ヨルダン川を境とする東側の人々は、自分の都合を優先させ「神様から示されていない祭壇を築く」という外面的な働きにより、一致をはかろうとしていました。これらの人々は、依然として荒れ野にとどまっているクリスチャンの姿を表していました。エジプトは出たけれど、ヨルダン川を渡ることができないクリスチャン、つまり神さまを信じたが、聖霊の支配に入ることができないクリスチャンの姿でもありました。
それに対し西側の人々の行動は、性急すぎました。「相手を正すこと」と「相手を負かすこと」を取り違え、軍隊までを召集しました。主イエスは、「あなたがたは地の塩である」と語られました。塩は、相手の中に適度な量が溶け込むとき、その力を発揮します。塩が塊のままでは、相手を支配し殺すことになります。相手に溶け込むには、「自分の十字架を負い主に従う」という愛の業が必要になります。
ヨシュア記講解メッセージNo.29「キリスト者の一致」を文章化したものです。どうぞ、あわせてお使いください。
教会の中ではクリスチャン同士が、家庭においては夫婦、親子が、それぞれが一致しようと互いに干渉し合います。しかし多くの場合、互いの間に一致を持てず苦しんでいます。
人間と羊はよく似た性質をもっています。その一つに、「臆病」があります。人は、どんなに多種多様な知恵や知識、そして力を身につけたとしても、それにより平安を得ることはできません。野生動物の中には、虎のように一匹で生活するものもいますが、人はそのように生きることはできません。そこで人は、「社会(集団)」を作り、互いに依存しあって生きていこうとします。
そもそも人は、「愛によって生きるように」と、神さまにより創造されました。ひとりで生きるようにではなく、「人とのつながり」により生きるよう造られました。「人のいのち」は、個人の中にあるのではなく、他者との「つながり」と「交わり」の中にあります。人は誰かと共に生きることを喜びとし、なによりも神さまとつながり、そこから家族や兄弟・姉妹とつながり生きるときに、人は初めて平安を得ることができるようになります。
人は、集団(社会)の中でしか生きられないので、その分だけ「他者」のことがとても気になります。なぜなら人は、自分の力だけで生きることができず、他者に自分を守らせなければならないからです。そのため、できるだけ自分に都合のよい環境を作り安心を得ようと、社会や他者に干渉します。それらすべては、自分を守るためです。
西側の人々がとった行動の根底には、「この干渉」があり、そこからくる行動では、問題を根本から解決することは叶わず、むしろ争いを生み出し一致は出てきません。
人は、生活を共有していない、利害関係のない人と争うことはしませんが、一旦そこに利害が発生すると争いが出てきます。ですから、なおさら共にいる人との間では、「常に争いが起こる可能性がある」ということです。そのような争いを避けるには、家族や兄弟姉妹を持たず、また教会や会社に行かないようにする以外にありませんが…それはできないことです。それを完璧に実行するためには、「死」以外に解決の道がないことになります。
12節には、「イスラエル(西側)の人々は…軍を差し向けることにした」とありますが、この節から、良い面と悪い面を見ることができます。
良い面として、彼らには「信仰についての厳しさ」、そして「愛(私とあなたの関係)における厳しさ」があります。それは、何が罪なのかを判断し、その罪に対し非常に厳しい態度で臨んでいるということです。その厳しさについては、私たちも学ばなくてはいけません。
ここで少し考えてみましょう。もし、兄弟姉妹のひとりが、明らかにみことばから外れた行いをしているとき、その人に対し軍隊を差し向けるほどの熱意を持つことができるでしょうか。
みなさんは、「寛容・寛大」などの美名に隠れ、「愛の行為に欠ける」ということはないでしょうか。もし、私たちが本気で誰かを愛そうとするならば、そこにはいつも「感情以上に真理が優先されなければならない」という厳しさが伴います。なぜなら、「真理による愛」が神さまの法則だからです。
