20章1~2節
祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に近づいてきて、言った。「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」
当時の宗教家たちは、主イエスの何もかもが気に入りませんでした。そこで、イエスとはどういう存在か(本当に神に遣わされた者か否か)を問いただしました。
ジョン・バンヤンは、鋳掛屋(いかけや)(=鍋や釜の修理屋)でしたが、信仰を持ち、熱心な信徒伝道者になりました。彼の説教には力があり、多くの人々から慕われました。しかし、32歳の時から12年間、彼は牢獄の中にいました。理由は、牧師資格無しに説教したからでしたが、他の教職者のねたみだったとも? しかし、世の権威者以上の権威者が、獄中の彼に『天路歴程』を書かせ、それは今も人々に神のメッセージを送り続けています。彼に権威を与えた方は、「万物は御子によって、御子のために造られた」(コロ1章16節)、その権威者、「わたしはある(エゴ・エイミィー)=主(ヤーヴェ)」と自ら宣言するイエス・キリストです。
友よ。あなたを仕えさせる権威は「恐れ」を与え、あなたに仕える権威は「畏れ」を生じさせます。恐れは「裁き」から、畏れは「愛」から出てきます。律法学者たちへの主の答えは、「天の父が、人が一人も滅びないために、十字架で罪を贖う権威を、わたしに(御子)に与えられた」です。主は、主に従う者に、御自分の権威を与え、その権威で守られます。
20章4節
「ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」
主イエスの質問に、祭司長や律法学者は困っています。「天から」と「人から」、どちらで答えても、彼らの立場は悪くなります。そこで、「どこからか、分からない」と答えました。
権威には、神から与えられる権威(使徒・奉仕…)、自分で作る権威(技術・知識・実績…)、人々から授けられる権威(法律・議員・尊敬・信頼…)などがあります。
バプテスマのヨハネは、神からの権威と、彼の聖(きよ)い人格に対して人々から授けられた権威の、両方を持っていました。真の権威は、神と人々から授けられるものです。ヨハネこそ、最も正しい権威を持った人物でした。
一方、律法学者や祭司長たちは、神からも人からも権威を受け取れず、自分で作る以外ありません。「自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです」(Ⅱコリ10章18節)。
友よ。神の権威を持つ者は人々からも尊敬(権威)を受け取りますが、人々からの権威を求める者は神の権威を失います。権威を人に求めると自己中心になり、神の権威に服従する者は神に守られます。友よ、あなたも神の権威の中にいる者です。「神の霊によって導かれる者は、神の子なのです」(ロマ8章14節)。
20章8節
イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」
主は宗教家たちに、自分の権威について、丁寧に答えず、そっけない返事をしました。
主が彼らに答えないのは、答えても無駄だからです。主は種蒔きのたとえ話で、「聞く耳のある者は聞きなさい」(8章8節)と言われました。それは、「『私の心は道のように固く、石もごろごろ混じり、雑草も茂っていて、実を結べない』と思う人には理解でき、『私は固くもなく、石も少なく、雑草もない良い畑だ』と思う人には理解できない」という意味でした。自分を義とする宗教家たちの耳はふさがれていたので、主が答えても無駄なのです。
「熱くも冷たくもなく」(黙3章16節)とは、中庸に立ち、両方につける安全な状態と考えがちですが、実は逆です。そこは、神にも世にもつけず、自分で生きる道だからです。人は誰かの権威によって守ってもらわねばなりません。人を守れる権威は、主イエスだけが持っています。
主に贖われ、主の権威の中にある友よ。律法学者は、自分で主イエスを解釈し、主イエスに自分を解釈させませんでした。だから主は、「わたしも言うまい」と口を閉ざしました。
神の権威のもとにあることの最初は、主に自分を解釈させ、その言葉に聴くことです。そして、自分の意見をおいて、まず、聞き従うことです。その時、主の権威があなたを守り、あなたは堅固な城の中にある自由と平安を受け取ることができます。
20章9節
イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。」
ぶどう園の話は、先の権威の問題に対する回答でもありました。
「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』」(創1章26節)は、神が存在し、人(農夫)を造り、人に自然界(ぶどう園)の支配をゆだねたことを教えます。これこそ、神と人の関係、人への神の権威を表しますが、「権威は自分たちにある」と主張する人々には理解できません。
