24章1~3節
週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。
どの国の歴史においても、権力者たちはキリストを封印しようとしましたが、世界で最も厳しい封印は日本で行われました。
クリスチャンは安土桃山期から江戸初期まで増え続けました。唯一神を掲げるヤソ(キリスト)教と、徳川を神の地位に置く幕府は対立しました。種々の迫害を試みる中、最終的にクリスチャンを滅ぼしたのは五人組制度でした。これは、五家族を一組とし、その中にヤソがいた場合、五人組の中で告発すればその信者だけが刑を受けますが、他の組から自分の組の中のヤソを見つけられ告発されると、本人とその家族どころか五家族すべてが極刑を受けるものでした。
自分の信仰への処罰が、自分の命だけにとどまらず、自分の家族にも他の家族にも及ぶことは、信者を厳しい選択へと追い込みます。そのために、五人組は、自分の命を守るために互いを監視する告発集団にもなりました。イエスの墓を「五人組石」でふさぎ、互いを「告発・封印」する、世界でも類を見ない厳しい迫害でした。
しかし友よ。二百六十年続いた徳川の亡霊に縛られ、「円人生論」を掲げても、事実には勝てません。初代教会の神の子たちの合言葉は、「それでも主は復活した!」だったそうです。
24章3~5節
…主イエスの遺体が見当たらなかった。…途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。…二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。」
《中国の知人・テモテ兄の証し》
…1913年1月にフルタイムの献身をした。すぐに四歳の一人息子が白血病と分かった。化学療法を続け、一回の点滴中に六回ももどす治療、他の子は泣き騒ぐが、家の子はワーシップソングを歌う。それを医療関係者も覚えるほどになった。「ママ、泣かないで、ママが泣かなければボクも泣かないから」と親を慰める。医者に対しても、「ボク、こわくないよ、ボクの中にイエスさまがいるから」と。息子を通し、我が家がクリスチャンホームだと知られるようになった。やがて彼は、「小さなキリスト君」と呼ばれだした。その知人曰く、「子の病気の中に生ける主を観る」と。そして、「もっと思い切って、もっと大胆に私に頼りなさい、といつも主に言われている」と…。
友よ。どこにイエスを捜しますか。罪の悔い改めだけに心を奪われるなら、そこは墓です。教会の制度や教職者に捜すなら、そこも墓です。戒めを守る自分の行いに捜しても、そこも墓です。「生きている方」とは復活した主です。主は、「もっと思い切って、もっと大胆に私に頼りなさい」と言われます。主に依り頼んで生きる者の前に、主は御自身を現わされます。
24章6節
「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。」
天使たちは、「(主は)ガリラヤに行かれる」と言い、さらに主も、「…ガリラヤに行くように…。そこでわたしに会う…」(マタ28章10節)と言われました。主に出会う「ガリラヤ」とは?