「あらわな戒めは、隠された愛にまさる。愛する人の与える傷は忠実さのしるし。憎む人は数多くの接吻を与える」(箴言27章5・6節)この文章の「憎む人は…」とは、たとえば誰かが罪を犯そうとしているとき、あるいは犯しているとき、「人間は弱いのだからしょうがない」=「許容していく人」のことです。しかしそれは偽りの愛です。
それに対して「愛する人」は、「あらわに戒め」ていきます。「あらわに」とは、「はっきりと、相手に気付かせる形で」ということです。確かに、私たちは「背後で祈る」ということから始めていくべきですが、それだけではなく、その人に対し「神さまの御心は、こうではないだろうか」とか、「あなたは、その御心からズレてしまっているのではないだろうか」と戒めていくべきなのです。
「愛する」とは、ある面で相手に傷を与える場合もあります。誰でも間違っていることを他者から指摘されると、当然そこは「傷」になります。しかし、その「傷」によってこそ、その人は内側に溜まっている「罪という膿」を外に出すことができるのです。本当に悪い部分を治すには、手で優しくなでまわし肌触りの良い薬を貼ってあげるのではなく、鋭いメスを入れることも必要です。
箴言27章にはさらに続けて、「友人の優しさは自分の考えにまさる」(9節)とあります。この節は、口語訳では「しかし、魂は悩みによって裂かれる」となっています。この新共同約聖書の「友人の優しさは」の言葉は、意味をわかり辛くしていると思います。むしろ、「友人の愛」または「義しい(ただしい)愛」とした方がいいでしょう。
ここでの「愛」は当然、「厳しさを伴う本当の愛、真理による愛」のことです。2つの聖書をつなぐと、「友人の愛による厳しさは、魂が裂かれるほどのものだが、しかし、それは自分の考えにまさる」となります。
もし、わたしたちが「この部分」をおろそかにするならば、真実に愛し合うことなど決してできません。皆さんはどうでしょう。「罪に対し軍隊を差し向けるほどの熱意」を持って、兄弟姉妹と関わっているでしょうか。
「それなのに、お前たちは今日、主に背こうとしている。今日、主に逆らうなら、明日、イスラエルの共同体全体に御怒りが下るであろう」(18節)。西側の人々の行動が、この言葉から「東側の人々を愛し、彼らの滅亡を助けるためではない」ことがわかります。彼らは東側の人々の罪のため、自分たちまで神の怒りが及ぶことを恐れ、避けようとしていただけであり、彼らを愛していたからではなく、むしろ「彼らのせいで自分たちまで傷つきたくない」という思いがありました。それは、自己中心という罪から出てくる思いと行動です。
教会でも、同じようなことが起こっているのではないでしょうか。たとえば、ある人が教会を離れようとしているとします。そのような場合、「あの人が教会から離れてしまうのは困る」という思いは、その人に対する愛から発せられるのではなく、「あの人が離れると、奉仕する人がいなくなる。献金も減ってしまう。その穴は私たちが埋めなければならない…」という「自己中心」から出てくる考えです。ですから、「相手を本当に愛しているのか」それとも「自分のためなのか」を常にチェックしなければなりません。西側の人々の行動は、実にこの「罪からくる悪い面」によってのものでした。
では、聖書に示されている「一致」とは、どのように作られていくものでしょうか。それは、「教会の基本信条など目に見えるもの」あるいは「共同体やグループの中に入る」ことで作られるものではありません。
「真実の一致」とは、はっきりとした中心・中枢があり、それにより全体が関連付けられていく「中枢による一致」=「有機的※一致」であると言えます。そのことをⅠコリント12章では「キリストの体」と表現しています。
「頭であるキリスト」という中枢により、肢体である私たちは一致し、それぞれの働きが関連付けられ一人の体となります。それこそ、「いのちの一致」と、いえます。しかし、私たちは「形」や「働き」に目が奪われやすく、特に物事が順調に進んでいる時などは、その中の「いのち」の存在に注意を払うことを怠り、忘れがちになるものです。たとえば、教会に献金が充分に与えられ、教会運営も順調に進み、さらに他の教会からも会員が移ってきて…など、「私たちの教会はうまくいっている」と映るようなときは、危険な状態が見抜けないものです。
