キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ルカによる福音書 第16章

16章1節

「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。」

金持ちの管理人の不正が発覚しました。彼は、自分が辞めさせられた後に生きていく方法を考えます。そして債権者たちを呼び、次々と手を打ちます。ところが、主人は「この不正な管理人の抜け目のないやり方を褒めた」(8節)とあるのは、どういうことでしょうか。

ここで主人が褒めたのは、「抜け目のないやり方」であって、管理人自身ではありません。それは、「不正にまみれた富で友達」(9節)を作ったからでした。この記事を理解する鍵は、「不正の富」と「友」にあります。不正の富とは真理でない富のことで、この世のすべては、魂を天国に救い出す真の富とはなりません。世の富は、永遠の世界に入れてくださる友=主イエスに継がり交わるために使うものです。この管理人は、世の富(不正の富)を用いて、自分のすべてが取り上げられても、天国に迎えてくれる友を作っていました。実に賢い行為です。

友よ。あなたの持つ不正の富は、正しい位置にありますか。体力、能力、財力、賜物が、真の友である主イエスを得るために用いられていますか。不正の富が正しい意味と働きをなすのは、「まず、神の国と神の義」(マタ5章33節)を求める時です。その時、家族も能力も財力も賜物も正しい位置に戻され、神の御心を達成するものに変えられます。

16章10節

「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。」

文脈から、「小さな事」とは不正の富を指し、「大きな事」とは永遠の富を指していることが分かります。同時に、この世界と、霊の世界のことも指しています。

日々の積み重ねを無視していては大事を遂げられませんが、この世の法則を霊の法則に当てはめるのも危険です。そうすると、日常の生活をしっかり管理することで救いにあずかる、とする律法主義に陥ります。神の律法は、救いを得るためでなく、救いを保ち続けるためでした。

神は人をエデンの園に置いた後、「…見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた」(創2章9節)。地に生えたものは、人の肉の命(肉体、知識、社会性)を満たすためであり、園の中央(霊の領域)の命の木(主イエス)と善悪の知識の木(律法)は、神の命の息を受け続け、それを守るためでした。

友よ。小事(肉・世)が卑しくて大事(霊)が尊いのではなく、両方が必要です。神の命を受け取り、それによって生き、完成されるために小事があるのです。大事を得て、小事に忠実になり、小事を喜び楽しんでください。

16章13節

「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

不正の富(この世のもの)を用い、真の友なる神を得ようとした賢い管理人ですが、人の賢さは、時に人の愚かさになることもあります。

「神と富」の区分けは、「霊と肉」とも表せます。両者は水と油のように分かれるものではなく、最初は一つでした。それが分離したのは、アダムとエバが「主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れた」(創3章8節)時からでした。神から離れ、園の木(自然界)の間に隠れる(依存する)ことは、自然界を神としていることに見えますが、本当は自分を神とすることです。なぜなら自然界は、「産めよ、増えよ、地を従わせよ」と人にゆだねられた世界であり、人が主人だからです。神を主人とするとき、自然界は祝福となりますが、自然界を神=命とすると、人類の戦争の歴史が証しするように、そこは自己追求と呪いの場に変化します。

友よ。「神と富」を、「神と神の恵み」あるいは「命と命の恵み」の表現に変えてみてはどうでしょうか。富は、それ自体は悪ではありませんが、置かれた正しい秩序が失われると悪に変わります。神と富の正しい秩序は、「霊(神)の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉(富)の欲望を満足させるようなことはない」(ガラ5章16節)です。

16章15節

そこで、イエスは言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。」

 金に執着するファリサイ派の人々は、不忠実な管理人の話をしたイエスをあざ笑いました。

人に尊ばれることで神に嫌われ、人に嫌われることで神に喜ばれることが多くあります。主はそのことを、次のようなたとえ話で説明されました。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で…『神様、わたしは他の人達のように奪い取る者、不正な者…でなく、徴税人のような者でもないことを感謝します。…二度断食し、全収入の十分の一を献げています…』。ところが徴税人は、…目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください』」。主はこの話の後に、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(ルカ18章9~14節)と続けました。主が喜ばれることは、罪を告白することであり、義人を装うことではありません。人が喜ぶことはその反対です。