すべての人は「死んだら終わり」の世界で生きて来ました。もし復活があるならば人生は全く違うものになりますが、復活は人の能力にはありません。それを得るにはどこに行ったらよいのでしょう。その答えが、「ガリラヤ」だと言います。
イエスは御生涯のほとんどを、育ったナザレを含むガリラヤ湖周辺で過ごされました。そして、山上の垂訓を初めとする大事なみことばをガリラヤ地方で語られ、弟子たちを教えた場所もガリラヤでした。復活を体験するとは、「人の言葉」から「神の言」へ命が変化することです。命の「言」は「言葉」として語られ、それを文字や音声の「言葉」として聞くときに、聞いた者の中に「言=神の命」が与えられます。「ガリラヤに行け」とは、神の「言」である言葉、「聖書の中に行け(入れ)」という意味だったのです。
友よ。主イエスに会いたいならば、聖書の中に入ってください。自分で毎日読み、同時に命あるメッセージ(本・音声)も聞いてください。必ず復活の主に出会うことができます。
24章7~8節
「人の子は必ず…十字架につけられ…復活する…」、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。
天使は戸惑う婦人たちに、主がガリラヤで語られた神の御計画を思い出させ、納得させることができました。
多くの神の子たちの信仰が弱いのは、聖書全体の真理を知らないからでは…。
聖書全体が語るメッセージは、「知恵は家を建て、七本の柱を刻んで立てた」(箴9章1節)ように、七つに分けて理解することができます。
特に、父なる神・御子イエス・聖霊の「三位一体の神」を理解することは、聖書理解の肝心要です。聖書全体からイエス・キリストを学び、イエス・キリストを知ることです。
友よ。家を建てるのに、まず大事なのは土台です。次は柱です。七本の柱が堅固に立ってこそ、屋根や壁や内装を整えることができます。神は真理を教会に与えました。教会が真理に立ちますように(エフェ1章22~23節)。
24章10~11節
婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちはこの話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。
墓にイエスの遺体はなく、主が復活したことを天使に告げられ、婦人たちは急いで使徒たちに報告しますが、信じてもらえませんでした。
なぜ人々は復活を信じられないのでしょう。最大の理由は、「命」が分からないからです。一般的に命は、生物学的生命と思われ、あるいは心と魂とも理解されています。しかし、聖書の「命」とは、「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた」(創2章7節)、神の「命の息=霊」のことです。
しかし、アダムの時に人はそれを失い、その子孫は土の塵(肉)で生きてきました。土の塵なる自然生命に、再び神の命の息=霊を取り戻すことが、「復活」です。それは、失われた肉体を再び取り戻すことではなく、人が「神の命」を持つことであり、罪を犯す前の命への回復です。復活は、罪の赦し無くしてはあり得ません。
友よ。復活の最大の証人は歴史です。「イエスなる方が十字架で死んで復活し、信じる者に罪の赦しと復活の命を与える」……これほど人を食った話はありません。しかし、今もなおイエスを信じる者が復活し続けています。そうです、あなたも私もその証人です。主に感謝。
24章13~15節
二人の弟子が、…エマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。
この二人はかつて、イエスのことを聞き、希望を持って馳せ参じた者たちに違いありません。しかし今、夢破れ、トボトボと帰郷する最中です。
人生の苦しみの中で主イエスのことを聞き、教会に導かれ、希望と命を得た。しかし、そこから去った人も多くいます。理由は、復活の主の命がその人に現実化しなかったからではないでしょうか。復活の命に生きるとは、「彼に信頼する者は、失望させられることがない」(ロマ9章33節参照・新改訳)とあるように、「彼」なる「主イエスとの交わり」に生きることであり、失望するのは、「彼」以外のもの(教会・教理・人々・奉仕…)につまずくからです。
さらなる理由は、肉に死んで霊に生きることを教えられず、五里霧中の状態に置かれたからです。復活の命が無いのに奉仕や献金をすることは、神の子の霊を弱らせます。
しかし友よ。失望して帰る弟子たちは、「話し合い論じ合って」いました。信じられず理解できないことを、自分の教会を超えてでも「話し・論じ・尋ね・求め」てください。「…上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た」(マコ10章50節)目の不自由な人のように、なりふり構わず求め続けてください。
24章15節
イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。
