キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ルカによる福音書 第19章

19章1~2節

イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。

主がエリコを通られたのは、物乞いの盲人に会うためだけでなく、このザアカイに会うためでもありました。それは、彼も救いを求めていたからです。

後に主は、「 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」(10節)と言われます。ザアカイは、ローマ帝国の権力に身を寄せ、反ユダヤの先鋒を担ぎ、金の亡者となり、徴税人の頭にまでなりました。しかし、彼こそ失われている人でした。

まして、ザアカイと主の出会いから二千年たった今日、エリコから四千キロメートルも離れた場所で偶像礼拝に身をゆだねる日本人は、さらに失われています。しかし主は、こんな日本人をも忘れずに、失われた人に会おうと今日も訪ねてくださいます。

友よ。今も、主はあなたを訪ねておられます。未信者の時は、心の外から戸を叩く主に戸を開きました。その時、主は聖霊によりあなたの内に入ってくださいました。それなのに、今も主に戸を叩かせていませんか。それは、「あなたの神は王となられた」(イザ52章7節)のに、自分が王となり、狭い部屋に主を閉じ込め、聖霊を悲しませているからです。主イエスを、「お助けマン」としてでなく、いつも「王」として迎えてください。

19章3~4節

イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。

背が低いせいで主の姿が見えないので、桑の木に登るザアカイ。このどこかユーモラスな話は、子供も大人も楽しませます。しかし、当の本人は真剣です。

ザアカイが「背が低くて(神を)見ることができない」のは、彼の責任でも親の責任でもありません。同じく、人が神を見ることができないのは、本人と親の責任を超えた原罪のゆえです。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」(ロマ3章23節)。

さらに、「群衆に遮られて」神が見えません。神と人の間に人々が立ちふさがっています。進化論、先祖崇拝と偶像礼拝、民族主義……。教会の中でも、イエスが主とされず人が中心となることは、主イエスと主イエスを求める者の間に人が立ちふさがることです。

自分が背負う罪や、立ちふさがる人々のために主が見えない、と言う友よ。ザアカイは桑の木に登りました。桑の木はイスラエルの象徴で、砂漠でも葉をつけ、年に二度実を結びます。この桑の木こそ、聖書のことでは!(ヨハ1章48節参照) 人々につまずいているならば、「先回りして(人々を避けて)」桑の木(聖書)に登り、それにしがみ付いてください。そこからなら、きっと主イエスが見えてきます。

19章5節

イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」

主は、周りでひしめき合う人々には声をかけず、桑の木の上のザアカイを見つめ、彼の名を呼んで招きました。

「主はとこしえに契約を御心に留められる。千代におよぼすように命じられたみことばを」(詩105・8)とは、「主は、みことばに身を寄せる者に御自分の約束を成就する」とも読めます。

ザアカイが先回りして(人々を乗り越えて)桑の木に登った(聖書にしがみついた)ことこそ、彼が主イエスから声をかけていただけた理由でした。「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」(ヘブ1章1節)。そして、御子について証しをするのが聖書です(ヨハ5章39節参照)。

友よ。神の声を聴くことは難しくありません。聖書のみことばを通して、霊の耳で聴くことができます。それが神から出た声(御心)か否かを見分けるために、命あるメッセージを数多く聴き続けることも重要です。そして、あなたが霊の人になるに従い、間違いなく、深く、毎日、神の御声を聴くことができます。

19章5節

「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」

主はザアカイの名を知っていました。そして、「あなたの家に泊まりたい」とも! 彼は、転がり落ちるように木から降りたことでしょう。

ザアカイはいつも人々から、「裏切り者、守銭奴、自己中心、豚(異邦人)……」と、さげすみと悪意の声をかけられてきました。だから彼は、金と権力を後ろ盾に、人々より高いところに身を置き、人々を見下して生きてきました。

しかし、高いところとは、優越感に浸れるどころか、少し動けば落ちる、不自由で危険なところです。その彼を、主は下から見上げて、丁寧に、慈しみと愛に満ちた声で、「ザアカイ。もう高いところで生きる必要はないから、急いでわたしのところに降りて来なさい」と言ったかのようです。さらに、「ぜひあなたの家に泊まりたい」と付け加えました。

友よ。背伸びし、胸を張って、反り返って生きてきませんでしたか。「破滅に先立つのは心の驕り…」(箴18章12節)であるのに、高いところで生きていませんでしたか。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」(マタ11章28~29節)。さあ、ザアカイなる友よ。高いところから飛び降りて、主の御手に抱きしめていただきましょう。

19章6節

「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」すると彼は、急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。

なんと単純で素直なザアカイさんでしょうか。しかし数秒前までの彼は、複雑で疑い深く、計算高く油断ならない、嫌われ者だったはずでしたが?

