2章4~5節
ヨセフも…、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
天使のお告げのとおり、マリアは臨月になっていました。しかし、神話などでなく本当に処女降誕などはあり得たのでしょうか。
反対に、クリスマスが作り事ならばどうでしょうか。結論は、今に至るまで語り伝えられることはあり得なかったと言えます。なぜなら、クリスマスがいまだに人の心を捕らえるのは、この時のクリスマス以後も、多くの人がクリスマス(主イエスのご降臨・出会い)を体験し、感動し、人生が変えられ、主イエスに自分を委ねて従うようになっているからです。
人は作り話や神話や理想では生きられません。苦しい人生の途上で、生きるために必要なものを、実際に満たされたからこそ語り続けます。生きるために必要なものは、「命」であり「愛」です。命を求め、愛を求める者は、主イエスと出会い(クリスマスを体験し)心からの感謝をささげます。
友よ。あなたのお腹(霊)に、主イエスの胎動(臨在)を感じていますか、それとも長い間止まっていますか。止まっているなら、エリサベト(信仰の人)を訪ねてください。きっと、内住のキリストが喜び動き出し始め、あなたも強められるでしょう。
2章6節
ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、
ナザレに住むヨセフの血筋はユダ族でした。人口調査のためにエルサレムに行く途上のベツレヘムで月が満ちました。
預言者ミカは、「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」(5章1節)と告げました。
救い主は、ユダ族から出・ベツレヘムで産まれ・神殿の建築が始まり崩壊する間に来られ(ダニエル9章)・おとめから(イザ7章14節)・男の子として(同9章5節)と預言されていました。
預言は寸分たがわず成就しましたが、マリアの本心は家での出産を望んでいたに違いありません。同じようにだれにでも、なぜこんな所で、なぜこんなことに、なぜこんな人と、なぜ、なぜ…と思うことが多く起こるものです。
戸惑う友よ。出来事になぜと言ったとしても、神には信頼し続けてください。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる」(イザ55章8節)からです。もうしばらく待てば、羊飼いたちや、東の博士たちが姿を現してくれます。その時に、「なぜ」は解かれます。
2章7節
初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。
昔の日本の多くの農家は、母屋の中に牛や馬などの家畜を飼いました。家畜にえさを与える桶が飼い葉桶でした。家畜のよだれやえさの残り物などでにおいがひどく、非衛生的で赤ちゃんを寝かすには最悪の場所です。
「イエスさまは、飼い葉桶のような汚れた私たちの心の中においでくださる。神は罪人の心の中に宿ってくださった」との力強いメッセージを聞く時、然り、アーメンと思えます。しかし、アーメンと言いながら、心の中の本当に汚い所に、主イエスをお迎えしているでしょうか。
自分で掃除し(しかしゴミと悪臭は押し入れの中に隠し)、困っているのに困っていない風を装い(家族の不和、経済、老後、死後の不安を隠し)、弱いのに強がり(孤独、心の病、能力の限界…)、きれいな所に主イエスをお迎えしがちです。
友よ。自分の汚点や弱さを隠して主イエスをお迎えしたら、せっかく来てくださった主は、そこを掃除し、御自分の命で満たすことができなくなります。「罪を(弱さも)隠している者は栄えない。告白して(主に差し出す)罪を捨てる者は憐れみを受ける」(箴28章13節)は本当です。「住みたまえ、きみよ、ここに、この胸に」(讃美歌124番)は、「住みたまえ、主よ、この弱さに、この罪人の中に」ではないでしょうか。
2章7節
宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
ヨセフとマリアが、宿屋の門を叩くが断られ、次の宿屋を探して歩く教会学校の降誕劇のシーンがよみがえります。彼らが泊まったのは馬小屋でした。
同じ姿を、「わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をする」(黙3章20節)の個所に見ます。
ヨセフとマリアの情景をさらに発展させ、ヨセフとマリアと胎内のイエスの三人が宿屋の戸を叩く姿に、三位一体の神の姿も見えてきます。神は御自分を受け入れる心を求めて人の心の戸を叩いています。
