7章2節
…ギデオンと彼の率いるすべての民は朝早く起き、エン・ハロドのほとりに陣を敷いた。…「主はギデオンに言われた。「あなたの率いる民は多すぎる…。」
神の御心を確信したギデオンは、10万人以上の敵(8章10節参照)に、四分の一の3万2千人で戦いを挑もうとします。しかしその時、戦意を挫くように、「あなたの民は多すぎる」との神のみことばが語られました。
ギデオンは、神の御心を確信しましたが、その御心を自分に与えられている戦力をより効果的に用いて実現しようと考えていました。
主イエスの公生涯の最初の言葉は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じよ」(マコ1章15節)でした。神の国は、罪の無い神の子が十字架で罪人を赦し、復活の命を与え、一人ひとりの中に神の国(支配)を造ることから始まるとの宣言でした。
イスカリオテのユダも、イエスの神の国を実現させるための神からのメシアだと信じました。しかし彼は、「主を売り渡せば、彼は立ち上がり天の軍勢を呼び、神の国が…」と考えました。神の国は、人の力や知恵ではなく、神の愛によって実現されるものでした。
友よ。「あなたがたは、『霊』によって始めたのに、肉で仕上げるのか」とのパウロの叱責を聞いてください。「神の御心を、私はどのように実現するか」ではなく、「主よ。御心がわかりました。それではあなたの方法はなんですか」と聞く者になってください。
7章3節
それゆえ今、民にこう呼びかけて聞かせよ。恐れおののいている者は皆帰り、ギレアドの山を去れ、と。」こうして民の中から2万2千人が帰り、1万人が残った。
神の提案は、敵の何分の一の味方の兵力を増すことではなく減らすものでした。その理由は、「渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言う」(2節)ことからでした。
神の「恐れる者を帰せ」の言葉に反応し、戦場を離れて帰った兵士の数は2万2千人でした。残った兵は1万人だけでした。
「恐れる者は帰れ」との厳しい言葉は、裁きの言葉ではなく、「賛同者」を排除するためです。キリスト教主義国家や家庭に育った人々は、神に反逆もせず、無関心でもない賛同者(主イエスではなく、「キリスト教」を信じる人々)になり易いものです。
それは、クリスチャンらしい未信者であり、「イエスを主」と信じる者とは分けねばなりません。ただし、そこを去った2万2千人を失格者とするのでなく、彼らの信仰ではこの問題に今は対処できないが、やがてイスラエルが勝利を収めるのを見た時、彼らも兵士として敵の討伐に加われる人々です。
友よ。あなたはその場を離れた兵士?居残った兵士?どちらでしたか。ただ、自分も他者をも裁くことは止めましょう。今、達し得たところから、最後に残った300人を目指して信仰の道を進んでください。
7章4節
主はギデオンに言われた。「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水辺に下れ。そこで、あなたのために彼らをえり分けることにする。」
3万2千人の中から2万2千人が帰り1万人だけ残りました。敵は10万人以上です。しかし神は、それでも「民はまだ多すぎる」と言います。
これこそ神が働かれる霊の法則で、それは引き算です。人の勝利の法則は足し算で、3万2千人に8万人を加え11万人にし、敵の10万人より1万人多くすることこそ勝利を得ることだと考えます。しかし、聖書の歴史は「霊の引き算」で満ちています。
モーセは、エジプトの王子の一人で計り知れない力を持っていましたが、神は彼をミディアンの沙漠に導き、羊飼いの娘婿として40年間も閉じ込めました。
その彼をホレブの山に呼び出した時、「履物を脱ぎなさい」(出3章参照)と命じます。履物(彼が歩いてきた人生)までも脱げと言いました。王子から羊飼いへの引き算、羊飼いの靴さえも脱がされる引き算にかけられ、裸足にさせられました。
アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ…神が用いた神の器は、すべて引き算の法則にかけられました。
友よ。信仰によって生きる者は、神の引き算の法則に入らなければなりません。それは、「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の中で生きる」(ガラ2章20節)ためです。
