22章1~2節
さて、過越祭と言われている除酵祭が近づいていた。祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた。彼らは民衆を恐れていたのである。
わずか三年余の間に、民衆の心は、宗教家たちから離れ、主イエスへと向かいました。迫る過越祭でさらにイエスへの関心が高まる前に、イエスを殺そうとの相談が始まりました。
人は、相手との問題を解決するために、以下のような方法を取るものです。
これらはどれも形を変えた自己中心そのもので、そこに解決はありません。自己中心とは、「自分で自分を」支え守り、「自分で自分の」存在(アイデンティティー)を作ることです。
この「自分で自分を」こそが自己中心の根であり、そのまた根源は、神から離れている罪です。そして、その罪を自分で解決しようとするなら、「イエスを殺す」以外になくなります。
友よ。自分と相手の問題を何によって解決しますか。「自分で自分を」も、「自分で相手を」も、「相手により自分を」も、罪の支配下にあって罪を解決しようとすることですから、罪人が罪を除く最後の方法は、罪を指摘する神を取り除く以外なくなります。祭司長や律法学者になってはなりません。幼子のように、「ホサナ(今救ってください)」とイエスに叫びましょう。
22章3節
しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。
今日では、「イスカリオテのユダ」という名は、裏切り者の代名詞とされています。彼は、一国の大統領にもまさる使徒という名誉を得たのに、世界中で嫌われ者になってしまいました。
彼が使徒の一人に選ばれのは、裏切り役のためではありません。「イエスが山に登って…十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるため」(マコ3章13~15節)でした。
神の選びは、ある人を祝福し別の人を呪う、などということはなく、すべての人を祝福するためです(エフェ1章4節参照)。祝福は神から、呪いは罪とサタンから来ますが、どちらを選ぶかの決断は人にゆだねられています。この時ユダは、神よりもサタンを選択したために、「ユダに…サタンが入った」となります。「わたしは今日、…生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい」(申30章19節)。
友よ。過去に、ユダのような間違った決断をしたとしても、今ここから、神の御心に従う新たな決意をしてください。「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です」(Ⅰヨハ5章4節)。信仰は、神に従う決断です。
22章4節
ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。
使徒という栄誉ある役目を受け、主イエスと共に過ごし、多くの御業を目の当たりにし、イエスを神と信じたはずのユダの心が、なぜ動いたのでしょう。
「お金をごまかしていた、ペトロやヤコブやヨハネへのねたみ、サタンにやられた」などは、大きな理由ではなく、「イエスを自分の理想に当てはめた」が本当の理由なのでは!
ユダヤの解放者であるはずのイエスが、「…わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は…」と、御自分が十字架につくことを語り始めた時、「実にひどい話だ。だれがこんな話を聞いていられようか」(ヨハ6章52~61節参照)と大声を張り上げたのはユダだったのでは。
熱心党出身の彼はユダヤの解放を願っていましたが、その方法はこの世の力と権力によるものでした。
友よ。神の子でも主につまずくことはあります。それは、ユダのように自分の理想を主に押し付けるからです。主は、「ひどい」と言う弟子たちに対し、「命を与えるのは霊であって、肉は何の役にも立たない」と続けました。ユダは「肉」によって、イエスは「…話した言葉は霊である」(以上、同63節)という「言葉と霊」によって、神の国を実現しようとしていました。
22章6節
ユダは承諾して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。
ユダにサタンが入ったのを、ルカは過越祭の食事の前と言い、ヨハネは、「ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った」(ヨハ13章27節)と記します。
「あなた方の一人がわたしを裏切る」の言葉に動揺する弟子の前で、主はあからさまに「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」(同26節)と言ってユダにパン切れを渡しました。
ここで主は、「ユダ、お前が裏切り者だ」と言ったのではなく、「ユダ、お前の心は迷っている。だから、ここで悔い改めてわたしに従いなさい」と促したのです。彼は神とサタンの間で迷っていましたが、ここでパンを受け取った時が、彼が主イエスではなく自分の願いを選び取った時でした。すると、サタンがユダの中に入ることができました。
友よ。「サタンが入ったのでユダが裏切った」は間違いです。ユダは「神とサタン」の間で迷うその前に、「霊と肉」の間で迷っていました。肉(自分)を選ぶとサタンに働く許可を与え、霊(みことば・御心)を選ぶと聖霊が働きます。ヘブライ書に信仰の定義が記されていますが、それを、「信仰とは、《神が》私に与えたいと願っていることを確認し、まだ見ていない事実を、《神が》確実に成就してくださると信じること」(上記・筆者の理解)としてはどうでしょうか。
22章8節
イエスはペトロとヨハネとを使いに出そうとして、「行って過越の食事ができるように準備しなさい」と言われた。
ダ・ヴィンチの絵『最後の晩餐』が目に浮かびます。それにしても、十字架の直前なのに、どうして皆と食事などすることができたのでしょうか。
主は、「律法や預言者を…廃止するためではなく、成就するため」(マタ5章17節)に来られたお方でした。過越の祭りの食事は、エジプトから解放される時の最後の食事を記念したものであり、罪とサタンの支配から解放される道を示すものでした。その本当の解放者こそ、「世の罪を取り除く十字架の神の小羊」であり、「死から復活した命の主」なるイエスです。
そして今も礼拝の中で、「パン裂き・主の食卓・主の晩餐」と言われる「聖餐式」が行われます。霊のものは、目には見えませんが、外側に現れてきます。反対に、目に見えるもの(この世のもの)で見えないもの(霊である神の御業と命)を表すことも出来ます。しかし、これは時に偶像化する危険も伴います。
