キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ルカによる福音書 第12章

12章1節

イエスは、まず弟子たちに話し始められた。「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である。」

主はファリサイ派の人々の教えを「偽善」と断言します。「偽善」とは、「偽り」と「善」が混在していて、見分けるのが難しいものです。

人々は白黒や善悪をはっきりさせることを避け、「割り切れずに迷うのが人間だ」と言います。しかし聖書は、良い魚と悪い魚、麦と毒麦(以上マタ13章36節~)、羊と山羊(同25章31節~)を分け、前者は天国へ、後者は地獄へ、と区別します。聖書はこと「命」に関してはミドル・ミッシング(中間が無い)です。馬とキリンの中間種の化石が見つかったことはなく、馬とロバの交配で生まれたラバは、子孫を残すことができません。良いパン種である「命」は、主イエスだけに宿っています。

友よ。「行いが良いから羊」「行いが悪いから山羊」とされるのではなく、「あなたの命が、羊と山羊のどちらなのか」が問題なのです。すなわち、「あなたがどんな小麦粉であるか」ではなく、「あなた(小麦粉)に宿る命の種が、良いパン種である主イエスであるか否か」です。主の命に支配されるならば、御霊の実をつけることができます。人の最大の偽善は、自分で自分の命を救おうとすることです。しかし、救いの業は主だけが持っています(黙7章10節参照)。

12章2節

「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。」

 聖書は白黒・善悪・生死を明らかにしますが、人はそれを嫌い、否定しようとします。しかし、世界と人生には必ず終わりと結論があり、覆われ隠されていても、必ず明らかにされる日が来ます。

ある人が、世界を堕落させた(?)人間として、以下の4人の名前を挙げました。

  1. ダーウイン…進化論によって創造を否定
  2. マルクス…共産主義によって神を否定
  3. アインシュタイン…相対性理論によって絶対を否定
  4. フロイト…神なしに心の問題を解決

この評価が妥当か否かの最終判断は神にゆだねるとしても、確かに彼らのしたことは、絶対者を否定し、物事の結論と、神の最後の審判を否定することになります。すると、神は存在できず、すべてが人間中心となり、真理も存在しなくなり、罪人が自己中心を貫いて生きるだけの世界になります。しかし神は、「あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広め」(3節)るお方です。神が存在するからこそ真理があり、善悪があり、結論があります。

友よ。善悪の基準も結論もない人生に平安はありません。今の自分がどうであろうとも、「神が御自分の義で私を覆ってくださり、永遠の命を与えてくださる」という結論(裁き)から、人知を超えた、神にある平安が生まれます。

12章節

12章4~5節

「体を殺しても…それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。」

愛なる神から、世界でいちばん怖い存在へと急変したかのような、厳しい言葉です。厳しさの分だけ、愛の深さを感じることができる者は幸いです。

「罪を隠している者は栄えない。告白して罪を捨てる者は憐れみを受ける」(箴28章13節)とあります。ただし、人は自分の罪を自覚できませんから、だれかに指摘してもらわねばなりません。しかし、人が人の罪を指摘すると摩擦が生じます。

罪を指摘できるお方は神です。主イエスは人を愛していますから、人の罪と罪の結果を、歯に衣着せず、包み隠さず人に告げます。愛なる神だからこそ、冒頭の厳しいみことばを告げます。「あらわな戒めは、隠された愛にまさる。」(箴27章5節)。

友よ。自分の子が、命を落としかねない危険な場所に近づいているのに、優しく注意する親がいるでしょうか。主イエスのあなたへの愛は、命を捨てるほどに深く大きいからこそ、厳しくもなります。悔い改めも十字架も無しに「互いに赦し合いましょう」だとか、「神は弱いあなたを御存知ですから、あなたはそのままで良いのです」などといった、偽りの愛の教えは退けてください。神からの愛を頂き、家族・友人・知人へ、厳しい愛の言葉を語れますように。

12章7節

「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

「髪の毛の数まで知られているのか……おお、神は恐ろしい!」と言った人がいましたが、むしろ、「髪の毛までも一本残らず数えるほどに、神の愛は深いのだ」と受け取るべきです。

「あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった。…秘められたところでわたしは造られ…。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている。あなたの御計らいは、わたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか」(詩139・13~17節)と、詩編作者は感嘆の声をあげています。

神に深く愛されている友よ。あなたの髪の毛の数はもちろん、「体」の隅々まで、その中にある「心」までも、神はよく知っておられます。更に、あなたの心の内側にある「霊」についてはもっと深く知っておられます。一羽の雀の食物をも心にかける神は、御自分の子であるあなたの身の回りに必要なものを御存知です。あなたの傷ついた心を慰め、空洞になった霊の部屋を満たすために、神は人となって来られました。そして十字架につき、血潮を流して、あなたの体も心も霊も、すべてを贖ってくださいました。髪の毛一本までも! ハレルヤ!

12章10節

「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。」

「人の子」とは主イエスのことです。すると、「主イエスを冒涜(ぼうとく)しても赦されるが、聖霊を冒涜したら赦されない」となります。

主イエスは、「わたしよりも聖霊の裁きを恐れよ」と言っているのではなく、聖霊の権威を守ろうとしておられるのです。神は三位一体です。個々の人(神)格が一つになるためには、互いが相手を認め、相手に仕えることを自分の命とせねばなりません。聖霊は主イエスに仕え、主イエスは父なる神に仕えます。父は御子イエスに御自分の権威を与え、御子イエスは聖霊に御自分の権威を与えます。たとえば家族の中で、父親が子供に、「お母さんの言うことを聞かないのなら、お父さんがお前をぶつよ!」と言うのは正当です。夫は妻に権威をゆだねて守っており、それが子供を守ることになります。主は、「わたしを悪く言ってもいいが、あなた方を助け守っているのは聖霊である。その方を冒涜することは、わたしが許さない」と言っているのです。それは、聖霊に権威を与え守っているからです。

友よ。聖霊を冒涜することを過剰に恐れるよりも、聖霊を喜ばすことを考えてはどうでしょうか。そのためには、あなたが「聖霊に満たされ」(エフェ4章18節)る=支配される必要があります。すると聖霊は喜んであなたを、主イエスを愛する人へと造り変えてくださいます。

12章11~12節

「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」

右のみことばは、前節の「聖霊を冒涜する者は赦されない」をさらに確固にするものです。すなわち、もっともっと聖霊に信頼することを勧めているのです。

神の子たちの信仰は、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主』とは言えない」(Ⅰコリ12章3節)から始まりました。頭を主イエスとすると、体の各器官の働きは聖霊の御業です。頭なるキリストの命を伝える働きも、すべて聖霊の御業です。主イエスは聖霊によって神の子の中に内住しておられます。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」(Ⅰコリ3章16節)。

アブラハムによってイサクの嫁探しに遣わされた僕(しもべ)は、聖霊の知恵を頂き、祈り待ちました。すると、そこに水を汲みに来た娘が、僕が祈った条件をすべて満たしていました。僕は使命を果たし、娘をイサクの嫁として連れて帰ることができました(創世記24章)。

友よ。あなたに信仰を与え、今の場所(男・女・夫・妻・職場・家庭・環境……)に遣わしたのは、聖霊の御業です。だから、いつでも、どの場でも、聖霊に言葉(意思・御心)を求めてください。すると聖霊は、「言(主イエス)」を与えてくださいます。

12章15節

そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」

ある人が、「自分にも財産を分けてくれるように、兄弟を説得してほしい」と主に依頼しました。それに対して主は、「ある金持ちの畑が豊作であった」と語り出し、①所有 ②命 ③時間 の3つについての人間の常識が間違っていることを指摘します。

金持ちは、「(私の)蔵を壊し、(私の)もっと大きいのを建て、そこに(私の)穀物や(私の)財産をみなしまい」(18節)と、英訳では「私の」という語を節の中で4回も使っています。

この金持ちの頭には、「地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは、主のもの」(詩24・1)という認識はありません。彼は「所有」について間違った考えを持っていました。彼は、自分が財産を所有していると考えていましたが、実際は全く逆で、畑や穀物や倉庫が彼を所有していたのです。資本の真の所有者は、資本を提供した者です。それは神御自身です。