いつの間にか「これがある、あれもある」と、満足してしまいますが、それは外面的な一致でしかありません。「クリスチャンの一致」は、心よりもっと深い「霊における一致」でなければなりません。「心による一致」は、話し合いや共同作業で作れますが、「霊による一致」は、それらで作ることはできません。「霊における一致」は、聖霊なる神さまに作っていただくものです。なぜなら、霊のものは霊によってのみ完成するからです
※有機的…生き物の体のように多くの部分が集まり、一つのものを形成し、一つの中核的な要素を中心に、全体が関連を持って働く様子
教会で役員会や長老会が行われると、連絡事項やその他の事務的な問題に多くの時間を割き、祈りをその最後に付け足しのように加えている、という会合があることをよく見聞きします。
しかし、本来あるべき教会の姿は、「この教会で起こっていること、必要なこと」を「霊的な意味において分析し、明らかにしていくもの」でなければいけません。また、神さまから与えられたビジョン遂行のためにも、切に祈らなければなりません。それは教会として、中枢からの指示に忠実であろうとするために必要なことだからです。
話し合いにより見えてくることは、心の部分までのことです。そして心の部分には、いつも自分の利害が顔を表わし論争となります。また逆に、争わずにうやむやにして自分の心を守ろうともします。
いずれにしろ、そのような関係を突き抜けなければ、真の一致には繋がりません。何時間、話し合ったとしても、その最後に祈る時間をあまり設けない…。それでは、神さまの法則に従うことにならず、「聖霊による一致」を作ることはできません。
これは、教会の役員会やリーダー会の中だけのことではなく、兄弟姉妹の関係においても「示される度に祈りあっていく」、それを徹底していくことから教会の一致は始まります。そうでないと、「力関係・利害関係・多数決」が教会を支配するようになります。
聖書に示されている「有機的一致」とは、「それぞれが頭であるキリストに従う」という一致であり、結果として「互いが繋がり協力し合えるようになる」ということです。イエス・キリストは、わたしのことも、あの人のこともご存じです。しかしわたしは、あの人のことをほんのわずかしか知りません。ですから、人が人を教え、正すことができないのですが、主には、それがおできになります。そして、各自が聖書の言葉にあるように、「主との関係で正しくあること」から良きことが始まっていきます。
たとえば、神さまとの個人的な関係を持てない人が教会の長老であったなら、何が起こるでしょうか…。長老に必要なことは、この世の政財界に長けていることではなく、「霊的である」ということです。同様に夫婦においても、それぞれが霊的な意味で夫、妻という立場で祈り合うことがないなら、教会で中心的なことはできないのではないでしょうか。では、親として「子供を本当に神様の子にしなければならない」ということを放棄している人がいるとしたら、その人は教会の中心的な働きをすることはできるでしょうか。それは無理なことです。なぜなら、その人自身が中枢である主イエスに従っていないからです。
今回の講解準備をするにあたり、「教会の一致とは何だろうか」ということを改めて考えていく中で、強く示されたことがありました。それは、「中枢の指示に従い、自分の立場にしっかり立つ」そうする時、「一致することができるようになる」ということでした。
手と足を見ても、その役割は随分と違います。必要としない限りは、足が物を持つことや手で体を運ぶことはできません。しかし、手はモノを持つことができ、足はその手を運ぶことができます。足によって運ばれることで、手はさらに何かを持つことができます。手と足は離れた肢体ですが、頭に従うときに一致することができるのです。
すい臓のことを考えると分かりやすいと思います。すい臓はとても大切な役割を担っています。十二指腸に対し5種類の分泌液を送り、養分の分解・吸収を助けています。肝臓にはインスリンとグルカゴンを送り、人間のエネルギーとなるブドウ糖やグリコーゲンを作ることができます。しかし、すい臓は単独で生きているのではなく、他の器官によって生かされています。