友よ。主の晩餐(聖餐)を重んじましょう。「ただの形式」と一蹴してはなりません。神は、私たちが日常の中で必ず繰り返すことを通して、御自分の命の交わりに招いてくださいます。また、教会での聖餐式がもっと頻繁に、霊とまことを尽くして行われることも祈りましょう。
22章9節
二人が、「どこに用意いたしましょうか」と言うと、
イスラエルの聖地旅行のコースでは、最後の晩餐が行われたとされる家の二階座敷に行くのがお決まりです。晩餐は、本当はどこに用意されたのでしょうか。
最後の晩餐は、以下のみことばに表されています。「お前は彼のかかとを砕く(十字架へ)」(創3章15節)。「アダムと女に皮の衣(動物犠牲・十字架)を作って着せられた」(同21節)。「焼き尽くす献げ物(十字架)として祭壇の上にささげた」(8章20節)。「三歳の雌牛と、三歳の雌山羊、三歳の雄羊…。真っ二つに切り裂き(十字架で裂かれる神)」(15章9節)。
さらに聖書には、「彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きのため」(イザ53章)などと、最後の晩餐を表す言葉があらゆる個所に記されています。最後の晩餐はどこに用意されたのでしょうか。それは、「神の独り子・ナザレのイエスの上に」用意されました。二階の座敷にでも、教会の聖餐台の上にでもなく、キリストの上に、ゴルゴタの十字架に用意されました。
友よ。既に十字架の赦しと復活の命は用意されました。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ」(イザ55章1節)。人は、恵みにより、信仰によって救われます。
22章10節
イエスは言われた。「都に入ると、水がめを運んでいる男に出会う。その人が入る家までついて行き、…」
過越の食事は、どこに行けば頂けるのでしょうか。主は、「水がめを運ぶ人について行け」と言います。
5回も結婚し、今の男でもなお満足できない渇いた人、サマリアの女がいました。主が彼女に出会い、「この水を飲む者は…また渇く。わたしが与える水は…永遠の命に至る水がわき出る」と語られると、「主よ。渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」(ヨハ4章)と言いました。
そこで、女はイエスと「継がり・交わり」、永遠の命の水を飲みました。女は早速町に行き、人々に言いました。「『さあ、見てください。…この方がメシアかもしれません』。人々は町を出て、イエスのもとにやってきた」(同20~30節)。水がめ(主の命)を持つ女についてきた町の人々は、過越の食事の場であるイエス・キリストに出会うことができました。
友よ。主が言われた「水がめを運んでいる人」とは、罪を赦され復活の命を持つ神の子、あなたのことです。ですから、人々を主と交わるところに導けるのはあなたであり、あなたが導かねば隣人たちは来ることができません。
22章11節
「家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋はどこか」とあなたに言っています。』」
過越の食事をする家を教えてくれたのは、水がめを持った男でした。では次に、どの部屋に行って過越の食事を頂くのでしょうか。
命(水がめ)を持った人は、過越の食事は、「…人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。…わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである」(ヨハ6章52~55節)ことを教え、それを食べる所は「教会」であるとも教えてくれます。「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」(エフェ1章22~23節)。
教会に来て、みことばを聴き、分かち合い、祈り合う、それらすべてが主の聖餐に結びつく命の交わりであり、これこそ神の子の食事です。
過越の食事の席にいる友よ。お腹いっぱいの霊の糧を頂きましたか。立派な会堂、説教、聖歌隊などは、肉のお腹を満たすことはできても、霊の食事ではありません。霊の食事は、イエスを主とする者同士の、真実な霊の交わりの中にあります。
22章15節
イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。」
十字架が迫っている主イエスは、弟子たちに対する最後の教えとして、「この過越の食事」をすることを切に願いました。命は形を造りますが、形が命を造ることはできません。しかし、命を指し示すことは少しできます。旧約時代の過越の食事には、以下の物が用意されました。
これらの食事に、罪と死の奴隷の苦しい姿を見ると共に、小羊が流す契約の血による贖い(ぶどう酒)と、永遠の命を与える小羊(パン)を見ます。
友よ。主は、「あなたが自分の罪の代価を払う前に、わたしはあなたと過越の食事をしたい。人が一人も滅びないで永遠の命を得ることが、天の父の御心である。わたしの杯を飲み、パンを食べよ」と、全世界の人々に向けて救いの手を差し伸べています。
22章15節
「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。」
イスラエル人がエジプトを出る時の決め手は過越の祭りでした。小羊の血を家の入り口の二本の門柱に塗ると、神はその家を過ぎ越し、塗らない家の長子は神に殺されました(出12章参照)。
その夜、長子を殺しに来たのは、イスラエルの神であって、サタンではありません。イスラエル人は、神がモーセに示された通り、家の門に血を塗りましたが、神を信じないエジプト人は塗りませんでした。神は、イスラエル人の家の門に血が塗ってあるのを見て、そこを過ぎ越しましたが、エジプト人の家には入って行き、そこで長子を殺さねばなりませんでした。
しかし実際は、神はイスラエル人の家にも入っており、そこで罪人であるイスラエル人の罪の代わりに小羊(神の子イエス)を殺したので、イスラエル人の長子は死を免れたのでした。
一方、エジプト人の家に入った神は、彼らの罪の代価の小羊(血)がなかったので、彼ら自身を裁くことになりました。ゆえに、エジプト人の長子(永遠の都の跡継ぎ・永遠の命)は絶たれました。神は罪を裁き、サタンは罪を喜びます。ゆえに、神はすべての人に告げます。「罪を悔い改めて、福音を信じよ」と。
神に罪の裁きを過ぎ越された友よ。「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」(ロマ6章23節)。主に感謝!
