18章2~3節
「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。」
ここから主は、気を落とさずに絶えず祈ることを、裁判官とやもめの関係から教えます。裁判官は神の立場、やもめは人の立場を表しますが、両者の言動はかなり常識外れに見えます。
やもめの具体的な問題は不明ですが、彼女自身の手に負えないことであるのは確かです。
問題の大きさを、自分で解決できることは「小」、周りの人々の助けを得れば解決できるものは「中」、人に不可能なことは「大」と定義できます。この定義を理解することが大事です。なぜなら、問題を小・中・大のどれと判断するかによって、解決方法が違ってくるからです。
子供の小さな盗みでも、小・中・大と見方は分かれます。それを子供の心の問題と見るなら「小」、親子関係の問題と見るなら「中」、霊的な問題と見るなら「大」です。小ならば子供を叱り、中ならば互いに話し合い、大ならば神のところに行き、神に依り頼むほかありません。
友よ。出来事を霊の問題と見るならば、人には解決できないので、神(裁判官)のもとへ持っていかねばなりません。事実、問題は神と自分の関係から派生していますから、あらゆることで祈りが必要です。実に、昼夜求める非常識なやもめこそ、霊的常識の持ち主でした。「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来る」(ヤコ1章16節)からです
18章4~5節
「裁判官は…『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない…。しかし、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと…わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」
主イエスは最高の文学者でもあり、この物語の中では、神を恐れず人を人とも思わない、御自分と真逆の人を登場させることで、御自分の心を知らせようとします。
やもめは激しく執拗に求め続け、ついに悪徳お代官様から自分のためになるお裁きを引き出しました。お見事(?)。ある人曰く、「人の神への祈りほどの不条理はない」と。なぜなら、「私は正しいのに、不利益や不条理を受けています。どうか正しい判決を下し、守ってください」ではなく、「神様、私は自己中心で、殺人も、姦淫も、盗みもしてきました。だから、私の罪のためにあなたに死んでいただき、私を天国に入れてください」というものだからです。
「キリストは、…大祭司として、…雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」(ヘブ9章11~12節)。
友よ。不条理な祈りを受け入れるのが本当の神です。それはアガペーの愛以外にありません。自己中心な裁判官は自分のために行動しますが、義の大祭司イエスは御自分を捨ててあなたのために行動します。さらに、主イエスなる裁判官は、やもめ(あなた)が御自分を困らせるほど求めてくるのを、本当は喜んでいます。なぜなら、御自分を信頼して求めてくるからです。
18章7節
「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。」
自己中心な裁判官が自分のためにやもめの利益になる裁判をしたのであれば、「一人も滅びることなく救いたいと願う神が、祈る者の祈りを聞き入れないことがあろうか」が、この物語の結論です。
世には裁判官と弁護人がいます。両者は反対の方向から一人の人を見つめ、裁き、弁護します。しかし、弁護人だからといって、その人の罪や借財を代わりに払う訳ではありません。
主イエスは裁き主であり弁護人ですから、裁判官であり弁護士です。主は最初に弁護人となり、弁護される人の罪を御自分が引き受けます。そして、罪人に代わって裁判官の所へ行き、「どうぞ私を罰してください」と言います。それこそが、「神(父)が、神(御子)を裁いた」十字架でした。だから、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マコ15章34節)と、弁護人になったイエスは叫ばれました。
友よ。「神は速やかに(あなたの罪を御自分が引き受けて)裁いてくださる」(8節)、愛なるお方です。ですから、「昼も夜も、気を落とさず、叫び求めよ(絶えず祈りなさい)」が、物語のさらなる結論です。
18章10節
「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。」
ファリサイ派の人と徴税人の二人の姿は、神の前における人の姿を浮き彫りにして見せてくれます。
ファリサイ派の人と徴税人は、「ユダヤ宗教家」と「宗教を捨てた人」、「祭壇の前に立ち」と「遠く離れて立ち」、「罪人のようでない自分を感謝」と「罪人の私を」、「週に二度断食し十分の一を献げ」と「胸を打ちながら…罪人の私を憐れんでください」、と対照的です。
ファリサイ派の人は立派な人に見え、本人も自信に満ちています。徴税人は近づき難い荒くれ者に見えます。両者のいちばんの違いは、ファリサイ派の人は自分を義人だと信じており、徴税人は自分を罪人だと思っていることです。