7章5節
彼は民を連れて水辺に下った。主はギデオンに言われた。「犬のように舌で水をなめる者、すなわち膝をついてかがんで水を飲む者はすべて別にしなさい。」
神による信仰の選別はなおも続きます。神の選別は、神が御自分のために働いてくれる人を選ぶためではなく、御自分がその人を通して働ける人を探すためです。
その選別は、先のテストで残った1万人を水辺に連れて行き、各々の水の飲み方で選びました。
その結果、後者は300人で、他は前者の人々でした。主は、「手から水をすすった300人をもって、わたしはあなたたちを救う。…他は帰しなさい」と言いました。
前者の兵士たちは、水辺に来て「自分の渇き」を潤すことに夢中です。後者の兵士たちも水を必要としていますが、神を見上げ、敵の動向を見つつ水を手ですくって飲む姿に、「神の御心」優先の姿を見ます。
先に帰った人々は「賛同者」たちでしたが、ここに残った1万人は献身者とも言えます。しかし、その者たちもさらに深い信仰姿勢を探ると、「自分優先」か「神優先」かに分かれます。
かつては賛同者で今は神に選ばれ召されている友よ。水辺の自分の姿はどちらですか。神はあなたに働いて欲しいのではなく、あなたを通して働きたいと願っているのです。神を見上げつつ水を飲んでください。
7章7節
「手から水をすすった三百人をもって、わたしはあなたたちを救い、ミディアン人をあなたの手に渡そう。他の民はそれぞれ自分の所に帰しなさい。」
32,000人の中から残った1万人は確かにクリスチャンです。しかし、神の選別は水の飲み方でさらに分けられました。その選別のさらなる奥義は…。
世にはびこる御利益信仰は、自分に神を合わせます(利用すること)。キリスト信仰は、神に自分が合わせられます(神に用いられる)。
水に口をつけてがぶ飲みした兵士たちは、神に従って得た恵みを堪能している人に見えます。手ですくって水を飲んでいる兵士は、この水(恵み)を飲むことで主に仕えようとしているかに見えます。恵みに留まるか、恵みによって主に仕えようとしているかです。
ある人が言いました、「家族が救われるかどうかは、その家にキリスト馬鹿が一人いるかどうかだ…」と。
ある息子が父の日に、「…僕は、父と母に心から感謝しています。お父さんはとにもかくも、がむしゃらでした。この際、そのやり方にどんな欠けや弱さを見たとしても、神さまに向ってのがむしゃらな生き方は、僕の心に残っています」と書き送りました。
友よ。多くの魚を捕ったペトロは、「全てを捨ててイエスに従った」し、盲人バルテマイは癒しの恵みを受けた後、「道を進まれる主に従った」とあります。主の備えた水(恵み)を飲むのは、さらに進むためです。
7章8~9節
…その300人だけは引き留めておいた。…その夜、主は彼に言われた。「起きて敵陣に下って行け。わたしは彼らをあなたの手に渡す。」
3万2千人が300人になり、その300人でミディアンの10万を超す大軍に勝利できると言い切る神は、何を考え実行しようとしているのでしょうか。
マルチン・ルターが、「神は世界を無より造り給うた。汝が無でない限り、神は汝よりなにをも造り得たまわぬ」と言ったそうです。ただし彼の言う「無」とは、東洋思想的(仏教的)無(ブラーム・無人格・自然生命との一体化)のことではありません。
信仰とは、「神」と「私」の人格的(自由意志による)結合です。神に自分を委ね、自分が無くなる「無」こそルターの言う「無」です。
モーセは、エジプトの王子から羊飼いへ。律法学者パウロは、ダマスコ途上で主の光に打たれて3日間目が閉ざされ、その後3年間砂漠へ。そこで律法の衣をはがされ、福音の衣を着せられました。
富める青年は、善きもので身を飾ろうと主の元に来て、「持物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」の言葉に失望し去りました。彼は無になれませんでした。
友よ。モーセもパウロも、主以外に頼るものが無い「無」の人にさせられました。神はあなたに、「300人中の1人になれ」と言っているのではなく、「300人の心をもつ1人になれ」と言っています。
7章9節
…その夜、主は彼に言われた。「起きて敵陣に下って行け。わたしは彼らをあなたの手に渡す。」
