彼らは自分たちをエジプトの地から導き出した先祖の神、主を捨て、他の神々、周囲の国の神々に従い、これにひれ伏して、主を怒らせた。 …主はイスラエルに対して怒りに燃え、彼らを略奪者の手に任せて、略奪されるがままにし、周りの敵の手に売り渡された。彼らはもはや、敵に立ち向かうことができなかった。 …主は士師たちを立てて、彼らを略奪者の手から救い出された。
士師記2章12~16節彼らは自分たちをエジプトの地から導き出した先祖の神、主を捨て、他の神々、周囲の国の神々に従い、これにひれ伏して、主を怒らせた。 …主はイスラエルに対して怒りに燃え、彼らを略奪者の手に任せて、略奪されるがままにし、周りの敵の手に売り渡された。彼らはもはや、敵に立ち向かうことができなかった。 …主は士師たちを立てて、彼らを略奪者の手から救い出された。
士師記2章12~16節ヨセフがエジプトの宰相となった時、イスラエルの民はカナン(神の約束の地)からエジプトに移住しました。エジプト人は彼らを「へブル人(川向うから来た人・外国人)」と呼びました。神の民は、それから400年間もエジプト(この世)に住み続けました。
そこに解放者モーセが遣わされ、諸々の奇跡を伴う神の力により、紅海を渡ってエジプトから離れカナンに到着します。そこで、律法、礼拝(儀式)、神の民の生活習慣などを教えられました。民はそこで40年過ごしますが、彼らの生き様はおおよそ神の民に相応しくありませんでした。エジプトを慕い、モーセに逆らい、偶像まで造り出します。しかし、神は忍耐強く導き続けました。
やがてモーセに代わりヨシュアに導かれヨルダン川を渡り、約束の地カナンに入ってきました。彼らの行く手を塞ぐエリコの城壁を12部族一丸となり攻略します。さらに、力を合わせてエジプトにいる間に住み着いたカナン人たちと闘いました。そして指導者ヨシュアの召天を迎えます。ヨシュアの告別の言葉をもってヨシュア記は終了します。
その後、イスラエルは神に割り当てられた嗣業の地を獲るために部族ごとに戦います。その時の神の霊と賜物を受けて戦った記録が士師記です。
士師記には、12人の士師たちが登場します。士師の「士」は兵士の士(戦いの長)、「師」は教師の師(霊的指導者)で「裁き司」を表しました。ヨシュアの死後、サウル王が王政を敷くまでの約200年間、彼らがイスラエルの民の裁き司として立てられました。
士師記のストーリーはとても単純です。
まさに士師記のメッセージは、「罪・罰・悔い改め・救い」という聖書全体を貫くストーリーです。
人間の最大の罪は、殺人や嘘や愛の不足でもなく、「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた」(21章25節・17章6節・18章1節・19章1節)の言葉こそ、罪の中の核心的罪であることを教えます。
時代が違い、民族が違い、登場人物が違っても、人間が演じる「人生劇場」のストーリーは「罪・罰(苦しみ)・悔い改め・救い」です。真の神を主とし、その方に聞き従うことこそ人の正しい人生です。
エジプトの400年間は、この世の君パロに支配され、レンガ造りを強いられた罪の奴隷でした。そこからの解放は、「命には命をもって償う」子羊の血による贖いにより実現しました。さらに、紅海を渡ったことは信仰の告白のバプテスマで、罪と死の世界から解放され、霊の救いを受け取ることでした。荒れ野の四十年は、神の霊の食物・マナを食べつつも、エジプトの食物を慕う「肉と霊の戦い」の年月でした。それは、十字架による罪の赦しと復活の命を受け取りながらも、堕落したアダムの性質(肉)を持って生きる肉のクリスチャンの姿でした。
肉のクリスチャンを解放する道がヨルダン川を渡ることでした。紅海は「原罪」からの救い、ヨルダン川は「肉の罪」からの解放です。双方の共通点は、自分に死にキリストに生きることです。 そのことを、紅海は「主の十字架」に付くこと、ヨルダン川は「自分の十字架」を負うこと」と言えます。自分の十字架とは、負わされた病や家族や人間関係の痛みなどを超えて、主に対する「服従・従順」のことです。信仰の成長は、自動的に受け取るものではなく、むしろ痛みや悲しみを通して受け取る恵みです。
エジプト(罪の支配)、荒れ野(霊と肉の同居)、カナン(聖霊の支配)・・・。士師記は、「嗣業の地を獲る」記事です。その中での民の姿を自分の信仰の姿として学んでください。
※No 9「ギデオンの剣②」は、録音があまり良い状態ではありませんがアップさせていただきました。
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