聖書の告げる救いは、病や悪霊や経済や家族問題からの解決も超え、罪の赦しさえも一つの過程にします。救いとは、「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるようにすべてを一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。…わたしたちが一つであるように、彼らも一つになる…」(ヨハ17章21~22節)ことだからです。
友よ。何が救いなのか明確になっていますか。この世も、家族も、健康も必要なものですが、それは限られた時間と一定の条件の下でです。この世界でも天国でも、必要なのは「神との『継がり』と『交わり』」=神と神の永遠の命です。
2章8節
その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
羊飼いは季節労働者で、乾季には羊を標高の高い草と水のある所へ連れ出します。羊は預かりもので、失えば給金から引かれます。ですから、彼らは夜通し羊の群れの番をしました。そして、羊飼いの仕事がない季節には、使用人として畑仕事に従事しました。
「羊飼い」は、不安定・最下層・貧しい者の代名詞ですが、現代人と根底は同じです。経済的安定を一時享受しても、いつか終わります。健康を誇っても、突如の病の発見や、災いや事故によって奪われます。
家族愛をよりどころにしても、不純と裏切りはそれと隣り合わせです。そして、羊飼いたちが他人のうわさと雇い主の悪口で時間をつぶしている姿も、今日、マスコミで他人をカモにして笑い合い、互いに自分を誇り合っているのと変わりません。そして、時計が進む先に待つのは、最後の審判による人生の総決算です。
友よ。あなたは、王子(イスラエル)なのに、羊飼いのように生活していませんか。そのようであるならば、あなたはこの世に主人(雇人・守り・支え・将来)を探しているのです。「さあ、共に行って、主の恵みを求め、万軍の主を尋ね求めよ」(ゼカ8章21節)に、「わたしも喜んで行きます」(同)と応えてください。野宿して空しく過ごす人生でなく、イスラエル(神の王子)として、神の国の宮殿で、父なる神と共に過ごしてください。
2章9節
すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
野宿する羊飼いたちに、天使が近づき周りを照らしました。あり得ないことに遭遇した羊飼いたちは、腰が抜けたに違いありません。
この世を見回しても見えないもの、それは全き自己犠牲です。親切の裏には欲求があり、愛するという言葉の裏側には、それ以上に求める愛欲がくっついています。エジプトに逃げるマリアたちが洞穴に逃げ込み、そこにクモが糸を張り、兵士たちの目に、穴の中に入って行った者はいないと見せかけたという伝説は、自分を捨てて相手を守る自己犠牲を教えます。今もクリスマスツリーを銀の糸で飾るのは、この伝説から始まったと聞きます。
「天使が近づき」とは、「神の世界から」との意味です。古代の学者アルキメデスが言った、「地球を動かすには、地球の外に支点を持つ必要がある」とは、「世の中のことを、世にあるもので動かすことはできない」とも取れます。
友よ。あなたの内側、家族や隣人の問題を動かすにも、あなたの外に支点を持ってこなければなりません。神を支点とし、自分と問題の間にかけるテコ棒は、みことばです。そして、問題を動かすには、まず自分がテコ棒なるみことばにぶら下がることです。自分が最初にみことばに従ってこそ、相手も動き出します。
2章10節
御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。」
口語訳天使は、恐れるなと言います。だれでも「恐れるな」とは言えても、その根拠は示せません。天使の根拠は、「見よ」にありました。
「見える(see)」は、目に映る現象。「見る(look)」は、より意識的に見ること。しかし、「見よ(behold)」は、「掴め」とも訳せる強い表現です。天使は、あるものを掴むなら恐れなくてもよい、と言いました。そのあるものこそ、イエスの御降誕、神の到来です。
「弱った手に力を込め(祝福を受け取るために、なえた手を再び伸ばせ)、よろめく膝を強くせよ(弱った祈りを強くせよ)。心おののく人々に言え。『雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。』(イザ35章3~4節)」。
( )は著者「大きな喜び」とは、神があなたの中に来られたことです。神を持つ以上の平安と確信はありません。
