キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ルカによる福音書 第14章

14章1節

安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。

主がファリサイ派の人の家に招かれた時、そこに水腫を患っている人がいました。そのことで、イエスと彼らの間に緊張が走っています。

主はこれまでも、安息日に多くの病人(シモンのしゅうとめ・手の萎えた人・18年間腰の曲がった女)をいやしましたが、ここでも水腫の人をいやすか否かを皆がうかがっていました。

ファリサイ派の人々は、「瀕死の病人に限り、安息日にいやしの仕事は認めるが、容態が明日まで持つなら、それを行ってはならない」と考えていました。

「安息日を心に留め、これを聖別せよ」(出20章8節)の中の「留める」とは、「思い返す」の意です。それは、神による創造と、エジプトの国、奴隷の家から神の御手で贖い出されたことを思い返すことでした。「聖別せよ」とは、主と交わるために他の6日を働いて備えよ、ということです。安息日こそ、神の御業を受け、いやされ、霊の食事を頂く時です。

友よ。あなたの安息日は主に仕える日ですか、それとも主に仕えていただく日ですか。仕えるならあなたが主役で、仕えていただくなら主が主役です。前者は苦役であり、後者は喜びです。「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源です」(ネヘミヤ8章10節)。

14章3~4節

イエスは律法の専門家たちに…。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」彼らは黙っていた。すると、イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった。

福音書の中では、主イエスと律法学者やファリサイ派の人々との論争が絶えません。今日でも同じような論争が信仰世界の中で繰り返されています。

宗教家たちの不満は、昔から自分たちが信仰と思ってきたことが主に認めてもらえず、その結果、それまで自分たちに従っていた人々が離れて行くことにありました。

これは、今日の教会にもあります。もし受洗資格に、「この○○教会の一員として、教会に仕え、社会で立派に証を立てられるか否か」といった言葉を入れるならば、それは、自分たちの教会を通して神の子にしようとすることであり、ファリサイ派の人々と同じになります。

しかし洗礼は、キリストに直接つながる第一歩であり、その結果として私たちはキリストの体の一部とされるのです。一人ひとりが深く主イエスにつながるために教会や教派が存在するのであって、教会のために一人がいる、というのでは方向が逆になります。

友よ。安息日こそ、いやされ、魂を再生していただく日です。しかし、教会や規約が大事になると、御霊の自由を縛ることになります。一人の魂が救われ、成長する延長線上に、祝福された教会がつくられていくのです。一人の中に主が現されることが最優先です。

14章5節

「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」

 息子でも牛でも、井戸に落ちてしまったのなら、何をおいても引き上げることに必死になります。その時は、安息日など関係なくなります。

ところで、井戸に息子や牛が落ちる、とは何を意味するのでしょうか。落ちたら、息子や牛の命が失われるばかりか、周りの人の命も失われます。なぜなら、命の水をくむ場所がふさがれるからです。水腫に苦しむ人を、律法や自分たちの立場を守るために助けないのなら、その助けない人の命も失われていくことになります。「互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。カインのようになってはなりません」(Ⅰヨハ3章11~12節)と忠告されています。カインは自分の正しさを主張するために弟アベルを殺しましたが、それは井戸に弟を投げ込みふさぐのと同じことでした。結果として彼は命のない地に住むことになり、「地上をさまよい、さすらう者となる」(創4章12節)が実現しました。

友よ。神が定めた愛と命の法則は、「苦しむ者と共に苦しみ、喜ぶ者と共に喜ぶ」です。互いに愛し合うことは、相手も自分も生きることです。自分が引き上げられ、相手を引き上げる者とされたいものです。

14章6節

彼らは、これに対して答えることができなかった。

いつでもイエスに一本取られてしまうファリサイ派の人々は、やがて、言葉尻を捕えて攻撃するのではなく、イエス自身を消そうと計画するようになります。

人の生き方は、「死なないように生きる」と、「生きるから死なない」の、どちらでしょうか。前者は消極的な生き方で、後者は積極的な生き方と言えます。また、前者は自己中心な生き方になり、後者は他者を愛する生き方に通じます。それが如実に見えるのが、律法学者やファリサイ派の人々の生涯とイエスの生涯を比較したときです。

