け取り、彼の献金を受けた友人も主を受け取りました。さらに彼は、「初めてルカの福音書六章の意味が分かりました」とも述べました。

友よ。自分を神に与えるのです。その結果、「押し入れ、揺すり入れ」(同節)て与えられる恵みは、「主イエス」という世界最高の宝です。もろもろのものを得るのではなく、イエス・キリストを得るのです。それがいちばん賢い生き方です。

6章38節 ②

「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして…。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」

この言葉も「与えたらクリスチャンになれる」ではなく、「与えたら豊かなクリスチャンになれる」と言っているように聞こえます。ある説教集に次のように書かれていました…

  • お金をしっかり握りしめてみよ…ほかのものを持つことができなくなる
  • 自分のものをしっかり握りしめてみよ…神のものを持つことができなくなる
  • 分け与えない人を信用できようか…もちろんできない
  • 神はその人に自分を委ねるだろうか…もちろんしない

「少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります」(Ⅱコリ9章6節)のみことばから、与えることは「蒔く」ことでもあります。蒔くものは、神からいただいた命です。すると、「敵に与えよ・右の頬を・上着を・二ミリオン…」なども、神の命を蒔くことになります。すると、神の命の種は、いつか必ず芽を出し、実を結びます。

友よ。神に献げたものは、相手にも収穫されますが、それ以上に、自分の中に「押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに」蓄えられます。あらゆるものよりも、命を持つことが豊かさです。なぜなら、命が必ず形(見えるもの)をつくりだすからです。

6章39節

「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。」

道を知らない人に、その人の感覚だけで道案内されたら、目的地に到達することはできません。本物の人生の道案内人が必要です。

人には三つの目があります。肉体の目は、行動の自由を助けます。心の目は、喜び、悲しみ、痛みを見ることができ、他者との心の交流を助けます。さらに、霊の目が必要です。これは、「神の目で見た人の姿(存在・人生・将来…)」を見る目です。

その目は、聖霊の導きによって、聖書を理解することから始まります。そこから得た聖書理解に従って生活し、さまざまな試練を経て、悲しみ、祈り、忍耐し、感謝し、イエスにつながり続ける者に道を示します。その目を持って生きると、聖霊の実を豊かに結ぶことができます。

友よ。先生と呼ばれ、あるいは人を先生としていませんか。まずは、「先生」ではなく「兄弟姉妹」と呼び合ってはどうでしょうか(マタ23章8節参照)。そして、「主よ、私もあの人も目の見えない者です。ですから、あなたが道案内人(先生)となってください」と願うなら、主は喜んで「前から後ろからわたし(たち)を取り囲み」(詩139・5)ます。そして、羊飼いは「自分の羊(たち)をすべて連れ出すと、先頭に立って」(ヨハ10章4節)導いてくださいます。主こそ、本当の羊飼いであり道案内人です。

6章40節 ①

「弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。」

本当の道案内人は、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハ14章6節)と言われた主イエスだけで、ほかのどんな人も絶対になれません。

しかし、道・真理・命にはなれなくても、道・真理・命である主イエスに導く案内人にはなれます。それが、「弟子は師にまさらず、しかし、師のようになれる」の言葉です。世には、その道を究めた人々がいて、それぞれが自分の弟子をとりますが、彼らの弟子とキリストの弟子は違います。人の弟子は、自分の個性や能力を磨き、師匠よりも優れた技量を身に付け、師匠を超えることもできますし、実際に師匠を超えた人は数多くいます。しかし、キリストの弟子は、自分に死に、師(主イエス)に支配される(聖霊に満される)者のことですから、師を超えることはできません。しかし、師であるイエスが、聖霊によって弟子の内側で生きてくださるので、師のように生きることはできます(ピリ2章18~20節参照)。

友よ。弟子になることは、忍従の道を歩むことではなく、むしろ主イエスに生きていただき、責任を負っていただくことです。「弟子の道」こそ、いつも十字架と復活を体験する人生です。そして、師(イエス)と弟子は羊飼いと羊の関係ですから、最も平安な人生をつくります。

6章40節 ②

「しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。」

丁稚奉公に入り、師匠を真似る(学ぶ)ことから始まり、若者頭、番頭、独り立ちへ進むのは、呼び方は違っても今日でもほぼ同じです。

この世における弟子は、長い年月修業を積み重ねると、師匠を超えることもできるものです。そして、人々からの称賛を受け、人によっては、得た能力と称賛によって高慢な心になり、まるで王のようにふるまっている人すら見かけます。