友よ。あなたには神がついているのに、何を恐れているのですか。現実が悲しく、情けなく、苦しくても、神を失ったわけではありません。むしろそのような時こそ、主は以前よりもっとあなたに近づいておられます。
2章12節
「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
クリスマスほど現実離れした物語は、世界に類がありません。何よりも、神が人となり、しかも赤ちゃんとして、それが処女から産まれたと聞くと、メルヘンを超えて奇怪に見えます。
しかし、「神が人に・赤ちゃんとして・処女から」、この3つこそ、救い主なる神に必要な絶対条件です。聖霊によってマリアに宿るとは、聖霊とマリアの遺伝子によるのではありません。体外受精した受精卵を、代理母の胎内に入れても新しい命が成長するように、マリアの胎内に人なるイエスが宿りました。したがって、その命は「完全な神」です。
では、なぜ最初から威厳に満ちた大人として来臨されなかったのでしょうか。それは、人の罪を贖うには罪の代価が必要だからで、目には目、歯には歯、人の命には「罪のない人の命」が、等しい代価でなければなりませんでした。胎内に宿り、赤ん坊として産まれ、成長した「神・完全な人=罪のない人」だけが救い主になることができるからです。
友よ。人として臨まれた神は、霊的現象による顕現だけではなく、肉体を持って顕れ、神格(神)と人格(あなた)の真実な交わりのできる神です。今日も神に聴いてください。そして、何でも神に話してください。
2章13~14節
突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」
神と神の子供たちに仕える天使たちが、御子イエスの御降誕に集い賛美をささげました。
天使たちは、アダムとエバが堕落して後、神の救いの宣言、「彼は(男性単数=救い主)お前(サタン)の頭を砕く」(創3章15節)ために、おとめより生まれるメシア・御子イエスの到来を何千年も待ち続けました。そして、天使たちはその間、旧約聖書に登場する人々の信仰を助け、守り、励まし続けてきました。
それが今、成就したのです。天使たちは、独り子を惜しまず与えた父なる神と、天の御座を離れて来られた御子イエスに、「栄光、神にあれ」と賛美し、人々が受ける恵みを思い、「地には平和、御心に適う人にあれ」と声高らかに賛美しました。
友よ。天使たちの賛美は、あなたにもささげられたことを知っていますか。それは、見失った羊・無くした銀貨・放蕩息子であったあなたが、悔い改めて神に帰った時でした。「神の天使たちの間に喜びがある」(ルカ15章7・10節)。その天使たちは、今もあなたのことを神に執り成し、神に賛美をささげています。それは、苦闘しながらでも、イエスを主として生きるあなたへのエールであり、三位一体の神への執り成しです。
2章15節
天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。
羊飼いたちは、天使のお告げに喜び、早速ベツレヘムへ出かけて行きました。
マタイ25章に、タラントンのたとえ話があります。主人は、五・二・一タラントンを預けて旅に出、それぞれの量に従って商売するように命じました。5タラントの者は、「すぐに行って」、2タラントンの者も「同様に」と記されます。1タラントンの人も「出て行き」ましたが、儲けることができませんでした。
両者の違いは、出て行った場所の違いです。羊飼いたちは、天使の声に従い「ベツレヘム・神の世界」に出て行きました。しかし、1タラントンの者が出て行った先は、「穴を掘り」とあるように、「自分の世界(立場・能力)」でした。
友よ。神の世界に行くには、羊たちも連れ出す苦労があり、面倒に見えますが、救い主に出会えます。自分の世界にとどまることは楽ですが、自分のわざ以上のことは何も起きません。「神の言葉(ロゴス=普遍的真理)」は、それだけでは命ではありませんが、その言葉を信じる時、「レーマ(自分への神の言葉)」となり、さらに行動に移す時、「レーマタ(出来事)」になり、私たちは神の栄光の出来事を見ます。
2章16節
そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
羊飼いたちは、「救い主は、ベツレヘムに産まれた」と言われても、ベツレヘムのどこにいるのか聞いたわけではなさそうです。聖書は、「探し当てた」とだけ状況説明を加えています。
羊飼いたちは、何を目当てに幼子イエスを探したのでしょうか。労働者ならビジネスホテルを探し、旅行者なら観光ホテルを、金持ちなら高級ホテルを、権力者なら貸し切った高級ホテルの貴賓室を、貴族なら宮殿を探せば見つかりそうですが?
