キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

士師記 第1章

1章1節 ①

ヨシュアの死後、イスラエルの人々は主に問うて言った。「わたしたちのうち、誰が最初に上って行って、カナン人を攻撃すべきでしょうか。」

旧約聖書は、歴史、律法、文学、預言などから成り立っています。それら全ては、主イエス・キリストと彼の御業、そして神に向かう人の姿を啓示しました。 

モーセに率いられて出エジプトをし、荒れ野で四十年間過ごした時の民は、神の国とこの世の間でさ迷っていました。それは、「神の子の命を持っているのに、神の子としてではなくアダムの子として生きている」クリスチャンの姿を表しました。

そこからの解放は、律法(モーセ)ではなく、ヨシュア(ヨシュア=新約ではイエスに相当)が必要でした。モーセはそれ以上進むことはできませんでした。

民はヨシュアに導かれヨルダン川を渡りました。モーセによる紅海は、水のバプテスマによる罪(原罪)からの救い。ヨシュアによりヨルダン川を渡ることは、肉に死に霊に生きる聖別を啓示していました。 

ヨシュアの死後、各部族に割り当てられた地を占領すべく、戦いに出て行こうとしています。その戦いは、肉の人から霊の人へ移るための戦いでした。士師記は、ヨシュアの死後約二百年の歴史です。

友よ。この戦いに誰が先に出て行くのか、勿論、戦いの将イエス・キリストでなければなりません。霊の単純で最も大切な法則は、イエスを主とすることです。

1章1節 ②

ヨシュアの死後、イスラエルの人々は主に問うて言った。「わたしたちのうち、誰が最初に上って行って、カナン人を攻撃すべきでしょうか。」

イスラエルの民は、ヨルダン川を渡った後、エリコを始め次々とカナンの地を占領して行きました。その時は、指導者がヨシュアだったから、と言えます。しかし、優れた指導者ヨシュアはいなくなりました。

ヨシュアは、“肉から霊に聖別されるための勝利の法則”を知っていました。まず、ヨルダン川を渡ることでした。それは、自分の肉に死ぬことでした。そしてそれは一回性のものではなく、「日々・常に」でなければなりませんでした(ルカ9章23節参照)。

彼は、聖別の原点であるヨルダン川を渡ったことを記念とし、十二部族を表す十二個の石を川底に積み上げました(ヨシュア4章参照)。それは、民が川底である「肉の死」に留まり続け聖別の法則を教え記憶させるためでした。パウロも、「兄弟たち…。わたしは日々死んでいます」(Ⅰコリ15章3節)」と記しています。

さらに、ヨシュアは戦いに出て行く陣地をギルガルに定め、ギルガルから出陣しギルガルに戻って宿営しました。肉に死ぬ原点から出て、戦い、そこに帰りました。

友よ。信仰生活にも霊の法則があります。ヨシュアの名は、新約ではイエスのことでした。信仰の戦いの勝利は、自分の知恵や力にはありません。リーダーと共に戦ってこそ勝利を得ることができます。

1章4節

ユダが上って行くと、主はカナン人、ペリジ人を彼らの手に渡された。彼らはベゼクで…敵を撃ち破った。

イスラエルの十二部族は、それぞれにくじで割り当てられた嗣業の地を獲るべく出かけて行きました。その中で嗣業の地を獲たのはユダ族で、その後にはヨセフの一族(マナセとエフライム)が続いたぐらいでした。

しかし多くの部族では、
  • マナセ…「占領しなかった。徹底的に追い出すことをしなかった」(27~28節)
  • エフライム…「追い出せなかった」(29節)
  • ゼブルン…「追い出さなかった」(30節)
  • アシュル・ナフタリ…「追い出さず、彼らの中に住み続けた」(31~32節)
と記されます。

また、ルベンやガドなどは、最初からヨルダン川東側に留まった敗北者たちでした。

なぜユダ族と他部族に違いが起こったのでしょうか。それは冒頭のみことば、「ユダが上って行くと、主は…彼らの手に渡された」が教えます。すると、ユダの勝利は主が戦われたから、となります。でも主の御心はユダだけでなく全部族に勝利を与えたかったはずです。

かつて民はヨシュアの前で、「私たちの神、主に私は仕え、その声に聞き従います」(ヨシ24章24節)と約束しました。その約束を守り通したか否かこそが、勝利あるいは妥協や敗北という結果を招いたと言えます。

友よ。主は皆に公平ですが、私たちの主への思いは千差万別です。「ユダが上って行くと」の「上る」は、「主に上る」ことでは!すると主が戦い勝利を得させます。

1章12節

カレブは、「キルヤト・セフェルを撃ち破って占領した者には、娘アクサを妻として与える」と約束した。

カレブは、85才にしてヘブロンという困難な土地を占領した信仰の勇者でした。彼は、そこからさらに占領地を広げようとしています。

主の御心を「受け取る」そして、それが「実現する」ことは必ずしも同じではありません、神の御心を確信することを第一の信仰と呼ぶなら、それを実現させるための働きは第二の信仰とも言えます。