二人の弟子は家族も仕事も置いて主に従ったのに、主は殺されてしまいました。しかし、失望する彼らに主が近づき、話しかけられました。
聖書は、失望する人に神の方から近づいて話しかける場面で満ちています。
主が見えない、と言う友よ。主はあなたのそばにいますが、弟子たちのように、あなたが気づかないだけです。主御自身と主の御心がまだ見えなくても、あなたに話しかける人(みことばを教える人)ともう少し共に歩き、語られる言葉(聖書の言葉)に聞き続けてください。そうすれば、必ず主を観るようになります。「あなたはわたしの僕、わたしはあなたを選び、決して見捨てない」(イザ41章9節)と主は約束されています。
24章16節
しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
主は、失望して帰る弟子たちに近づき、同じ歩調で歩き、話しかけてもいますが、彼らの目は遮られ、主が見えませんでした。
「遮る」の原語の意は、「~をしっかり掴む」だとか。二人の目を遮ったものは、「十字架でイエスは死んだ」という現実をしっかり掴んでいました。すると、死人が自分のそばにいて、話しかけるわけがありません。信仰は、見えないもの(霊なる神)を見せ、見える現実を見えなくさせ(困難を恵みに)、肉体の目よりも霊の目(信仰の目)がより現実となります。
ビルマ(現ミャンマー)で伝道をしたアドラム・シャドソンが若い時、主イエスよりも友人の言葉を信じ(掴んで)、主を見失いました。ある時、ある宿屋で隣部屋の人の死に遭遇しますが、その人がその友人でした。その時から、彼の眼に再び主イエスが見えるようになった、という証しを聞きました。
友よ。「善悪の知識の木」を肉の目で見ると、「それは食べるに良く、目に美しく、賢く…」(創3章6節・口語)見え、霊の目で見ると、「食べると必ず死ぬ毒」(2章17節)とその正体が分かります。肉に掴まれず、聖霊に掴んでいただいてください。すると、霊の目が開け、悲しみの中にも、苦難の中でさえも、主の姿が見えます。
24章17節
イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。
復活の主が共に歩き、語りかけているのに、二人は気づきません。十字架の出来事が彼らを失望させ、暗い顔をさせていました。見えるためには幾つかの条件が必要です。
友よ。あなたは「暗い顔をして立ち止まって」いませんか。「命の泉はあなたにあり、あなたの光に、わたしたちは光を見る」((詩36・10)とあります。神の光はすでに私たちに届いています。その光に照らされると、命の泉から水(神の命)が湧き上がってきます。
24章18~19節
クレオパ…が答えた。「…この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエス…。」
弟子たちは、イエスに教えようとしています。あたかも小学生が博士に教えるように、人が神に教えるとは、奇妙な逆転現象です。
二人は主のことを聞き、希望に燃えて出てきましたが、失望しました。同じく、神を知らなかった者たちが、主のことを聞き信じたのに、後に失望することが多くあります。その原因は、「十字架のつまずき」です。それは、「自分の望みを成就する神」を求めた者が経験します。
そのさらなる根源は、人の本質が罪人であることを知らないところにあります。罪人の願いの達成は、罪の助長であり、最後は裁きの死です。神の救いは、罪人の思い(肉)を十字架で殺し、主の復活の命で生かすことです。「自分の命(肉)を得ようとする者は、それ(神の命・永遠の命)を失い、わたしのために命を失う(十字架で肉を殺す)者は…それ(神の命)を得る」(マタ10章39節)が真理です。
友よ。原罪を赦した十字架は受け取っても、肉を殺す聖別のための十字架につまずいていませんか。「十字架の言葉は、滅んで行く者にとっては愚かですが…救われる者には神の力です」(Ⅰコリ1章18節)。神を説得する者にではなく、神に説得される者になってください。
24章21~23節
「ところが、仲間の婦人たちが…驚かせました。婦人たちは…、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。」
イエスの誕生も復活も、天使によって告げられました。人知を超えた神の出来事は、この世の知恵や経験から出て来るのではなく、「天からの啓示」によって知らされます。
哲学者が、「こんなふうに考える。結局、自分の高さにあった人としか出会えないものだ(M・ブーバー)」と言いました。確かに、その道の人、同じレベルの者同士が理解し合えます。すると、神と人は通じ合うことは不可能となります。