22章17~20節
過越・最後の晩餐・聖餐式
友よ。聖餐式は、神を信じる者なら、だれでも、いつでも執り行うことができます。
家庭でも、二~三人の集まりでも。以下のように行ってはどうでしょうか(参考までに)。
初代教会の姿を、聖書は、「毎日…家ごとにパンを裂き」(使2章46節)と記しています。これを啓示と受け取り、会堂などに限らず、それぞれの所で聖餐式を行うことを勧めます。
22章21~22節
「しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」
主は、だれが裏切るかを知っていましたが、それを止めようとはしませんでした。ただし、主は警告を与えました。
ユダが裏切らなければ、イエスは十字架につかずに済んだ? 否、主の十字架の原因は、ユダよりも神に(神は人を愛し、御子の十字架を許可)、神よりもすべての人に原因があります。
裏切るのがユダであろうがだれであろうが、主は十字架につくために人となって来られました。「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(イザ53章)。
ユダを疎ましく思う友よ。主は彼の裏切りを知りつつも、彼と同じ食卓に着き、同じ皿から食べていました。同じように、あなたが罪の中にいても、主はあなたを退けず、あなたが御自分の食べ物(過越の食事=十字架と復活)に手を伸ばすのを拒みません。だからこそ、この愛のお方を拒んではなりません。「ユダにはなるまじ、わが主よ、わが主よ。ユダにはなるまじ、わが主よ。心の底より、ユダにはなるまじ、わが主よ」(旧・聖歌433・4)
22章23節
そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。
「だれかが裏切る」と主が言った時、皆の心は騒ぎ立ち、互いに腹の探り合いをし、罪人探しが始まりました。
「罪人探し」と「罪探し」は似て非なるものです。罪人探しをする人は、「自分は正常で、犯人は他者」とします。罪探しをする人は、他者にもそれを探しますが、それ以上に自分の罪が気になります。そして、罪人探しは問題を見失い、罪探しは根本的問題を見つけます。
イエスを裏切った罪人探しをすると、それはユダであり、他の人である可能性もあります。しかし、イエスを十字架につけたのは、誰彼ではなく、「罪」そのものです。その罪は、自分の中にありますから、主を裏切った真犯人は自分自身です。罪人探しは、罪をさらに大きくします。罪探しをする人は、悔い改め、十字架による罪からの解放を与えられます。
友よ。神の子はさらに進んで、「原罪(神から離れ、孤立し、自分の命と力で生きること)」を見つけるべきです。ダビデのバト・シェバ事件では、ダビデが王国の安定とともに慢心し、神から離れた罪が、姦淫の罪を作り出しました。彼はそれを知り、「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し…」と、神へ罪を告白しました(詩51篇6節)。
22章24節
使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。
最後の晩餐の席で、「誰が裏切るか」「誰がいちばん偉いか」の議論が弟子たちの間で起こりました。彼らは、主の受難を覚える晩餐の意味を理解できていません。
神から離れた人が、自分で自分を救って生きねばならなくなったことから、この二つの議論は出てきました。神のいない世界を、聖書のバベルの塔の物語が教えています。「天まで届く(神のようなシンボル造り)塔(支配者・権力者)のある町を建て(人間の団結)、有名になろう(救われよう・自分の存在を得よう)」(創11章4節)と人々は言います。そこでは、皆に追従し、さらに一歩先んじる者が支配者になり、自己中心を貫くことができます。それには、他者を罪人とし、退け、自分を義人として立てねばなりません。ここにあるのは、恐れです。
友よ。自分の罪を徹底的に知る分だけ自由になれます。「誰が裏切るか」は他者排除で、「誰がいちばん偉いか」は自己主張です。いずれも、他者によって自分の存在を決める生き方です。
人の自由は、「…真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハ8章32節)にあります。ただし、この真理を文字や規律にすると、律法と束縛になります。「わたしは真理」(同14章6節)と言うイエス御自身こそ、聖書が伝える真理です。主イエスとの人格的交わりに生きるところに、本当の自由があります。
22章26節
「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」
右のみことばは、「若者のように仕える者になるなら、皆の上に立つ偉い人になれる」という意味ではありません。主は、処世術ではなく存在論を示したのです。
神と人とでは、「人」の見方が違います。人は「何をしたか」を見、神は「何になったか」を見ます。バプテスマのヨハネは、自分が神から受けた立場を固持し、権力者も恐れずに罪を断罪して牢へ送られました。やがて、「イエスが神ならば、なぜ自分を解放してくれないのか」と迷いが生じ、「来たるべき方は、あなたでしょうか」(ルカ7章19節)と獄中から尋ねさせました。
主は彼を獄から出すことはしませんでしたが、「およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない」(28節)と称賛しました。ヨハネの結末は斬首による死でしたが、彼は最後の最後まで「主の僕」に徹し続けました。
友よ。あなたが主イエスを信じるいちばん大きな理由は何ですか。弟子たちのような心が皆無な人はいませんが、いつも目的を確認すべきです。信仰の目的は、「自分のために死んでくださった方のために生きる」ことです。「主に仕えるように、隣人に仕える人」が、主にいちばん喜ばれる人です(エフェ6章7節参照)。
22章29節
「だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。」
《ある人の証し》私たちが大切にしていることは、…伝道し…仕える時に、人を人に導かないように…という点です。…キリスト教界の偉大な指導者や有名な伝道者であっても、そういう器にも、人々を導いてはいけない。…いかなる人も高く上げられてはいけない。ただ、イエス・キリストおひとりだけが高く掲げられるように…と指導しています」。
続いて、「一粒の麦が地に落ちて死ぬなら、それは豊かな実を結ぶであろう」のみことばを引用して……「地に落ちて死ぬということと、人が高く上げられることは全く逆の状態ですから注意してください。私たちは、人間が全く隠される…伝道、そういう教会を求めて祈っています。そして私たち人が隠されるためにこそ、十字架があるのです。十字架のもとに人が隠されていく、そして地に落ちて死んでいく。その時、神様は大きな御業をなし、豊かな実を結んでくださるのです。」(中国の貧しい主の僕の言葉)。
友よ。私たちにゆだねられた支配権とは、人々を主イエスに縛り付ける(信じさせ、とどまらせる)権威ではないでしょうか。ただただ、主の御名があがめられる所が、いちばん安全な場所です。
22章30節
「あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」
右の主の言葉は、「主に従うと天国に行き、神の食卓に着いて御馳走を頂き、さらに十二部族を治める支配者になれる」と言っているのでしょうか。
主はその前に、「若者のように…給仕する者」が本当に偉い人である、と語られ、聖餐の食卓で、御自分が人々にどのように仕えるかを教えられました。そのことからも、冒頭に記した、御馳走を食べ指導者になる、は真逆です。