律法学者やファリサイ派の人々は、自分を守って他者を殺し、自分も死んで行きます。

一方主は、「イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった」(4節)ように、他者のために死に、他者を生かし、やがて自分も復活します。主が罪を赦し病気をいやすことは、御自分の十字架でそれらを引き受けて、代価を払うことでした。その結果、他者も生かし、自分も生きることになりました。

友よ。愛だけが他者の批判の口をふさぎます。事実、主が示された愛は、二千年たった今も人々の口をふさいでいます。「愛を増したまえ、わが主よ、わが主よ、愛を増したまえ、わが主よ。心の底より、愛を増したまえ、わが主よ(聖歌433)」と賛美し祈りましょう。

14章7節

イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。

このファリサイ派の人の家には多くの人が招待されました。当時は皆に食事が振る舞われるわけではなく、ゲストの話を聞くために集まる人々もいました。そこは、地位や学識を示す社交場ともなり、招待された人々は上席に着きたがっていました。

上席に着きたがる人とは、自分で自分を高く評価している人です。しかし、日本の婚宴であっても、披露宴の席は指定されており、自由ではありません。

ルース・ベネディクト氏は、著書『菊と刀』の中で、日本文化を「恥の文化」、西洋文化を「罪の文化」と評しました。恥の文化は横の関係・人と人の関係を重視し、罪の文化は縦の関係・神と人の関係を重視します。

恥の文化における真理とは「みんな」であり、罪の文化における真理とは「神」です。人は皆、神によって生を受け、神に招かれている者ですから、最終判断は神御自身によって下されます。自分自身の判断は通用しません。

友よ。あなたが好んで座りたい場所はどこですか。あなたが座るべき正しい場所は、いつでも同じです。主イエスに上席に着いていただき、主のみことばを聴き従う場所、それが、あなたが座るべき正しい場所です。

14章12節

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

ファリサイ派の議員は、なぜイエスを招待したのでしょうか。また、なぜ共に多くの人々を招待したのでしょうか。

彼がイエスと共に多くの人々を招いたのは、貧しい人に食を与え、知恵を求める者に知恵を授けるためではなさそうです。その証拠に、彼はイエスをもてなすのではなく、皆の前でイエスを負かそうと挑発しています。

彼には、人々の前でイエスをやり込めて自分を高めたい、という思惑がありました。彼がイエスを招待したのは、イエスの話を聞くためではなく、自分の話をイエスに聞かせるためでした。真理を探していたのではなく、自分の正しさを皆に見せたかったのです。彼は、イエスよりも自分の方が神に従っていることを示して、自分で自分を救おうとしているようです。

友よ。私たちの中にも、イエスを用いて自分を上席に置く心がないでしょうか。高ぶる者とは、自分で自分を救う人であり、へりくだる者とは、神に救っていただくために、神にひざまずく人です。「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得る」(マタ10章39節)のです。冒頭のみことばの意味は、「主の上に立つ者(高ぶる者)は低くされ、主の後に従う者(へりくだる者)は救われる」ではないでしょうか。

14章13節

「 宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。」

お返しのできる人を招くな、むしろ何もできない貧しい人々を招け、と主は言われます。

あなたは自分こそ貧しい者(自分を救えない者)、体の不自由な者(不健全な行いをする者)、足の不自由な者(人生をよく歩めない者)、目の見えない者(真理が見えず暗黒の中にいる者)だったのに、神に招かれ救われた者であることを忘れるな、とも主は言われました。

それでは、神の子は報酬を求めてはいけないのでしょうか。否、報酬はあります。「正しい者たちが復活する時、あなたは報われる」(14節)からです。地上に報酬を求めると、関心を持つのは自分のことばかりになり、自分で自分を救おうとし、あるいは他者に救いを求めます。天の報酬を求めると、自分と他者から解放され、ただ神を求め、神だけを報酬として求めます。

友よ。あなたが求める報酬は何ですか。私たちの本当の報酬は、「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」(黙1章4節)、主イエスです。問題から解放されることよりも、問題を解決できるお方を持つことが重要です。「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」(ロマ6章23節)。

14章15節

イエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。

同じ聖書個所には、「ある王が王子のために婚宴を催した…」(マタ22章1~)とあり、黙示録には、「書き記せ。小羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ」(19章9節)とあります。神の国の食事に加わるか否かは、その人の生死にかかわる重大な出来事として表されています。