ある人が、「イエス様を信じてから単純になれました」と言いました。人に自分を理解してもらおうとすると、複雑で疑い深く、計算高くなるものです。しかし、理解してくれる人の前では、幼子のように単純で素直になれます。人生が複雑で疑い深く、計算高く自己中心だったのは、自分を本当に理解してくれる人に出会わなかったからです。

その出会うべき人こそ、主イエスです。そのお方は、ザアカイを引き降ろすのではなく、御自分が天から降りて、彼の家に泊まられました。ザアカイは、「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ…」(エフェ3章17節)を実行できました。

友よ。「ザアカイ」の名は「純粋」の意ですが、あなたの名は「複雑」では! 信仰が人を単純にするのは、問題や悩みが解決するからではなく、あなた自身が解決される(救われる)からです。「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む」(マタ6章34節)とは、明日の支配者も主だから、主が悩んで(考えて)くださる、ということです。

19章8節

ザアカイは立ち上がって主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」

人はこんなにも大きく、しかも速く、変われるものなのでしょうか。事実、ザアカイは変わり、主に出会った歴史上の人々も生き方が変えられました。

先の金持ちの議員(18章)とザアカイは違いました。議員は、清く正しく生き、自ら救いを作る、富む人でした。ザアカイは、汚れと貪欲に生き、心は貧しく、悲しむ人でした。議員には信仰があり、ザアカイにはありませんが、議員は財産を施すことができず、ザアカイはできました。なぜなら、議員の信仰は自作のものですが、ザアカイの信仰は、神の愛が彼の中に作ったものだからです。信仰は神の愛によって作られ、その愛は人を潔(いさぎよ)くします。

他者に与えるには、

  1. 持っていなければできない
  2. 自分のために得たもの(自分を救うためのもの)は与えられない
  3. 与えて無くなるものは与えられない

…と、マザー・テレサが言ったそうです。

友よ。ザアカイは持てる物を人々に分けましたが、あなたは何を他者に与えていますか。与えていないならば、それは「与えない」からではなく、「与えるものがない」からでは! もっともっと、主に豊かな命の恵みを求めてください。

19章9~10節

「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

ザアカイは主をお迎えして喜びました。しかし、それ以上に喜んだのは、「迷った羊を見つけ、無くした銀貨を見つけ、失った息子を見つけた」(ルカ15章)神御自身では!

神の救いは、「罪を赦されて、永遠の命を持つこと」という定義では不十分です。救いは、「一度の罪の赦しと、その時に得た永遠の命」だけでは表し尽くせません。

救いの最善の定義は、「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、…彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。…わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。」(ヨハ17章21~23節)の中にあります。それは、三位一体の神と「つながり続け、交わり続ける」ことです。それを主御自身が、「わたしにつながっていなさい」(ヨハ15章4節)と言われました。

主をお迎えした友よ。継がりと交わりが途絶えると、命はしぼみ、しぼみ過ぎると失われるものです。だから、お迎えした主をいつまでも家にとどめねばなりません。それは、「イエスを主と信じる」だけでなく、「イエスを主として生きる」ことです。そうでないと、主はあなたから離れねばなりません(否、あなたが主から離れるのですが)。

19章11~15節

「立派な家柄の人」とは主イエスです。「遠い国へ旅立ち、王の位を受けて帰って来る」とは、イエスが昇天して天国に帰り、やがて再臨することを表しています。

マタイ25章にはタラントンのたとえ話がありますが、ここではムナ(ミナ)のたとえ話です。両者は似ているようで違います。タラントンは「賜物」のことで、各自が受け取る量も種類も違います。それで商売をし、多く儲けても少なくても、その分を用いれば同じお褒めの言葉を頂けます。一方、ムナについては、すべての人に同じ一ムナが渡され、それで商売をして稼いだ分の報酬を頂けます。ここから、ムナを「信仰」とすることができます。