それでは、神と出会える人の高さ(レベル・資質)とは何でしょうか。それは、自分の限界を知って求める、「謙遜」ではないでしょうか。「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」(ヤコ4章6節)からです。人には神を理解する能力が無くても、神には、人に教え、理解させ、信じさせる能力があります。「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです」(ヤコ1章17節)。
友よ。神の前における本当の謙遜とは、自分の限界と罪を認めて頭を下げることではなく、むしろ、だからこそ、神に顔を上げることです。ただ神を求める謙遜な「心(霊)の貧しい者」こそが、「天国」を持つことができます。
24章24節
「仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
十字架の主に失望した弟子たちですが、「あの方は見当たらない」との情報を得ました。 復活が事実である一つの証拠は、墓が空だったことです。有史以来、アダムは930年、セトは920年、イエレドは962年生きましたが、彼らは皆、「そして死んだ」と記され、墓に入りました(創5章)。
しかし、主イエスの墓はありません。それは、「キリストが死んで終わった」という証拠が無いということです。復活した主は、当時から今に至るまで、全世界で、イエスを主と信じた人に罪の赦しを与え、復活の神の子の命を授け、聖霊を注ぎ、天国へ送り続けています。死んで墓にいる者に、このような御業はできません。「イエスは生きておられる」(23節)ゆえに、復活した主を信じる者にも永遠の命が与えられ、その墓(罪の結果の死)は空にされました。
友よ。あなたは地上に墓地を持っていますか。地上の墓は、「私はここ(墓)にいる」ではなく、「私は天にいる」という証しにせねばなりません。墓石に「天の門(主イエス・キリストの十字架と復活によりて)」と刻むならば、それは子孫への最高の伝道です。神の子は、「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造り変えられます」(Ⅱコリ3章18節)。
24章27節
そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
主は御自分に気づかない弟子たちに、「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言われたことを信じられない者たち」(25節)と言ってから、聖書全体について話し始めました。
「聖書はわたしについて証しをするものだ」(ヨハ5章39節)とは、冒頭の聖句と一致する大事なみことばです。
いやしなどの恵みを受ける体験をしたことが、必ずしも主を信じることにつながるわけではありません。信仰は、人格と人格の信頼による結合ですから、相手を良く知らずには持てません。神の御業は、人をイエスの御人格に結びつけるためであり、聖書は、その役目を十分に果たす、神から人類への最大の賜物です。奇跡や恵みは肉の目でイエスを見させ、みことばは霊によってイエス御自身を観させ、それが命の交わりをつくりだします。
友よ。イエスの奇跡を見て従ったのに、十字架につまずき失望した弟子たちが救われたのは、イエスの方から近寄ってくださったからです。そして弟子たちも、理解できずとも、主の言葉(聖書)に食いついていきました。すると、聖書全体から主の御人格が浮かび上がり、はっきりと主を観ることができたのです。
24章29節
二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。
主と二人の弟子たちが話しながら行く途中で、日が暮れました。主はもっと先に行こうとしましたが、二人が主を引き留めました。
主は、手の萎えた人に出会われた時、周りの冷たい目をよそに、「手を伸ばしなさい」(6章10節)と言われました。主はだれのそばにも来ておられますが、人が手を伸ばさないと恵みを頂けません。振り返ってみると、二人の弟子も、次のように手を伸ばしていました。
友よ。神はいつもあなたのそばにいます。疑問を投げかけ、聖書全体に求め、教えを聞き続けるなら、「言われたようにすると、手は元どおりになった」(6章10節)という事実を受け取ることができます。主をとどめてください。主は喜んでとどまってくださいます。
24章30~31節
一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
一行は宿屋で夕食の席に着きました。そこで主がパンを裂き、それを受け取った時、それまでイエスと分からなかった弟子たちの目が開け、主イエスだと分かりました。
「求めよ、さらば与えられん」は信仰の基本中の基本ですが、これはより未信者に当てはまる言葉です。神の子たちには、「求めよ、与えられん」からさらに一歩進んで、「イエスを主とせよ。すると、さらに主イエスが分かる」が最善の表現ではないでしょうか。
主と二人の弟子が出会い、歩きながら話し合い、宿屋で食事の席に着くまでは、弟子たちが主人で、イエスは招待客のようでした。しかし、食事の席でイエスがパンを裂く主人になった時(イエスを主とした時)、「二人の目が開け、イエスだと分かった」のでした。