「キリストに従い、キリストを愛する」ということは、必ず「他者を愛し、互いに生かし合う」という結果を生み出します。
人間の体の中で、唯一自己主張するもの、それは癌です。「癌」は、脳の指示から離れた細胞ともいえます。同じ腫瘍でも、良性のものはある程度大きくなると、それ以上は大きくならないそうです。しかし癌は、コントロールされるということから離れているので、どこまでも自己中心的に広がっていきます。それにより相手(良い細胞や自分が取り付いた臓器)を殺してしまい、その結果、自分も死んでいきます。
自己主張がもたらすものは「死」であり、キリストに従うときにもたらされるのは「いのち」です。「神を愛すること」と「隣人を愛すること」を分けてはなりません。それは同じことなのです。
あるカトリックの神父と生徒の対談という形で書かれた本があり、その中にこのような記事があります。
ケルンの人々は、自分たちも苦しいという状況の中にありながらも、神様の御心に従って生きました。そのことのゆえ、彼らが受け取れたものは、本当に大きなものでした。
「クリスチャンの一致」は、中枢に対し自分の置かれた立場で「自分になる」ということです。夫は主により夫に、妻は主により妻に、同様に親となり、子となり、キリストの命によって生きようとする…。完全にできる人はいませんが、そのように生きようとしていく時、聖霊なる神さまが人々に力を与え、一致を与えてくださいます。
教会も、その教会として与えられているキリストの体の一部分ですから、そこに属すべき人もいれば、他の部分に属すべき人もいます。それらのことがキリストの御心により判断されていくのなら、それは素晴らしいことだといえるでしょう。
一組の夫婦が自分の子供を「神さまの子、神さまの弟子とする」ため、懸命に生きているとします。このような場合、往々にして彼らは教会の奉仕に参加できないことがあるでしょう。しかし、彼らの子供たちが10年、15年、20年経後、キリストの弟子となり、大きな働きを担っていくことができます。教会の奉仕は、それからでも遅くないのです。
働き手の少ない小さな教会ほど、目の前の必要に迫られ「あるべき教会の姿」から離れてしまうことが多く、そこに戦いがあります。しかし、だからといって、教会の基本姿勢を変え、さしあたりの必要を満たし続けると、最も重要なことを失ってしまいます。
多くのクリスチャン家庭において、教会の奉仕を重要視するばかりに、それ以上に重要で、しかも中枢なる主イエスに命じられた戒め、「父よ、子を愛せよ」をないがしろにしていないでしょうか。もし、そうなら、刈り取るものは枝葉ばかりになってしまいます。それは、「たとえ全世界(教会の成長)を得ても、自分の子(子どもの救い)を失ったらなにになろう」ということです。そして後になってから、「太い幹があってこそ枝葉に実をつけることはできるが、幹(自分の子どもたちの救い)なくして、枝葉は大きな意味を持たない」ことに気付くのです。
これらのことは、中枢なるキリストが、それぞれの人と家庭に望んでいることです。この優先順位に従おうとするならば、それだけで教会は「霊のいのち」に支配され始めます。そして、一人ひとりの存在が教会全体に益をもたらし、それぞれの家庭が大きな良い影響をキリストの体に増し加えることになります。
一人ひとりが中枢に従い「自分になる」、それと同時にキリストの体の各肢体となり、各家庭を大切にしていかねばなりません。
そのためには、お互いが自分にできることを出し惜しみせず、手を出し時間をささげることを控えてはなりません。それぞれが「真実に頭であるイエス・キリストに従いたい」と願うなら、必要な手は必ず備えられ、そこには捧げる時間や財産もあるはずです。なぜならば、「神の国と神の義とを求めるなら、必要はすべて与える」との約束を主からもらっているからです。
愛する皆さんと共に、キリストの体となれることを心から喜びます。
2004年4月22日