イスラエルの民がネヘミヤに導かれてエルサレムの城壁を修復し、神を礼拝した時、「律法を民に説明し、…翻訳し、…意味を明らかにし…。人々はその朗読を理解した」。そして、民が「嘆いたり、泣いたり」(以上・ネヘ8章)したのは、聖書から、神について、自分について、そして神と自分の関係について、よく理解できたからでした。
友よ。神の子として、いちばん得たいものは何ですか。それが、「聖書を理解すること」であることを祈ります。権威は上から振りかざされても権威とはなりません。神と人の関係をより深く知ることで、「権威」を受け取ることができるものです。そして、自分の人生に神の権威を認めると、神があなたを服従させるのではなく、あなたの方から神に服従したくなるのです。
20章10節 ①
「収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちの所へ送った。」
神と人の関係が、地主と小作人の関係と同じなので(?)、小作料を納めるのでしょうか。また、他の聖書個所では、「十分の一の献げ物と献納物において」偽りがある、と指摘します(マラ3章8節参照)。それは、人に対する十分の一献金の催促でしょうか。
神が求める小作料なる税金は、第一に感謝です。それは、神を愛することです。第二に他者に与えることです。それは、隣人を愛することです。第一の税金は、神がぶどう園を作り、すべてのものを備えたことに対してです。マタイは、「垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りやぐらを建て」(マタ21章33節)と加えます。すべてが神によって備えられた世界で、その実りは人のためですから、神に感謝という税金を納めるのは当然です。そして、収穫は神からの恵みですから、それによってさらに多くの人を救い、育み、祝福し、完成するために用いるべきで、これが第二の税金です。ただで受けたものを、ただで与えるのは当然です(マタ10章8節参照)。
友よ。十分の一献金では不十分です。あなたの全部を献げるのが本当の献げ物です。なぜなら、「あなたの持ち物が神の物」ではなく、「あなた自身が神の物」だからです。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ロマ12章1節)。
20章10節 ②
「収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。」
ぶどう園の主人は収穫の上納を求めて僕たちを送りましたが、彼らは傷を負わされて追い返されました。全世界の所有者が、わずかの収穫(献げ物)を求めるのはなぜでしょうか。
神が人に求めている収穫とは、「人との交わり」です。人間は、神が作ったエデンの園を耕し治めるように命じられたのに、それを自分の所有物にしました。神は、ノア、アブラハム、モーセや預言者たちを送り、人々との交わり(収穫・税金)を求めました。しかし、主の僕たちは無視され、盗賊のように叩かれ傷つけられました。
主は、「イスラエルの人々よ、あなたたちが背き続けてきた方に立ち帰れ」(イザ31章6節)と伝え、「わたしはあなたの背きを雲のように、罪を霧のように吹き払った。わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った」(44章22節)と、それでもなおへりくだります。
友よ。あなたが神に献げるお金、奉仕、執り成しの祈り……は、神が御自分に必要なものではありません。それは、あなたに必要なものです。あなたが主から離れず、さらに近くにとどまり、神様を求めるために必要です。「惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」(Ⅱコリ9章6節)。
20章11節
「そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。」
BC608年からBC586年の間に、イスラエルの民は三回もバビロンへ捕囚とされました。その時代のただ中で、人々から税金(神との交わり)を求めた神の僕エレミヤがいました。
彼は南ユダの偶像礼拝に対して悔い改めを迫り、「お前たちはわたしの手の中にある。…抜き、壊し、滅ぼすが、もし断罪したその民が、悪を悔いるならば、わたしはその民に災いをくださそうとしたことを思いとどまる」(エレ18章)と神の言葉を告げます。
しかし、王と高官たちは彼を偽預言者呼ばわりして侮辱し、縛り上げ、井戸に投げ込み殺そうとしました。エレミヤは、エルサレム陥落と共にエジプトへ逃げた民の魂をなおも追いかけ、その地で召天しました。歴史はエレミヤの預言どおりになり、民は捕囚から帰り、神との交わりである神殿を建てました。しかし、払った代価はあまりにも大きなものでした。
