3章2節 ①
アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。
皇帝ティベリウスの治世の第十五年は、AD二十八年頃のようです。ローマ帝国の中でも、ユダヤ地方の行政は慌ただしく動きました。そのただ中に、バプテスマのヨハネが登場します。
どの時代も激しい変化の中に置かれ、人々はその情報と現実に振り回され、生き方も日和見主義的になります。そして死に直面して生涯を終えるころになって、それまでに聞いて信じたことで、その先に必要なことは何も知らないことに気づきます。それは、何も無い自分に気づく恐怖の時です。そのような人は、確かで変わることがない情報「真理」を知らず、ティベリウスやヘロデやアンナスやカイアファの声を聞いてきたからです(1~2節)。
しかし、ヨハネは荒れ野にいました。ヘブル語で「荒れ野」という言葉には、「聞く」の意味があると言います。彼は、人々の声ではなく、ひたすら神の声(真理)を求めて人里離れた所にいました。
友よ。あなたが求めるのは、最新の情報、皆の声、自分への賛同の声ですか。どうか、一日の中の15分でも30分でも、ヨハネのように荒れ野に身を置いてください。神は、あなたに語りたいこと、特にこれから歩む道についての確かな情報を持っておられます。「信仰は聞くことにより…キリストの言葉を聞くこと」(ロマ10章17節)によって始まるのです。
3章2節 ②
神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。
神は、イスラエルの民を選民(証し人)としてカナン(現イスラエル)に置かれました。そこは、世界で最も過酷なアラビア砂漠の端でした。
和辻哲郎著『風土』は、気候が及ぼす人生観(神観と信仰に通じます)について記しています。降雨多湿気候(モンスーン)の地域では、自然界の命によって人が生かされることから、「自然神(アミニズム)」が登場します。
反対に、乾燥する砂漠気候では、自然界は人の敵となり、少ない水と草を敵から守らねばなりません。そこでは、自然界もほかの家族も、部族も敵となり、常に戦いが起こります。そのような所に必要な神は、呼べば応えてくれる「生きた神(神格・人格を持つ神)」です。そこから、モンスーン気候では、「人のための神」信仰が生まれ、砂漠地方では、呼べば応える人格神への信仰が出てくると言っています。
友よ。日本では、豊かな気候とそれなりの経済の満たしや福祉厚生を享受できています。しかし、自然界の水は豊富であっても、人々の心と霊の井戸は砂漠のように乾いています。「神の言葉が…ヨハネに降った」とあるように、真理の水・神の言葉は、豊かな者にではなく心の貧しい者(砂漠)に注がれます。「この水(この世が与えるもの)を飲む者は…渇く。しかし、わたしが与える水(神の言葉)を飲む者は決して渇かない」(ヨハ4章13~14節)。
3章2~3節
神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
神の声を聞いたヨハネは、荒れ野から出て行き悔い改めの洗礼(バプテスマ)を授け、神の国の到来に備えるように人々に語り出しました。
洗礼を受けてクリスチャン生活を始め、メッセージを聞き、聖書を読み、祈り奉仕するうちに、少しずつ祈りから、聖書から、メッセージから遠ざかります。それは、信仰生活を続けても成長しない自分自身への失望が、兄弟姉妹へ、牧師へ、教会へ、神へと上昇していくからです。
失望の原点は、神と生きた関係を持てないことです。その原因は、みことばを聞いても、次の「行って」という行動と実践がないからです。
ヤコブは、「みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」(ヤコ1章22節)と忠告しました。
友よ。あなたは神の言葉を、「聞くだけ・聞いて信じる・聞いて信じて行う」のどれですか。評論家(説教者の評価)、分析家(説教の評価)、お節介者(他者に当てはめる)でいるなら、砂の上に家を建てる愚か者になります。礼拝や集会の後、世間話は置いて、聞いたみことばを分かち合ってください。それが最初の行いであり、成長の第一歩です。
3章4節
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」
「バプテスマのヨハネとは、旧約聖書に人格を与えたような人物である」と言った人がいました。事実、旧約聖書の預言は、人となって来られる神を紹介することでしたから、ヨハネは旧約をまとめたような最後の預言者でした。