むしろ、主の食卓は、主が御自分の肉を裂き、血を流すことで人々を支配する、すなわち、御自分を献げて仕える愛の支配者になる場でした。したがって、この個所は、主の十字架の後に、弟子たちが主の使徒の権威を与えられ、主が御自分を人々の食物としたように、彼らも殉教の道を歩み、多くの魂を勝ち取る時が来ることを指す、とも理解できます。
友よ。地上で隣人に仕える人が偉い人であるならば、天国ではもっとそうです。今、自分を隣人に与える人は、天国ではもっとそうします。仕え与える人が最も幸福な人です。なぜなら、仕えることができるのは、主に仕えていただいた人だからです。与えることができるのは、主から多く与えられたからです。主には求め、隣人には与えてください。
22章31節 ①
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。」
ユダが裏切り、だれが偉いかの論争の中で、ペトロはいよいよ自信を深めていったのでは。ところが、主の指はペトロを指しました。
ペトロは、兄弟を通して主にお会いしてから、いつも主の御そばにいました。主は、彼に出会った時、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ『岩』と呼ぶ」(ヨハ1章42節)と言いました(ケファ……アラム語、ペトロ……ギリシャ語)。名前は存在を表し、彼は「ヨハネの子シモン(罪人)」であり、神にあって「ペトロ(信仰による人)」となります。
ここでは、彼が「現実はシモン(熱烈で性急で目立ちたがり屋)」であり、「可能性はペトロ(神の命を持つ神の子)」であることが示されています。現実と可能性はだれもが持ち合わせています。そしてこの場面で、主は彼を「シモン、シモン」と呼びました。この場の自信に満ちた彼は、ペトロではなくシモンになっていました。
友よ。あなたも、「シモン(現実・罪人)」と「ペトロ(可能性・神の子)」の、二つの名を持っています。イエスを主とするときはペトロで、自分を主とするときはシモンです。できれば、一日中ペトロとして過ごせますように。
22章31節 ②
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。」
主から与えられた「ペトロ」の名は、「岩」を意味しますから、強さを表します。また、彼の本来の名「シモン(アラム語)」には、「聞く」という意味があるそうです。
「サタンがふるいにかけるのを許した」と聞くと、まるで神がペトロをいじめているかのようですが、そうではありません。「ふるい」は、米や麦の、中身の入っている籾(もみ)と空の籾を分けるための道具です。彼は今、「ペトロ」と「シモン」の間、「霊」と「肉」の間に迷いながら立っています。それが、ふるいにかけられている状態です。そのような自分の信仰の状態が分かるのは、良い出来事によってではなく、むしろ望まない悪い出来事を通してです。
ペトロは、主を「知らない」と言うことで、自分が肉に囚われたシモンであることを知ります。そこで、シモン(肉の人)を十字架につけ、ペトロ(霊の人)に生まれ変わって行きます。
友よ。神と自分、霊と肉に迷っている時、サタンが行動を起こします。そこで、神も同時に救い出すために働きだします。それこそ、ふるいにかけられている状態です。その時、「牢に入って死んでも…」(33節)などと言わず、自分の弱さを認めて、「主よ、助けてください」と言える謙遜な者になってください。
22章32節
「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
主はシモンの弱さを知っていて、忠告を与えましたが、同時に、その弱さの中に御自分がいることも教えていました。
サタンはペトロを、信仰の軽い「シモン」にして、空の籾のように吹き飛ばそうとしますが、主はシモンを、信仰の重い「ペトロ」にとどめようとします。しかし、「神か自分か」「霊か肉か」を選択するのは、主でもサタンでもなく、シモン自身です。
主は、彼が弱さに負けてしまうことを知っているからこそ、「信仰が無くならないように祈った」と言い、シモンに命綱を結びつけました。さらにそれを超えて、「あなたが立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と、使命と希望まで与えました。主は「試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(Ⅰコリ10章13節)。
友よ。「自分こそシモンだ」と思うなら幸いです。主が支えるとの約束と、将来の使命と、希望の言葉は、そのままあなたのものです。「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」(Ⅱコリ1章4節)。
22章33節
するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。
この勇ましい言葉は、ペトロからではなく、シモンから出ました。シモンだからこそ言えたのであり、ペトロであれば言えなかった言葉でした。
この決意は、信仰者からだけ出る言葉ですが、それは神による信仰からではなく自分の信仰からであり、最も信仰深く見えるが、最も高慢な言葉でもあります。事実、身の危険が迫ると、彼は「知らない」と3度も言い張りました。
ヨブは、「主は与え、主は奪う。主の御名はほむべきかな」(ヨブ1章21節)と告白しましたが、それは、「自分の信仰」に過ぎなかったので、途中から、神への恨みを述べるようになりました。神は、彼が握りしめた「自分の信仰(29章でヨブは、「わたしは…」と何度も繰り返しています)」に気づかせ、それを、「わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」(42章1~6節)と告白させる「神からの信仰」に変えるために、ヨブにこの試練を与えたのでした。
使徒ヤコブも、「『主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう』と言うべきです」(ヤコ4章15節)と忠告しました。しかし友よ。恐れないでください。あなたがシモンだと知るからこそ、「信仰が無くならないように」主が祈ってくださるのです。
22章34節
イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」
主は、弱いペトロに呆れ顔で、「言っておくが…鶏が泣くまでに、三度わたしを知らないと言う…」と言われたのでしょうか。
聖書の記事のすべては、私たちに対する予定表であり予備知識です。ノアの箱舟と救いも、ヤコブがイスラエルになったことも、イスラエルの王たちの不従順も、この個所のペトロへの言葉もそうです。それは、これから私たちが体験するであろうことに備えさせるためです。
実際にペトロが三度「知らない」と言った後に、彼は「主の言葉を思い出した。そして外へ出て、激しく泣いた」(61~62節)とあります。主の忠告は、呆れての言葉ではなく、厳しい責めでも蔑みの言葉でもありません。それは、ペトロが一時も早く気づいて悔い改め、立ち直って帰って来られるようにした、主の愛の言葉でした。
だから、友よ。何度失敗しても諦めてはなりません。その都度、聖書に登場する人物たちを思い出してください。神が聖書に先人たちの赤恥をそのまま載せているのは、あなたが同じことをするであろうことを知っていたからです。あなたにも、諦めないで一時も早く御自分の御もとに戻って欲しいからです。
22章35節
イエスは使徒たちに言われた。「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」彼らが、「いいえ、何もありませんでした」と言うと、