しかし、人が見る義人と罪人は、神の目から見ると逆転します。そして、神の贖いは「正しい人を招くためではなく、罪人を招くため」(マタ9章13節)です。
友よ。義人と罪人を分ける基準は何でしょうか。義人とは、神にかかわっていただける人であり、自分を罪人と考える人です。罪人とは、神にかかわってもらえない人であり、自分を義人と信じる人です。なぜなら、罪人は主イエスを必要とし、義人は必要としないからです。神にかかわっていただけない義人にならず、神にかかわっていただける罪人でいてください。
18章11節
ファリサイ派の人は…祈った。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。」
このファリサイ派の人はどこを向いて、誰に祈っているのでしょうか。
彼は、神に心を向けるのではなく、後方で自分の罪に呻く徴税人の大声に耳を傾けているように見えます。徴税人の悔い改めの声が耳に入るごとに、このファリサイ人は、自分が義人であるという確信を増していたことでしょう。彼の本当の救い主は、神ではなく、後ろで胸をたたき叫ぶ徴税人では? なぜなら、彼は徴税人と比較することで自分を救っているからです。
さらに、「わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」(12節)と、行いによっても自分を救っています。彼は正統派ユダヤ人で宗教家、律法を守り、断食も献金も落ち度なし……。しかし、彼は救われていません。なぜなら、神ではなく人を見ているからです。
さまざまのことが気になる友よ。あなたが見ているのは、教会、牧師、兄弟姉妹、奉仕、礼拝や集会などのキリスト教ですか、それともキリスト御自身ですか。ファリサイ派の人は教会を見、徴税人は神だけを見ていました。
主のみことば、「地の果てのすべての人々よ、わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない」(イザ45章22節)に心を集中してください。
18章14節
「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ。」、へりくだる者は高められる
ファリサイ派の人は人前で、徴税人は遠く立ち、神に祈りました。救われたのは徴税人で、ファリサイ派の人ではないと主が明言します。理由は「高慢」と「へりくだり」にありました。
すると、ファリサイ派の人は高慢で、徴税人は謙遜、となりますが、その違いは何でしょうか。徴税人は自己申告したように罪人ですし、ファリサイ派の人も自分を義とする罪人です。ただ、徴税人は罪と戦っていますが、ファリサイ派の人は罪を是認して戦いません。
アダムとエバは、善悪を知る木を通して善と悪を知っていましたが、神の御心よりも自分の願い(罪)を是認してしまいました。「戦う」と「是認する」の違いの根底には、神によって生きるか、それとも自分を信じて生きるか、の違いがあります。罪と戦う者は「神」を求め、罪を是認する者は「人」を求めます。
友よ。人の正しい行為は、ひたすら神を求めることです。それが徴税人の中にあった謙遜でした。反対に、神を必要としないで自分で生きることが高慢です。どんなに深刻な罪を抱えていても神を求める人は「高められ(神が御自分のもとへ導き)」、神を求めない者は「低くされ(人の世界にとどまり)」ます。
18章16節
イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。
主はすべての子供たちを祝福したいと願っています。しかし、多くの子供たちは主のもとに行けないまま大人になります。弟子たちが子供を退けたように、その原因は大人では?
神の国に入るのは信仰によってです。信仰を持つことにかけては、子供は名人です。
子供の特徴は…
友よ。子の人格が親に作られるように、子の信仰も神によって作られるものです。しかし、親が直接信仰を与えることはできません。大人の仕事は、愛と真理(聖書)によって、子供を主のもとに連れて行くことです。
18章16節 ①
「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」
主のもとに来る子供たちを叱る弟子たちを、主はたしなめました。
幼子の特徴と、信仰を持つことの姿勢が似ているだけに、子供は親に左右されます。親は神から子供をゆだねられました。その子は「養育」と「教育」を受けて成人します。
養育とは、親が主となり子が親に従うことですから、それにより、親の生き方と価値観が子供に植え付けられます。子は、親の愛と権威と価値観を受け取って、自分のアイデンティティーを作り上げていきます。
だからこそ、親はイエスを主として生活していなければなりません。それでこそ、子供の主(親)となって、子供を神のもとに連れて行くことができます。イエスを主とする親に養育された子は、親を通して神を敬い、イエスのもとに行くことができます。
私の子供は既に成長し、もう手遅れ、と思っている友よ。諦めてはなりません。死ぬまで親は親です。胸に抱きしめ、手をつないで歩き、食事を共にして主の御もとへ連れて行く時期が過ぎても、なお一つの方法は今も健在です。それは、祈りによって主の御もとに連れて行くことです。親の使命は、まだ果たせます!