友よ。「大きな代価を払ってから悔い改め、神と交わる」を繰り返すのをやめてください。イスラエルの民や人々の歴史と行動の中に自分を見、小さな出来事の中で、早くイエスを主と認め、収穫の一部を主に返してください。「主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる」(詩34・19)。神のみことばを携えて来る主の僕を重んじてください。
20章13節
「そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』」
ぶどう園の主人は、僕たちでは力不足と知り、自分の跡継ぎ息子を送ります。彼には力があり、人々を説得できると考えたからでしょうか? この跡継ぎ息子こそイエス・キリストですが、農夫たちは、彼が跡継ぎ息子だからこそ、殺してしまいました。
オズワルド・チェンバース師は、「人の罪とは、負っている先祖の罪も、さらに本人の不道徳などの罪も超え、自分自身を神とすることである」と言いました。そしてさらに、「神は、罪の遺産を受け継いでいるという理由では、人にその責任を問われない。私たちが罪の遺産を持って生まれたからではなく、イエス・キリストが罪から私を救い出すために来られたことを知りながら、彼を拒むところに、私たちが刑罰に定められる理由がある」と言いました。
「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている」(ヨハ3章19節)(『いと高き方のもとに』より)。
友よ。主人が息子を送ったのは、彼に、力があるからではなく、愛があるからでした。その愛は、僕や預言者たちを迫害し受け入れない人々のために、御自分の命を引き換えにする愛です。人が裁かれるのは、罪を犯したからではなく、この神の愛を受け入れないからです。
20章15節
「そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。」
農夫たちは主人の愛も分からず息子を殺しましたが、主人はどうするのでしょうか。「この農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人たちに与える」(16節)と言いますが。
愛なる神は、御自分に反抗する者を殺すのでしょうか。最後の審判後のゲヘナにおける死はさておき、今はどうなのでしょうか。天の父は、人間を愛し、独り子イエスを遣わされました。
神と人の継がりは、御子を通してですから、「イエスを殺す」とは、「神とのかかわりを自ら断つ」ことです。神とのかかわりが絶えることが、「霊の死」です。
主人が息子を送ったのは、彼らの罪を息子に負わせるためでした。その御子を拒むことは、天の父が彼らを手にかけて殺さずとも、彼ら自身が自らの命を絶つことと同じです。「罪の報酬は死です」(ロマ6章23節)。これこそ神による殺人…それは、人の自爆です。
友よ。ほかのことならどんな重罪でも赦されますが、神の干渉を拒むことは「赦されない罪」となります。弱さも、病気も、貧困も、苦難も、神との関係を絶つどころか、むしろ近づける助けにすらなります。人の罪は、イエスをぶどう園の外に放り出す(神として信じない・殺す)ことです。しかし、主はそこから復活し、なおも罪を赦すために罪人を追いかけて来ます。
20章18節 ①
「『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』」
「木の文化」と「石の文化」とでは、それぞれ家の建て方が違います。石の家では、四隅にいちばん大きくすわりの良い石を据えます。それが、他の石を支える親石です。
「家を建てる者」とは神の来臨を担うユダヤ人たちのことで、「捨てられた石」とはイエスです。神の御心は、ユダヤ人たちがイエスを神として受け入れ、(基礎・四隅の親石として)しっかりと据え、その上に神の家を建てることでしたが、彼らは親石を捨てました。
私たちの人生も同じです。基礎である主イエスを四隅の親石として据えることが必要です。親石がしっかりしているならば、その上に積み上げられる石(人の能力・体力・経験・経済力・整わない人格でも…)を親石が支えるので、崩れることがありません。上に建てられたあなた以上に、親石が決定的に重要です。
友よ。親石なるイエスの上に建てられる人とは、主の言葉を聞いて従った、「岩の上に自分の家を建てた賢い人…」(マタ7章24節)のことです。イエスを主とし、みことばを聴き、それに従おうとする人です。ただし、完全に従えなくても大丈夫です。四隅の石は鉱物ではなく、慈愛と力に満ちたお方です。この親石は、あなたに語り、教え、力を添え、共に生きて完成させてくださるお方です。
20章18節 ②