主を近く感じられず、御心が分からない、と言う友よ。それはあなたが、「あなただけは御存じなかったのですか」(18節)と、当事者の主イエスに教えていた弟子になっているからです。主イエスに自分をゆだねるとき、主が御自分をあなたに現し、御心を教えてくださいます。自分の知識や考えや希望をいったんよそに置き、パンを裂く主人の立場にイエスを置いてください。その時、イエスが神であることをはっきりと見ることができます。
24章32節
すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
すべての謎が解けました。主イエスを目の当たりに見たのですから! そして、これからさらに話を聞き、今後のことを考えよう、と思う間もなく、主の姿は見えなくなりました。
もし、そのまま肉の目でイエスを見続けたら、「皆さん、主は私に現れ、私に御心を直接教えてくださいました」と、肉を誇る者にならないでしょうか。肉で主を見るとき、正しく理解することはできませんが、霊の目で観るときに、主と主の御心を正しく理解できます。
これからという時に弟子たちの前から姿を消した主イエスですが、実は、御自身の姿を弟子たちにしっかり残しておられました。それは、「聖書全体にわたり」(27節)と言う「聖書」と、パンを裂いて渡された「主の聖餐」です。
66巻の「聖書」と「パンとぶどう酒」によって表される、「復活と十字架を表す聖餐」は、霊の目で主を見ようとする者には、いつでもありありと「神と人の関係」を示します。私たちは、「聖書と聖餐式」を通して、時空を超えて、神との交わりの中に入ることができます。
友よ。主はみことばを通してあなたに語りかけます。聖餐を通して、「これはわたしの体である。…わたしの血、契約の血である」(マタ26章26~27節)と、御自分の中に入れてくださいます。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタ28章20節)。
24章33節
二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
主は、彼らの目の前から消えましたが、彼らの心の中に住んでおられました。「わたしたちの心が燃えた」ことこそ、内住の主の御臨在です。
愛することの最初のしるしは、相手に対して「心が燃える」ことです。男女間でも、相手に対して心が燃えることから愛が始まり、やがて結婚に至ります。神と人の関係も、心が燃えることから始まりますが、人間同士とはかなり違います。
人は神を思って心を燃やすことはできません。なぜなら、罪人は神から離れているからです。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(Ⅰヨハ4章10節)とあるように、神によって人の心が燃やされるから、人の心も神に向かって燃えるのです。神を愛する愛は、神から出て来ます。
さらに友よ。人間同士の愛は欲望のままでも成り立ちますが、神と人の間の愛にそれは通じません。「聖書を説明してくださったとき」に心が燃えたように、神の御心を受け入れる時に、神の命がその人の中で愛となり、燃える心がいつもその人の中にとどまります。
24章38節
イエス御自身が…立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき…、そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか…。」
主は、疑問を持つ弟子たちに現れて、「あなた方に平和があるように」と言われましたが、「どうして心に疑いを起こすのか」とも言われました。
「疑い」は人間特有のものです。疑いは、「信じる」と「信じられない」の中間にあります。人は時に、疑いを消すために相手を殺し、それが乗じて国家間の戦争にすらなりました。人間は愛し合って生きる者であり、愛し合うことは信じ合うことと同じです。さらに、「命」は一人の中には存在できません。「私とあなたが信じ合う」、それが「私の命」そのものですから、信じ合えないことは「私の死」を意味します。したがって、「疑い」は人を「生きるか死ぬか」の現実に直面させるストレスとなり、人の考えと行動を左右する源となります。主はトマスに、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハ20章27節)と言いました。
友よ。聖書は、神を疑わせない確かな証拠に満ちています。何千年も前の預言が成就し、神が人になり、十字架につけられ、復活し、聖霊を遣わす…。すべては、私たちが疑わないで信じるためです。もしも復活が人の作り話であるならば、とうの昔に復活話は消えていたはずです。人々が復活を疑うのは、むしろ主が生きているからです。
24章39~40節