友よ。すべては神から提供された資本(恵み)です。そしてそれ以上に、あなた自身が神の所有物であることを意識してください。「だれも人間を誇ってはなりません。…世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも、一切はあなた方のもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです」(Ⅰコリ3章21~23節)。

12章19節

「こう自分に言ってやるのだ。『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』と。」

この金持ちは、すべての物を自分の所有物と思っていました。さらに彼は、「命」についても間違った考えを持って生きていました。

聖書のある訳では、「(私の『魂』に)言ってやるのだ」と記されています。彼は、人の魂の糧は多くの穀物やお金や安全な倉庫であると信じています。現代であれば、仕事・収入・蓄え・老後の保障とも言えます。彼は「命」が何であるかを勘違いしています。彼は、「人の命はこの世のものによって支えられている」と考えていますが、それは間違いです。

聖書は、「目に見えるものは、目に見えないものからできた」(ヘブ11章3節)と語り、世界(目に見えるもの)は神の言葉(目に見えないもの)によって造られたことを教えています。目に見えるお金や能力や健康が命を造るのではなく、その人が持つ、目に見えない命の質が、見えるかたちや物事の価値をつくるのです。パウロが、「どんな境遇にも足ることを学んだ」(フィリ4章11節)と言えたのは、実に神の命が造り出す世界観によるものです。

友よ。衣食住の充足は感謝し切れない恵みですが、それによって自分の命を支えようとしてはなりません。あなたの命は「神の口から出る…一つ一つの言葉」からです。

12章20節

「神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。」

この金持ちは「所有」と「命」についての真理を知りませんでした。さらに、彼は「時間」についても間違った考えを持って生きていました。

彼は、「さあ、これから先何年も…」(19節)と言っています。実に多くの人は、「他人は死んでも、自分はすぐには死なない」と考えています。

ところが神は、「今夜、おまえの命は取り上げられる」と言います。金持ちが、「これから先何年も」と考えたのは、彼が信じる偶像(マモン=富の神)が災いを防ぎ、身を守ってくれるから、自分だけは長生きできる、と計算していたからでした。「よく聞きなさい。『今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう』と言う人たち、あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません」(ヤコ4章13~14節)。

友よ。我欲の追及と快楽の享受のために時間を使うならば、死と戯れる人生になります。与えられたあらゆる賜物は、神のプログラムに合わせて使うべきです。あなたの時間は「無限(輪廻)」の中にではなく、「永遠(初めがあり、終わりがある=完成)」の中にあるのです。

12章21節

「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

この言葉は、肉体を脱ぎ、神の御前に立つ時に、多くの日本人が聞かなければならない言葉ではないでしょうか。そうならないことを祈るほかありません。

金持ちの男は、「所有・命・時間」について間違った考えを持っていました。しかし、それ以上に彼が「愚か者」と断言された理由がありました。彼は誰よりも真面目に学び、働き、多くの人々に職を与え、人生設計通りに生きましたが、その設計図に「神」は入れませんでした。ところが、除外したはずの「神」が彼の人生に介入してきました。しかも、そのお方こそが「王の王」(黙19章13・16節)であり、すべての人の人生に最後の判決を下すお方でした。「幾つかの書物が…命の書である。…これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた」(20章12節)。神の判決は「彼らの行いに応じて」下されますが、その行いとは「信仰」という行為です。信仰とは、神を人生の主人としてお迎えして、そのお方に従うことです。

友よ。「愚か者」の反対である「賢い者」とは、「岩の上に家を建てた人」です。神は、どんな材料で建てた家(能力・財産・実績……)かは問題にされません。岩(主イエス・土台)の有無だけが問題にされます。岩の上に家を建てる者、すなわち、信仰によって生きる者こそが、神の前に豊かになる「賢い者」です。

