21章3~4節
「イスラエルの神、主よ。なぜイスラエルにこのようなことが行われ、…一つの部族が欠けることになったのですか。…翌日、朝早く民は起きて祭壇を築き…」
神の民同士の戦いにより、ベニヤミン族は男たちから家畜にいたるまで残らず剣で撃たれ、気づいてみると部族が存続できないまでになっていました。この時、「…神、主よ。なぜ…このようなことが行われ…」との叫び声が上がりました。彼らは、自分の罪は取り上げずベニヤミン族の悪を責め、さらに神にも責任転嫁しています。ベニヤミンをここまで滅ぼしたのは、神の御心ではなく自分たちの罪だったのに。
このような聖書の記事を見た日本人は、「東洋の神は寛容だがキリスト教の神は他を認めない」と評します。日本の神々の寛容?さは、人が自分の都合のために造った神々で、自分の罪に対して甘い…寛容?です。
しかし、聖書の神は「義と聖と愛」の神です。これら三つは命を作る最も大事な要素です。神の罪に対する厳しさは、命への真剣さから出てきます。
友よ。あなたも「主よ、なぜ私に…行われ」と、自分の罪に見向きもせずに叫んだことはありませんか。ヨブも苦難の中から何度も、「主よ…なぜ」と叫びましたがやがて、「…私は塵と灰の上に伏し自分を退け、悔い改めます」(ヨブ42章6節)と告白しました。彼らは朝早く自己弁護の祭壇を築きましたが、本当の祭壇は自分の罪を献げる祭壇でなければなりません。
21章15~16節
民はベニヤミンのことを悔やんだ。主がイスラエル諸部族の間を引き裂かれたからである。…生き残った者に妻を与えるにはどうすればいいだろう。」
ベニヤミン族は、この戦いで兵士25,000人が死に、残った者たちも殺されました。残ったのはリオンの岩場に逃げた600名の男だけでした。これでは十二部族の中の一部族が欠けることになり、絶やさないために600名の男たちに嫁を得ることを考えます。
しかし、自分たちの娘は嫁がせないと決めたので、戦いの時自分たちに協力しなかった部族を攻め、若い娘を奪ってきます。それでも足らず、シロの祭りで踊りに来る娘たちを略奪してきました。ここに、罪がさらに大きな罪を作り出す方程式を見ます。
先に「主よ。なぜイスラエルにこのようなことが行われ…」と言い、今また「「主がイスラエル諸部族の間を引き裂かれた」と自分の責任逃れは止まりません。「レビ族の男が側女を得た」最初の罪を、その時に悔い改めて正していたならば、これほどの死者と憎しみを受け取らずに済んだはずでした。
友よ。「気づかない罪」があります。それが「原罪」です。これに気づけないので現実の罪も見えません。人類を支配する原罪を理解するならば、他者の罪も自分の罪も正しく見えてきます。すると、犯した罪も、他者から受け取った罪も解決主のところへ持って行けます。人類の問題の解決は、そこから、だけです。
21章25節 ①
そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。
エジプトから小羊の血により解放され、荒れ野で養われ、ヨルダン川を渡りカナンの地に入った目的は、神がアブラハムを導いた地を神の国にするためでした。そのために、各部族に嗣業の地が割り当てられ、部族ごとに戦い獲らねばなりませんでした。
ヨシュアは高齢となり民に告別説教をします。その中で、「あなたたちは主を畏れ、真心を込めて真実をもって彼に仕え、…エジプトで持っていた神々を除き去って主に仕えなさい」と偶像礼拝を何度も戒め(ヨシ24章14・20・23節)、「民をそれぞれの嗣業の土地へ送り出し」(28節)百十才の生涯を閉じます。
神を信じる信仰とは、徹底的に神の業を受け取ることです。罪の赦し神の子の命を受ける、永遠の御国への凱旋、全ては神が備えた御業です。しかしそれは、神の恵みを受け取る御利益信仰とは違います。
友よ。「あなた方はキリスト・イエスに結ばれて、このキリストは私たちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いになられました」(Ⅰコリ1章31節)のみことばで、一番大切なのは「イエスに結ばれて」です。 結ばれることこそ信仰です。結ばれると、「義=原罪の救い、聖=肉と世からの救い、贖い=霊の体へ」の三つの恵みを受け取ります。キリスト御自身を持つので、彼の恵みを自分のものとして持つのです。