神から受けた聖霊の命は、使徒たちも今の私たちも同じです。信仰とは、自分で何かをつくるものではなく、主とあなたをつなぐものです。同じ命を持っているのに、結果に違いが出るのは、主とのつながり方(信仰の用い方・商売)が違うからです。商売とは、神が既に振り込んでくださった恵み(赦し・命・力・愛……)のクレジットカードを、使うか否かです。

友よ。主は神の国に多くの財産を蓄えておられます。主が再臨されるまで、カード(信仰・ムナ)を大いに用い、多くの恵みを引き出して使ってください。

19章13節

「 そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。」

主は、「神の国がすぐにも現れる(11節)」ことを願う人々に、ムナによる商売のたとえ話で、神の国の到来を説明しました。

「神の国は一人の中から始まり、その者たちが集められて教会となり、全世界に及ぶ」と主は言われます。その神の国は、神の中にありますから、人が主イエスと継がり交わることで実現します。神の国は、権勢によってではなく、神の霊による信仰によって作られます。

「神は…永遠を思う心を人に与えられた」(コヘ3章11節)ことこそ、最初の「一ムナ=信仰」です。そして、「わたしが帰って来る(再臨の時)まで、これ(ムナ・信仰)で商売(神と継がり交わること)をしなさい」と主は言われました。

友よ。神のタラントンは各自違いますが、ムナ(信仰)は同じです。タラントンは「御霊の賜物」を作り、ムナは「御霊の実」を作ります。タラントンは「神の子の働きの量」に差をつけ、ムナは用いる量(商売)によって「神の子の質」に差をつけます。タラントン以上にムナが重要です。なぜならムナ(信仰)は、「信仰と、希望と、愛、…その中で最も大いなるものは、愛である」(Ⅰコリ13章13節)と言われる「愛」を、用いる人の中に作るからです。

19章15節

「帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。」

タラントンは、人によって「五・二・一」と渡される量が違いました。しかしムナは、どの人にも同じ一ムナでした。

とかく人の目はタラントン(働き・能力)に向きますが、聖書はムナ(信仰)の方がより大事であることを教えます。それが、「たとえ…、預言…あらゆる知識…信仰(賜物としての)を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」(Ⅰコリ13章1~2節)のみことばです。

ここでは、預言や知識などの賜物を軽んじているのではなく、立ち位置の違いを教えているのです。「聖霊の賜物(異言・預言・知識・知恵・信仰・いやし・奇跡・霊を見分ける……)」は、「聖霊の実(愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・柔和・節制)」という、神の子の人格(愛という「実」)が造られるために必要です。さらに、キリストの体を造るためにも、賜物(使徒・牧師・奉仕……)が必要です。

友よ。生まれ持った賜物(性別・民族・能力・肉体・健康・家族……)の違いには越え難い壁がありますが、信仰(ムナ)はだれでも、どこでも、同じに用いることができます。信仰というムナは、神に人を直結させますから、あらゆる差を取り除き、同じ実をつけさせます。働き以上に、実を求め続けてください。

19章16節

「 最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』と言った。」

一ムナずつ渡された中の一人が来て、「一ムナで十ムナもうけました」と報告しました。パチパチパチ! ……ですが、何をもうけたのでしょうか。

二人の人がいた。Aは、親から引き継いだ財産も多く、彼も多くの賜物を持ち、大きな働きをしていた。しかし、人格は自己中心で、他者には良い影響を与えていなかった。Bは、何の財産もなく、能力も乏しく、病もあった。しかし、いつも隣人を愛し、自分を犠牲にして生き、皆に喜ばれていた。

同じことが神の子たちにも当てはまります。賜物が多くあっても、霊の命(御霊の実)の貧しい人がおり、一方で、賜物に乏しくても、命の豊かな人(愛)がいます。一ムナで十ムナをもうけた人は後者です。彼は神の子の命(一ムナ)を十分に受けとり、神の子として聖別されて生きた(十ムナをもうけた)人です。