18章16節 ②
「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」
主は、子供たちが御自分を神と信じることを、どれほど待っていることでしょうか。それには、子供たちを主イエスのもとに連れて行く人が必要です。
神は親に子供をゆだねられました。親のいちばんの仕事は、子供を主のもとに連れて行くことです。子が小さい時は「養育」せねばなりません。養育期を終えると、子供の「教育」に移ります。養育期は「親が主で子は従」ですが、教育期は「子が主で親は従」とならねばなりません。幼い時は親が前で引っ張りますが、青年になってからの親は後ろで支える存在です。
子供たちは青年期に入ってから、生きる喜びを持てない・将来への不安・自分の存在が分からない・愛せない……などの、人生の痛みと苦しみに直面します。さらに、伴侶を得て子供が生まれて自分が親になると、今度は親として迷い、痛み、苦しみます。
主に先に救われた友よ。子たちは青年時代にも大人になってからも、人生の模範を求めています。あなたこそ、それをだれよりもよく示すことができます。なぜなら、神を信じる親こそ身近な模範となれるからです。だから、子供への教育は終わっていません。彼らに後ろから声をかけられるのは、親であるあなたです。
18章17節
「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
子供のようであれば神の国に入れる、ではなく、「子供のように受け入れる者」が神の国に入る、と言われていることに注意が必要です。
神の国に入るには神の命を持つ必要があります。それを聖書は、「この救いは、聖霊によって(神の御業によって)新しく生まれさせ(神の子の命を与え)、新たに造りかえる洗い(信仰)を通して実現したのです」(テト3章5節)と記します。
主御自身も、「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」とニコデモに言われました。命は、概念でも物質的でも生物的でも知識でもありません。それは、信じることです。信じることは信頼することであり、それはゆだねることでもあります。英語のビリーブは「知的同意」を意味しますが、「信じて救われる」と言うときの「信じる」は「ゆだねる」を意味します。子供は親に自分をゆだねて、物心共に満たされて生きています。したがって、「子供のように」とは、神に自分をゆだね切ることです。
子供のようになれない友よ。相手の愛を確かめるメーターは、与えられた犠牲の量です。「父は独り子を、主イエスは御自分の命を」……これでも、まだゆだね(信じ)られませんか。
18章18節
ある議員がイエスに、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた。
主が「子供のように……」と語られてからすぐに、救いを受け取れない「大人」の代名詞のような、金持ちの議員が登場します。彼こそ大人の中の大人(?)です。
子供は、「単純に受け入れ」、「ゆだねる名人」で、「計算をしません」でした。しかし大人は、
命は、互いにゆだね合うところに存在し、個人の中にはないものです。まずは神の愛を受け取り、信頼してゆだね、その先がどうなろうとも相手にゆだね続ける者に、命がとどまります
さらに彼は、多数の中で生きる「議員」であり、自分の力で生きられる「青年(マタ19章22節)」であり、人生を思い通りに動かせる「金持ち」でした。
友よ。私たちがこの世で、皆に合わせられず、力がなく、物にも頼れず、「子供のように」生きる以外にないことを感謝しましょう。神の救いは、神に何かをする者ではなく、神に御業を行っていただく者が受け取れるからです。
18章19節
イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」
主イエスを「善い先生」と呼んだ金持ちの議員に対し、主は、「善い方は神だけだ」と冷たく答えているように見えます、が。
今日でも、多くの人が主イエスを「善い先生」と呼んでいますが、その真意は「善い人(先生)」であって、「イエスは主(神)」(フィリ2章11節)ではありません。
主は金持ちの議員に対し、「あなたの間違いは、わたしを『善い先生』と言うところにある」と言っているかのようです。主イエスがどのように教え、どんな奇跡を起こされたかに関心があっても、ただの「善い先生」と見るのであれば、救いは起こりません。聖書のみことばの理解が不十分であっても、「イエスは主」と信じるならば救われます。そして、それが分かるのは知識や経験によってではなく、「聖霊によって」(Ⅰコリ12章3節)です。
友よ。聖書は、「初めに言があった(初めにイエスがおられた)。言(イエス)は神と共にあった(父なる神と共におられた)。言は神であった(イエスは神であった)」(ヨハ1章1節)ことを伝えます。信仰は、イエスを神と信じることから始まり、イエスを主として生きることで完成されます。
18章20節
「『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」
議員は、イエスを「善い先生」と呼び、次に、「何をすれば永遠の命を受け継げるか」と問いました。それに対し、主は律法のありきたりな教えを持ち出しましたが、その真意は?