この食事は、「牛や肥えた家畜を屠って」(マタ25章)用意が整えられました。アダムとエバが罪を犯した時、神は彼らに「皮の衣」を着せてエデンの園から追放しました。その「皮の衣」こそ「動物犠牲」であり、やがて神から人となり十字架で血を流す神の小羊イエスの贖いを表しました。

神は罪人の彼らを、天国の義と聖の基準で裁く前に、追放して死から守りました。そして、皮の衣を着て再び神の国の食事に来ることができるようにされました(創3章21~)。神の義と聖を満たすのは、罪の贖いの皮の衣(動物犠牲・十字架)でした。

神の食事に招かれた友よ。招待状には、「主の御名を呼ぶ者は皆、救われる」(ヨエ3章5節)と、小羊の血で書かれています。「屠られた小羊は、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして賛美を受けるにふさわしい方です」(黙5章12節)。そして、これらの恵みは主の聖餐に表されています。主の聖餐を大切にしましょう。

14章17~18節

「宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。すると皆、次々に断った。」

この大宴会を催したのは神御自身です。神が招いたのは、親族や知人友人を超え、民族や国家も超えた、全世界のすべての人です。しかし、ほとんどの人は招待を断りました。

この記事はノアの洪水を思い起こさせます。暴虐が地に満ちた世界に、神は一人の義人ノアを備えました。彼は120年(推定)かけて、箱舟を造り上げました。この舟の大きさは、今の船に換算して15,000トンとも言われ、親族や周りの人々はもちろん、全世界の人が入るに十分な大きさを表しました。しかし、この舟に乗り込んだのは、ノアの家族八人だけでした。他の人々は、「義の宣伝者」(Ⅱペテ2章5節 口語)の勧めを拒み、洪水に飲み込まれました。

この物語の中では、ノアは主イエス、箱舟は教会と救い、洪水は裁きを表していました。

神の国では、すべての用意ができています。あなたはそれを受け取るために行くだけでよいのです。それでも行かないと、神はさらに招くために試練を与えます。試練は、あなたの食卓(自分の命)から神の宴会(神の永遠の命)の場へとあなたを追い立てる、神の使いです。それを断る(受け取らない)と、神は次のチャンスを何か月も何年も待たねばなりません。

友よ。人生の空白を大きくしてはなりません。

14章18~20節

すると皆…。「畑を買ったので、見に行かねば…」。「牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに…」。「妻を迎えたばかりなので、行くことができません」と言った。

永遠の命を頂ける大宴会に出るよりも、畑や牛や妻が大事になっていた人々がいました。彼らが出席を断ったのには理由がありそうです。

招いたお方が誰であるかを知らない
神であることを知らない。
招待された宴会の重要性を知らない
出欠席が生死を決定することだと知らない
自分を救うのは畑や牛や妻であると信じている
この世に命を求めている

このような人は、神が用意した宴会に出席するよりも、畑や牛や妻のために人生を費やす方が大事だと考えます。主は、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(マタ19章24節)と嘆き、また、「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」(同22章14節)とも言われました。

友よ。畑や牛や妻は何のために与えられたのですか。それは、「持ち物をすっかり売り払い」、「高価な真珠(主イエス・永遠の命)」を買う(同13章45節)ためでした。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(ヨハ6章27節)。

14章21節

すると、家の主人は怒って、僕に言った。「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。」

最初に招いた人々は皆、自分の都合を優先して来ませんでした。そこで主人は、畑や牛や妻を持つ幸福そうに見える人々ではなく、貧しい者、悲しむ者、病の者たちを招きました。

神は、畑や牛や妻など、さまざまの恵みの賜物を人に与えました。それらは人の物ではなく、すべて主の恵みの賜物です。しかし人は、それらを自分の所有物にし、神に代え、命と救いの代用物にします。そのような人は主のもとに来ることはできません。次に続くみことばで、「招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない」(24節)と言われる者たちは、誰でしょうか。それは、「富んでいる人・今満腹している人・今笑っている人…は不幸である」(ルカ6章24~25節)と言われる人々です。「彼らは神を必要としないので、誰もわたしのもとに来ないのだ」と言い換えることもできます。