神の子である友よ。「神の子である」ことと、「神の子として生きる」ことには違いがあります。神の命が、肉の命に取って代わらねばなりません。「肉に死んで霊に生きる」(ガラ2章19~20節参照)ために、「自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」(マコ8章34節)こそ、ムナを用いる商売の秘訣です。

19章18節

「主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』」

タラントンでもうけた人に対する報酬は、「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実だったから、多くのものを管理させよう」(マタ25章14~30節)と、全員同じでした。しかし、ムナに対する報酬は、十に対しては十の町、五には五つの町、と差がつけられました。

神の子に与えられる報酬が「十や五の町の支配権」と言われると、世の基準を思い出しますが、実際には、天国では全く逆です。主は、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者…すべての人の僕になりなさい。…人の子は仕えられるためではなく仕えるため、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た…」(マコ10章43~45節)と言われました。

十ムナもうけた人への十の町の支配権、五ムナの人への五つの町の支配権の報酬とは、それだけ多くの人々に「仕える・愛する」という「任務をゆだねられる」という恵みです。

友よ。あなたが天国に着いた時、「まずはベッドで休んで、元気になってください」と言われるのと、「良く来てくださいました。地上で神の栄光を表したあなたに、ここでも多くの仕事をお願いします」と言われるのでは、どちらが良いですか。前者は未熟な神の子であり、後者は地上で信仰を十分に用いた人です。天国でも神の重労働に就きたいものです。

19章20節

「ほかの者が来て言った。『御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。』」

タラントン(賜物)でもムナ(信仰)でも、与えられたのに用いなかった者たちがいました。結局、両方とも「取り上げられ」てしまいますが、それは厳しいでしょうか?

信仰に対する最初の報酬は、罪の赦しと神の子の命です。しかし、神の子となっても、多くのクリスチャンは「肉の人」(Ⅰコリ3章3節)として生きています。それは、タラントンを土の中に隠し、ムナを布で包み、それらを用いないからです。

神の子への次の報酬は、ムナを用いて主イエスに服従して得る、「御霊に満たされ(エフェ5章18節)・御霊の導きによって歩む(ガラ5章16節)」聖別の恵みです。そこで、ムナを布に包んでしまうことは、聖霊を閉じ込め、働けなくし、悲しませることです(エフェ4章30節参照)。すると、自分の力で信仰生活をすることになり、やがて信仰に失望し、世の人に戻って行きます。それが、「取り上げられる」(24節)ことです。

友よ。あなたが与えられた一ムナは、今、何ムナに増えていますか。信仰は、使わないと自分の中に入って小さくなり、使うと主イエスの中に入って大きくなります。ムナは、信仰から信仰へと、献身から献身へと進ませる命です。

19章16~18節

『…一ムナで十ムナもうけました』と言った。主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』二番目の者が来て、『御主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました』と言った。主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。

賜物(タラントン)そのものは増やせませんが、信仰(ムナ)は増やすことができます。

信仰には、「自分を神にゆだねるか否か」の決断が必要です。兄と父を欺いて逃げたヤコブは、叔父ラバンに20年仕えました。そして、羊や山羊などの財産と共に逃げますが、ラバンに追いつかれます。そこで二人は、石塚を積み、両者の境界線の記念碑としました。それは、ヤコブがこの世(ラバンの地)に戻らず、神の地(イスラエル)で生きる、という決意表明でした。この石塚は、神がヤコブを直接取り扱う許可証となり、この時から彼に天使の「マハナイム(二つの陣営)」(創32章2節)が臨みます。一つの陣営は、ヤコブを砕くための陣、もう一つは、ヤコブを支える陣(逃れの道)でした。間もなく、ヤコブは神に腿の関節を外され、神と顔と顔を合わせるペヌエルを経験し、信仰の杖・ムナによって歩くようになりました。

友よ。一ムナは、「神よ、私を取り扱ってください」という許可証になります。すると神は時には試練を与え、自分の命で生きる者から神の命で生きる者へと、人を造り変えます。この経験が増えることが、ムナが増されてゆくことなのです。