友よ。人々からの救いを求めるならば、罪を隠し、信仰をつくり、義人を装わねばなりません。それは他人をだます以前の自己欺瞞です。むしろ、「あなたはわたしを極め…知っておられます。遠くからわたしの計らいを悟って…。座るのも立つのも…歩くのも伏すのも見分け」(詩139・1~3)る方の前に、幼子のように裸でいる者こそが祝福される人です。

16章16節

「律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。」

天国に入ることは、すべての人の最高の喜びであり希望です。そこで熱心に求めますが、天国に入るには、大きな壁を乗り越え、激しい戦いに勝利する力が必要です。

最初に、天国に入るために戦う相手は何か、を見破らないと敗北します。それを病気、飢え、不和、能力などとするなら、宗教家のように律法主義になります。彼らは、天国に入るために自分の力(律法)で戦っていますが、律法をほぼ守ったとしても、「律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい」(17節)との厳しい言葉によって不合格とされます。

また、「 妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる」(18節)との言葉は、どんな人間の合理主義や詭弁も通じないことを宣言します。

 友よ。天国に入ることを阻む敵は、罪と死です。その敵の力を打ち破る道はただ一つ、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(Ⅰコリ1章18節)と示されています。私たちは自分の力によってではなく、主の「力ずく(十字架)」によって罪に勝利して、天国に入るのです。

16章19~20節

「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、」

 これは、金持ちが地獄へ行き、貧しい人が天国へ行く、という痛快なお話なのでしょうか。いずれにしても、「金持ち」と「貧しい人」が表す意味を知ることが重要です。

彼らの結末を分けた原因は何でしょうか。財産そのものが悪とは言えませんし、不正な手段で金持ちになったとも書いていません。ラザロが身を寄せたのですから、金持ちに愛が無かったわけでもありません。金持ちはラザロよりも聖書の事をよく知っていたとも思われます。

そこで、聖書で言う「金持ち」とは、財産や道徳心や宗教心を持っている者のことではなく、富(この世)に執着する者のことであり、「貧しい人」とは富(この世)に執着できない者のことである、とも考えられます。「貧しい人々(世に希望を持てず神に求める者)は、幸いである」「富んでいるあなた方(地上のもので満たされ、神が不必要な者)は、不幸である」(ルカ6章20・24節)のみことばがそれを証しします。

友よ。あなたは金持ちと貧しい人のどちらですか。この問いに、貧しい人と答える者は金持ちで、金持ちと答える者は貧しい人では? 自分は貧しいと謙遜する者こそ、神の前に富む者です。本当の富である神を貪欲に求め、地上の富から目を離す者になりたいものです。

16章22~23節

「貧しい人は死んで…アブラハムのすぐ側に…。金持ちも死んで葬られ…陰府でさいなまれ…。」

天国と地獄を端的に対比して描いている個所がここにあります。

地獄は二段階になっていることが、陰府(ハデス……この個所)とゲヘナ(黙20章14節)という二つの言葉が使われていることから分かります。それと対比するように、天国も二段階になっています。「その人は十四年前、第三の天に…」(Ⅱコリ12章2節)とあり、第三の天があるとすれば、アブラハムがラザロを介護しているこの場所が第二の天と言えます。事実、パウロ以外は誰も第三の天に行っていないことも分かります(ヨハ1章18節参照)。

神は金持ちをゲヘナにではなくハデスに入れました。それは、彼から地上の富をすべて剥ぎ取り、今一度自分の罪の事実に直面させるためです。その時、「肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされる」ために、「霊においてキリストは、捕らわれていた霊たち(金持ち)のところへ行って宣教された」(以上Ⅰペテ3章18~20節参照)と記される主と出会う可能性が出てきます。神は人を、一旦ハデスへ送ってでも救おうとしています。神は愛です。

友よ。「ハデスに行ってからでも」と考えてはなりません。天国と地獄が明確であるからこそ、今、救いを自分がより確かに受け取り、そして、「みことばを宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」(Ⅱテモ4章2節)の勧めに従いたいものです。

16章22節

「やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。」

病気と貧しさに苦しんだラザロが天国へ行ったのは、彼の信仰によってでしょうか?