神の嗣業は、受け取ったら自動的に実現するわけではありません。神は、ダマスコ途上のパウロと出会い、彼を使徒として召しました。彼はそれを受け取って伝道に進みますが、使徒として皆に認められて活動したのは十数年後でした。御心が成就するには、その人自身が信仰によって戦わねばなりません。

カレブが、神からヘブロンを嗣業の地として受け取ったことが第一の信仰でした。そして、強敵アナク人の子孫を追い払い、さらにデビルやキルヤト・セフェルを攻め取ろうとするのは、第二の信仰と言えます。

友よ。あなたにも神は嗣業(家族・賜物・使命など)をすでに与えていますが、それを手に入れましたか。「神から生まれた人(神の子となった者)は皆、世に打ち勝つ(打ち勝てる)からです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です」(Ⅰヨハ5章4節)。

(注)( )内は筆者

1章13節

カレブの弟ケナズの子オトニエルがそこを占領したので、カレブは彼に娘アクサを妻として与えた。

カレブは、キルヤト・セフィルを攻めるにあたり、そこを「撃ち破って占領した者には、娘アクサを妻として与える」と約束しました。彼の言葉は、報酬による誘いでしょうか、あるいは信仰なのでしょうか。

それに応えキルヤト・セフィルを獲ったのは、カレブの兄弟ケナズの息子オトニエルでした。その人がカレブの甥子であったことは、カレブの信仰が彼の一族の隅々まで及んでいたことがわかります。

カレブがこのような約束をしたのは、報酬を与えて人を用いようとしたのではなく、娘を信仰の人に与えたかったからではないでしょうか。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません」(ヘブ11章6節)。

さらに、「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それは私たちの信仰です」(Ⅰヨハ5章4節)。信仰と勝利は結び付けられます。

カレブは40才の時にヨシュアと共にカナン偵察に遣わされ、40年過ぎても変わらず強い信仰を持ち続ける姿に、彼の一族は教えられ励まされていました。その中で、弟のケナズもその息子(甥)のオトニエルも立派な信仰者に育てられていました。

友よ。あなたも家族の模範として立てられています。あなたが自分の嗣業を勝ち取ると(聖霊の満たし)、あなたの家族も信仰によって勝利を得ることができます。

1章14節

アクサが嫁いで来ると、オトニエルは父に願って耕地をもらうように彼女を促した。

カレブは約束通りキルヤト・セフィルを獲ったオトニエルに娘アクサを与えました。若夫婦は、父カレブに約束の報酬としてネゲブの耕地を求めました。さらに彼らは、上と下のため池も求めました。

信仰者にとっての耕地(畑)は、豊かな作物を得る場所を超えて御霊の実を結ぶ場所です。かつて、カレブは自ら進み出てヨシュアにヘブロンの地を要求しました。そこはエルサレムよりさらに高地で、作物を収穫するには不向きな荒れ果てた土地でした。

御霊の実は、「愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラ5章22節)とありますが、これらの実は安逸な生活の中ではなく、霊の戦いを経てこそ結ぶことができます。

御霊の実は、自分の能力によって得るものではなく、神御自身に造っていただかねばなりません。それは、戦いの多い困難な環境でしか結べません。

なぜなら、「生きているのは…私(肉)ではなく…キリストが私の内に生きる(聖霊)」ことだからです。カレブが娘夫婦に与えた所は、「ネゲブ沙漠」でした。そこは自分の力で生きて行けない、ひたすら主により頼まねばならないところでした。

友よ。あなたが神に求めているのは、自分の力で生きられる世という耕地ですか、試練という耕地ですか。

1章15節①

彼女は言った。「…水溜めも添えてください。」カレブは上と下の溜池を娘に与えた。

カレブの娘アクサは、ネゲブの土地を受け取る約束を得ると、ため池(泉)も求めました。カレブは畑と共に泉も与えました。水の少ない高地ヘブロンに住むカレブが、娘夫婦に溜池を与えることができたことは、多くの溜池を所有していたからです。

バプテスマのヨハネが洗礼を授けた所を、「…そこは水が豊かであったからである」(ヨハ3章23節)と記されています。ヨハネが多くの人に洗礼を授けることができたのは、彼が豊かな水(神の命の水)を持っていたから、と言うこともできます。