それでは、人となられた神には、どこへ行けばお会いできるのでしょうか。神の御子イエスは、馬小屋の飼い葉桶の中におられます。
友よ。あなたはどこに神を探しますか。気分が高揚した貴賓室、知識で会う頭の中、悲しみ泣くハートですか。いいえ、主と会う場所は、罪と弱さ、憎しみと惨めさと悲しみが満ちた、決して自分からは泊まりたくない、嫌な臭いのする馬小屋ホテルではありませんか。自分の罪や弱さや恥の部屋で主イエスとお会いできます。そこには、人格を持ち、会話のできる神があなたを待っています。あなたが訪ねてくると、主はあなたをすぐに御自分のゴルゴタの十字架の中に隠されます。さらに主は、エマオ途上の宿屋に誘い、パンとブドウ酒を与えて御自分を現してくださいます。
2章19節
しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。
こんな馬小屋に、羊飼いたちが駆けつけ、さらに遠い東の国から博士たちも来ました(マタイ2章参照)。それによって、産んだ子が救い主である確信が深まるほどに、マリアは思い巡らすようになりました。
彼女は、主のはしために選ばれるほどの信仰の持ち主でしたから、聖書から救いの預言も知っていました。聖書によれば、自分から生まれた子が神・メシアとして歩む先には、「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。…彼が担ったのは…病…痛みであった。彼は…打たれ…刺し貫かれる…」(イザ53章3~5節)との預言が実現せねばなりません。マリアの心は、そのことを思い巡らすほどに沈み、羊飼いや博士たちを心から歓迎できなかったのではないでしょうか。
友よ。イエスを主と信じて生きる者の人生には、喜びだけでなくさまざまな心配事も付属してきます。しかし、マリアがイエスを受け取って得た悲しみと痛みは、後に「主の母」と呼ばれ、さらに「イエスを信じるすべての者の母」と呼ばれる祝福に変えられました。信仰ゆえの苦難の道には、「戦利品としておびただしい人を受ける(救われる人)」(同12節)との約束が待っていますから、思い煩いに足踏みせず、先に進んでください。
2章20節
羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
マタイ福音書は、ユダヤ人向けに書かれたので三人の博士が登場し、ルカ福音書は異邦人向けなので貧しい羊飼いたちが登場します。
クリスマスは12月25日ではなく、本当は春先でした。ローマ帝国のコンスタンティヌス大帝がキリスト教を公認した時(313年)、冬至(今のクリスマス時期)より日照時間が長くなることにちなんで行われていた慣例の火の神(太陽)の祭りの日を、クリスマスに置き換えたようです。
偶像礼拝の祭りから、まことの神の礼拝への変化は、神の子供たちすべてにも当てはまります。それぞれがこの世の太陽(偶像・偽りの光と救い)をあがめていましたが、そこに真の光が与えられました。「あなたを照らす光は昇り…、主が輝き出で、主の栄光が表れる」(イザ60章1~2節)。
偶像を礼拝する者から、三位一体の神を礼拝する者に変えられた友よ。さらにみことばは、「主があなたのとこしえの光・神があなたの輝きとなられる」(同19節)と続きます。旧約聖書が語り、クリスマスの事実を受けて新約聖書が証ししたことは、「見聞きしたことがすべてそのとおりだった」のです。今日も、みことばを私に成就される神を賛美しましょう。
2章22節
モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。
ヨセフとマリアは、ユダヤの律法に従い、幼子にイエスと命名し、八日目に割礼を施し、神に献げるために神殿に連れて行きました。
子供は、親のものではなく神のものですから、神のものは神に返さねばなりません(マタ22章21節参照)。それは、割礼(洗礼)を受けさせ、神殿(教会)に連れて行き、祈らせることでしょうか。それらも必要ですが本質ではありません。
子供には養育期と教育期があり、養育期は「親が主で子は従」、教育期は「子が主で親が従」の関係になります。したがって、子供を神に返すには、親が神に自分を献げ切って生きねばなりません。人として不完全な親でも、「神も世も」の基準でなく、神だけを愛して生きるならば、子供は洗礼や礼拝の時だけでなく、日々神に献げられることになります。
子供の救いで悩む友よ。「麦粉の初穂がきよければ、そのかたまりもきよい。もし根がきよければ、その枝もきよい」(ロマ11章16節・口語訳)とあります。子供のことよりも、自分の聖別を優先してください。すると、あなたの人生の責任をとられる神は、あなたの子供の責任も取ってくださいます。