「その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」
その上に落ちてくる人を砕き、上から落ちれば人を押しつぶす? 不思議な石です。
石の上に落ちて砕かれる人とは、岩の上に家を建てているものの、岩と家の間に砂が入り込んでいる人です。「砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川が溢れ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」(マタ7章26章27節)。
岩と家の間の砂とは、教会・牧師・教会員・奉仕・献金・礼拝や祈り会への出席・バプテスマ…などの、「キリスト教的なもの」と言うことができます。それらのものは、主イエスに結びつけるための神の賜物であっても、それ自体は命ではありません。「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」(Ⅰコリ10章12節)とは、「砂に気をつけよ」とも読むことができます。
岩なるキリストの上に立つ友よ。主とあなたの間に何が入っているかを点検してください。砂が無い状態であれば、あなたが病や困難に落ち込むほど、キリストに体重を乗せ、より親密な継がりと交わりを持つことができます。しかし、砂が入っていると、あなたは一度つぶされ、それから再び柱から建て上げねばならなくなります。
20章19節
イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。
律法学者やファリサイ人は、ぶどう園のたとえも、家を建てる人の話も、自分たちへの批判だと分かって怒り、主に手を下そうとしますが、民衆を恐れました。彼らの神は民衆でした。
(聞いた話)…ある教会の牧師は、聖(きよ)さを強調し、日常生活の一つひとつにも厳しく、時に会員を叱り、牧師自身も聖く歩んでいる(?)ようでした。しかし会員たちは、神以上に牧師を恐れ、牧師にどう思われるかで信仰の状態を量るようになった…と。そこでは、自分の十字架を自分で負う(行い)→聖霊を受け取り→主イエスに受け入れられる、という逆転した福音(律法主義)が実行されていました。
友よ。間違わない人はだれ一人いません。大事な事は、「気づいた時」に、次にどのようにするかです。律法学者たちは自分たちの罪に気づきましたが、主に近づくどころか、逆に抹殺しようとしました。ある人曰く、「信仰の天才とは、悔い改めの天才のことだ」と。実に、ダビデ王がそうでした。「私はあなたに罪を犯し…。神よ。私の内に清い心を創造し、新しい確かな霊を授けてください」(詩51)と。「ここで・今・気づいた時」からが信仰の勝負です。人を恐れず神を畏れて、悔い改めて進むことです。
20章22節
「ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
主にやり込められた宗教家たちは、今度は、考えに考え抜いた質問、「ローマ帝国の皇帝に税金を納めるべきか否か」で攻めてきました。
当時、14歳から65歳までの人は、一デナリの税金を納めていました。イエスが「納めよ」と言えば、ローマの支配を嫌う民衆の支持を失うので、宗教家たちは人々の心を自分たちに向けさせることができます。「納めるな」と言えば、ローマへの反逆と扇動の罪でイエスを告発し、死刑に追い込むことも出来ます。「答えない」場合は、「ずるい奴だ、メシアではあり得ない」と断罪できます。しかし主は、「皇帝などはどうでもよい。神が大事だから、ただ神を信じよ」とは言わず、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と答えました。
神と世の間で迷う友よ。葬儀などに際し、「神への信仰か、親族への礼儀か」を問われ、「神を愛し、隣人も愛する」の両者を一致させることの難しさに戸惑うものです。私たちは「神」によってこの「世」を生きるのですから、ふさわしい対応があるはずです。死者を礼拝せず(その場でも神を礼拝し・神を愛し)、親族に愛を示す(隣人を愛し仕える)ことは可能であり、矛盾ではありません。神の知恵を求めましょう。
20章24節
「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」
主の答えは現実的です。事実、この時の主御自身も皇帝の治世下にいます。
親からの命でこの世を生きるのは自然なことで、そこに摩擦はありません。しかし、神からの命でこの世を生きると摩擦が生じます。神の子たちは皇帝(この世・国家・為政者・権力)の下で生活せねばなりません。神の国とこの世は、対立し矛盾しているのではなく、罪のゆえに秩序が崩れているだけです。「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」(ロマ13章1節)。