19章26節

「主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。』」

右の言葉は、ムナに関して語られた後に記されていますから、「持っている・いない」とは「信仰・ムナ」のことだと分かります。

信仰は、主イエスと「継がり交わる」ために必要不可欠な手段です。したがって、一ムナより五ムナ、五ムナより十ムナある人が、より深く交わることができます。ただし、信仰とは、自分が主を持つことではなく、主に自分を持っていただくことです。よって、冒頭のみことばは、「だれでも、イエスを主として従う人は、さらに主に自分を持っていただける。しかし、自分を主としてイエスを主として従わない人は、今ある恵みさえ失う」とも読めます。

それは、「わたしが王となるのを望まなかったあの敵ども…」(17節)とのみことばからも知ることができます。

友よ。あなたは確実に一ムナを持っています。その一ムナを用いて二ムナを、二ムナを用いて三ムナを得ることができ、その先に五ムナ、十ムナと増やすこともできます。それは、ただただイエスを主として生きようとする者への神の報酬です。「主の方に向き直れば、覆いは取り去られ、…栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます」(Ⅱコリ3章16~18節)。

19章28節

イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。

主は、イスラエルの王になろうと、エルサレムに向かって歩み出します。しかしそれは、権力と武力による王になるためではなく、「平和の君(王)」(イザ9章5節)になるためでした。

平和の王になる、と聞くと安心しますが、事実は逆です。平和とは、「両者の正しい関係」のことです。主は、神と人の間に平和をつくるために、それを阻む「敵意」(創3章15節)を取り除くために来られました。それは、武力によってではなく、愛によってです。そのためには、御自分の十字架によって、罪の代価を払わねばなりません。

「実に、キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、…こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて、平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」(エフェ2章14~16節)。

友よ。あなたの平和を、健康やお金や家族関係の中に作ろうとしていませんか。魂の「平和」は、「神との正しい関係」によってのみ作られます。その正しい関係とは、あなたというエルサレム(霊の住まい・神の都)に、「イエスを主・王」としてお迎えすることです。ですからあなたは、「主よ、今日も私はあなたを王・主とします」という祈りで一日を始めてください。

19章30節

「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。」

王ならば、栗毛か白の軍馬が似合うはずですが、主イエスが所望したのは子ろばでした。

イスラエル民族をバビロンから解放したペルシャ王の名は「キュロス」(イザ44章28節)でした。実に、ろばに乗ったキュロス王の壁画が今も残っているとか。

罪の解放者イエスも、「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられる者。高ぶることなく、ろばに乗って」(ゼカ9章9節)と記されています。ろばに乗って来臨された主は、人の罪を赦して神と和解させますが、後に世界を完成するために再臨されるお方でもあります。

その時に来られる王なるイエスは、罪を赦すためではなく、罪を裁くために白馬に乗って来られます。「…『誠実』と『真実』と呼ばれ、正義をもって裁き、また戦われる。…血に染まった衣を身にまとって…『神の言葉』…『王の王』という名が記されていた」(黙19章11~16節)。

友よ。罪の「裁き主」は馬に乗って来られ、罪の「赦し主」はろばに乗って来られます。パウロは、「今やこのキリストを通して和解させていただいたからです」(ロマ5章11節)と言いました。馬に乗る主に出会う前に、ろばに乗るお方の前で、日々罪を悔い改めましょう。たとえつまずき転んでも、目だけは主に向け続けてください。これが、悔い改めです。

19章30節

「まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。」

ろばに乗ってエルサレムに入城されるイエスは、平和の王です。そして、主が乗られたろばは、神の子たちを表しています。

だれも乗ったことのないろば
ここに二心のない清さを見ます。「あの人にもイエス様にも」ではなく、「主イエスにのみ」仕えたいと願う心の持ち主です。
つながれていた
自分の好きなことをするのではなく、自分がしなければならないことに自分をつないでいる人です。その人は、主人のために、あえて自分の不自由を良しとする(僕の心・自我に死ぬ)者です。
子ろば
自分を小さな僕と思う謙遜な人です。謙遜とは、真理に従おうとする心の状態です。「名誉に先立つのは謙遜」(箴18章)。

友よ。あなたは、「私は、清く、自我に死ぬ、謙遜なろばでは全くありません」と言いますか。それならばなおさら、主イエスに乗っていただき、コントロールしていただかねばなりません。最初から良いろば(僕)はいません。主をお乗せしてこそ、良いろばになれるのです。