12章22節

イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。」

「命のこと、体のこと、衣服のことで思い悩むな」から始まる一連のメッセージは、「ただ神の国を求めよ」(31節)の結論に至ります。

神は、「食物より命が、衣服より体が大事だ」と言います。しかし、「食物や健康や衣服などはどうでもよい」と言っているのではありません。どれもが人に無くてはならないものです。ここで主が言っているのは、優先順位のことです。命は食物よりも優先されるべきであり、体は衣服よりも優先されるべきです。食物や衣服や車を得るために、体を酷使し、健康や家族を犠牲にしては元も子も失います。そして、それらよりも更に優先順位の高いものがあります。それは、「神は烏を養ってくださる。あなたがたは、烏よりもどれほど価値があることか」(24節)と言われる、「神の愛」です。

友よ。人の命は、食物や肉体や外側の環境にあるのではなく、愛の中にあります。殉教者たちは、神の愛を求めて死んだのではなく、迫りくる神の愛に占領されて迫害を享受したのではないでしょうか。食物よりも肉体よりも、愛によって生きる者として人は造られたからです。神の愛と命を求めることが、最も優先されるべきです。 

12章31節 ①

「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。」 12章31節

聖書のメッセージを数文字で表す言葉が幾つかありますが、その一つが、ここに記されている「ただ」です。この文から「ただ」が抜け、「神の国を求めよ」となると、メッセージの力は半減します。同じ使い方をする言葉に、「まず」があります。

「イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、〝まず〟マグダラのマリアに御自身を現わされ」(マコ16章9節)ました。葬られた主の遺体が墓に無いと分かった彼女は、急いでペトロとヨハネに報告しました。彼らも駆けつけ、事実を確認します。その後「この弟子たちは家に帰って」行きましたが、「マリアは墓の外に立って泣いて」(ヨハ20章10~11節)いました。

イエスがいなくなっても、弟子たちには帰るところがありましたが、マリアには主以外に帰るところがありませんでした。だから、復活した主は「まず(だれよりも先に)」マリアに会う必要がありました。マリアは主がいなければ生きられなかったからです。

友よ。「ただ、神の国を求めよ」がいちばん大切であることを、マグダラのマリアが教えてくれます。「神の国を求める」とは、もろもろの恵みや力や健康や衣食住の祝福を求めることを超えて、イエスという御人格を、「まず・ただ(最優先に)」求めることです。

12章31節 ②

「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。」

右の明確なみことばも、時に間違って受け取られることがあります。すなわち、自分の願いである「与えられるもの(もろもろの恵みや力や健康や衣食住の祝福)」を得るために「神の国(イエス・キリスト)」を求める、というように、目的を間違えてしまうことがあるのです。

衣服は体を守るための手段であり、食物は体の命を保つための手段です。ここでは「神の国を求める」ことが目的であり、そのために必要な手段が健康・食物・衣服です

ここで言われる「神の国」とは、神の支配のことです。すなわち「神の国を求める」とは、「神に私が支配されることを求める」ことです。そのためには、私が神に服従する以外に道はありません。ある人が信仰の先人から、「あなたが神を得て満足するのではなく、神があなたを得て満足するような人になりなさい」と言われたそうです。真実であり、アーメンです。

友よ。「あなたが神の国を得て立派になる」のではなく、「神があなたを神の国(御自分の支配)に入れることを願っている」のです。自己中心な者は、自分が他者を支配することは求めても、他者が自分を支配することは嫌います。同じように、主が自分のために死ぬことは求めても、自分が主のために死ぬ(自分の十字架を背負う)ことは嫌います。

改めて、友よ。神に支配されることを求めてください。

12章32節

「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」

天の父なる神は恵みと慈しみに富むお方です。何よりも、御自分を信じ従う者たちを愛することに物惜しみなさいません。

「小さな群れ」とは、

  1. 現実的に少人数の神の子たちの群れ・小さな教会 
  2. 霊的にキリストの体の中にあって、(多くの人々が賛同する「広い道・門」に対する)細い道、狭い門を選び取る人々(マタ7章13~14節)

などを意味します。

12章33~34節

「自分の持ち物を売り払って施しなさい。…尽きることのない富を天に積みなさい。… あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」