政府も為政者も、神がこの世を治めるために立てた器であり、世の権威の上には神が主権者としておられます。デナリオン銀貨の表に皇帝の肖像と銘が刻まれていても、その裏側には、「彼(皇帝)の支配者は神」と見えない字で刻印されています。ローマ帝国や徳川幕府が絶大な権力を持っていても、その上にある神の権威が彼らをコントロールしていました。
友よ。あなたの所有物・能力・家族に、「私の」という印を刻んでいませんか。その裏側には、「この人はわたしのものである」という神の刻印があるのが見えますか。自分の印を刻んだローマ皇帝は、世界のだれよりも大きな不安を抱えていたのでは。むしろ、「私」が消え、「神」の刻印が大きいほど平安になります。
20章24~25節
彼らが「皇帝のものです」と言うと、イエスは言われた。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
他者に対し「ああ言えばこう言う」人の主張はほとんど自己中心から出ていますが、主の返答は常に真理から出ています。
主は皇帝の権威を認めていますが、皇帝には一定の枠と分担が課せられています。本来神が定めた皇帝の働きは、「人々が神に仕えるために、皇帝と政府は人々に仕える」ことです。
また、神と皇帝の関係は、中身と器の関係です。神の「命(中身)」を入れるための「器」が皇帝や政府などです。したがって、器は命に仕えるために存在するのであって、器が中身(命)を汚し、退け、失わせてはなりません。
社会は家族を入れる器、家族は個人を入れる器、体は心を入れる器、心は神の霊を入れる器です。大切なのは、神から与えられる命です。しかし、罪の世界は神の御心とは逆の方向へ働くので、数え切れない人々が、御心に添うために殉教の道を選ばねばなりませんでした。
友よ。「肉の欲求を満たすのは皇帝で、霊の願いを聞くのは神」と使い分けていませんか。肉を満たすと霊は死にますが、霊を満たすと肉も聖別され、生きて働きます。中身である神の命のために政治や権力を正しく用いると、霊肉共に神の祝福を受けます。
20章25節
イエスは言われた。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
聖書は、「神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」(ロマ13章1節)と明言しています。皇帝も神によって立てられた権威ですから、「皇帝のものは皇帝へ、神のものは神へ」ですが、皇帝と神とでは、重さも優先順位も違います。
皇帝(カイザル)は、神の御心に従い、人々が神を礼拝するために仕える存在です。権威と秩序が正しくされると、両者の間に調和が生まれます。一人の魂が神と出会い、生き方が変わると、家族との関係も変わります。すると、さらに周りの人々へ、地域へ、国家へと影響を与えていきます。このように、命が内側から外側へ流れていきます。
しかし、皇帝によって生きようとすると、皇帝のための国家、国家のための人民、共同体のための一員、家族のための個人、となります。そこには緊張と争いが絶えません。なぜなら、神を除外した関係では自己中心の法則が働くからです。神と個人の関係が優先されると、家族と自分、政府と国民、皇帝と神に調和が生まれるのは、そこに愛という法則が働くからです。
友よ。家庭でも、教会でも、神と個人の関係が正しくされると、周りの人々も生かされます。特に教会では、奉仕よりもみことばの学びを優先して霊の養いを受けると、時至って喜んで奉仕に参加できるようになり、家族や兄弟姉妹にも喜びが広がります
20章27節
さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。
ファリサイ派は復活を信じ、サドカイ派は信じませんでした。復活を信じないサドカイ派の人々が主に質問しましたが、それもファリサイ派と同様に主をやり込めるためでした。
サドカイ派が復活を否定するのは、彼らがモーセ五書のみを聖書とし、しかも字義通り受け取っているからです。すると、モーセ五書には「復活」の言葉がありません。そこで、申命記二十五章五節から、「聖書は一夫一婦制なのだから、兄が死んだので弟が兄嫁を娶り、しかもそれが兄弟七人に及んだ場合、天国では女はだれの妻になるのか」(28~38節)と主に問います。
「もし復活があるならば、天国では七夫一婦になり、神の御心に反する」と彼らは考えます。彼らは一見合理的なようですが、実際には、「理解できるものは受け入れ、そうでないものは退ける」という高慢に陥っています。「何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです」(Ⅱペテ1章20節)を忘れてはなりません。