バプテスマのヨハネは、「荒れ野で叫ぶ者の声」と紹介されています。声は言葉(手段)であって、言(命・存在)ではありません。礼拝や集会で、メッセンジャーによるメッセージを聞きますが、その人は器(言葉)であって、命(言・キリスト)ではありません。
「言葉」は、「言」を紹介すると消えて行きます。ヨハネ自ら、「あの方(主イエス)は栄え、わたしは衰えねばならない」(ヨハ3章30節)と言いました。しかし、彼はやがて首をはねられて死にますが、「女の産んだ者の中で、ヨハネより大きい人物はいない」(7章28節・口語訳)と、主イエスの最大の評価を受けました。
友よ。あなたはどんな言(命)を語りますか。それが、「自分(自分の命・基準)」になってはいませんか。願わくはヨハネのように、自分が消えて、「イエスが主です」と、口と生きざまで証ししたいものです。バプテスマのヨハネへの主の評価は、「謙遜」に向けられていました。謙遜は、「私でなく主イエス」です。
3章5~6節
「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。」
主は、「わたしは道である」と言い、ヨハネは「道を備える者」だと言います。人々が主イエスという真理の道を歩むために、道を備える道路工事をするのがヨハネの任務でした。
道路工事の仕事は、谷を埋め、山と丘を削り、曲がりを直し、かつ平らにします。それは、罪に苦しむ者(谷)を引き上げ、高慢な者(山と丘)を崩して引き下げ、価値観を正し(曲がった道を直し)、不義や不平等(でこぼこ)を直す、とも受け取れます。
すなわち、神の基準を示し、人々をこの基準に連れ出し、そこを歩かせることです。人は、人生の基準と方向が違っていることを知らされなければ、自分がどこにいるかすら分かりません。そのために、ヨハネは心の貧しい人々に悔い改めの洗礼を授け、ヘロデの罪を指摘し、律法学者たちと戦いました。
友よ。バプテスマのヨハネへの使命は、あなたへのものでもあります。あなたも主イエスの「声」であり、人々が主イエスへと進んでいくための「道を備える者」です。「宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。…『良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか』」(ロマ10章14~15節)。
3章8節
「悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ、などという考えを起こすな』」。
バプテスマのヨハネの言葉は、じつに厳しく身を引き締めます。それは、ラクダの毛衣、皮の帯、いなごと野蜜を食べる荒くれ男だからでしょうか。否、神の愛が彼に迫っているからです。愛には厳しさがあります。
旧約聖書は律法で厳しく、新約聖書は愛で優しいと思われがちですが、「モーセは、わたしについて書いている」(ヨハ5章46節)と主が言われたように、聖書は一貫して愛を語ります。
愛から出てくる厳しさは、「自己責任」というものです。愛は、「私とあなた」であり、その間に何も入れません。それは、「神と私」であり、最終的には家族も、牧師も、教会も、教団も入れません。ですから、信仰生活は徹底的に自己責任であることを自覚せねばなりません。
ユダヤ人たちが、「我々の父はアブラハムだ」と叫んでも、「神と自分」の間に真実な「継がり」と「交わり」がなければ、騒がしいシンバルになります。
友よ。愛の厳しさは、神から与えられたまことの命を失わせないためにあります。自分の信仰に、アブラハム(牧師、教会、兄弟姉妹…)を持ち出さず、自分自身を主の前に持ち出してください。主だけが、「主は羊飼い、…主はわたしを青草の原に休ませ…魂を生き返らせてくださる」(詩23)お方だからです。
3章8節
「言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」
しかし、神が捨て、切り倒したいのは、「不信仰者(人)」ではなく「不信仰(罪)」のことです。人は律法と、もろもろの掟(宗教的因習)に時間と心を奪われていますが、肝心なものは捨てています。「ものの見えない案内人、あなたたちはブヨ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる」(マタ23章24節)と主も言われました。
それでは、不信仰な人とはどんな人でしょうか。それは、主の言葉を実行できない人でも、自分の生活を支えられない人でも、人を十分に愛せない人でもありません。それは、神に向かう方向がずれている人のことです。