2章25節
エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。
エルサレムには、神に仕える人が大勢いました。その中で、「正しく信仰深い」、シメオンやアンナ(36節)のような人はどれほどいたのでしょうか。
とかく、異言、預言、奇跡、知恵や知識、信仰などの聖霊の賜物(Ⅰコリ12章)を持つ人、ファリサイ派の人などのように戒めを守る、道徳的にりっぱな人々を信仰深いと思いがちです。しかし、「彼らの行いは、見倣ってはならない」(マタ23章1~12節)と主は言われました。
正しく信仰深い人とは、その人の立場(教職・賜物・実績・年数・知識…)ではなく、「方向=神への角度」が正しい人のことです。主から戒められた多くの人々の羅針盤の針は、「神」と「自分」と「世間」の間を行き来していました。しかし、シメオンやアンナは神から的を外さない正しい人たちでした。
自分の信仰に疑問を持つ友よ。信仰は自分の力で持てるものではなく、神の賜物です。ただし、罪と戦っている時も、たとえ今それに負けそうでも、そこから必死に神に目を向けてください。そうすると、主はあなたに助け主の聖霊を送り、聖霊がとどまり、それがあなたの信仰となります。シメオンの信仰深さも、聖霊がとどまっていたからでした。
2章28節
シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
幼子を抱きあげ頬ずりし接吻する時、この上ない平和を覚えます。老年のシメオンもそのような気分で幼子イエスを抱き上げたのでしょうか?
もちろんそれもあるでしょうが、シメオンが幼子イエスを抱き上げた時、さらに深い霊の幸福を感じたに違いありません。「幼子」の言葉には、「無邪気・二心がない」などとともに、「何もできない・受けるだけ」などの意味もあります。人が信じたい神は、「成人した神」です。それは、能力のある神・病気をいやす神・家内安全商売繁盛を与え、自分を助けてくれる神です。
何もできない「幼子の神」を抱きしめたい(信じたい)人はいません。しかし、シメオンとハンナが待っていたのは、赤ちゃんの神・イエスでした。
友よ。あなたが待っている神は、病や経済や家族問題を解決する、自分の望みをかなえる神ですか。それは、もしかして、イエスという御人格ではなく、神の賜物や働きを求めているのではありませんか。幼子が求めるのは、親がそばにいてくれることです(存在・人格)。しかし、成長するに従って親の業を求めるようになります(金銭・能力)。私たちは、今も神の御前では幼子です。幼子は親の職業や貯金などではなく、親自身を求めます。幼子のように、「アバ・父よ」(ロマ8章15節)と、父なる神を求めてください。
2章29~30節
「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」
老齢になったシメオンの希望は、一日も早く天国へ帰ることでした。しかし、その前にメシアに会うとの啓示を受け、その時を待っていました。
だれにとっても、健康は最大の関心事です。そこで、食事をはじめ生活習慣、精神衛生上の情報が巷にあふれます。肉体は神の賜物ですから、体を大切にすることはとても信仰的です。しかし、健康は重要ですが、それに囚われてはなりません。囚われるとは、それを命にしてしまうことです。シメオンは、長生きにこだわって生きていたのでなく、メシア(救い主)にこだわって生きていました。肉体の健康は、「救い主を見る」ためでした。
友よ。肉体も、家族も、社会生活も大切ですが、しかしそれが命ではありません。病に侵されても、健康管理が不十分でも、家族を愛せなくても、それが敗北ではありません。だれでも必ず、肉体から、社会から、家族からも離され、「自分だけ」にならねばならない時が来ます。それは孤独になるのでなく、神とより深く一つとなるためです。そして、肉体、家族、社会を超えた神の命に入るためです。その時、シメオンのように「この目であなたの救いを見た」と告白できる人は、なんと幸いな人でしょうか。
2章34節 ①
「この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。」
シメオンは、全人類の一人ひとりが倒れるか、立ち上がるか、を決定づける存在がこの幼子イエスだと預言しました。