友よ。ヤコブの言葉、「悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい」(ヤコ4章9節)は、できれば経験したくないかもしれませんが、経験すれば、それは本当の恵みを受け取る場となります。貧しさ、病気や目や足の不自由など、自分の力で生きられないところに、本当の命が隠されています。そこにこそ、主御自身がおられるからです。

14章27節

「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、私の弟子ではありえない。」

「だれでも自分の十字架を…」と主が福音書の中で語られた個所は五か所あります(マタ10・38、16・24、マコ8・34、ルカ9・23、ヨハ12・25)。これは、神の子が「成長(聖別)」するための鍵となる言葉です。

 神の子たちの目標は、「…栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられ」ていくことです。それは「主の霊の働きによることです」(以上Ⅱコリ3章18節)と教えられています。

「イエスは主」と信じたのに、以前と変わらない生活をしているのは、神の子の命(霊)を持ったのに、自分の命(肉)によって生きているからです。やがて、信仰を持ったのに変われない自分に失望し、教会から遠ざかり、神からも遠ざかる人が多くいるのは残念です。

「自分の十字架を背負う」とは、「肉」が「霊」に変えられる転換点です。主の十字架の愛を受けた人が、そこから主を愛する者になることこそが、「自分の十字架を背負う」ことです。

友よ。「恵みにより、信仰によって…」(エペ2章8節)とあるのに、自分に都合のよい恵みだけを求めていませんか。人にとって何が恵みであるかは、神が知っています。神の恵みを受け取るには、「肉(自我)」を捨てねばなりません。それは、自分の思いを主の御心の下に置く(自分の十字架を背負う)ことです。 

14章26節

「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」

愛の神なのに、どうして父、母、妻、子供、兄弟姉妹を、さらに自分の命をも憎めと言うのか、と疑問を持つ人が多くいます。

世には逆説的真理というものが多くあります。何も食べる物がなくて今にも死にそうな人に、「私の所に来て食事をしなければ、あなたを殺すぞ!」と迫ったとします。これは、相手を憎んでの言葉ではなく、相手を愛する激しい愛から出た言葉です。

「わたしよりも父、母、息子、娘…を愛する者は、わたしにふさわしくない」も同様です。なぜなら、父、母、妻、子、畑や財産などを命とすることは、それらを神とすることであり、永遠の命を失うことになるからです。神は、父母を敬い、妻や子を愛し、兄弟姉妹を愛しなさい、と命じています。しかしそれは、主イエスを愛することの「次」でなくてはなりません。

友よ。「自分の命も家族も憎め」とは、「『主イエスを愛する以上に自分と家族を愛すること』を憎め」、すなわち「私の次にそれらを愛しなさい」という意味です。まず自分が神の命(霊)に生きることです。そうしてこそ、家族に命を分けることができます。主は、「まずは、あなたが私から命を得なさい。そうすれば、家族を愛することができる」と言われています。

14章28節

「あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。」

だれでも自分の人生が成功に終わることを願っています。そのために、最初は父母に、次に伴侶に、子供に、と求めます(父母、妻、子を愛する)。また、社会的立場にも求めます。「塔を建てる」とはそのことを表し、自分の存在を他者に認めてもらい、自分を確立することです。

家族や社会から認められることも人には必要ですが、誰に認められるかが重要です。自己満足や社会的評価は、一定の期間と一定の条件の下では得ることができても、病や社会の変化や老化、そして死を前にすると、消えてしまいます。それは、建築に手をつけたのに、最後まで完成できない塔(人生)となります。

最終的な人生の評価は、神の御国へ入るか否かで決まります。そしてその評価は、家族や社会的立場や財産や名誉とは関係なく、神が決めます。

友よ。そこに入るために必要なものは、お金でも家族でも地位でも人々の評価でもありません。ただ十字架の赦しと復活の命が必要であり、それは「主イエス御自身」です。主イエスを自分の塔とし、神を礼拝して生きることです。「主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい」(詩127・1)。

14章31節

「また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。」

家族を愛することにも、人生の塔を建てることにも、激しい戦いがあります。志が高く、気力満々でも、敵の兵が自分の兵の倍であるなら、勝てるか否かをよく計算せねばなりません。