19章31節

「もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」

ろばには所有者がおり、主や弟子たちのものではありませんでした。ろばは、突如、自分の主人ではないお方をお乗せすることになりました。

人間である以上、誰でも負わねばならない重荷があります。食べるために働き、結婚すれば、それに伴う重荷も増えます。人は死ぬまで重荷から解放されませんが、「負いたければ負い、嫌なら降ろす」ことを自分で選択できる重荷もあります。「主イエスをお乗せすること」がその典型的な一つで、「教会学校の先生、さまざまな奉仕、献金…」などは、選択できる重荷です。

このろばは、主イエスをエルサレムに運ぶために呼ばれました。エルサレム、そこは、人々を罪と死から解放する十字架の場所です。人々を解放するために、イエスをお乗せして行く、神の子の使命がここにあります。

友よ。悲しみ悩む人の所へ、あなた一人が行ってがんばってみても、何もできません。しかし、そのあなたが、主をお乗せしていたらどうでしょうか。実は、その人を助けたいとあなたが願っている以上に、愛なる神はもっとそう願っています。あなたが主イエスを必要とする以前に、主があなたを必要としていました。悲しむ者に会いに行くために、「主があなたをお入り用(必要)なのです」。

19章35節

子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。

小さな子ろばは、大きな主イエスをお乗せしました。

田舎の小さな教会の老兄弟が、「私は若い時に救われ、すぐに教会学校教師や会計係になり、無牧になった時は週報を作り、時にはメッセージさえもしなければなりませんでした。しかし、この重荷が、私を神から離さなかったのです」と告白しました。だれもが負わねばならない人生の重荷のほかに、主をお乗せする重荷が彼に加えられましたが、それが彼を自由にしました。

世の重荷が無いことが自由なのではなく、主に束縛されるところに真の自由があります。

罪と死からの自由
主があなたの重荷(罪・死)を担われます。
世からの自由
お金、因習、血族が基準ではなく、神の真理が自由を与えます。
肉からの自由
自分をいちばん束縛しているのは、自分自身の肉です。「自分の内には…善が住んでいない…善をなそうとする意志はあるが、それを実行できない」からです。

「…従って、今や、…霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放した」(ロマ7章17~8章3節参照)のです。主をお乗せすることで、あなたが主と密着させられます。そこは、主の御霊の自由の中です(Ⅱコリ3章17節参照)。

友よ。主は重くありません。主があなたを持ち上げているのですから。

19章36節

イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。

民は、ろばに乗る主を歓呼して迎え、大事な上着を、ろばの足に踏まれるのも構わず道に敷き、「ホサナ、ホサナ(主よ、救い給え)」と賛美しました。

当時の儀礼は分かりませんが、王が通る道に上着を敷く霊的意味は分かります。上着はその人を守り支えるものであり、地位や肩書き、財産、さらに家族や周りの人々、神からの賜物さえもそれに相当します。それを脱いで道に敷き、その上を王に歩いてもらうことは、偶像を捨てて本当の王をお迎えするにふさわしい行為です。

再臨の時に、「畑にいる者は、上着を取りに戻るな」(マタ24章18節)との主の言葉は、「今までの生き方(上着)を取り戻すな。新しく再臨の主によって生きよ」とも受け取れる、暗示に富んだ主の命令です。

信仰の友よ。「信仰とは、自分の上着の上に、さらに神の上着を重ねて着ることだ」と考えていませんか。それは、イエスに自分の上着を着せて、自分の願いを実現しようとする御利益信仰です。自分の上着を主の通る道に敷き、それを主の足に踏んでいただきましょう。それは、汚れることでも、無意味にされることでもなく、むしろあなたが尊い者とされることです。イエスを王とすると、すべては聖なるものに変えられます。

19章38節

「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光。」

人々は「ホサナ」と賛美して主イエスを迎えました。「讃美歌を歌うこと」はだれでもできますが、「賛美すること」は簡単ではありません。

神は人に、芸術という賜物を与えました。とくに音楽は、神の霊と人の心をつなぐ媒体の一つとしての役割を与えられ、知性・感情・意思を超えた、聖霊による神との交わりに導きます。