神はギデオンに命じて敵陣に攻め込むように言います。ここで一番大切なことは、「わたしは彼らをあなたの手に渡す」の言葉です。
神の霊の法則は、「引き算」だと言いました。さらにそれを進めて、「比例の法則」と言った人がいます。それは、人の強さと神の強さ(働き)の比例です。霊の戦いには、霊の法則を用いて戦わねば勝利できません。
その法則とは…ユダの王ヨシャファト王は、エドムの大群が攻めて来た時、恐れ、神を求めて人々にも祈るように導きます。そして、「私たちには攻めて来る大軍を迎え撃つ力はなく、何をなすべきか分からず、ただあなたを仰ぐことしかできません」(歴下19章12節)と祈りました。
その時、神は預言者を遣わし、「これはあなたたちの戦いではなく、神の戦いである。…あなたたちは戦う必要はない。堅く立って、主があなたたちを救うのを見よ」と告げ、実にその通りに勝利しました。
友よ。戦いは主の業なので私たちは何もしないことでしょうか。否、私たちは、3万2千から300にする神の御心を受け取る戦いをせねばなりません。
7章11節
彼らが何を話し合っているかを聞け。そうすればあなたの手に力が加わり、敵陣の中に下って行くことができる。」彼は従者プラを連れて…前線に下って行った。
神に、「私が敵をあなたの手に渡す」と言われても恐れるギデオンに、敵の現実を知るため暗闇に紛れ偵察せよと言います。知るのは、敵の数や武器や戦法ではなく、「彼らが何を話しているか」でした。
彼らが話していることは、「大麦の巨大なパンによって倒される」というおとぎ話ごとき夢の話でしたが、皆は真剣に恐れていました。
今日、皆が話すことは、政治、経済、噂話しなどですが、目的は自己肯定(自分の救い)です。しかし、それは不可能であることも信じています。
人生が戦いなのは、敵がいるからです。しかし敵の正体が分かりません。聖書は、敵は「死」であると記し、死は、「罪」から来ると断言します。さらに、「罪の力は律法」であるとも言います(Ⅰコリ15章参照)。
死は罪から、罪は律法から、その律法とは基準ですが、それを定めた方がおられます。それが神です。 すると本当の敵は、神御自身であるとさえ言えますが、まさにその通りです。しかし、人の罪を裁き、死を宣告する真の神は、「愛の神」です。
友よ。主イエスの十字架は、あなたの裁きでした。あなたの裁きは終わっています。その恵みを受け取るか拒むかこそ、最も大切な人生の戦いです。
7章13節
「私は夢を見た。大麦の丸いパンがミディアンの陣営に転がり込み、天幕まで達して一撃を与え、これを倒し、ひっくり返した。こうして天幕は倒れてしまった。」
おとぎ話のような夢が、兵士たちに恐怖を起こしていました。なぜ、だれにも好かれ命の代名詞であるパンが恐れを引き起こすのでしょうか。このパンこそ、「わたしが天から降って来たパンである」(ヨハ6章)と言われたイエス御自身を表わしました。
なぜ、パンが天幕を打ち倒すのでしょうか。それは、天から降って来たパンは、人の命の食物となる前に、「霊の剣、すなわち言葉」(エフェ6章17節)となるからです。「本物は本物を見分けるが、偽物は偽物を見分けられない」の格言のように、本物の命が現れると偽物が正体を暴かれるので恐れられます。
剣なるみことばは、人がそれまで造り上げた天幕(存在、人生、財産…)を打ち倒します。ミディアン人たちが恐れたパンこそ、イスラエルの神でした。天からのパンが最初に剣として臨むのは、人が造り上げた古い天幕を壊し、新しく命に満ちた神の家を造るためです。剣を受け取ってのち、命のパンに変えられます。
愛する友よ。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(Ⅱコリ5章17節)にある、古いもの(罪の命・剣)は主イエスが過ぎ去らせ、あなたに新しいもの(神の命・パン)を与えてくださいます。
7章14節
仲間は答えた。「それは、イスラエルの者ヨアシュの子ギデオンの剣にちがいない。神は、ミディアン人とその陣営を、すべて彼の手に渡されたのだ。」
ミディアンの兵士たちは、山から転がり込み天幕を倒すパンの正体が「ギデオンの剣」だとわかりました。「ギデオンの剣」とは、彼が剣の達人であるとか、特別な名刀を持っている以上の意味があります。
ここは、「ギデオンが剣を持つので滅ぼされる」です。「剣」は、「…生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができる」(ヘブ4章12節)御霊の剣です。