同じように、カレブはヘブロン(神との交わり)に住んでいたからこそ、娘夫婦に溜池を与えることができました。

この水は、「エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川になり…。第一の川はビション(豊か)、第二の川はギホン(恵み)、第三の川はチグリス(力)、第四の川はユーフラテス(結実)…」(創2章10~14節)とある、神から直接流れて来る聖霊という水です。

友よ。あなたはだれかに分ける水溜を持っていますか。その水溜は、自分自身が三位一体の神との豊かな「継がりと交わり」によって持てるものです。そしてその水は、大方の場合、あなたと言う「水道管」を通して他者に流れて行くことを忘れてはなりません。

1章15節 ②

「私にネゲブの地をくださったのですから、水溜も添えてください。」カレブは上と下の溜池を娘に与えた。

オトニエル夫婦は、ネゲブの砂漠へ赴くことになりました。砂漠は厳しい人生を表しますが、私たちの環境がいかに厳しくても、そこには泉があります。

生命には、「光」と「水」が必要です。光は上から臨み、水は下に隠されています。

主は、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハ8章12節)と言われ、また、「わたしの与える水を飲む者は決して渇かない。…その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(4章14節)とも言われました。

F・B・マイヤー師は次のように書いています。 「その泉が上と下であったということは意味深長である。主の日に丘を登って教会堂の礼拝に汲む静かな泉と、やがて下って仕事の喧騒の中に発見する泉と。賞賛の上の泉と謙遜の下の泉と、健康で汲む泉と病苦の中で聞く泉と。賛美の泉と悔恨の泉と。この上の泉と下の泉と」。

友よ。カレブが娘夫婦に与えたのは上と下の泉でした。それは、喜んで受け取る恵みと、暗く沈んだ悲しみの中で受け取る恵みです。上の泉だけなら高慢になり自分を忘れ、下の泉だけならば主から離れてしまいます。慈しみと真(まこと)に満ちる天の父は、だからこそ、上と下の両方の泉を持たせてくださるのです。

1章15節 ③

「私にネゲブの地をくださったのですから、水溜も添えてください。」カレブは上と下の溜池を娘に与えた。

カレブが与えた上の泉は光と復活のキリスト、下の泉は十字架のキリスト、とも言えます。

目があっても光がなければ見ることはできません。人は自分が何者か分からず苦しむのは、そこに真理の光が無いからです。光によって人は理解することができます。「私は新しい掟として書いています。…闇が去って、既にまことの光が輝いている」(Ⅰヨハ2章8節)。

聖書こそ真理の光であり掟(基準)です。また、光の中を歩むとは、復活の命で生きることです。

下の泉は、地の深い所にある十字架のようです。一粒の種は、土に埋められ、泉からの水により発芽します。人も、自分を保つことを止め、罪を悔い改めて神の前にへりくだる時、十字架の血潮が染みわたり、罪が赦されます。パウロはそのことを、「愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか」(Ⅰコリ15章36節)と言いました。

地の下の泉(水・命)を受け取り、上の泉の光(基準)に照らされて自分が破れます。その破れから、主の十字架の血潮が働きだします。上の泉(光・基準)は下の泉(十字架)に導き、下の泉は上の泉(復活)へ押し上げます。

神に上と下の泉である主イエスを与えられている友よ。あなたは両方の泉から命を受け取っていますか。

1章19~36節

主がユダと共におられたので、ユダは山地を獲得した。だが、平野の住民は鉄の戦車を持っていたので、これを追い出すことはできなかった。…

ヨシュアに導かれてカナンに入り、十二部族それぞれに嗣業の地が割り当てられました。以後、各部族単位で嗣業の地を獲るべく出て行きますが、記録を見るとユダ族以外はほとんど敗北状態でした。

  • ユダ「エルサレムを攻撃し…占領…」 〇
  • ヨセフの一族(エフライム)「町を剣で討ったが…」 △
  • マナセの半部族「その周辺の村落…占領しなかった」 △
  • エフライム「カナン人を追い出せなかった」 ×
  • ゼブルン「ナハラルの住民を追い出さなかった」 ×
  • アシュル「…追い出さず、彼らの中に住み続けた」 ×
  • ナフタリ「カナン人の中に住み続けた」 ×
  • ダン「アモリ人はダンの人々を山地に追い込み…」 ×

さらに、ヨルダン川の東側を自ら選び残ったルベンやガドやマナセの半部族は部族の体すら失います。

これらの部族の差は、与えられた嗣業の地は棚から牡丹餅のように受け取るものではなく、戦って勝ち取るべきものでした。ユダ族やヨセフ族は戦ったことが記されますが、他部族にはその記述が見当たりません。

神の子とされた友よ。神の子の命は確かにあなたの中にありますが、その命で生きるか、肉のアダムからの命(肉)で生きるかは、霊の戦いにかかっています。肉(自分)に死に霊(神)に生きる戦いです。

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