友よ。聖書の一部、一つの書物(詩編や福音書だけ)、神の御業のある部分(終末や再臨、聖霊と悪霊)から聖書全体を理解しようとすると、サドカイ派になります。霊の世界のことを、人の知性や経験や次元で理解することは不可能です。聖書は、神の啓示を受けねば理解できません。啓示とは、「主よ、これは何ですか」と問う人に、聖霊が教えてくださることです。
20章34~35節
「この世の子らはめとったり、嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。」
天国では、男性・女性はなくなり、天使のようになり(36節)、結婚も不要になります。すると、今までの常識はどうなるのでしょうか。
神は人間を「われわれ(三位一体の姿)にかたどり」、男と女に創造されました。男女が一つとなって愛に生きることで、神の愛と交わりを学びます。そして、地上の肉体を脱いだ後、性は役目を終え、霊の体を持つと言います(Ⅰコリ15章44節)。
人には、「人・男・女」の三つの立場がありますが、「男・女」であることから人生を考える以上に、一人の「人」であることがより大事です。「人」であることから、「男・女」である人生を考えると、生きるための正しい判断が与えられます。人類の問題の一つは、「男・女」であることが、「人」であることよりも大きく考えられていることです。
しかし、友よ。自立した「人」であることのその上に、「神の子」であることがさらに重要です。ヤコブ(争う者・肉の人)からイスラエル(神の王子・霊の人)に代わる必要があります。「神の子」となる時、「人」であることが分かり、「人」が分かると、「男・女」であることの意味を知り、感謝できます。
20章37節
「死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している」
復活は無いと言うサドカイ派の人々への答えとして、主は出エジプト記3章6節の言葉を引用しました。すると、「モーセ五書だけ・字義通りに」と主張する彼らの信仰は覆されます。
「自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです」(Ⅰコリ15章44節)。よって、天国では肉の体が無いので飲食する必要はなく、永遠に生きるので子孫の維持も不要になります。地上の常識から、天国を推し量ってはなりません。
神が御自分を「アブラハム・イサク・ヤコブの神」と言われたことは、「わたしは今も彼らの神である」との意味であり、彼らが復活して天国にいることを示しています。知識によって命を理解することはできません。命は命によってのみ理解できるものです。「神について知る者(知識)」に復活は理解できず、「神を知る者(信仰)」が復活を真実とできます。
友よ。あなたは復活の命を聖霊によって確信していますか。それとも、知識として知っているだけですか。聖霊による確信が欲しいならば、まずは聖書を読むこと。次に、みことばの一つひとつに真剣に取り組むことです。そして、「主よ、目を開いてください」と祈ることです。
20章38節
「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。人はみな神に生きるものだからである」
文語訳主の言葉は、「神を信じようとしない者に神は分からないが、神を信じようとする者には神が分かる」と受け取ることができます。
一般的に、「信じる」と言うときの主体は、自分自身です。特に、日本の神々の実態は汎神論ですから、結局、「自分で選ぶ神・自分で作る神・自分が信じる神」となります。だから、幾つも神を持つことができます。
聖書世界の信仰は、人に分からないことを神の方から示していただく「啓示」によるものです。「啓示」とは、「神が人に分かるように御自分を示す」ことです。したがって、人の知識や経験では神を理解できず、神に主体になっていただいてこそ、信じることができます。すなわち、神が、求める者に御自分を表して(啓示して)、神の生きている現実に触れさせ、「アーメン(然り・その通り)」と人に確信させてくださるのです。
友よ。青虫を解剖してもそれが蝶になるとは分かりませんが、蝶を観察し続けたら青虫の正体が分かります。同じように、聖書は人の知識によって研究するだけでは分かりませんが、神を求めて読めば分かります。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」(ヨハ5章39~40節)は大切です。
20章37~38節
「死者が復活することは、モーセも…主をアブラハムの神…と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」
「どうしたら本当の神を知ることができるか」は、人類の永遠の課題です。それ以上に、人が生きている間に必ず知らねばならない命題です。