悔い改めて、福音を信じ、バプテスマを受けることで人は救われます。しかし有史以来、この機会を得なかった人は数え切れません。フランシスコ・ザビエルが宣教師として日本に来る前の日本人全員。母の胎から流産し、あるいは堕胎された幼子たち。若年で事故や戦争や病で死んだ人々……などには、神を信じる機会がありませんでした。西洋神学によれば、彼らはイエスを主と信じなかったので地獄、となりますが、「愛なる神」はどうするでしょうか。

神の特質の一つは「公平・平等」(詩9・9参照)です。それが金持ちをハデスに、ラザロをアブラハムの懐へ導いたと考えられます。「お前は生きている間は良いものを…、ラザロは反対の悪いものを…」(25節)からも分かります。これは、堕胎された子やラザロのように、地上で良いもの(チャンス)を得なかった者への神の配慮では! 神は愛です!

友よ。一人も滅ぼさず永遠の命を得させたいとの愛ゆえに、神はある者はハデスに落として悔い改めさせ、堕胎された子などは第二の天に導いて福音を聞かせます。しかし、どこであろうとも、聖書には、イエスを主と信じ、主の血による罪の赦しを得る以外の救いはありません。

16章22~23節

「金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。」

陰府(ハデス)には「さいなまされ」ることがあり、天では「宴席」が待っているようです。

「さいなまされる」ことは苦しみです。それでは、神はそこで地上の罪を償わせ、あるいは罰を与えているのでしょうか。否、神は試練を与えますが、悪は行い得ません。試練の動機は愛ですが、試練に伴う苦しみが、「さいなまされる」ことです。金持ちは、財産、称賛、安楽、権力など、地上で彼を救っていたものを剥がされ、罪人の自分に対面せねばなりません。神は地上でもさまざまの試練を人に与え、罪の姿を見せて救おうとします。試練はこの地上で与えられる神の恵みですが、陰府では「さいなまされる」ことのようです。

神は金持ちをハデスに落とし、罪人である姿を見せ、悔い改めさせ、魂を救おうとしています。「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました」(詩119・71)。神は愛です!

しかし、友よ。「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです」(Ⅰペテ4章6節)が、地上にいる間に裁き(イエスの十字架)を受け取ってください。

16章23節 ①

「そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。」

ラザロが天へ、金持ちが陰府へ。ここに、「御自ら世界を正しく治め、国々の民を公平に裁かれる」(詩9・9)お方を見ます。

ヨブは苦しみの中から、「葬り去られた流産の子、光を見ない子」(ヨブ3章16節)と言いました。その子らと、第二の天でアブラハムのそばに置かれ、ここで光を見ているラザロが重なります。そこには、小さくて死んだ者、福音を聴けなかった者たちもいると思えます。なぜなら、「神は人を分け隔てなさいません。律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます」(ロマ2章11~12節)のみことばがあるからです。

ただし、そこに行けば第三の天が約束されているとは言えません。人の救いはイエスを主と信じることであり、その人の自発の信仰告白が必要です。だからこそ、第二の天でアブラハムが彼らに主イエスを教えているとも考えられます。神は愛です!

愛する者を失った友よ。愛する者がいるのが天でも陰府でも、私たちの手は届きません。しかし、天と地の支配者主イエスの手は届きます。その者のために、主に祈ることはできます。

16章節23 ②

「目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐ側にいるラザロとが、はるかかなたに見えた。」

ラザロはアブラハムの懐へ行き、金持ちは陰府へ行きました。それでは、地上で神の救いの恵みを受けた神の子たちはどこへ行くのでしょうか

もちろん、ラザロやアブラハムがいる所です。ところで、アブラハムはそこで何をしているのでしょうか。聖書にタラントン(タラント)とムナ(ミナ)の話があります。タラントンは与えられた賜物を、ムナは信仰を表します。タラントンは賜物ですから、それを用いてもうけたものが多くても少なくても、神からの評価は同じで「忠実な良い僕だ…」でした。

しかし、ムナは信仰ですから、各自同じ1ムナずつです。神は、その1ムナで10ムナもうけた人には10の町の支配権を授け、5ムナもうけた人には5つの町を支配させました(ルカ19章11~25節参照)。天国で受ける報酬は「支配」ですが、それは仕える量のことです。アブラハムは1ムナでとても多くもうけた人(信仰の大きな人)です。彼はラザロに仕えて、主イエスの十字架と復活の命を教え、最後の審判に備えるように教えています。神は愛です!