しかし、だれがみことばを語っても罪を悔いて救われるとは限りません。同じみことばでも、だれが持つ(語るみことば)かによって違います。
「ギデオンの剣」とは、「ギデオン(300人の神の僕の心を持つ者)」が持つ「剣(みことば)」となります。水辺で自由に水を飲める時に、自分の渇きを満たすのみならず、神の戦いに備える僕がもつ剣なるみことばこそ、「生きており、力を発揮する」ものです。
神の剣を持つ友よ。あなたの剣の切れ味はいかがですか。その切れ味が鋭くないならば、剣ではなく用いるあなたの問題では!それは、あなた自身が神の両刃の剣(みことば)に十分に切り裂かれ、300人の勇士の心になっていないからではないでしょうか。
7章15節 ①
ギデオンは、その夢の話と解釈を聞いてひれ伏し、イスラエルの陣営に帰って、言った。「立て。主はミディアン人の陣営をあなたたちの手に渡してくださった。」
ミディアンの一兵士が見た、大麦のパンに自分たちが倒される夢がミディアン軍に恐怖を与えました。 彼らの恐怖は、パンの意味を理解したからです。パンは命であり、命は真理であり、真理は神のみことばであり、みことばは闇に歩む者を導く光です。そして、パン・命・真理・光こそ主イエス・キリストです。
「命(主イエス)は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている」とは、主イエスが暗黒に支配されている世を照らし、人間の罪の姿と神の救いを明確に示されたことを教えます。しかし、「闇は光を理解しなかった」と続きます(ヨハ1章4~5節参照)。
ミディアン兵に転がり込んだパンは、命を与えるためであったはずです。神は彼らをも愛するお方です。しかし、その命のパンを受け取らない者には、パンは真理となり剣となり裁きとなります。
「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった(光よりも闇を愛した・3章19節)。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(同11・12節)。
友よ。あなたは「命のパン」と「みことばの剣」のどちらを受け取りたいですか。罪をみことばの剣で切っていただき、命のパンを受け取ってください。
7章15節 ②
ギデオンは、その夢の話と解釈を聞いてひれ伏し、イスラエルの陣営に帰って、言った。「立て。主はミディアン人の陣営をあなたたちの手に渡してくださった。」
敵の陳地を偵察したギデオンは、300人の兵士たちに「…主は…ミディアン人の陣地を…渡してくださった」と確信をもって宣言し出陣しようとしています。
人生を歩むのに確信を持っている人は幸いです。経済界においても、政治の世界においても間違いないと確信を持っている人は強く歩めます。しかし、その核心が、どこから、だれから出て来たかは重要です。
「私はできる」という確信が、自己啓発や誰かから言われたから、多く学んで得た、などでは困ります。それだと、自分や他者や状況の変化により失せます。
神の子たちが持つべき確信は、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し」(ヘブ11章1節)にあります。ただしこの個所は、「信仰とは『神が私に』望んでいる事柄を確信し」と聖書全体から理解できます。それは、自分が神に望む事ではなく、神が私に望む事です。
ギデオンが得た確信は、神が彼に願っていることだと確認したからでした。そこに至るまで、ギデオンは神が本当の神かを試し、神が彼の献身を試し、ギデオンが神の御心を試し、神は本気で私に従う気があるか否かを300人にすることで試しました。
友よ。信仰の確信は、自分でも他者でも世からでもありません。ただ神から、神によって与えられます。
7章17節
彼らに言った。「わたしを見て、わたしのするとおりにせよ。わたしが敵陣の端に着いたら、わたしがするとおりにせよ。
いよいよ戦いですが、味方の兵士たちが持つ武器は、角笛と空の水がめと松明でした。そしてギデオンは、「私を見て、私のするとおりにせよ」と言いました。
人の生き方は、親からの遺伝子以上に学んだことが影響を与えます。韓国に一卵性の双子が生れ、1人はアメリカの里親に、1人は自国の親戚に育てられました。成長した2人は違う生き方を身に着けていました。