主イエスが「善い先生」と分かっても救いは得られず、次の「何をしたら救われるか」の問いも救いには役立ちません。パウロは、「…律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です」(ロマ3章21~22節)と言い、さらに、「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による…」(28節)と言いました。
預言や律法を知ることで救われるのではなく、預言(神が人となって来られた)と律法(罪の贖いによる義=十字架)を成就したイエスを信じることで救われるのです。
友よ。あなたも、「何をすれば…」という考えに支配され、律法の一つひとつを自分で守ろうとしていませんか。救いは自分ではつくれないことを知り、主に自分を丸投げしましょう。すると主は、あなたの犯した罪の赦しと、神の御心の戒めを守る力を同時に与えてくださいます。戒めを守るから救われるのではなく、救われたから戒めを守ることができるのです。
18章21節
すると議員は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。
この議員の返答は、何という「自信」、それとも何という「高慢」、あるいは何という「無知」でしょうか。
しかし、彼に向かって高慢とか無知とか言うことはできません。なぜなら、彼は信仰深い親を持ち、物心ついた時から律法を教えられて育ち、彼も親の教えに忠実に一生懸命に努めてきたと思えるからです。
問題は、「人の知識や努力では、律法を守れない」ということを彼に教えてくれる人がいなかったことです。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない」(ロマ3章10~12節)。今日も、「人は努力すれば報われ、救われる」と教えられ続けています。しかし、「人は罪人であり、良いものは何もない」とはだれも教えません。
友よ。可能思考や積極思考は人間の高慢から出ているのではないでしょうか。むしろ、「塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない」(哀歌3章29節)が真実です。「塵(自分の犯した過ちや恥)」に「口をつけ」て受け入れる時、救いが開けます。十字架(罪を知り、認める)があってこそ復活(命の自由)があることを、聖書は語っています。
18章22節
「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
小さい時から、父母を敬い、姦淫も殺しも盗みも偽証もせず、律法を守ってきた、と自負している彼に、「欠けているものがある」と主が言われました。
主が言われた「欠けているもの」とは何でしょうか。モーセの律法は、「あなたの神を愛せよ」と「あなたの隣人を愛せよ」の二つに大別できました(マコ12章28~31節参照)。議員が守ってきたという戒めは、第二の戒め、隣人を愛することでした。
すると、隣人を愛しているのですから、自分の物をすべて与えることができるはずです。愛は、愛する者にすべてを与えて惜しまないからです。主は無理難題を吹っかけたのではなく、「あなたの言うとおりに実行しなさい」と言われたのでした。
友よ。議員に欠けていたのは行いではなく、その動機です。自分を救うための行動は、自己中心から逃れられません。しかし、不完全な行いでも、愛から始まるものは、神の御前に届き、受け入れられます。「人を愛する者は、律法を全うしているのです」(ロマ13章8節)。隣人を愛する第二の戒めこそ、神を愛する第一の戒めに向き合う者に与えられる御霊の賜物(愛・喜び・平和・寛容・親切……)です。
18章22~23節
「…そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
時に、主は逆説を用いて物事の本質を表わされます。「施せ、そうすれば天に富を持つ」も、その逆説的真理の一つです。