主はまもなく、弟子たちから離れて十字架へ向かいます。弟子は主と別れて生きて行かねばなりません。その時役立つのは、それまでに体験して得た経験(証し)です。
冒頭のみことばは、ルカ九章で体験したことでした。賢者が、「私の口が言い聞かせることを忘れるな。離れ去るな。知恵を獲得せよ、分別を獲得せよ」(箴4章5節)と言い残しました。
知恵や分別は、言葉を聞くだけでは得られません。神の言葉を聞き、実践した体験が、知恵と分別として蓄えられます。しかし、さらに必要なのは、聖霊の導きによって知識から信仰に変わることです。「彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです」(ヘブ4章2節)。信仰になるとは、主イエスと結び付けられることです。
友よ。今まで聞き続けた、みことばと聖霊による数々の証しは、信仰になって蓄えられています。あの時主と出会い、あの出来事で見た御臨在と導きは、絵空事ではなく本当だったのです。あなたが今も主を信じていることこそ、神の御業なのです。だから、これから先の人生に不足するものは……「いいえ、何もありません」。さあ、勇気を出して、さらに進んでください。
22章36節
「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。」
かつて主に遣わされた伝道旅行では、すべてが満たされ、不足がありませんでした。しかし、主が十字架につく先に起こる問題には、「剣」が絶対に必要であることを、主は教えます。
平和の主が、文字通りの刀や鉄砲を持て、と言うはずはありませんから、これは「霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」(エフェ6章17節)と言われる「剣」のことです。生きることは戦いであり、戦いには武器が必要です。「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にする」(同12節)ものです。そのための武器こそ、御霊の剣・みことばです。
「御霊の剣=みことば」なのは、聖霊が勝手に戦うのではなく、聖霊が、人の中に蓄えられたみことばを信仰に変え、その信仰を用いて戦うからです。
友よ。聖霊はあなたの中のみことばに働いて信仰をつくります(聖霊+みことば→信仰)。信仰は、あなたの中に神の理性と知恵と愛をつくります。するとそこに、聖霊が力として臨みます。それらによって戦うのです。財布も袋も服も、「剣」を買うために必要です。あなたが今持っている財力、賜物、能力、経験などすべてを用いて(売り)、剣(みことば)を買ってください。
22章38節
そこで彼らが、「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と言うと、イエスは、「それでよい」と言われた。
ペトロは、主が言われたように剣を持ち歩いていたようです。だから、ゲッセマネの園で大祭司の手下の耳を切り落とせたのでしょうが、しかし……。
主が持てと言われた「剣」とは御霊の剣のことでしたが、ペトロは刃物の剣を持ってしまいました。真理をわきまえない者は、お金や賜物や知識や、男・女という性をも、刃物の剣とします。しかし、真理をわきまえる者は、自分自身が、お金や賜物を用いて神に近づき、さらに人々をも導く御霊の剣として用い、神の御業を表すことができます。
刃物の剣は自分のために用いますが、御霊の剣は神の栄光のために用います。主がペトロに「それでよい」と言ったのは、ペトロの行動を肯定したのではなく、「あなたには、このことの意味がまだ分からないから、今は仕方がない」という意味です。
友よ。自分を主張する刃物の剣を振りかざしてはなりません。御霊の剣によって自分の肉を切り捨て、みことばによって真理と偽りとを切り分け、罪とサタンを突き刺してください。みことばと聖霊が一体となると、「信仰(御霊)の剣」になります。「世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です」(Ⅰヨハ5章4節)。
22章39節
イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。
主は、エルサレムのとある家の二階の部屋で過越の食事を済ませ、市街から弟子たちを連れ出すと、いったん谷へ降り、少し上ったオリーブ山に行きました。オリーブ山で主は、八人の弟子たちを残し、ペトロとヤコブとヨハネの三人を連れてもう少し先に行かれ、さらに三人から離れて、一人だけで祈るためにさらに少し進まれました。そこがゲッセマネの園でした。
「主は十字架に二度つかれた」とは霊的事実です。最初は、ここゲッセマネの園で、「わたしの願いではなく、御心のままに」と、自分の願いを十字架につけました。さらに、ゴルゴタの丘で、人々の罪のための十字架につかれました。
十字架への道は、孤独の道を選ぶことです。①エルサレムに集う大衆から離れ、②八人の弟子たちから離れ、③より親しい三人の弟子からも離れ、④最後は自分自身から離れました。
主こそ、「己が十字架を負って父なる神に従う」ことを実践されたお方でした。
友よ。あなたはだれと共にいたいですか。①大衆とですか。②八人の信仰の仲間とですか。③何でも祈り合える三人とですか。④あるいは自分自身とですか。
主は、父なる神の御もとを選びました。それが、己が十字架です。
22章40~41節
いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。
主と弟子たちがゲッセマネの園に集ったのは、祈るためでした。三年半を共に生活する中で、何度も祈るために退きましたが、今回の祈りの時は、今までとは違いました。
それまでは、主が弟子たちのために祈っていましたが、今回は、弟子たちのためよりも、主が自分自身のために祈るのであり、むしろ弟子たちに主のことを祈ってもらう必要がありました。それで、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と要請しました。
そして、主は彼らから少し離れた所で一人になって祈られました。マルコの福音書では、主は三度も弟子たちの所に戻り、目を覚まして祈るように要請した、とあります。しかし、弟子たちは目を覚ましていられず、眠気に負けていました。神の子たちは互いに、「祈ってください・祈ります」と言い合います。しかし、そう約束しながら、弟子たちのように眠っていないでしょうか。
友よ。サタンは、私たちが互いに祈り合うことを恐れ、「霊の眠り」に導きます。「祈りはいつでもできるから、その前にこれをせねば……」というように。むしろ、日常のことに目を閉じ(犠牲にして・置いて)、目を主だけに向けねばなりません。
22章42節 ①
「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」
主はゲッセマネの園で、「父よ、御心のままに」と祈られましたが、それは、それ以前に「わたしの願い」があったからです。
主イエスが父なる神に願っていることは、十字架を避けることでしょうか。否、旧約聖書の時から、神は人となって来られ、人々の贖いとなられることが繰り返し語られてきました。そして、それを語ったのは主御自身でした。それなのに主は、苦しみ悶え、汗が血の滴るように落ちるほど、これから起こる出来事を恐れていました。
イエスが恐れる出来事とは、十字架に釘付けられて何時間もの苦痛の中で息絶える肉体の痛みでも、人々からの嘲笑でもなく、父なる神から離されることでした。離されるのは、すべての人の罪を引き受けるために、彼が罪人となるからです。罪の価は死ですが、その死こそ、霊の死であり、父なる神から離されることだったからです。