神の子の成長も、だれに目を注いで来たかが重要です。それは知識を超えた人格からの学びです。人格とは、その人と主イエスとの交わりから作られるので、より直接的な命を学ぶことになるからです。
神に取り扱われたギデオンを教会の中で得られる人は幸いです。しかし、それを超え本を通し、歴史上の神の人たちに出会うこともできます。彼らからは、知識以上に神に造られた聖なる人格を学ぶべきです。
友よ。歴史上のギデオンやアブラハムを始め、多くの先人が神の取り扱いを受けた出来事を、自分のこととして受け止め彼らを模範としてください。それは、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(マタ11章29節)という、主イエスに直接継がり交わるためです。
7章19節
ギデオンと彼の率いる百人が、深夜の更の初めに敵陣の端に着いたとき、…彼らは角笛を吹き、持っていた水がめを砕いた。
ギデオンの戦法は、見方を三組に分けて敵の陣地を囲み、空の水がめの中に隠していた松明をラッパの音とともに割り、松明の火を一斉にかざすことでした。敵は不意に大群に囲まれたごとく慌て逃げ出しました。
この戦法は、ペンテコステに似ています。神を信じた者の中には、聖霊の火が投じられています。しかしそれは、空の水がめの中の松明のようで、火を持っているが輝けないでいます。
それをパウロは、「私たちは、このような宝(聖霊の内住)を土の器(肉)に納めています。」(コリ4章7節)と表現しました。宝なる聖霊を肉で閉じ込める結果、「この並外れて偉大な力が神のものであって…」の言葉に続きません。これこそ、「聖霊を悲しませる」(エフェ4章30節)ことになります。
ギデオンと300人の兵士の水がめが割られ、火が輝き出た時、敵の大群は逃げ出すのが精一杯となり、敵味方が分からなくなり同士討ちで滅びました。
友よ。私たちは器(学歴・能力・物理的多さ・所属組織…)をかざして戦おうとします。しかし、小さな器であっても、壺(器・肉)が割れるならば、ラッパの音(みことば)と共に聖霊なる神が光として出て戦われます。霊の戦いは、器ではなく命で戦うのです。
7章19~21節
…彼らは角笛を吹き、持っていた水がめを砕いた。…敵の陣営は至るところで総立ちになり、叫び声をあげて、敗走した。
《…水がめが割れる…一人の宣教師の体験より》メーベル・フランシス(1880年―1975年)という女性宣教師がアライアンス宣教会から派遣され、29歳の時に来日しました。広島、庄原、福山、松山を中心に宣教師、戦時中は捕らえられ監禁されますが、本国にも帰らず1960年まで活動しました。
彼女は、自我に死に聖霊に働いていただく、というポイントを知っており、多くの人々を救いに導きます。やがて彼女の弟も宣教師として来日し、彼をリーダーに立てて宣教は実を結んでいきました。
しかしある時、自分の夫をリーダーに願う宣教師仲間の婦人が策略をめぐらし、メーベルがふしだらなことをしていると本部に密告し、調査団が派遣されます。
メーベルが失意の中で祈っている時、「あなたは何を言ってもいけません。人のうわさにも死なねばならない。自分を呪う者のために祈れ」との御声を聞きます。
そして祈る中で、深い真理を学びます。それは、「聖別の結果(聖霊の満たし)を求めていた自分。しかし聖霊に満たされる前にあること…それは自分を主の十字架に捧げるために自分の十字架を負うこと」でした。
愛する友よ。それは、壷(自我)が割れて、聖霊が自由に働けることです。それが敵を敗走させます。
7章22節
三百人が角笛を吹くと、主は、敵の陣営の至るところで、同士討ちを起こされ、その軍勢は…またタバトの近くのアベル・メホラの境まで逃走した。
ギデオンと300人は、10万を超える敵を撃ち破りました。と言うよりも、敵は同士討ちをし自滅して敗走して行きました。大リバイバルが始まりました。
歴史の中で、大小のリバイアバルが起こった記録が残されています。そこには法則があるようです。
ギデオンは、神の民が敵に逃げ隠れしている現実に失望していたから、神は彼に語り掛けた。神に期待し、確かめ、確信して300人からリバイバルが起きた。
主に贖われた友よ。リバイバルは外に興すのではありません。あなたの中からです。「我生きるにあらず、主イエス我が内に生きる」です。あなたからです。