主はここで、「人々に財産を施したら、天に富を積む(救われる)」と言われたのではありません。なぜなら、律法の行いでは誰も救われないからです。しかし、「律法は守れなくて当然」とも言っていません。そこで主は、「天の富を受け取りなさい。そうすれば、あなたは他者に施すことができる」と言われます。それは、「神を愛せよ。そうすれば、隣人を愛する戒めを守ることができる」と言っていることでもあります。主が、「隣人にすべて施しなさい」と議員に言ったのは、それをできない現実に直面させ、「私にはできません。だから主よ、この私を助けてください」と彼が言ってくるのを待っていたからです。その言葉を聞いたならば、主は、「人間にはできないことも、神にはできる」(27節)と彼に伝えたことでしょう。
主は、議員の人格を潰すどころか、建て上げようとしています。それは、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(マタ5章17節)と主が言われたとおりです。主は彼を御自分に引き寄せて救おうとしています。友よ。主は意地悪な方ではなく、愛なるお方です。
18章23節
しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。
「富んでいると見せて、無一物の者がいる。貧乏と見せて、大きな財産を持つ者がある」(箴13章7節)は、強烈なメッセージです。
人が肉体と心(知性・感情・意思)だけで出来ているならば、金銭や食物は、人の命を養い守るいちばん大切なものです。しかし神は、それらは「器(土の塵=両親からの命、自然界の食物、社会制度……)」である、と言います。さらに、「その鼻に命の息を吹き入れられた」(創世記2章7節)と記されているように、その器には「神の霊・命」が入る、と告げておられます。どちらも大切ですが、両者の間には秩序があり、霊の命に土の器が仕えるように創造されています。金持ちの議員は多くの財産を持っていましたが、その財産のゆえに、やがて無一物(魂を失う)になろうとしています。
「富と神」「肉と霊」に迷う友よ。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」(マタ16章26節)を心に留めてください。そして、「霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」(ガラ5章16節)という、霊の法則を心に留めて歩んでください。
18章24~25節
「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
自分の財産を手放せなかった議員は去って行きました。しかし、主が言われた財産の意味を、彼は正しく理解していませんでした。
カインは地の産物を、アベルは羊を神に献げました。神が受け取ったのは羊(アベルの信仰)であり、地の産物(カインの行い)ではありませんでした。かつて、神はアダムとエバをエデンの園から追放しました。義と聖の天国に罪人を置くと、彼らを殺すことになるからでした。
そこで、神は彼らに、皮(羊・動物犠牲)の衣を着て(罪の贖罪を得て)戻るように教えました。アベルの羊こそ、罪の代価でした。また、その羊は、アベルが献げたのではなく、神がアベルに献げた、小羊・イエスです。イエスを受け取ることが信仰ですが、カインは自分の手の業・行いによって神に近づこうとしました。
友よ。アダムの末である私たちは「行い」によって生きようとしがちですが、「肉と血は神の国を受け継ぐことはできず」(Ⅰコリ15章50節)、「恵みにより(羊・イエス)、信仰(受け取る)によって」(エフェ2章8節)救われます。「行い」によって作る「救い」こそ、「らくだが針の穴を通る」不可能を教えています。
18章26~27節
「それでは、だれが救われるのだろうか」と言うと、イエスは、「人間にはできないことも、神にはできる」と言われた。
ある人が右の言葉を聞き、「行いによって救われるなら、そこでも競争だ。でも、神が救ってくださるのなら、もう競争はない」と言いました。確かに!