人の喜び・悲しみ・希望を音楽で表現するだけならば、それはただの音楽です。しかし、真の神を知り、御心を受け取り、その神に向かって、感謝と喜びと願いをメロディーや歌や楽器によって表現するならば、それは神への賛美となります。

賛美は、歌の上手下手を超え、より深く主を知ることに比例して出てきます。「屠られた小羊は、…賛美を受けるにふさわしい方です」(黙5章12節)。主イエスの御人格・教え・十字架・復活・慰め・力などを知れば知るほど、賛美をすることができます。

賛美する友よ。救われたことを感謝するのも、力強い御業や偉大な御力をたたえるのも、悲しみを主に訴えるのも、賛美です。しかし、喜べず、悲しみと苦しみの中で、それでも涙声を絞って、「主よ、それでも私はあなたに従います」と告白することは、より真実で大きな賛美です。何よりも、「イエスを主」として生きることは、最大の賛美です。

19章39~40節

「『先生、お弟子たちを叱ってください』と言った。イエスはお答えになった。『言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。』」

ファリサイ派の人々は、主イエスが人々から「ホサナ」と叫ばれることを嫌いました。

それに対して主は、人々がホサナと叫ばなければ「石が叫ぶ」と言われます。木を切り過ぎると山が叫び、海を汚染すると魚たちが叫び、化石燃料を湯水のごとく使うと大気が叫びます。それらが異常気象や災害となり、日ごろ声を出さず主張しないものが叫びだします。

殺人者カインに対して「弟の血が土の中から…叫び」(創4章10節参照)、親がまことの神を主とせずに生きると、「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に、三代、四代までも問う」(出20章5節)、と言われるように、罪が叫びだします。それは、親の罪のゆえに子が苦しみ、子の罪のゆえに孫が悲しみ叫び続けねばならないからです。ところで、その人々は何と叫ぶのでしょうか。それは、「神さま、私たちを助けてください」ではないでしょうか。

友よ。あなたの石(家族、知人や友人、職場、健康……)に叫ばせていませんか。石の叫びが聞こえたなら、あなたは石に叫び返さず(罪に対し罪をもって応えず)、ただ主に向かって「ホサナ(主よ、今、救い給え)」と叫んでください。主に叫ぶと、主イエスは十字架上から、「彼らの罪を赦し給え」と、父なる神に執り成しの叫び声をあげてくださいます。

19章41節

エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、

主イエスが涙を流された時が二回あることを、聖書は記しています。最初はラザロの時で、次がこの個所、エルサレムを目前にした時です。

ラザロの時にも(ヨハ11章)、エルサレムに向かうこの時にも、主の涙には共通点があります。ラザロの時の涙は、ラザロへの憐れみからだけではありませんでした。主はそこで二度も「心に憤りを覚え」(33・38節)られました。それは、死を招く「罪」に対してでした。

「死のとげは罪であり、罪の力は律法です」(Ⅰコリ56節)から、罪が死を生み、その罪は律法によって表されます。律法主義は福音の反対側にあり、神を信じず自分の命で生きることです。人がイエスを神と信じて、御心に従って生きるならば、罪は消され、死も無力になります。神が祝福した都なのに、エルサレムは律法主義に支配され、救い主イエスを拒み続けます。主の涙は、その事への悲しみの涙であり、罪を見つめての涙でした。

友よ。「キリスト教」と言われるものが、その命であり、すべてのすべてである「キリスト御自身」は捨てている、「ものの見えない案内人」になっていないでしょうか。「ぶよ一匹(小さなこと・律法)さえも漉して除く(関心がある)が、らくだ(大きなこと・主)は飲み込む(関心がない)」(マタ23章24節)者になってはなりません。

19章41~42節

エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。」

人々が主を拒む理由を、主御自身が語っています。「それは、平和への道が何であるかをわきまえず、それが見えないからだ」と。

国家間や家族間の平和を超えた、もっと根本的な平和が、神との間に必要です。神との平和が人と人の平和をつくり、人と人の平和が国家と国家の平和をつくります。普通、両者の利害のバランスを取ることで平和をつくろうとしますが、それは妥協であり、必ず崩れます。

平和は真理によってつくられます。真理とは「正しい道」のことです。それを主イエスがつくってくださいました。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。…キリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」(エフェ2章14~16節)。