21章25節 ②
そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。
ヨシュアに率いられてヨルダン川を渡りカナンに到着した頃は、「主がユダと共におられ…」(1章19節)。「ヨセフの一族も…主は彼らと共におられた」(22節)とあるように、神と共に歩んでいました。 ヨシュアの召天後、士師が立てられて何とか神に戻されて歩み続けることができました。しかし士師たちもいなくなると、神を忘れた民となっていました。
士師記のメッセージは単純でした。
士師記の中には右のパターンが随所にあり、士師としてエフド、デボラとバラク、ギデオン…サムソンと十二名の士師たちが登場しました。しかし、士師たちがいた間はそれでも良い方で、彼らがいなくなった17章からは、「イスラエルには王がなく…」を繰り返すだけとなってしまいました。
ところで友よ。イスラエルの姿こそ自分であると認めていますか。聖書が何度も繰り返すのは、それだけ誰でも、何時でも、何時までも陥る危険があるからです。士師(牧師や兄弟姉妹)頼りの信仰ではなく、イエスを「私の主」とする信仰者となってください。
21章25節 ③
そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。
ヨシュアの告別説教は、「あなたたちは主を畏れ、真心を込めて真実をもって彼に仕え、…エジプトで持っていた神々を除き去って主に仕えなさい」でした。
そしてイスラエルの罪は、「偶像礼拝」からでした。それは、主なる神を捨て他の神を信じる、というものではありません。主を信じつつも偶像も礼拝することで、それはクリスチャンも同じ罪を犯します。
神を信じる者の偶像礼拝は、「魂のことについては十字架と復活の主以外に救い主はいません。しかし、この世で生きて行くためには、健康、学歴、収入、家族、他者との付き合い…」と出てくる肉の思いからです。
この世の常識は、量(多く持つこと)により質(命)を作ることですが、世には人の本当の命はないので満足はありません。むしろ、質(命)が量を決めます。それは、神の命(質)を持つと、少ない収入、無学、不健康すらも有益なものへ変えられるからです。
「私たちは見えるもの(量)ではなく、見えないもの(質・命)に目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」。
友よ。量が質をではなく、質が量を満足させます。「私は、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えた。…私を強めてくださるお方のお陰で…」。主だけを見つめてください。全てが満たされます。
21章25節 ④
そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。
人の存在を、①霊、②心(知性・感情・意志)、③肉体、④他者、⑤自然界、と幾つかに分けられます。
神は土の塵(②~④・自然生命)で人を造り、その人をエデンの園(⑤・自然界)に置かれました。しかし、それだけでは人は生きておらず、「命の息(神の霊)」を吹き入れられて生きる者となりました。 それは、発電所を完成(②~⑤)したのに発電できない状態でした。人の発電所で燃やすエネルギーこそ「①霊」です。その「霊・神の命」が心に流れ、心から体へ、体から他者へ、そして自然界流れて行きます。
上から与えられる命の質は「真理・義・聖・愛」です。この四つが、心②と体③と人間関係④と自然界⑤を正しくコントロールしてくれます。その上からの命こそ、「真の王・イエス」です。
しかしほとんどの人は、⑤から①へ進んで幸せになろうとしますが、その姿こそ「王がいない」状態です。 神の霊なる聖霊を受け取り、「霊の導きに従って歩みなさい」(ガラ5章16節)の勧めに従い続けるならば、「聖霊に満たされ(支配)」(エフェ5章18節)た人生を歩むことができます。
友よ。主イエスは「愛の王」です。このお方の愛に束縛される歩みこそあなたを自由の人とします。