しかし、主イエスの弟子は、努力し学ぶことは同じでも、人の弟子とは違います。主の弟子は、学ぶほどに、自分の能力も人格も、あまりにも不完全であることを知らされ、主の「弟子」よりも、さらにへりくだり「主のしもべ」になろうとします。

それでは友よ。「修業を積み…師のようになる」とはどういうことでしょうか。それは、イエスが、「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(ルカ22章42節)と、父に服従したように、私たちが主イエスに自分を明け渡すことです。それには、信仰の「修業(訓練=自我を主に明け渡す)を積む」必要があります。信仰の訓練は、知的、技術的訓練ではなく、自分の全存在をかけて、主イエスに依存する愛の訓練です。これは、人生でいちばん収穫ある修行です。

6章41節

「兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」

目の中に、とても小さな異物が入り込んだだけでも、正常な行動ができなくなります。目は、人間の体でいちばん敏感な所です。

人は神なき暗黒に生まれました。その中で、「わたしは世の光である」(ヨハ8章12節)主イエスを受け入れた時から、「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(同)ことができました。しかし、「昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである」(ヨハ11章9・10節)ともあります。

視力を無にする暗闇をつくるのが丸太とおが屑なる「罪」です。丸太の目も、おが屑の目も、相手の罪を取ることはできません。なぜなら、罪を取ることよりも、「その人」を取ろうとする(拒否・自分に服従させる)ので、相手はすぐ目(心)を閉じるからです。

友よ。罪を見過ごし放置するならば、その人も周りの人々も暗闇に包まれますから、罪は取り出さねばなりません。ただし、それができる人は、主イエスから自分の目のごみ(罪・丸太)を除いていただいた人です。次に、相手を愛するために、罪を憎む人です。さらに、「目に塗る薬」(黙3章18節)を自分の目に塗っている人(聖霊の満たし)です。

6章42節

「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」

目の中に丸太とは大げさな! しかし、価値観を途方もなく変えるのが罪です。

丸太やおが屑が視力を左右するように、罪は人の見る目(価値観)を変えます。貪欲の罪は、「さあ、これから先何年も生きていくだけの蓄えができたぞ」(ルカ12章19節)と信じさせ、「目を上げて眺めると、ヨルダン川流域の低地一帯は、…主の園のように…潤って」(創13章10節)ロトには見えました。しかし、金持ちの男は「愚か者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」と言われ、ロトは「財産もろとも連れ去られた」とあり、彼らの見る目が間違っていたことが分かります。

一方、アブラムは「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい」(同14節)と言われました。そして、彼は信仰の父として、全地を所有するようになりました。丸太やおが屑を取り除く方法は、アブラハムのように、神に「目を上げ」ることです。すると、「主の方に向き直れば、覆い(丸太・おが屑)は取り去られます」(Ⅱコリ3章16節)。

友よ。人を裁く自分を認めて、私こそ「主よ、目が見えるようになりたいのです」(ルカ18章41節)と叫びましょう。

6章43節

「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。」

ぶどうの木はぶどうの実、柿の木は柿の実、リンゴの木はリンゴの実を結びます。それでは、人はどんな実をつけるのでしょうか。

この個所は、良い木は隆々とし実も大きく、悪い木は弱々しく実も小さい、と言っているのではありません。外見は両方とも同じで、実の中身が違うだけです。良い木の実には神の命が詰まり、悪い木の実には人の命が詰まっています。

神の命が詰まった実(愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制)を結ぶのは、神の命を持った木で、人の命が詰まった実(姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴…)は人の命である肉から出てきます(ガラ5章19~22節参照)。

友よ。実の大小や形よりも、命の質を気にしてください。実は、木の命によって決まり、木が吸い上げる水(命)によっても決まります。「主の教え(みことば)を愛し、…流れのほとり(聖霊の御臨在)に植えられた木」(詩1・2~3節)が良い実を結ぶことができます。さあ、今日もこの世ではなく、神の側に身を置き続けてください。

6章45節

「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。」

マタイはこの個所を、「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」(13章52節)と表現しています。