友よ。さまざまの恐れの中でいちばん恐ろしいのは、肉体の死ではなく、愛する者から離されることです。愛を壊し、互いを離すのが「罪」ですから、罪こそ人の「最後の敵」(Ⅰコリ15章26節)です。罪が人に与えるものこそ、ゲッセマネの園から始まった、主の痛みと苦しみです。
22章42節 ②
「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。」
主は、「この杯を取りのけて…」と同じ言葉で三度も祈られました。それほどまでに取り除いてほしい「杯」とは何なのでしょうか。
アダムとエバを誘惑したのは、蛇なるサタンでした。神はサタンに、「彼(一人の男性・イエス)はお前の頭を砕く」と宣言しました。モーセの時代に、民は神に反抗する罪を犯し、蛇に噛まれて多くの死者が出ました。その時モーセは、青銅の蛇を作って竿に掲げ、「これを見上げる者は命を得る」と言い、見上げた者は罪を赦されました。蛇こそ、神に呪われた存在であり、十字架上のイエスを表しました(民21章4~9節・ヨハ3章14節参照)。
イザヤはそのイエスの姿を、「彼(イエス)の顔は損なわれ、人とは見えず、もはや人の面影はない」(52章14節)と、罪の罰で苦痛に歪み、呪われて死ぬ蛇のようだ、と預言しました。
友よ。神であり、人となられても罪の無いイエスが、私たちの罪を背負い、顔は苦痛で人の顔でなくなり、神の敵である蛇の存在にまでならねばならない「杯」を飲まねばなりません。しかし、主が取り除いてほしい杯とは、やがて手と足に釘を打ち込まれ、十字架にはりつけになり、血を流し、わき腹を槍で刺される苦痛のことではなく、罪ゆえに父なる神から離されるという「杯」のことでした。父から離されないで罪を負う方法、主はそれを求めたのでした。
22章42~44節
「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」…イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。
スポーツにおける戦い、試験などの能力的戦い、経済的戦い、戦争、民族間の戦い……さまざまの戦いがありますが、その根本にあるのは「命の戦い」です。
主は、父なる神の御心である、「一人も滅びないで永遠の命を得る」を実現するために、「わたしをお遣わしになった方の御心を行うため」(ヨハ6章38節)に来られました。
人々の罪の贖いを成就する道は、自分が十字架上で身代わりに死ぬこと以外ありませんが、それは父から離されることでした。主が求めた「わたしの願い」とは、肉体的苦痛や屈辱を避けることではなく、「父なる神から離されないで行う救いの御業」でした。父と御子は、天地創造前から、アガペーの愛の中にいました。完全な愛の中にいるからこそ、罪(神から離れること)の価である死(断絶と孤独)を恐れました。
主イエスの死との戦い(父から離される)を通して救われた友よ。主は、ゲッセマネの園で勝利したからこそ、ゴルゴタの十字架へ進み、私たちの罪の贖いを遂げられました。「十字架」、それを単なる装飾にせず、「主が罪と戦った痕跡」として、「主に自分を献げる」決意と共に、心に付けて離さないでください。
22章46節
イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」
汗が血のように滴り落ちるほどの祈りを終えて戻ってみると、弟子たちは眠っていました。主がここで、「誘惑に陥らぬように祈れ」と言われた「誘惑」とは、眠気のことではありません。
「試練」は、肉を霊のものにするために、神が与えるものです。「誘惑」は、人の中に蓄えられた神のもの(霊)を除いて肉で生きるように、サタンが導くものです。サタンの誘惑は、最初から神を否定するのではなく、神の御心を微妙にずらすことから始まります。
すなわち、神は大事→神も自分も大事、イエス御自身→イエスの恵み、霊の命→この世の命、神から離れている罪(原罪)→行いの罪、キリストの体→教会の体(組織)……というように。
最初のわずかなずれを修正しないと、時とともにずれが大きくなり、やがて戻れなくなります。すると人は、開き直って自分の立場を真理とし、それ以外を批判します。これこそ、誘惑に陥って霊が眠った状態です。
友よ。眠るとは、神の命を持っていても、真理が見えない状態です。主が弟子たちに、眠らずに見てほしかったのは、「命とは、父なる神との継がりと交わりであり、罪とは、神との断絶と神からの孤独であり、その結果の死とは、かくも苦しいものである」ということでした。「命と罪と死」の現実を見つめ、同時に主イエスに目を開き続けてください。
22章47~48節
群衆が現れ、十二人の一人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻をしようと近づいた。イエスは、「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と言われた。
この緊迫した場面に、主イエスを取り巻く弟子たちの中で、イスカリオテのユダとペトロが主役のように躍り出ました。
少し前の過越の食事の席で、二人は主から警告を受けていました。初めにユダが裏切る心を指摘され、後にペトロは自己過信をたしなめられました。そして、主の忠告通り、二人ともイエスを否定することになりますが、その後ペトロは立ち直り、ユダはそれができませんでした。
二人とも、三年半の間、主と共に生活しましたが、ユダは主の中に自分を入れることがなく、ペトロは良きにつけ悪しきにつけ主の中に入っていました。ユダには常に自分の理想の神の国があり、彼はそのために主を用いようとしていました。主が祈る場所を知っていたユダは、「イエスを捕えようと行動を起こすならば、主は、奇跡を伴う力を発揮して、ここでイスラエルの王として立ち上がる」と期待したに違いありません。
ユダとペトロの間に迷う友よ。ユダの賢さを捨てて、ペトロのように没頭し、「主よ、ご一緒なら、牢に入っても死んでも…」(33節)と、主と自分の区別を忘れるほど愚かになってみてはどうでしょうか。主にある愚か者だからこそ、主の言葉が聞こえてきます。
22章49~51節
「主よ、剣で切りつけましょうか」と言った。 そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。そこでイエスは、「やめなさい。もうそれでよい」と言い、その耳に触れていやされた。
ペトロは、間違った剣を持ち、大祭司の手下の耳を切り落とす愚かな行動に出ました。
ユダとペトロは対照的です。ユダは主の中に入れず、ペトロは入り過ぎました。ユダは主を売り渡し、ペトロは主を守るため剣を抜きました。しかし、真逆に見える二人は、結果として両者とも、「神を愛し隣人を愛せよ」の戒めに対する罪を犯すことになりました。
ユダは、隣人を愛し(イスラエルを神の国にするため)、主イエスを売り渡しました。ペトロは、主イエスを愛し、手下を傷つけました。これほど違う二人の共通点は、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」(ヨハ2章17節)との言葉にありました。彼らの共通点は、神を自分のために用いようとしたことです。二人は、主がいなくなることで、今まで自分が主に従ってきた意味が無くなることを恐れたのです。結局、彼らの行動は自分を守るためでした。
友よ。「自分の命を得ようとする者は、それを失い、私のために命を失う者は、かえってそれを得る」(マタ10章39節)ことを、彼らの行動の中に見ます。主の、「やめなさい。もうそれでよい」との言葉は、「もう自分のために生きてきたことをやめよ」という意味だったのでは!