人間社会は競争です。それは、「絶対」が無いので、他者との比較(相対)によって「救い」を計るからです。「あの人が救われるから、私は救われない」となり、その逆もありえます。
聖書は、「正しい人はいない。一人もいない」(ロマ3章10節)と記し、その理由として、「悟る者もなく、神を探し求める者もいない」(同11節)ことを挙げます。皆が罪人なのは、人が原罪の中にいるからです。しかしそれ以上に問題なのは、人は行いによっては救われないことを「悟る」ことがなく、「神を探し求めない」からです。「原罪を自分で消そうとすること(行い)」ではなく、「原罪から救う方(恵み)を求めること」が必要です。
友よ。「自分の行いによっては救われない」と理解する者が、「完全な救い」へと導かれるのです。罪人であることを悟り、神を求める者は、「神の恵みにより無償で義とされる」(同24節)のです。だから、自分で自分を救うのではなく、神に救っていただいてください。人の魂の救いは、「人間には出来ないこと」ですが、「神にはできます」。
18章29~30節
イエスは言われた。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでもこの世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」
主は先にも、「父、母、妻、子供、…自分の命であろうとも、これを憎まないなら…」と、天国に入る厳しさについて語られました。さらに、「塔・邸宅…(口語訳)を建てるための費用の計算」と、「戦いの勝算を考える」たとえでも、その厳しさを話されました(14章25~33節)。
人生の目標は、自分という「塔(アイデンティティー)」を建て、自分の「邸宅(居場所)」を得ることです。その塔は「神の子」であり、邸宅なる本当の住まいは「神の国・天国」です。人はこの二つを得るために戦わねばなりません。待ち受けている敵は「死」であり、死のとげの「罪」(Ⅰコリ15章26節・56節参照)ですから、これに勝たねば神の子として天国に入れません。
邸宅の建設も、二万の敵との戦いも、自分の力では太刀打ちできないことを最初に計算しなければなりません。なぜなら、敵は「罪と死」だからです。
友よ。「父、母、妻、子…」を「自分の救いと命」にすることは、それを偶像にすることです。だから、「憎み(14章26節)・捨て(18章29節)」なさい、と主は言っておられるのです。さらに、「家・妻・兄弟・両親・子供を捨てる」とは、「それらを主イエスの次にする」でもあります。主を第一にしてください。そうすると、家族を愛することが喜びになります。
18章30節
「この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」
家、父母、妻や子、自分さえも捨てると永遠の命を受け、さらにこの世でも何倍もの報いを受ける、とは都合が良過ぎるでしょうか?
永遠の命は良いとして、この世における何倍もの報酬とは何でしょうか。生老病死の苦しみに遭わず、生涯楽しく過ごすことでしょうか。否です。
パウロは信仰者の中の信仰者でしたが、だれよりも苦難に遭い、その最期は牢獄で斬首刑でした(Ⅱコリ11章参照)。しかし彼は、「あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守る」(ピリ4章7節)と言いました。
友よ。あなたはキリストに何を求め、何を祈っていますか。先人が、「祈りとは、神からの答えを受け取るためのものではない。それは、神との完全な一致の場である」と記しました(オズワルド・チェンバース)。
天でもこの世でも、「キリストの何か」ではなく、「キリスト御自身」が信仰の報酬です。
18章31節
イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。」
「神の子が人となって来られ、人の罪の贖いをする」と預言者たちが告げたことを、主イエスが達成せねばならない日が、いよいよ近づいてきました。
ある人曰く、歴史を十年単位で見ると目立つのは政治家、百年単位では教育家、千年単位だと宗教家だ、と。さらに、三~四千年のスケールで見ると、イエス・キリストだけが残ります。
イエスは天地創造前から父なる神と共におられたのですから、クリスマスを「イエスの誕生日」とするのは間違いです。クリスマスは、主の「降誕(誕生)」ではなく、「神の子の降臨」です。主の降臨は偶然でも奇跡でもなく、数千年前から預言されていたことの成就でした。
イエスの降臨・十字架・復活が当時の一部の人々だけの経験ならば、これらは信じがたいことです。しかし、二千年後の今も、最も多くの人に、最も多くの影響を与え続けているのが、イエス・キリストです。歴史を見ても、「主は生きている」と信じられます。
友よ。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう」(黙21章6節)とは、今も変わらない神の宣言です。主は生きておられ、あなたはそれが本当であることを確かめられます。
18章32~33節
「人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」