ここでの「善い人」と「悪い人」の違いは、信仰の「有無」の区別ではなく、クリスチャンの「質」のことです。神を信じて神の子となった者には、神の霊が宿っていますが、肉(生まれながらの性質・自己中心性)もなお残っています。そこでパウロは、「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達する」(コロ3章10節)ことを勧めています。それは、倉(心)から「肉のもの(古いもの)」を取り出して捨て、「霊のもの(新しいもの)」を取り出して用いることです。

天国のことを学ぶ友よ。天国の知恵は、イエスを主とすることです。善い人とは、イエスを主として生きることを選ぶ人のことです。信仰は自動コントローラーではなく、手動式です。また、一回スイッチを押せば、いつまでもその状態で動くものでもありません。日々、今日も心の針を、「イエスを主として生きる」に合わせ、スイッチを押さなければなりません。押さなければ、針は自動的に肉とこの世に向きます。

6章46節

「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。」

「言うは易し、行うは難し」は、昔も今も、国も民族も超えて同じです。それは、神の子たちにも当てはまります。

「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」(ヤコ2章17節)ともあります。なぜ「主よ」と言いながら「行い」が伴わないのでしょうか。神の子に求められる行いとは、能力や努力を超えた、聖霊の御業のことです。そして、その行動が「御霊の実」をつくり出します。御霊が自由に働けるのは、イエスを「神」と信じる以上に「主」と信じる者の中です。

したがって、神の子の中で聖霊が行動できずに悲しむのは(エペ4章30節参照)、主に自分を委ねず、服従しないからです。「主よ」と呼ぶことと「行い」の間には、「服従」という言葉が入らねばなりません。服従は、神の御心に自分を従わせる(自分の十字架を負う)ことです。すると、その者の中に聖霊は御自分の御業(愛・寛容・謙遜…)を起こし、その人の行動となります(ガラ5章22節参照)。

友よ。冒頭のみことばは、「わたしを『主よ』と呼びながら、助け主の聖霊に頼まず、なぜ自分の力で行動するのか」と言っているように聞こえませんか。主は怒っています。そうです、あなたが与えられた恵みを受け取らないことに怒っているのです。

6章47節

「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。」

子供向けの聖書絵本では、岩の上の家は丘の上に、砂の上の家は谷底に建っています。実際には、両方とも全く同じ場所に、同じ材料で建てられていますが、土台だけが違っていました。

岩の上に建てるとは、直接主イエスの上に。砂の上に建てるとは、主と自分との間に牧師や教会組織や人や教理や知識など、何かを挟むことだと分かります。

岩の上に建てることは、「イエスに自分を合わせ」ることです。それには、「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う」ことです。「自分にイエスを合わせる」ことは、砂の上に建てることになります。岩の上に建てるには、ごつごつした岩に自分を合わせる聖別が必要ですから、だれでも嫌がります。そこで、砂を敷いて楽に建てようとします。主はペテロに、「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい」(ヨハ13章1~12節参照)と、日々の聖別のことを教えました。

友よ。この自己中心という砂を取り除く作業は、一度行えばよいものではありません。毎日毎日「足を洗う」(ヨハ13章10節参照)ように砂を除かないと、砂はいつの間にか積もるものです。今日も、主と自分の間に挟まっているものを点検してください。

マタイ7章26節

ルカによる福音書6章49節

「私のこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。」

人が生きる以上、「人生」という家を建てることになりますが、人々は土台よりも、建物の大きさや設計や材料などに関心を向けます。しかし、聖書は土台だけにこだわります。

岩の上の家は、イエスに建てていただいた家です。それは、イエスの指示を受け、しもべとして生きる人生のことです。その人は、人生のさまざまな試練に直面しても、岩なるイエスに直接支えていただけるので倒れません。

砂の上の家は、イエスを用いて自分で建てた家です。それは、自分の願う設計と好む材料を使い、自分に都合の良い「イエスの恵み」だけを受け取って建てたとも言えます。そしていつでも、主に相談して決めるのでなく、出来上がった後に事後承諾させようとします。

しかし、人生の最期に必要なものは、「命(イエス御自身)」であって、「恵み(賜物・能力・財産)」ではありません。山上の垂訓の最後に、「わたしの言葉を・聞き・行う者」と言われたことに今一度心を向けてください。

友よ。あなたの人生において、誰を基準とし、誰の言葉を受け取り、誰と共に行動しますか…もちろん、主イエスでなければなりません。そうです、私たちの信仰は、聖霊により主イエスと、主イエスにより父なる神と交わることです。

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