22章54~55節
人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペトロは遠く離れて従った。人々が屋敷の中庭の中央に…一緒に座っていたので、ペトロも中に混じって腰を下ろした。
主が捕えられて大祭司の家の庭に連行された時、三年半共に過ごし、主のいやし、奇跡、権威、力を目の当たりにしたはずの弟子たちは、ペトロを除いて逃げていきました。
ペトロは、主を「知らない」と言ったことで裏切りのレッテルを貼られましたが、そうなったのは、彼が主を愛し、大祭司の家まで主について行ったからです。
人が主に従うのに、完全と万全などなく、肉欲も意地もあるものです。しかしペトロは、主に従うのに一生懸命で、自分のことが見えていなかったのです。そして気がつくと、「知らない」という言葉が三度も口から出ていました。歴史上の多くの主の僕たちも、一生懸命に主に従ったゆえに、貧しくなり、病になり、家族を失いました。そして、「主よ、と言いながら、あのざまだ」と人々から言われた人は数知れません。
友よ。「知らない」と三度言ったペトロと、先に逃げた弟子たちとでは、どちらが主を愛したのでしょうか。また、主は、自分を裏切ったペトロと、先に逃げた弟子たちと、どちらを愛するでしょうか。愚か者と言われても、失敗者と言われても結構です。もっともっと、主を愛する者になりたいものです。
22章56~57節
女中が、ペトロが…座っているのを目にして、じっと見つめ、「この人も一緒にいました」と言った。しかし、ペトロはそれを打ち消して、「わたしはあの人を知らない」と言った。
ここまでついてきたペトロですが、彼は体の震えが止まらなかったのでは。彼の心は、「いつここから逃げ出そうか……しかし出来ない……」という迷いの中だったと思えます。
「牢に入っても死んでも…」と言ったペトロ、「誘惑に陥らないように…」(33節)と忠告を受けたペトロ(46節)、大祭司の手下を切りつけた勇敢なペトロ(50節)、そして「知らない」と言ってしまったペトロ。これら四人のペトロはだれの心にもいます。高慢の頂から絶望のどん底までのこれら四人のペトロには、その時「主から離れていた」という共通点がありました。
しかし、もっと重要な共通点は、「高慢になったペトロからも、絶望の中にいるペトロからも、主は離れていなかった」ということです。「わたしにつながっていなさい」とは、「わたしがあなたから離れないから」と表裏一体です。その証拠に、ペトロがこの場から逃げて行く時、主は振り向いて彼を見つめていました(61節)。
友よ。あなたが主を裏切り、逃げ、罪の中に落ち込んでいる時も、主はあなたを見つめています。その目は、憎しみの目ではなく、愛する者を失うまいとする「熱情の神(ねたむ神)」(出20章5節)の眼です。
22章60~61節
ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。…主は振り向いてペトロを見つめられた。
ペトロが三度イエスを「知らない」と言った時、主が予告したとおりに鶏が鳴きました。
マタイ福音書によれば、最初ペトロは女中からの質問に、「何のことを言っているのか…分からない」と否定しました。二度目は、「そんな人は知らない」と、自分はイエスなる人物と関係ないと言いました。三度目は、「そんな人は知らない」と、二度目と同じ言葉ですが、その前に「呪いの言葉さえ口にしながら」(以上・マタ26章69~75節)言いました。
「呪いながら」とは、「状況否定」を超え、「人間イエス否定」も超え、「あんな奴は神ではない」との言葉でした。それは、かつて彼が告白した「あなたはメシア、生ける神の子」(同16章16節)の否定でした。この時のペトロは、恐怖に打ち負かされ、信仰を失ったために、「知らない」と言ったのでした。その時、主が預言したとおり、鶏が鳴きました。
友よ。この時の鶏は、「そら見ろ、ペトロ。やっぱりお前は裏切った。なんという不信仰な奴だ。はい、これでおしまい。コケコッコー」と鳴いたのでしょうか。否、否、この鶏の鳴き声は、「ペトロ、ペトロ、もういいよ。ここまで頑張ったのだからもう十分だよ。さあ、逃げなさい。でも、わたしは復活して、お前を待っているよ」という、主からの言葉だったのでは。
22章61節 ①
主は振り向いてペトロを見つめられた。
ペトロが聞いた鶏の鳴き声は、主イエスにも聞こえていました。すると、主は振り向いてペトロを見つめられました。
神の子たちの歩みは三段跳びのようです。第一の跳躍は、罪と死から離れるためです。第二の跳躍は、一度飛び上がった足が地に着いた所からの跳躍です。第二の跳躍をする場所は、アブラハムにとっては、イサクを献げたモリヤ。ヤコブにとっては、神と顔と顔を突き合わせたペヌエル。エリヤにとっては、イゼベルに怯えて逃げこんだホレブの山の岩の裂け目でした。
そしてペトロの第二の跳躍は、この時、大祭司の庭で行われました。一度信仰で飛び上がっても、また落ちるように見える時が必ず来ますが、それはもっと先に進むために足を地に着ける時です。そして、最後の跳躍をするのは、天国へ直接向かうために肉体を脱ぎ捨てる時です。
振り向いて、逃げるペトロを見つめる主の眼は、「ペトロ、ここからだ。お前の人生は、ここからだ。これで終わりだと思うな。このどん底は、やがてお前が兄弟たちを力づけるため、前に進むためなのだ。大丈夫だ、ペトロ。私はお前の信仰が無くならないように祈っているから」と言っていたのではないでしょうか。落ち込む友よ。ここからです。「我生きるにあらず、キリスト我内に生きる」(ガラ2章19~20節参照)のは、ここからです。
22章61節 ②
「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。
大祭司の家の庭から逃げるペトロは、「鶏が鳴く前に…」の主の言葉を思い出し、門を出るころから辺りをはばからず大泣きしていたのでは。
鶏の鳴き声は、それまで自分を守ることで精一杯だった彼の心に響く、平和の鐘でした。鶏の鳴き声が聞こえた瞬間、放蕩息子のように「彼は我(神の子)に返る」(ルカ15章17節)ことができました。それは、「主の言葉を思い出した」からでした。
みことばを思い出すことは、単なる聖句暗唱ではなく、みことばから神の御心を掴むことです。ペトロが「主の言葉を思い出した」のは、「主が彼の中にあるみことばに働いた」からです。彼が本心に立ち返ったのは、彼の内に蓄えられたみことばが、聖霊の命を得て生き始めたからです。それは、自分の世界から、神の世界に移ることでした。
友よ。つまずき、倒れ、弱る時、下(自分)と横(人々や出来事)を見てはなりません。鶏の鳴き声は、あなたがペトロのように倒れた現実を知らせると同時に、みことばを思い出させ、神の世界に生きるように導く、聖霊の合図です。どん底(倒れた現実)の中に響く鶏の鳴き声(みことば)を受け取ってください。
22章62節
そして外に出て、激しく泣いた。
ペトロは何時間泣き続けたのでしょうか。ペトロの涙は、どこから、どこへ向かってあふれ出たのでしょうか。
泣くことも生きている証しであり人生ですが、それとは違う「信仰の涙」もあります。バプテスマのヨハネは、イエスが神であることを大胆に証しし、王をも恐れずに神の義を通しました。その彼が、獄での孤独から弱り、弟子を送って、「来たるべきお方はあなたでしょうか。それとも他の人を待つべきでしょうか」(マタ11章3節)と、主に尋ねさせました。彼は獄中でどれほど泣いたでしょうか。彼が泣いたのは、主イエスを知っているのに信じ切れないからです。
ペトロも、だれよりも主を知っているのに「知らない」と言った自分に泣きました。これは「信仰の涙」です。人との関係で泣くのとは違い、主を信じるからこそ、それを裏切る自分の弱さと自己中心を悲しみ、涙を流すのです。