この言葉に対しては「そのとおりです」と答えることができても、「それでは、人にとっての本当の財産は何ですか」と質問されると困ってしまいます。

新約聖書を記したギリシャ語では、「財産・富」という言葉には「生存」という意味がある、と聞きました。そこから、財産とは「命」そのものであると分かります。そこで、間違ったものを財産とすると、自分の命(本当の財産)を売って、いちばん必要な時に役に立たないものを買ってしまうことになりかねません。「持ち物を売り払って」とは、「自分に与えられたあらゆる能力や時間や賜物を用いて(売って)、天に蓄える富(永遠の命・主イエス)を買いなさい(得なさい)」という意味です。また、「富のあるところに、心もある」という言葉は、富とするものによってその人の人生が違ってくることを教えています

友よ。「富のあるところに心もある」のですから、「あなたの富が主イエスであるか否か」は、「あなたの行動が主イエスによって支配されている否か」によって分かります。主はいつでも御自分を与えようと待っておられます。あなたの心をもう少し主に与えてください。主はあなたの富(主イエスとの継〈つな〉がりと交わり)を大きくして返してくださいます。

12章35~37節

「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。…主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。」

ここに主人と僕の関係を見ます。僕とは、「腰に帯を締め、ともし火をともして」主人の帰りを待つ者であることが分かります。

マタイ25章では、10人のおとめたちのうち、5人はともし火を持って出迎えましたが、ともし火のない5人は出て行けませんでした。ともし火は、聖霊によって生きる人の姿です

主の僕とは、「聖霊によって燃え(生き)」、さらに「真理を帯として腰に締め」(エフ6章14節)ている者のことです。真理の帯とはみことばのことです。僕は、命の聖霊が内住するとともに、みことばの帯でコントロールされてこそ、十分に働くことができます。そして、ともし火を持ち、腰に帯を締めているのは、主人を出迎えるためです。

友よ。自分で行動するよりも、待つ方が難しいものです。行動するときは自分が主体になれますが、待つときは相手を主体にせねばならないからです。したがって信仰は、「積極的受動」と言うこともできます。救いも魂の成長も完成も、すべては主の御業によるものです。ですから、そのお方・主イエスを積極的にお迎えすることが、最も大事なあなたの仕事です。それには、聖霊(油)とみことば(帯)が必要です。

12章37節

「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。」

「腰に帯を締め、ともし火をともして待て」と言われると緊張します。それは、「これから使用人として合格か不合格かを告げられ、裁かれるのでは」と勘違いするからです。

僕が待つのは、「婚宴から帰って」(35節)きた主人の足を洗い、仕えるためではないようです。むしろ帰ってきた主人が、帯を締めて僕たちに仕えてくれます。主は、「人の子は、仕えられるためではなく、仕えるために来た」と言われ、さらに、「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(マタ20章28節)と加えて言われました。

イエスなる主人が行っていた婚宴とは、十字架につき贖いの御業を行う、ゴルゴタの丘で開かれた血の祭り・血の儀式(十字架の贖い)だったのでは! 主はその贖いの御馳走を僕たちに与えるために帰って来たのです。

主の僕である友よ。昔の子供たちは、親が結婚式から持ち帰る御馳走を待ったものでした。同じように、主は贖いの業をなし終えて、あなたに与える恵みをたくさん抱えて帰って来られます。それは普段(この世)のものとは違う、天の大御馳走です。「罪の赦し」と「永遠の命」という御馳走です。目を覚まして待ってください。

12章38~40節

「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。…あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

この物語は、「みことば(帯)と聖霊(ともし火)」の重要性を示す文脈の中にあります。したがって、「目を覚ましている僕」とは、腰に帯を締め、ともし火を持つ者のことです。

神はすべての人に恵みを差し出していますが、ほとんどの人はそれを十分には受け取れていません。その最大の理由は、「何が恵みであるか」が分からないからです。一般に、健康・経済的豊かさ・家族の平和などを恵みと考えますが、本当の恵みは、「イエスが神であることが見える」ことから始まります。「イエスは主」と見え、さらに、「贖い主であり、永遠の命であるお方」と見えるためには、ともし火(聖霊)が必要です。