友よ。「平和の君」と呼ばれる主イエスがつくる平和は、十字架による平和です。妥協でも、利害の共有でも、長い物に巻かれるのでもありません。罪の代価である十字架を受け取り、聖霊に支配していただくことです。平和の道は、「あの方(主)は栄え、わたし(あなた)は衰えねばならない」(ヨハ3章30節)のように、神の御心に自分を従わせるところにつくられます。

19章43~44節

「…時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、…それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」

この預言を主が語られてから約40年後に、この預言が成就し、神殿どころかユダヤ国家が無くなるとは、だれも信じられなかったでしょう。

事実、AC70年に、ローマの将軍ティトスにより、神殿も城壁も破壊されました。さらに、イスラエルからの追放令が出されて、ユダヤ民族は離散し、第二次大戦終了の3年後・1948年までの約1800年間、彼らは亡国の民となりました。

その理由は、「神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである」(44節)とあります。聖書の預言には、救い主来臨のように、成就することへ備えさせる預言と、エルサレム陥落を成就させないために「悔い改めを迫る警告」としての預言があります。すべては神の御業ですが、神は一方的ではなく、人との対話(応答・信仰)の中で最善を行われるお方です。

友よ。どんな堅固なものでも、人の業によるものは壊れます。律法主義という、行いや形だけの信仰も、敵の攻撃によって崩壊します。物や制度や知識は崩れますが、主との人格的な継がりと交わりは壊れません。なぜなら、神の命がそれを守るからです。「岩(主)の上に家(人生)を建て」てください(マタ7章)。

19章45~46節

イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、彼らに言われた。「…『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』…あなたたちはそれを強盗の巣にした。」

イエスは怒り、「両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒され(マタイ)」、「縄で鞭を作り(ヨハネ)」、商売する者たちを追い出しました。

神殿に納めるお金は半シュケル硬貨に両替され、自分で持ち込む鳩は傷物とされます。礼拝に来た人々は、両替でごまかされ、市場価格より何割か高値の鳩を買わされます。両替人や鳩を売る者たちは、礼拝に集った者の純粋な霊の思いを、不条理な行為で肉の心へ引き下げていました。神殿は、神を礼拝する所から、商売の場と化していました。

主の怒りは、「祈りの家が、強盗の巣にされること」へ向けられます。今日の教会も、祈りの場ではなく、世の制度が幅を利かすところとなっては困ります。

友よ。あなた自身が、「神の神殿」(Ⅰコリ3章16節)であることを忘れていませんか。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神を愛せよ」(申6章5節)とは、「あなたの全存在をかけて神を礼拝せよ」という意味です。聖霊はあなたの中にいますが、あなたの心と体が聖別されていないと、霊だけでは本当の礼拝はできません。主に宮清めをしていただかねばならないのは、まず、自分自身です。

19章47~48節

イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、どうすることもできなかった。民衆が皆、…イエスの話に聞き入っていたからである。

 主が民に話している間にも、祭司長、律法学者、民の指導者たちはイエスを殺そうと謀っていました。それは、民の心が自分たちから離れ、主イエスに向かって行ったからです。

《故・金田福一師より》

「…信仰を誤解していないでしょうか。教会に来ると牧師や信徒の方に親切にしてもらって、美しい交わりの中に入れられます。しかし、それは社交です。信仰ではありません。教会での横の交わりを信仰と思っている人は、壁にぶつかり、家庭で…仕事で…教会員につまずき…信仰が音を立てて崩れていくことになります。信仰はイエス様に直接にお会いし、一対一の関係を持つことです。横の交わりの社交では、まさかの時は役立ちません」。

人々は、それまで横の話(祭司長・律法学者の教え)を聞かされてきましたが、求めていたのは縦の話(神の言葉)でした。

友よ。あなたは誰の言葉を求めていますか。有名な牧師、博識と肩書きを持つ人の解釈、「罪の悔い改め」抜きの暖かく聞こえる福音、自己肯定の教え……でしょうか。それらも、横からの言葉です。主が聖霊を通して、「罪について、義について、裁きについて」(ヨハ16章8節)上から語られる言葉を何よりも求め続けてください。

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