右の聖句中に、「人の子」という言葉が三回も繰り返されています。なぜ主は、「わたし」と言わず、「人の子」と言うのでしょうか。
聖書理解において必ず理解せねばならないことの一つは、「神であるお方が人とならねばならなかった」ということです。罪人の救いには、「命には命、目には目…」(出21章29節)の等価の償いが必要ですから、人には「人の命」が必要です。ただし、代価として支払う「人の命」は、「罪の無い人の命」でなければなりません。しかし、「義人一人もなし(ロマ3章10節)」ですから、地上には人の罪の代価を払える人はいません。「罪の無い命」を用意するためには、神が人となる以外ありませんでした。そこで、神の御子イエスがマリアの胎を通して人となられました。イエスこそ、「永遠(神)の大祭司(執り成す人)」(ヘブ9章11~14節参照)です。
友よ。神は「…わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」(ヘブ4章15節)お方です。イエスは完全な「人の子」だからこそ、人の罪の代価となることができました。十字架とは、「あなた(罪人)」と「人の子(義人)」の命を交換する場所だったのです。
18章24節
十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。
主と共に生活していた弟子たちなのに、主が語られた大事なこと、「十字架と復活」については、まだ理解できませんでした。
「神が人になる」は理解困難ですが、「この人が神」も同様です。弟子たちは、自分たちと同じように食べ、眠り、話すこの人が、「神」とは信じられませんでした。
その弟子たちが、イエスは神であると心から確信したのは、聖霊降臨の時からでした。ペトロは、「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です」(使徒2章22節)と大胆に告げました。そして、初代教会において、「イエス(人)は主(神)である」(ロマ10章9節・フィリ2章9~11節)が信仰告白となりました。
友よ。あなたは心の底から、「イエスは主」と告白できますか。出来ないならば、助け主の聖霊に、「私に確信をください」と祈ってください。主にいやされた盲人は、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります」と答え、さらに主に御手を置いていただくと、「…はっきり見えるように」(マコ8章22~26節)なりました。主から離れず、従い続けてください。必ず、「イエスは主(神)」と理解できるようにされます。
18章35~36節
イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。
この盲人の名はバルティマイだと記されています(マコ10章46節)。彼の境遇は、神を知らないすべての人の姿を現しています。
盲人とは、神の祝福を受けられない人間の姿です。彼を救うのは、視力を回復する医療でも、良い施設を備えた社会福祉でも、差別をなくす教育でもありません。彼にはまことの命が必要です。それは、人を超えた神という人格との出会いです。盲人に必要なものは「光」です。……「私は世の光」(ヨハ8章12節)」。次に、本当の「食物」です。……「わたしが命のパン」(6章35節)。さらに、愛してくれる「家族」です。……「わたしの妹、花嫁よ」(雅歌5章1節)。
友よ。あなたの「光と食物と家族」なる主が、今日もあなたのすぐそばを通っています。「群衆(あのバルティマイには神が必要だが、私には足りている)」にはならず、「私こそバルティマイ(神を必要とする人)です。私を憐れんでください」と叫んでください。
18章37~39節
彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。
目の前にイエス・キリストが現れたとき、だれもが必死に救いを求めるのでしょうか? 救いを求める必死さは、絶望の深さに比例します。絶望と救いは表裏一体です。
肉体的・心情的・霊的絶望の中にいたバルティマイに福音が聞こえました。彼がそれを掴むことができたのは、以下のような条件を満たしたからでした。
友よ。自分をバルティマイ(盲人)と思う者ならば、彼のように必死に求めるでしょう。「少し見える」と思う者は、少しだけ求めます。「あの人より見える」と思う者は、ほとんど求めません。自分が盲人ではないと思う者は、絶対に求めません。「しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」(ヨハ9章41節)。人の罪はただ一つ、主イエスを求めないことです。主イエスが神の子であると見えないことです。
18章40節
イエスは立ち止まり、盲人をそばに連れて来るように命じられた。
マルコは、主イエスに招かれたバルティマイの姿を、「盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスの所に来た」(マルコ10章50節)と、より詳しく書き記しています。