友よ。あなたはつまずき、道端に転がった価値のない石のようですか。でも大丈夫です。神は、転がり泥だらけの姿は見ず、あなたの目を見ています。あなたの目が、自分の顔に向いているかどうかだけを見られます。目が合えば、神は手を差し伸べて起こせるからです。転がっていてもいいですから、目を上げて主を見てください。
3章10~14節
「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「…下着を二枚持っている者は…分け、…規定以上のものを取り立てるな。…自分の給料で満足せよ」
ヨハネの勧めに、徴税人や兵士たちまでもが質問してきました。それに対する答えは、特別なことではなく「常識的」なことでした。
しかし、常識は時に、人の権威と権利が絡む処世術となり、人を惑わせることがあります。徴税人が多く税を取り着服するのは、上の命令と自分の利益が合致する常識になります。兵士が職権を乱用するのも、権力により自分の利益を得る常識になります。
ヨハネは、徴税や兵士の仕事が悪いと言うのではなく、「神を恐れて生きよ」と言います。そうすれば、「真理と愛」という神の常識で生きることができるからです。人類の問題は、神の常識が失われ、人の利害が常識となっていることです。すなわち、価値基準を神から人に移してしまったことです。
友よ。あなたの人生をつまずき、不自由になったのは、「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハ8章32節)の真理(神の常識)が無かったからです。神の常識を持ては、「分け・必要以上に取り立てず・満足」できます。多く持つことが自由ではなく、満足できる心を持つことが自由です(ピリ4章11節参照)。
3章16節
「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」
バプテスマのヨハネの使命は、後に来られる主イエスのために、道を備えることでした。
彼は水の洗礼を授け、後で来られるイエスは聖霊と火で洗礼を授けると言います。「水の洗礼」と「聖霊と火の洗礼」の理解に戸惑い、解釈が分かれます。そこで、二人の役割の違いから推し量ることもできます。
バプテスマのヨハネは、人々をイエスに紹介しつなぐ役割ですから、彼の水の洗礼とは、「罪を悔い、神の言葉に従う決意までの告白(洗礼)」とも取れます。
一方、主イエスの聖霊と火による洗礼とは、「聖霊によってイエスを主と信じる者の罪を十字架で滅ぼして赦し、復活の命を与え、聖別する」までの完全な救いとも受け取れます。明確な理解はできないにしても、ヨハネは人々を主のもとに連れて行き、主イエスはそれを受け取って救い導き完成します。
友よ。そうすると、私たちも現代のヨハネではないでしょうか。まず、救い主がイエスであることを告げます。人々に悔い改めを勧め、聖霊に委ねて「イエスは主」との信仰告白としての洗礼に導きます。さらに、神の真理にそって生きることを教えます。まさに、現代のバプテスマのヨハネは、あなたでもあります。
3章19~20節
領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて…ヨハネに責められたので、ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた。
ヨハネは捕えられた後、牢獄で斬首されて殉教の死を遂げました(マタ14章1~12節)。
山形県米沢市の北山原に、1629年1月12日に処刑された、上杉家家老甘粕右衛門をはじめとする53名の殉教者たちの記念碑があります。彼らの中に、強引に捕まえられ、縄で縛りあげられ、逃げるすべもなく処刑された人はだれ一人としていませんでした。むしろ何人もの人々は、自らクリスチャンであることを告白し、殉教するために願い出て来た人々でした。
それから380年経ったこの小さな町には、現在も多くのクリスチャンがいます。主は、「義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのない悪口を浴びせられるとき、あなた方は幸いである。預言者たちも同じように迫害された」(マタ5章11~12節)と語り、そして「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(44節)と続けました。