クリスマスに演奏される「メサイア」が、ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルによって作曲されたのは1841年、彼が56歳の時でしたが、それは彼の生涯で最も暗く苦しい時でした。脳卒中のために右半身が麻痺、リューマチに犯されて体の関節が痛み、自由も利かず、さらに彼を支えてくれていたキャロライン王妃が突然死しました。
病気と絶望と貧しさのただ中で床に伏している時、「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた」の聖書の一片が彼の魂を捕えました。彼は、早速イザヤ書53章を読み進めました。彼の中に救い主イエスへの信仰が燃え上がり、貧しいアパートの一室に伏した中で、わずか24日で「メサイア(救い主)」の大作が書き上げられた、と聞きました。
多くの人が、聖書と出会い変えられたのは、「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている」(ヨハ3章18節)とあるように、御子イエスが人生の分水嶺だからです。
友よ。今日も御子イエスによって立ち上がり、彼によって歩いてください。
2章34節 ②
「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。」
イエスの到来は、ある人々に激しい反抗を起こさせるとシメオンが預言しました。それは、イエスの存在が、人々の生死を決定することになるからです。
第二次世界大戦中、ヒトラーは数百万人のユダヤ人虐殺を行いました。なぜユダヤ人だったのかについては種々の意見があります。その中で、ある人がいいました、「ヒトラーのユダヤ人根絶やしの目的は、聖書の神を否定することであった。神の選民(証し人)とされたユダヤ人が滅亡すれば、「神はいない」と証明できる。そして、ヒトラー自身が神になれるからだ…」と。この意見は、的(まと)を射ているように思えます。
東の博士たちが幼子を探してヘロデ王を訪ねた後、ヘロデはベツレヘム周辺の二歳以下の男の子を皆殺しにしました。彼は、自分の地位を守りたがったので、本物の王(神・御子イエス)の到来を恐れたのです。ヘロデ王もヒトラーも、行ったことは同じでした。
友よ。人生は、立つも倒れるも主イエスにかかっています。それならば、自分を神とする自我を倒していただき、イエスを主とする霊の人に建て上げていただいて、「キリストによる神との平和」(ロマ5章1節)に入れていただきましょう。
2章35節
「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
主イエスの来臨は、「…平和の君と呼ばれる」(イザ9章6節)神が来られることですから、人々に救いと平和と希望と愛を与えます。しかし聖書は、その前に激しい戦いが始まることも告げています。
主御自身も、「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。…そうではない…分裂だ」(ルカ12章49~53節)と言われました。それは「血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる諸霊」(エペ6章11.12節)との戦いで、「誰が王か」の主権争いです。
したがって、主イエスを信じる時、サタンと肉(自我)とこの世の力が戦いを挑んできます。その時、人の心にある思いがあらわにされ、自分の無力さを知らされます。
ある友が、病に苦しむ友に、「シオンの娘よ。恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる。ろばの子に乗って」(ヨハ12章15節)のみことばを贈りました。平和の象徴・ロバの子に乗る王とは、罪とサタンと死に対し、無力なあなたに代わり剣や権力でなく、十字架で戦う神のことです。友よ。剣で刺し貫かれるお方は、あなたではなく、常にイエス・キリストです。
2章36~37節
アンナという女預言者がいた。…七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、
シメオンのほかにもイエスの誕生を待つ人がいました。女預言者でアンナと言い、84歳の高齢になるまでこの日を待ち望んでいました。
アンナの結婚生活は七年でした。そして、今84才ですから、7の12倍の年齢です。聖書では、3が神の数字、4が人の数字です。3(神)+4(人)=7と、3×4=12が神の完全数になります。84の数字も単なる数を超えたメッセージに聞こえます。