そして、「帯を締め」とは、僕として従う姿勢を表します。ともし火をともして主を探し、主を見つめます。主を見、主に従う者、その人が主の食卓にあずかります。

友よ。主は、トルストイの『靴屋のマルチン』の物語のように、予期しない時に現れ、後に「あれはわたしだよ」と言われます。主は、人々との出会いや出来事の中にも御自分を現しますが、人が聖霊によって読むみことばの中には、毎日、毎時間、御自分を現すことができます。みことばと聖霊は、今この時も、イエスを見せてくれます。

12章43節

「主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。」

良き僕の姿を、アブラハムの息子・イサクの嫁探しに遣わされた僕の姿に見ることができます。創世記24章から探ってみましょう。

この僕は以下のように行動しました。

「僕は(アブラハムに・神に)尋ねた」(5節)
主人の御旨を良く知ることから始まる。
「僕は…出発した」(9~10節)
だれにでも自分の事情があるが、主人の御心を優先する。
「彼は…祈った」(11節)
その時に嫁の条件を神に示され、知恵を与えられた。祈りは神に働いていただく最大の要素。
「黙って…見つめていた」(21節)
リベカに会い、彼女の行動が条件に合うかを忍耐して見極めた。
「金の…を与えた」(22節)
キリストの花嫁を得るために主人の物を大胆に使った。
「主を伏し拝み」(26節)
一つひとつのことで神を礼拝した(豊かな交わりをもった)。
食事を振る舞われても、用件を話すまでは食べなかった(33節)
主人の事だけに集中した。
用件が済むと、すぐに主人のもとに帰った(54節)
主人を何よりも優先し行動した。

しかし友よ。「これらすべての事で合格せねばならない」というわけではありません。僕の条件としてもっと大事なのは、一心に主を見つめ続けることです。目先の一つひとつの事よりも、主イエスに霊と心と体を向け、目を離さないことです。

12章44節

「言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うよう…になるならば、」

良い僕と悪い僕が描き出されています。良い僕はさらに多くの管理を任され、悪い僕は鞭打たれることになります。なぜ両者の間にこのような差が生じたのでしょうか。

一方が知恵深く努力して好結果を残したが、もう一方はその反対だったからでしょうか。この世界では実績や結果によって評価されますが、神の国では動機によって判断されます。主人が、良い管理人か悪い管理人かを判断した根拠は、両者の動機の違いにありました。忠実で賢い管理人は、自分が主人ではなく管理人であることを心得ており、主人の御心と時間に自分の心とスケジュールを合わせます。不忠実な管理人は、僕であることを忘れて自分を主人とし、下男や女中を自分の僕と思って、彼らに自分の考えを押しつけます。それが、「主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔う」結果となりました。

パウロは、「…わたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。…管理者に要求されるのは忠実であることです」(Ⅰコリ4章1~2節)と言いました。友よ。主は、「良い結果を出せ」とは言わず、「良い僕になれ」と言われます。良い結果は、主御自身がつくってくださいます。

12章46節

「その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。」

「自分を主人とするか、イエスを主人とするか」によって、あらゆる考え方が違ってきます。その中でも、「時間」について正しい認識を持つことは重要です。

《…寓話…》

3人のサタンが地上に遣わされる前に、「いかに人間をだますか」の最終試験を受けた。第一の者が「神などいない、と言います」と答えると…それはダメ、みんな神を知っている=不合格。次の者が「地獄は無い、と言います」と答えると…それはダメ、人は自分の罪を知って苦しんでいる=不合格。三番目の者が「まだ時間はあるから、急がずともよい。もう少し自分の思い通りにしても間に合うから、と言います」と答えると…オメデトウ、合格!