族長ヤコブは、叔父ラバンの下でよく働き、家族もまとめようとしましたが、うまくいきませんでした。その時、彼にとっての敵は叔父ラバンだったので、欺いて財産を奪い、逃げて勝利しました。間もなく、兄エサウが400人を連れて向かって来るという情報を聞き、恐れます。そこで、先に兄に贈り物をし、自分の財産を2つに分けて逃げ延びる準備をしました。さらに、神を味方にしようと祈り始めると、本当の敵が現れました。それはラバンでもエサウでもなく、神御自身でした。ヤコブは神と戦いますが、もものつがいを外された時(ヤコブが負けた時)、彼は神にしがみついて離しませんでした。それがヤコブの勝利でした(創31~33章参照)。

友よ。人生の最後の敵は誰でしょうか。それは、神御自身ですか。否、「死」です。その死のとげが「罪」です。神は罪に対して敵となります。「最後の敵として、死が滅ぼされます」(Ⅰコリ15章26節)。自分の力を圧倒する敵に勝つ計算をしてください。死に打ち勝つ方法はたった一つです。それは、自分が神に負かされること、十字架につけられることです。

14章33節 ①

「だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

無一物になることが主の弟子になる道なのか、と単純に考えてはなりません。捨てることは、失うことではなく献げることです。

何事にも、勝利の方程式や秘訣があります。チャンスや時勢に沿うことも必要ですが、根本は自分の物・能力・健康・努力によって、となるのがこの世です。すなわち、自分で自分を救うことです。しかし、聖書の勝利の方程式は全く逆で、「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」(マタ10章39節)となります。この言葉は、「自分で自分を救おうとする者は命を失い、私に自分をゆだねる(失う)者は救われる」とも置き換えられます。救いとは、自分を主イエスにゆだね、主に自分を持っていただくことです。

友よ。「あなたの富のあるところに、あなたの心もある」(マタ6章21節)ので、持ち物は命によって位置が変わります。神を命とするなら、持ち物はあなたの下に置かれ、家族や能力を命とするなら、それらはあなたの上で支配者となります。持ち物を捨てるのではなく、あなたを主イエスに差し出し、あなた自身を主に持っていただくことが、弟子となることです。

14章33節 ②

「だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

「持ち物一切」とは、物質的なものばかりでなく、心の中にあるものも含みます。物以上に捨てがたいものは心の中にあります。それを捨てる時、主の弟子となります。

「弟子は師のように、僕は主人のように…」(マタ10章25節)とあります。「この杯をわたしから取り除けてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マコ14章36節)というゲッセマネの園でのイエスの祈りの中に、師イエスに倣う弟子のあるべき姿を見ます。主こそ、御自分の十字架を背負われたお方でした。それゆえに、人の罪を贖うゴルゴタの十字架へ進めました。

信仰者とは、自分の考えを持たない者ではなく、自分の考えを主の御心の下に置く者です。それが、「持ち物を一切捨て」自分の十字架を背負うことです。

友よ。ペトロは、「舟の右側に網を降ろせ」との主の言葉に自分の考えを従わせ、多くの魚を獲りました。「自分の十字架を背負う」とは、自分の重荷を負うことではなく、自分を主にゆだねることです。すると、自分の重荷も主に持っていただくことになります。塔を建て、戦いで勝利するための人生の計算をしてください。

14章34節

「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」

山上の垂訓の中では、「あなたがたは地の塩である。…世の光である」と記されています。塩と光の相関関係を知ることは大切です。

神の子は「光」と「塩」であれ、と言われています。何事にも表と裏がありますが、表裏は一体です。裏は見えませんが、裏あっての表です。神の子の裏(消極面)とは、塩の役割である防腐剤のような「聖別」です。表(積極面)とは、光として輝くことですが、それは自分の光によってではなく、イエスという光によってです。その光は、「聖別された人格」によって光ります。聖別なる裏がないと、光を反射させることができません。

聖別されない神の子の人格を前面に出すと、イエスの神聖をゆがめ、あるいは消して見えなくします。すると、「畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられる」ことになります。塩と光が一体となる時、神の子は人々に真理を示し、道を示し、希望を与えます。

友よ。あなたは神の人です。パウロの勧め……「神の人よ。あなたはこれらのことを避け、正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい」(Ⅰテモ6章11節)。……アーメン。共に主の栄光を現しましょう。

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