アブラハムの家族が、親子三代にわたって神と共に歩んだのは、血筋や知識を超えて、神に自分を賭けたからでした。違う世界に入るためには、自分の世界から出て行かねばなりません。自分の場と神の場に同時に居ることはできません。
アブラハムはカルデアのウルから出て、カナンに向かいました。イサクは井戸がふさがれると、かつて父が堀った井戸の場所に必ず水があると信じ、古い井戸を捨てて、新しい井戸を掘りました。ヤコブは、ラバンのいるハランから、神と最初に出会った時に示されたベテルに向かいました。
友よ。自分の中に神を入れる(自分に神を合わせる)のではなく、神の中に自分が入って(神に自分を合わせて)ください。自分の中に神を入れると神が分からなくなりますが、神の中に自分が入ると神も自分も分かってきます。それをパウロは、「あなたの蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか」(Ⅰコリ15章36節)と言いました。
20章41~44節
イエスは彼らに言われた。「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。ダビデ自身が詩編の中で言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。…』」
主イエスと律法学者たちの議論は、さらに核心に迫ります。それは、「イエスは本当の神か、それとも人か」です。
キリストはダビデの子孫(ユダ族)から出る、とは旧約聖書の預言です。しかし実際に、衣食住を必要とする肉体を持つ人間が「神である」と言われても戸惑います。キリストは「ダビデの子孫(人間)」なのか、それとも「ダビデが主と呼んだ方(神)」なのか、がポイントです。
主は詩編百十篇一節を引用し、「ダビデが神と呼んだのは、わたしのことである」と明言します。さらに、「アブラハムの生まれる前から、『わたしはある(エゴ・エイミー=ヤーヴェ=主)。』」(ヨハ8章58節)とも言います。アブラハムにもダビデにも、彼らの神=主はイエスでした。
友よ。宇宙の創造者は父なる神で、イエスは新約の神(?)としていませんか。また、クリスマスをイエスの「誕生日」とするのは間違いです。クリスマスは、神なるイエスが人となられた「降臨」です。イエスは天地創造以前から存在し、天地万物も人間も、イエスによって造られました(コロ1章15~6節参照)。アダム、ノア、アブラハム、ダビデ、イザヤに語ったのは、主イエスです。「聖書が分かる」とは、イエスが天地創造前から主=神だと分かることです。
20章46節
「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。」
主イエスと、律法学者やファリサイ派やサドカイ派の人々との間に一致点はなく、対立しています。ユダヤ宗教家たちが、主に責められても気づかない理由は……
先祖から引き継いだ」「自分の利益になる」「真理と誤信している」…以上の三つがそろうと、人は悔い改められなくなり、責められると、かえって頑固に抵抗します。キリスト教は、歴史の中で何度も改革されてきましたが、その改革は発展や進歩ではなく、初代教会への後退(回帰)であり、主イエス御自身への直結でした。
友よ。信仰生活で、何かしっくりしないところがあるなら、自分の中に1~4がないかを点検してください。個人も教会や教団も、ユダヤ宗教家になりやすいものです。「あなたのまことにわたしを導いてください…」(詩25・5)と祈り続ける必要があります。「あなたのまこと」こそ、主イエス御自身との交わりです。
20章47節
「そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
律法学者たちは、口では「神は・神が」と言いながら、その心は「上席や上座を好む・やもめの家を食い物に・見せかけの長い祈り」でした。
「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」(ルカ6章46節)という主の言葉が響いてきます。主が求める行いとは、質素な衣服、下座、やもめへの献品と奉仕でしょうか。否、神が求める行いは、「御自分にすべてをゆだねてくれること」です。
孤児を養ったジョージ・ミラー、中国伝道に命を懸けたハドソン・テーラーなど、歴史の中には、「善い行い」をした人は数え切れません。しかし、彼らの行いでいちばん主が喜ばれたのは、「主に自分をゆだねること」だったのでは。彼らが自分を神にゆだねたので、神は彼らを用いて御業を現すことができました。
友よ。あなたが神を現すのではなく、神があなたを用いて御自身を現わそうと願っています。献金の額や奉仕の量によって神が働けるのではありません。献金や奉仕は、あなたが神をどれほど信頼しているかを表します。神は、「額」でなく「信頼」を用いて御自分の御業を行なわれます。「善き行い=神を信頼すること」です!