 友よ。「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時…死ぬ時、植える時…抜く時。殺す時…いやす時。破壊する時…建てる時…」(コヘ3章1~8節)というみことばを、自分の都合に合わせて勝手に解釈していませんか。「時」の持ち主は神であって、人ではありません。自分の人生を神の時計に合わせて生きると「生まれ(永遠の命に)、植え(命を育む)、いやし、建てられ」ますが、自分の時計によって生きると、いずれは「死に、抜き、殺し、破壊され」ることを忘れてはなりません。

12章48節

「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」

下の言葉は、聞く者から2つの反応を引き出します。

  1. 神は平等だ。与えた分だけ求めるから
  2. 神は不平等だ。与える量に差があるから

「人間にとっていちばん大事なことは、何も自分で決めていない」との言葉は事実です。国籍、民族、両親、生年月日、性別、遺伝的要素など、どれ一つ自分自身で決めたものはありません。唯一、結婚はある程度それぞれの自由にゆだねられていますが、それが最終的な幸福をつくるとも言えません。しかし、人間にわずかに与えられたそのような自由をはるかに凌駕する賜物があります。それが「信仰」です。信仰は神と人を直結させるので、どのような条件の中にいる人も、その条件を自由に用いることができるようになります。

友よ。あなたは、「多く任せられない方が気楽だ」と、「多く任せられるほど期待されて嬉しい」のどちらですか。しかし、あなたは両方を超えた偉大な恵みを授かっています。「罪の支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」(ロマ6章22節)。地上だけを見ていると疑問がわくこともありますが、神は決して不平等ではありません。一人ひとりに主イエスをお与えくださった愛において、神は平等です。

12章49節

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」

これまで主は、再臨に備えて「目を覚まし・ともし火をともし・腰に帯を締め・良き管理人となれ」と語ってきましたが、ここでは「今は救いの日」(Ⅱコリ6章2節)と語ります。

主の願いは、再臨の日がもう既に来ていることでした。それが、「火が既に燃えていたらと…」です。しかし、これから「地上に火を投」じねばならないと言い、救いを完成するための戦いが始まると言います。そこで最初に起こることが、分裂と争いです。主は「平和の君」ですが、「父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と…対立」(51節~)させねばなりません。なぜなら、人に「命」の場所替えをさせねばならないからです。今まで人は「自分、父、母、子、財産、名誉……」を自分の命としていました。主は人のその命を、「主イエス」に替えさせねばなりません。人のいちばん深く激しい戦いは、「命」のために繰り広げられます。

友よ。神の子の命を持つためには、古い命が火で焼かれねばなりません。父・母・妻・子を命とする生き方は焼かれねばなりません。しかし、戦いを恐れてはなりません。主の戦いの火は、父母や伴侶や子供たちを主のものにするための聖別の火であり、あなたを祝福するためのものです。

12章50節

「しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむであろう。」

 主の火を受け取った家族は、争いと分裂の苦しみの火中に投げ入れられます。しかし、火を投じる主は、受け取る者たち以上に苦しむ、と言っています。

イエスの誕生を知ったヘロデ王は、ベツレヘム付近の二歳以下の男の子を殺しました。平和の御子の到来を喜ぶ賛美の声は、幼子を失った家族の悲痛な叫びによってかき消されました。 

主が十字架の上で「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか)」と叫ばれた時、天の父なる神はなぜ御子イエスを助けなかったのか、と言う人がいます。しかし、アガペーの愛を持つお方は、御自分のために誰かが悲しみ叫ぶとき、それ以上に苦しんでおられるのです。

友よ。この時の主の苦しみは、肉体の痛みや、同胞から殺されるという心の悲しみ以上に、父なる神から離される霊のうめきでした。さらに、自分が投ずる救いの火を受け取る人々がやがて体験するであろう迫害などの苦しみをも、同時に受けておられました。事実、何十万・何百万の人々が、主への信仰のために殉教し、家族の中で孤立し、罵倒されてきました。一日も早く御国が来ますように。

12章51節

「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」

平和の主が与えるのは、分裂であり、対立であり、争いである、と言います。キリスト教宣教の歴史の裏には、常に戦いがありました。

世の中には、避けられない苦難と避けられる苦難があります。産まれた時代・成長過程で受け取ったもの・これから臨んでくる病や死などは、避けられない苦難です。一方で、信仰ゆえの苦難は、避けられる苦難です。なぜならその苦難は、妥協することで葬ることができるからです。そこには霊と肉の争いがあります。肉の要求に同意すれば霊が死に、霊の導きに従えば、家族や人々との争いに巻き込まれ、肉が痛みます(ガラ5章16節~参照)。