わたしの手や足を見なさい。…わたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、…見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。
死人が生き返ったと言っても、「幽霊か、それとも錯覚か」としか思われません。しかし主は、肉も骨もある人として弟子たちの前に現れました。
「神は霊である」(ヨハ4章24節)から、肉体の目では見えないのでしょうか。否、主は復活した時から今も、復活の体を現し続けています。人類の今に至るまでの歴史の中に、平等と尊厳を教えた人権の歴史に、教育の歴史に、一夫一婦制と家族愛を守った歴史に、弱い者を守り保護する奴隷解放や孤児院や病院やもろもろの施設の歴史に、世界の歴史で数え切れない出来事に、いつも主役として登場したお方こそ、主イエス・キリストにほかなりません。
亡霊には肉も骨もありませんが、霊なる神には体があり、手も足もあります。それが歴史の中で多くの人々を動かしました。そして、復活の主イエスに動かされた人々が歴史を動かし、悲しむ者・泣く者・絶望した人・憎しみに支配された人を平和と愛に包んできました。
友よ。復活の主は、信じる者たちに直接触れることができます。「私たちに現されたこの永遠の命を、私たちは見て、また聞いたことを証しし、伝えるのです」(Ⅰヨハ1章2節)とのヨハネの言葉は、今の私たちに託されています。この身をもって復活の主を現しましょう。
24章44節
イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
主は弟子たちに現れ、最後の時を、食事を共にしながら過ごしました。そして、最後の交わりにふさわしい大切なことを話されました。
これまでに全世界で数えきれない本が発行されましたが、その中の一冊、聖書の価値は、他のすべての本の価値をはるかに超えています。ただし、活字の聖書に価値があるのではなく、その聖書を読めることに価値があります。
聖書にはまことの神について書かれており、それを読むには「霊によって霊のことを解釈する」(Ⅰコリ2章13節・口語)必要があります。なぜなら、「生まれながらの人は、神の御霊を受け入れないので…。それを理解することができない」(同14節・口語訳)からです。
聖書が読めるのは、既に御霊の導きを受けていて、「イエスは主」であると信じられ、「神の子」にされるからです。聖書は、知識ではなく神の命を人に与えます。
聖書は「本の中の本」であり、あらゆる本にまさります。「律法と預言者の書と詩編」とは旧約聖書すべてであり、今は新約聖書も加え、イエスについて証ししています。
復活の主を見た友よ。さらに、みことばの中で生きてください
24章47~48節
「『罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」
上述のみことばを、ヨハネ福音書では、「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る』」(20章22~23節)と記します。
罪を赦すことのできるお方は主イエスだけなのに、ここでは罪の赦しの責任を神の子たちにゆだねたかのように感じられますが、実はそうではありません。これは、「あなたが福音を伝えればその人の罪が(主イエスによって)赦され、福音を伝えなければその人の罪は赦されないまま残る」と言ったのでした。先に救われた神の子たちは、罪を赦すことはできませんが、罪を赦す主のもとに導く責任をゆだねられています。
友よ。主はあなたに福音を伝える責任を与えましたが、方法論ではなく、本質論から考えてください。本質論とは、神の子の質のことです。神の子の質は、外(全世界)に出て行く伝道によってではなく、内(主イエスの中)に入ることで作られます。最も質の高い神の子の姿は「キリストの花嫁」です。花嫁は、夫の願い(一人も滅びないで永遠の命を得ること)と、悲しみ(滅びゆく魂への悲しみ)を共有します。そこから、世界に福音を伝える力が出てきます。
24章49節
「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
主は弟子たちに、聖霊降臨のペンテコステを待つように、と指示されました。昇天後十日して、このことが現実となり、弟子たちの信仰は、迫害に負けず伝道する強いものになりました。
それでは、だれでも、弟子たちのような霊的現象が伴う聖霊降臨を経験するまで待つべきでしょうか。確かに、その現象は今日でも経験することがあり、それを熱心に求める人々もいます。しかし、それ以後の使徒たちの勧めは、「ペンテコステを待ちなさい」よりも、「聖霊に満たされ…聖霊により歩め」に力点が置かれています。
それは、「高い所からの力(聖霊)に覆われる(満たされる)まで、都(教会)にとどまっていなさい」と受け取ることもできます。「聖霊の満たし」とは「聖霊の支配」のことですから、神に救われた者の最初の目標は、「聖霊に満たされる(支配される)」ことです。