死ぬに死ねず、呻くだけだった者の目前に救い主が現れたなら、彼は踊り上がって喜ぶでしょう。しかし、そこからバルティマイのように主に近づけないのが人間です。
その違いのポイントは、「上着を脱ぐか否か」です。「①イエスを知り、②チャンスを逃さず、③周囲の妨害に負けず」求めることに加えて、最後に「④上着を脱ぐ(今まで自分を守っていたものを捨てる)」ことが必要です。
物乞いの盲人の唯一の財産は、寒さから身を守る上着です。人は多くの上着(知識・優越感・お金・保険・家族・健康・若さ・会社……)をまとって、自分を守って生きています。しかし、「すべてのものは、衣のように古び廃れる」(ヘブ1章11節)ものです。
友よ。自分で身に着けた衣と、主の「白い衣(黙6章11節)・救いの衣(イザ61章10節)」と、どちらが必要ですか、とあなたが聞かれたら、「もちろん、白い救いの衣です」と答えるでしょう。しかし、そう答えても、次にあなたの今までの衣を脱ぎ棄てないと、白い衣はあなたを包みません。あなたの上着を脱ぎ捨てて、主の救いの衣で身を包んでください。
18章41~42節
「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。 そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」
主イエスと盲人のこの会話は、なんと単純で、なんと力強いのでしょう。神の救いは単純で力に満ちています。
ところが人は、この単純な力強さを、複雑で弱いものにします。その原因は、実際の視力が回復することを求めるように、「現実問題の解決を、神から受け取ること」を救いと考えるからです。すると、病や、老いや、愛することなどの、解決できない問題が人生にいつまでも残ります。そこに目を留めると、神の救いは複雑で弱くなります。
単純な力とは、盲人の「目が治る」ことでなく、「見える」ようになることです。人に必要なのは、神をいつも鮮明に見るための視力です。
見えること(問題がなくなること)を願う友よ。求める対象を間違っていませんか。病気が治ることではなく、弱い自分を支えているイエスが見えることが必要です。老後を不自由なく過ごせることではなく、老体を天に連れて行こうとするイエスが見えることが本当の救いです。石打ちの刑を前にしたステファノは、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」(使7章56節)と、救いの核心を告白しました。
18章43節
盲人はたちまち見えるようになり、
白内障の手術を受けた人が、「まるで世界が変わった」と言いました。物乞いの盲人の人生は、それと比べられないほど大きく変化したことでしょう。
「見えるようになる」ことは、行動の自由を与えます。しかし、人の本当の自由と不自由は、正しい知識から「善と悪」を知ることから来ます。神は、人に与えた人格(自由)が正しくあるために、「善悪の知識の木」(創2章9節)を置かれました。人の自由は、神が見え、自分の姿も見えるところから出てきます。
「盲人」から解放されると、「物乞い」からも解放され、自分で食物を得ることができます。人の食物は、「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(ヨハ6章51節)という主イエスです。この世から食物を得ている人は霊的物乞いです。神の子は、天の父から与えられる「人の子の肉を食べ、その血を飲む」(同53節)十字架と復活の命を得て生きることができます。
友よ。あなたの目は開かれており、あなたは善と悪が見えて自由に歩き、神の命のパンを食べる恵みにあずかっています。しかし、なお問題が残ります。それは、視力です。自由も命のパンも、主イエスを見る視力に比例して、得る恵みの大きさが変わります。「主よ、もっと見えるようにしてください」は、今日も必要な祈りです。
18章43節
盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。
盲人は目が見えるようになり、自由を回復し、通行人からの憐みに頼って生きることからも解放されました。しかし、それだけでは終わりませんでした。
彼の人生のさらなる変化は、「イエスに従った」ことです。聖書は人を羊にたとえ、羊には羊飼いが必要であることを教えます。乾燥地帯に生息する羊は、草や水を自分で得ることができず、野獣からの防御手段も持ちません。羊が生きる道は、良い主人に飼われることです。
だれでも良い羊飼いを探していますが、「羊のために命を捨てる」羊飼いは主イエスだけです。見えるようになり、主に従うことで得られる恵みとは、私たちが主イエスに仕えてお世話できることではなく、主が私たちに仕えてくださることです(ヨハ10章1~21参照)。
友よ。盲人が自分で主を探して見つけたのではなく、「イエスがエリコに(盲人に)近づかれた」(35節)ところから、この盲人のいやしの物語は始まりました。同じように、主は、あなたの目を開き、食物を与え、仕えるために来臨されたお方です。良きことは上から、天の父から来ます。そして、それは二千年前から、今も、実現しています。人々はいつからか、再臨の主を待ち望み、「マラナータ(主よ、来てください)、アーメン」と祈りました。