友よ。あなたが天国に行ったら、さあ病院へ、さあ羽根布団に、などとならないように! 天国で受け取る報酬は、より多く仕える恵みです。天国でいちばん偉い人とは、「自分を低くする人」(マタ18章4節)であり、「仕える人」(同23章11節)だからです。

16章25節

「『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた…』」

金持ちはハデスのあまりの苦しさに、「指先を水に浸し、わたしの舌へ…」と、ラザロのそばにいるアブラハムに助けを求めました。しかし、アブラハムは前記のように答えました。

金持ちが生前に得ていた「良いもの」とは、神を知る環境ではなかったでしょうか。彼がアブラハムを「父」と何度も呼べたことこそ、良きものでした。人の根本的な不幸は神を知らされなかったことですが、彼は幼い時から神を知る環境に恵まれ、経済的にも豊かでした。

しかし彼は、「主よ、主よ」と言っただけで、「天の父の御心を行う者」になっていなかったようです(マタ7章21節参照)。彼は自分がもらった宗教的・経済的な良き財産を、自分を天国に入れてくれる主イエスという「友」を得るためには使いませんでした(16章9節参照)。

一方のラザロは、貧しさ・病などの「悪いもの」を受け続けた苦しい人生でしたが、ここでアブラハムに出会えました。神は愛です!

アブラハムを信仰の父とする友よ。信仰の父が「どのように神に出会い、どのように神と交わったか」が、私たちの模範となる「信仰の遺産」です。父をまねるのが子です。あなたもアブラハムの子ですから、アブラハムの信仰の遺産を十分に使ってください。

16章26節

「『そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』」

 仏教で言う、人が死んで七日目に渡る「三途の川」がこの淵なのでしょうか。いいえ、全く違います。これは神の義と聖の淵(境)です。

「謝れば赦される」という人の義の基準は、人情であり、死に至る疾患に対する塗り薬のようです。「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブ9章27節)。その裁きは、神の義と聖が基準です。人情を基準に赦すならば、天国は地上と同じく、汚れ、争い、ねたみ、殺し合う所となります。それが永遠であるだけ、苦しみも永遠に続き、もう一つの地獄にさえなります。それをさせないのが神の義と聖であり、金持ちとラザロを分けている「淵」です。

天国には「聖、義、愛、永遠」の基準があります。神は、この基準を人自身には求めず、御自分の十字架と復活、聖霊の注ぎによって満たしてくださいました。神は愛です!

友よ。この淵にかけられた唯一の橋こそ、ノアに啓示された、「わたしは、あなたたちと…子孫と、契約を立てる」(創9章9~17節参照)という虹の契約です。罪人が淵(義と聖)を越えるための十字架の橋です。今日も天国と地をつなぐ虹(十字架)を仰いでください。

16章29節

「アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』」

金持ちは陰府の苦しみの中で自分の家族を思い出し、「自分の兄たちのもとにラザロを遣わし、ここに来ないように福音を伝えてほしい」と頼みました。

それに対するアブラハムの答えは、「あなたの兄弟たちにも既にモーセと預言者がいるのだから、彼らに聞けばよい」でした。このモーセと預言者とは、「聖書」そのものを指します。

ここでアブラハムは、「人を救う力は聖書にある」と言っているのです。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」(ヨハ5章39節)とあるように、みことばが主イエスという御人格を表し、人を神の子イエスに出会わせてくださいます。そして文字のみことばは霊となり、「…人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練を」(Ⅱテモ3章16節)してくださいます。

友よ。人生の最後の問題である死に直面した時、金持ちのようにラザロに求めても救いはありません。みことばが聖霊と一体となり、その人の内に命となった時に解決があります。教会や牧師や兄弟姉妹に求める以上に、祈りつつ聖書の中に自分が入ってください。その時、主があなたのために祈った、「彼らもわたしたち(父なる神とイエス)の内にいるようにしてください」(ヨハ17章21節)が成就し、あなたが主イエスの内に入ることになります。

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