不完全な人が完全になる方法は、神と組み合わされる(3+4=7・3×4=12)ことによります。そこから、アンナの生涯はすべて神に組み合わされた人生であり、これぞ信仰によって生きる者の姿です。その信仰の人アンナの最後の希望は、救い主にお会いすることでした。
地上の生活を終え、天国で救い主にまみえることは、私たちの最終最高目標です。「今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがその時には、顔と顔とを合わせて見ることになる」(Ⅰコリ13章12節)。富裕と貧困、健康と不健康、これらは肉体を脱ぐ時までの違いです。その先は、顔と顔を合わせて、神にまみえるか、否かだけの違いです。
友よ。最終最高の価値のために今日も歩んでください。
2章40節 ①
幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。
12歳になるまでのイエスの生育記録を、ルカは右のみことばで教えています。
人を創造したお方は子供の教育について、「若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない」(箴22章6節)と教えます。さらに、「父たちよ…。主の教育と訓戒によって育てなさい」(エペ6章4節)とも教えました。これらから、子育てには「訓練」と「教育」が必要であると分かります。その時に重要なことは、親が子の行くべき道に対しての明確な信仰のビジョンを持つことです。
その行くべき道は、高学歴、経済的な豊かさ、地位や名誉、趣味ではなく、健康であることをも超えて、「主の道・主の戒めの道・命の道」、すなわち「キリストの中に生きる者になる」ことです。そのためには、親自身の行く道が明確でなければ、子の訓練と教育はできません。
親である友よ。クリスチャン家庭の多くの子たちが、「キリストの中」から外れた周辺にいる現実を多く見ます。親には、子育てのことで悔いることが多くあるものですが、それらが失敗ではありません。信仰生活の失敗は、今、気づいたこの時から、みことばに従おうとしないことです。なぜなら、親が神に従い、子のために祈るならば、神はその祈りを必ず聞いてくださるからです。
2章40節 ②
幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。
幼子イエスが知恵に満ち、恵みに包まれてたくましく育つのは当然! しかし、この私は神ではなく人ですから、と言いたくなります。
親が子を愛するとは、神の愛に基づいて訓練(養育)し教育することです。アンドリュー・マーレー師は「訓練」について、「子供が命じられたことを、気持ちよく進んでするように習慣づけ、第二の天性となるように教えること」と言い表しました。
信仰を持つ親は、子の生まれながらの性質がいかに不従順で自己中心であるかを見分けます。それに対し、自己否定と、他者に仕えることができるように促し励まします。「予防の一滴は、治療の一トン」と言われるのは本当です。「教育」とは、親に従順に従うという訓練の段階から進んで、自分の判断で、親から神への比率を移していくことです。この時の親は、子供に仕えるために働く神の同労者となります。
友よ。背後にある神の大きな恵みを確信しつつ、与えられた親という天職に取り組んでください。神は、あなたが完全だから子を委ねたのでなく、あなたを完全にするために子を委ねました。そして子の方も、不完全な親のもとでも、自ら神を信じて神の完全に導かれるのです。恐れてはなりません。
2章43節
祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。
12歳の宮参りの帰路、両親は一日分の道のりを行ってから息子がいないことに気づきます。イエスは神殿の境内に残り、学者たちと語り、質問して過ごしていました。
この事件を、イエスの不従順ととるか、それとも親子の信頼を表すと理解するか…。もちろん後者です。両親は、イエスがいつも従順であることを疑わなかったので気づくのが遅れました。母の質問に、「どうしてわたしを探したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを知らないのですか」(49節)と答えた意味は、「お母さんはわたしのことをよく知っています。わたしに知識と啓示を与えてくださった天の父のところ以外、わたしをとどめることができないと、あなたは御存じでしょう。」とも受け取れます。
この年齢は子供から大人へ移行する時期で、イエスは訓練と養育(親が主、子は従)から、教育(子が主・親が従)へ向かう中間に立っていた時期でした。