友よ。人の肉体生命は、どのように生きても必ず絶えます。あなたは何にその命を燃やしていますか。「ヨハネは、燃えて輝くともし火」(ヨハ5章35節)でした。小さなともし火の人生でも、主イエスのお顔を照らす人生は永遠に燃え続けるともし火です。
3章21~22節
民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。
神の子イエスが、ヨハネから洗礼を受けられたことに、疑問を持ちがちです。事実ヨハネは、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに」(マタ3章14節)と言っていました。
洗礼は、聖霊によってイエスを主と信じる者に与えられる、「葬式・誕生・結婚」の恵みを持ちます。「葬式」は、主の十字架によって、古い罪の命の自分を葬ります。「誕生」は、主の復活にあずかる神の命をいただいて生きることです。「結婚」は、イエスの花嫁とされ、イエスを主人として生きることです。
ですから、主イエスのような罪のない人に、罪の悔い改めと赦しは不要で、神が自分を神と告白する必要もありません。それでも「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」(同15節)と言われて、ヨハネから水の洗礼を受けられました。
友よ。主の洗礼についての神学論争はおいて、神なるイエスが、人から洗礼を受けられた姿に目を注いでください。御自分には必要がないのに洗礼を受けられたのは、私たちの歩む道の模範となるためでもありました。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハ3章3節)という神の子の道を、自ら教えられたのです。
3章22節
聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
洗礼を受けたイエスが水から上がると、父なる神の声が天から響きました。
神の子たちの中に、「旧約聖書に出てくる神は父なる神で、主イエスとは違う」と勘違いする者もいます。新約聖書において、父なる神の御声が記されているのは、右の個所と「これはわたしの愛する子、選ばれた者、これに聞け」(9章35節)の箇所の、2回だけです。
主も、「モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセはわたしについて書いている」(ヨハ5章46節)と言われ、ノア、アブラハム、モーセ、ダビデや預言者たちが聞いたのは、主イエスの声だったと自ら言われました。したがって、聖書の焦点はイエス・キリストに合わせるべきで、主イエス以上に聖霊に当て過ぎることは危険です。
友よ。「わたしを見た者は、父を見たのだ」(ヨハ14章9節)、「御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせる」(同16章14節)の2つのみことばがバランスを与えます。聖書理解は、イエス・キリスト理解であり、イエスを理解することは聖霊の働きにより、イエスを見ることが父なる神を知ることです。今日も、聖霊によって主イエスに聞き従い、父なる神に栄光を帰してください。
3章23~38節
イエスはヨセフの子…、ヨセフはエリの子…マタト、レビ…ヤコブ、イサク、アブラハム、セト、アダム。そして神に至る。
イエスの系図として、77人の名前が載っています。その中で私たちが知っている名前はほんの数人だけです。しかし、ほとんどの人を知らなくても、最後の「神に至る」が重要です。
実に、系図全体が人々に願っていることが、「神に至る」の一言です。77名は、「彼はお前の頭を砕く」(創3章15節)から始まり、「初めての子を産み」(ルカ2章7節)までの長い救済の歴史を担った人々です。
登場する一人ひとりが、失敗し、失望し、高ぶり、神への従順はほんのわずかでした。それは、親の罪を子に、さらに孫へと引き継ぐ愚かな人類の歴史でもありました。しかし、その愚かな罪人たちを、「神に至る」者にするためにあらゆる罪に戦いを挑む万軍の主の熱心さに、人の罪もついに敗北しました。それが、イエスの降誕、十字架と復活による勝利でした。
神を信じ、神に至らせていただいた友よ。聖書の系図に名がある人々だけではなく、主を伝えてくださった家族や兄弟姉妹や信仰の先人たちも、「あなたが神に至る」ために用いられ、あなたも、「彼らが神に至る」ために必要です。神の系図に、あなたの名前はありますか。そして、だれかが神に至るために、その人の前にあなたの名前はありますか。