友よ。聖霊体験は神の恵みですが、そこにとどまってはなりません。それは、「聖霊の満たし」に進むための助けの一つです。聖霊体験を求めることと、出て行って伝道することを最初の信仰目標にすると、その魂は弱ってしまいます。都なる教会は、神の子が聖霊に支配されるために、祈り仕えることが大事です。聖霊に支配された者には、必ず主の業が始まります。
24章50~51節
イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。 そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。
主の昇天の時が来ました。聖書は、主イエスが行われた七つの御業を書き記しています。
十字架は罪に対する勝利、復活は死に対する勝利、昇天は今までの支配者を打ち破って、真の王の王、主の主の出現を表しました。
友よ。私たち人間の勝利は、自分の力によっても、他者の力によっても、世の富や権力によっても得られません。勝利するには、「支配者を変える」以外にありません。今までは「サタンと罪と世」があなたの支配者でしたが、それらすべてを打ち破ったのが、「十字架、復活、昇天」された主イエスです。ですから、イエスこそ真のキリスト(主の主・王の王)です。
24章51節
祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。
詩篇23篇とヨハネ福音書10章には、羊飼いと羊の関係が書かれています。そこでは、羊の幸福と不幸は、羊の能力にではなく、羊飼いにかかっている、と教えていました。
罪と死と世の霊の支配に置かれていた人が、罪と死と諸霊の力を打ち破り昇天した主イエスを自分の羊飼いとするとき、次のようになります。
これらのすべては、羊飼いである主イエスによりつくられ与えられる、神の恵みです。
友よ。神の子の「祝福・恵み・命」は、健康、豊かさ、家族愛を超えて、主イエス御自身の中に備えられています。「神の約束は、ことごとくこの方において『然り』となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して『アーメン』と唱えます」(Ⅱコリ1章20節)。
24章51~52節
祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ…
聖書が書かれた目的は、「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名によって命を受けるためである」(ヨハ20章31節)と明記されています。
主イエスは、人の肉体を持って地上に来られ、人として生活し、十字架と復活を経て昇天し、父なる神の御もとに帰られました。主が歩まれた一つ一つの道は、人が天の父のもとに帰るための道です。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(14章6節)。
そして主の昇天は、私たちが通る最後の道でもあります。十字架で罪を赦されても、復活の命が無ければ空しくなり、復活の命を肉体の中に持っても、昇天(召天)が無ければ空しくなります。主の昇天は人の召天であり、これをもって神の子の命は完成します。
主に罪を赦され復活の命を得ている友よ。それだけの恵みがあってもなお、肉体を持ち、この世で生きていくことには限界があります。神の子にとって、肉体の死は召天の恵みです。さらに、友よ。あなたには「死ぬという大きな仕事」が与えられています。それは、父と御子と聖霊の完全な交わりに入る「時」です。
24章52~53節
彼らはイエスを伏し拝んだのち、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。
ベタニアで主イエスの昇天を見た弟子たちは、早速エルサレムに戻り、神殿で神をほめたたえていました。
「神をほめたたえるために人は造られた」と聞くと、反発する人がいます。それは、人が神の玩具に思えるからですが、聖書全体は、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(マコ10章45節)と言います。
強い命令に聞こえる十戒は、「わたしがあなたに仕えるための条件を、少しでも整えてほしい」との神の要望でもあります。神が人に仕える条件とは、人が神に向かっていることです。愛は「あなたと私」の関係の中で成り立ちますから、「互いが相手だけを見つめて、真剣に向き合う」ことで、神と交わることができます。これを「信仰」と言います。
友よ。旧約の預言……主の来臨、教え、人生苦からの解放、十字架、復活、昇天……はことごとく、イエス・キリストによって「然り・アーメン」となりました。すべては、私たちを愛し仕える神の姿でした。さあ、友よ。主に愛された弟子たちが、神をほめたたえ(愛し)たように、私たちも、もっともっと神を愛し、ほめたたえましょう。
ルカ福音書(Ⅱ) 完