友よ。親の使命のひとつは子を自立させることで、それは子が自分で神に聴き従う人になることです。しかし、親の力ではできませんが、「その子をここに、わたしのところに連れてきなさい」(マタ17章17節)と主は言われます。
2章49~50節
「わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか」。しかし、両親はその語られた言葉を悟ることができなかった。
それまで従順であった息子イエスの答えを受けとめるのに、両親は戸惑っています。
この時のイエスは、養育と訓練から教育段階へと進む中間にいました。30歳で公生涯に踏み出し、カナで最初の奇跡を起こされた時、母マリアに、「婦人よ。わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」(ヨハ2章4節)と言いました。それは、「お母さん、今までわたしはあなたの子でした。しかし、わたしが天の父の使命を果たすために歩み出したこの時からは違うのです。わたしとあなたは母と子ですが、それ以上に神と人の関係にならねばならないのです。お母さんも、わたしを信じることによって救われねばならない一人の婦人なのです」と。
イエスは、養育と教育を過ぎ完全な大人として歩んでいました。
愛する友よ。だれでも子であり親です。親子ゆえの難しさがありますが、その難しさこそ他人とは持つことのできない貴重な関係です。だからいちばん影響を与えるのは、子が幾つでも、親が幾つでも、やはりあなたです。ほかのだれとよりも、家族との関係に、神に介入していただく必要があります。家族のために祈りましょう。
2章51節
それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮しになった。
イエスは神であり、ヨセフとマリアはあくまでも人ですが、イエスはこの後、公生涯に進むまで両親に仕え(途中でヨセフは他界)、兄弟たちのためにも仕えました。
聖書は、人の不幸の出所を「肉」であると教えます。「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません」(ロマ8章6~8節)と記します。
神の思いに反し、自分を主とする肉が退けられるには、「仕える」ことが必要です。現代は、勉強をするなら皿洗いはしなくてもよい、の風潮があります。勉強は知識であり皿洗いは愛の領域ですから、勉強よりも皿洗い(愛する訓練)がより大切です。真の知恵と知識は「愛し合う」ことで、それには、自分(肉)に死に、相手に仕えることです。
しかし友よ。他者に仕えることは、自分の力ではできません。それは、「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則」(同2節)=「日々己が十字架を負うて我に従え」の御霊の法則によってだけ可能です。今日も、自我に死に、主に生きるための一日です。「わが子よ。主の訓練を軽んじてはなりません」(ヘブ12章5節)を受け取りましょう。
2章52節
イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。
神が人となられた最大の理由は、「人の命には人の命」、しかも罪のない命で償う「罪の贖い」のためでした。それとともに、神であるイエスが人として成長していく記事も、ヨハネから受洗した姿も、弟子や律法学者との接し方も、十字架に向かうことも、復活の姿も、人がどう生きるかの模範でした。
その中で、イエスが「両親に仕えた」(51節)は、特に重要な模範です。「神と人とに愛された」の言葉は、可愛くて素直であったかを超え、「神に仕え、人にも仕えた」とも表現できます。他者に仕えることのできる人は、神に仕えていただいた人です。また、人に仕えることで神に仕える、も真理です。そして、「仕えてもらい・仕える」ことができる者が、本当の知者です。反対に、神を利用し人を自分に仕えさせる人は、愚者となります。
友よ。神に愛されてこそ、自分で自分を愛する者になれます。自分が自分を愛せるのは、自分に価値があると思えるからです。人の価値は、「愛=命」を持つことで、それは神にあります。神に愛された人に、「隣人を愛する」ことが可能となります。「神を愛し、自分を愛し、隣人を愛する」(マコ12章29~31節参照)に心を留めてください。「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」(Ⅰヨハ4章11節)。