友よ。山形県米沢市北山原にある、斬首された53名の兄弟姉妹の記念碑を訪ねてください。彼らは主が投じた「火」(49節)と「剣」(マタ10章34節)を受け取った者たちでした。それから380年たった今、この小さな町には多くのクリスチャンがおり、町の中で市民権を得ているようにさえ見えます。分裂と争いの先には、失望と死ではなく、希望と命が湧き出ます。ペトロが、ローマから逃げる途中に主イエスと出会い、「主よ、どこへ(クォ・ヴァディス)」と問うと、主は、「ローマへ(迫害の中に)」と言われました。友よ。あなたもローマへ! 

12章53節

「父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しょうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して わかれる。」 

《中国の獄中で殉教した伝道者の詩》

もしもほんの少しだけ、義の道から離れたら、私はすぐに楽になる。この苦しみも取り去られるだろう。

もしもほんの少しだけ、十字架から目を離せば、私はすぐに楽になる。この痛みも取り去られるだろう。

だけど私は、キリストを覚える。このお方がどれほど忠実に苦難を忍ばれたかを。

私はもうこの世の者ではない、あらゆる関わりは解けたから。たとえこの道、狭く苦しくても、私はこの地では旅人でありたい。

もしもほんの少しだけ 神のことばを偽ったなら、私はすぐに楽になる。この孤独も取り去られるのだろう。

だけど私は、主キリストを覚える。このお方がどれほど、いのちを省みずに愛されたかを。たとえこの道が、狭く苦しくても、私はこの地で旅人でありたい。

人が私を冷たく笑っても、…(中略)…たとえ命を奪われたとしても、私はキリストの微笑みだけを、「よくやった、忠実な我が僕よ」、そのお言葉だけを求めてゆきたい。

12章56節

「偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」

あなた方は天気の予測はできるのに、なぜ今の「時・時代」(マタ16章3節)を見分けることはできないのか、と主が言われます。

 天気に関しては何か月も前から長期予報が可能となり、人口推移、経済、医療、大気汚染なども予測できる時代になりました。しかし、いちばん肝心な、「人とは何者か」は予測できていません。人間そのものが分からないのですから、人間が引き起こす問題の解決もできません。それは、「人は神によって造られた」ことと、「人は罪の中にいる」ことが分からないからです。時代は人の心によってつくられますから、スーパーコンピュータを駆使しても、「人は神の子。しかし、罪人」と入力されないかぎり、正しい答えは出ません。人の罪を認めなければ、食糧、政治、経済、家族などの問題は分かりませんし、解決もできません。

 神が、偶像礼拝の罪から救うために、民をバビロン捕囚に送って「十字架につけ」、七十年後の「復活(帰還)」に導く、という時代の流れを、預言者エレミヤは見ました。神の愛の真理(罪、赦し、復活)が見える時、自分と家族と人々の、過去と現在と未来が見えてきます。

友よ。「主よ、見えることです」と祈りましょう(マコ10章51節)。

12章58節

「あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。」

前節で主は、「何が正しいか判断せよ」と言われました。人の正しさは、行いによってではなく、和解によって得るものであるようです。

人が誰かから訴えられるのは、罪を持っているからです。その「罪を訴える人」はサタンではありません。むしろサタンこそ、罪人の最大の弁護人です。サタンは、悪に手を染める人に、「みんながやっているから」「あの人に比べれば軽い」「そうしなければ生きられなかった」とささやき、その人を弁護します。本当の「罪を訴える人」は、神御自身です。「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。誰を恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄へ投げ込む権威をもっている方だ」(12章4~5節)。

友よ。「あの人が・あの問題が」と心が痛むのは、神があなたに働いているからです。罪を指摘するお方は、サタンではなく真理の聖霊です。そのお方に指摘されなければ、最後の一レプトン(ルカ12章59節)を返すまで出ることができない地獄へ落ちるところでした。しかし、訴える方は、「御自身の血によって…永遠の贖いを成し遂げられた…契約の仲介者」(ヘブ9章11~22節)である主イエスの十字架へ、あなたを連れて行きます。

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