泣いている友よ。ペトロを激しく泣かせたのは神の愛です。あなたが不信仰に泣くのも、神の愛があなたに迫っているからです。そして、「信仰の涙」は必ずあなたを神に向かわせます。神の愛に迫られるので、あなたの中に悲しみと痛みが起こされますが、それは、あなたを神へ向かわせ、恵みを受け取らせるためです(Ⅱコリ7章9~10節参照)。
22章63~65節
見張りをしていた者たちは、イエスを侮辱したり殴ったりした。そして目隠しをして、「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と尋ねた。…さまざまなことを言ってイエスをののしった。
主がゲッセマネの園で捕えられたのは夜でした。役人や兵士たちからこのような侮辱や暴行を受けていたのは、裁判を受ける前でした。
「私たちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にする」(エフェ6章12節)ものです。暗闇・悪の諸霊との戦いと聞くと、得体の知れない恐れを感じますが、それは「真理」と「偽り」の戦いのことです。
下役や兵士たちは、単に憎しみや軽蔑から、主を殴り侮辱したのではありません。彼らは、神と自称するイエスを否定することで自分を神とできる、偽りの真理に浸っていたのです。彼らは、真理を侮辱することで、自分を真理にしようとしています。まことの真理は主イエスであり、偽りとは自分を神とすることです。
友よ。血肉・暗闇・悪の諸霊が用いる武器とは、「偽り」です。偽りが入るのは、自分を神として生きようとするときです。自分を神とする、内側に潜む思いに従ってはなりません。「神の武具(真理の帯・正義の胸当て・福音の履物・信仰の盾・救いの兜・みことばの剣)」によって武装せねばなりません。
22章66節
夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まった。そして、イエスを最高法院に連れ出して、
主に死刑を宣告したのは、使徒信条にあるようにポンテオ・ピラトでした。しかし、主イエスを抹殺した真犯人は、ローマ帝国ではなくユダヤ宗教家たちでした。
主は、「わたしが来たのは律法や預言者を…。廃止するためではなく、完成するためである」(マタ5章17節)と言い、その成就は愛によるものでした。しかし、宗教家たちにとっては,今までの自分たちの教えと立場が否定されることになります。彼らは、自分の立場を守るために,イエスを抹殺する裁判をピラトに押しつけました。このことは、宗教家たち(教会)が命(主イエス)を殺すことでした。
同じことは現在でも起こり得ます。教会が、今までの自分たちの教会スタイルに固執しだすと、純粋に神の命を求めて来る者を退けることになります。聖霊が一人の神の子を生み、神の子一人一人が集められて教会を生みだします。それが逆転し、教会が信者を生み、信者の中に教会の命(自分たちの宗教)を造ろうとしていないでしょうか。
教会の中に置かれた友よ。ひたすら主の命を求め、「形(教会)による命」ではなく「主の命による形(教会)」が作られることを祈りましょう。
22章67~68節
「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」と言った。イエスは言われた。「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。わたしが尋ねても、決して答えないだろう。」
建設的な反対意見がある一方で、反対するための反対意見もあるものです。後者には何を言っても無駄です。主は、彼らにまともに答えませんでした。
人の内に真理はなく、真理は常に外にあるものです。真理を求める者は自分の外にそれを探しますが、自分を義としたい者は、自分の内に真理を探します。しかし、自分を真理にした時、それは自己保存の弁護人となり、むしろその人を自己中心の奴隷にします。
宗教家たちは、自分が真理になっており、新しい真理を受け入れません。主が本当の真理だからこそ、叩き潰そうとします。日本の歴史において、明治維新以後、侵略戦争を重ねた結果行き着いた太平洋戦争において、日本は自分を真理とし、さらにそれを守ろうとした結果、真理としたものの奴隷となり、多大な損失と原爆投下を経て、自らの真理に潰されました。
自分の今までの考えと生き方に固執している友よ。「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(18章17節)のです。幼子は、自分にはできないことを知り、ただひたすら親に頼ります。神の子たちも同じです。自分の罪人である姿を知って、ただ、主に頼るのです。
22章69~70節
「しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る。」そこで皆の者が、「では、お前は神の子か」と言うと、イエスは言われた。「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。」
答えの出ない問答を「禅問答」と言いますが、主を裁判にかけようとする者たちと主イエスの会話がそのように見えてきます。
この場面の混乱は、「裁き主が、御自分が裁くべき者たちから裁かれている」という、立場の逆転から出ています。主は、一人一人の罪を裁くために来られました。それが逆転している以上、主は沈黙するしかありませんでした。
この場の主が心の中で思っていたことは、「やがて人々が、『あのイエスは、人の罪を裁くために十字架で死なれ、復活した神の子だった』と告白するようになる時を待つしかない」だったのでは。
友よ。罪を犯したことよりも、主に自分を裁かせず、自分が主を裁くことこそ罪です。ダビデはバト・シェバ事件で罪を犯した後、「あなたの裁きに誤りはありません」(詩51・6)と言い、姦淫の場で捕まえられた女も、主に自分の裁きをゆだねました。その結果、ダビデは、「清い心、新しい霊」を主につくっていただき、女は、「わたしもあなたを罪に定めない」(ヨハ8章11節)と主から言われました。主の裁きを受けると命を受け取り、主を裁くと命を失います。
22章27節
人々は、「これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ」と言った。
「口は災いの元」と言われますが、反対に、「聞き方は命の元」とも言えます。同じ内容でも、聞き方によって、「命」にも「死」にもなり得ます。
福音書全体から、イエスが裁判の前と裁判の中で言われた言葉は、……「今から後、人の子は全能者の右に座る」(22章69節)。マタイとマルコはそれに加え、「人の子が…天の雲に乗って来るのを見る」(マタ26章64節・マコ14章62節)。「わたしの国は、この世に属していない…。わたしは真理について証しするために生まれた…」(ヨハ18章36~37節)……でした。
神の言葉は、「言(命・聖霊)」によって解釈されます。自分を義人とする者からは、イエスは、自分を神とする最大の罪人に見えます。一方、イエスの命を受けた者にとっては、イエスは慰めの神です。主は、悲しく弱く苦しい人生を送る自分を、十字架によって受け入れてくれます。さらに、必ず迎えに来て天国に入れてくれるとの約束は、生きる力になります。
友よ。あなたの命の元はみことばになっていますか。主は、「聞く耳のある者は聞きなさい」(ルカ14章35節)と語られました。「聞く耳がある」とは、「聞こうとする」ことであり、イエスに語らせることです。一方、「聞く耳がない」とは、相手に「聞かせようとする」ことであり、イエスに自分が語ることです。「主よ、語ってください。僕は聞きます」の者でありますように。