11章4~5節
…浜辺の砂の数ほどの大軍となり、軍馬、戦車も非常に多かった。王たちは皆連合し、イスラエルと戦おうと軍を進め、メロムの水場に共に陣を敷いた。
先に連合してイスラエルに戦いを挑み敗北したのは、カナンの南部地方の王たちでした。次の敵は、さらに手強い北部の国々です。それらの敵に対しても、イスラエル軍は決定的な勝利を得ることができました。
これほどまでの決定的な勝利は、神の子たちの信仰生活の中にどのような位置を占めるのでしょうか。この勝利は、二千年前のゴルゴタの丘でイエス自ら陣頭指揮をして、否、主イエスが御自分だけで、罪とサタンと戦った十字架による勝利です。十字架上の、「成し遂げられた」(ヨハ19章30節)との主の最後の言葉は、「決定的勝利をおさめた」ことを意味します。
ただし、このイスラエルの勝利の後に、戦いが途絶えたわけではありません。その後は、領地を各部族に分け、部族ごとに嗣業の土地を獲るために戦いました。それは、二千年前に主が決定的な勝利を収めたので、今度は私たちがそれぞれ主からゆだねられた嗣業の地で戦うことを示します。
友よ。ゴルゴタの主の戦いには、あなたは指一本触れる必要はありませんでしたが、これから家族や知人や地域のことで戦うのはあなたです。ただしその戦いは、主が罪とサタンから勝ち取った勝利によって戦うのです。あなたが主から目を離さない限り、必ず勝利できます。本当の戦いは、主から目を離さないことです。
11章6節
主はヨシュアに言われた。「彼らを恐れてはならない。わたしは明日の今ごろ、彼らすべてをイスラエルに渡して殺させる。あなたは彼らの…戦車を焼き払え。」
神は、強力な敵に対峙し恐れるヨシュアに、「わたしは…させる」と、主御自身が戦われると宣言しました。主はどのように戦われたのでしょうか。
友よ。主は、あなたを愛し守り完成するために戦っていますが、それが分からずにいませんか。それならば、「明日の今ごろ…」との約束に目をとめ、今感じられなくても、明日、主の御業を見ると信じてください。明日感じられないならば、明日の明日を持ち望んでください。「白い馬に…乗っているお方は、『誠実』及び『真実』と呼ばれて、正義をもって」(同11節)実行するお方です。
11章12節
ヨシュアは他の王の町々をすべて占領し、王たちを捕らえ、主の僕モーセが命じたように剣をもって彼らを撃ち、これを滅ぼし尽くしたが、
ヨシュアとイスラエル軍は次々と敵を打ち破り進撃しました。ここに、神が約束し達成された救いを彼らが自分のものとしていく姿を見ます。
主が完成した救いの御業(十字架=罪の贖い、復活=永遠の命、昇天=権威)と後の再臨による完成は、自動的には人のものになりません。それを自分の救いにするのは、信仰によってです。
友よ。次のみことばを心に刻んでください。「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です」(Ⅰヨハ5章4節)。信仰の戦いとは、あなたが罪や死やサタンと戦うことではなく、あなたがイエスを主とし続けることです。
11章14節
これらの町々の分捕り品と家畜は…、イスラエルの人々が自分たちのために奪い取った。…しかし、人間を……滅ぼし去り、息のある者は一人も残さなかった。
エリコの戦いでは、金、銀、銅器以外は全て滅ぼすように命じられていました。この度の戦いでは、人は一人残さず殺し、財産は兵士たちが奪い取りました。
日本の教会には多くの弱さがありますが、その一つは会員数が少なく資金面が乏しいことです。それでは、人を多く集め、多く献金させることを考えるべきでしょうか。これも的外れです。
イスラエルが分捕り品を得たのは、彼らが敵の人間を完全に滅ぼし尽くしたからでした。このことを、「イスラエルの兵士は、神を信じない罪人たちを信じさせ(滅ぼし)、多くの人々を(滅ぼし尽くし)神の子にした」と理解し、さらに発展させ、「イスラエルは、肉によって生きる神の子たちの肉を聖絶し(滅ぼし)、多くの人々を主イエスに献身させた」と理解してみてはどうでしょうか。
教会の使命は、「全世界に出て行って福音を伝える」ことであり、さらに、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタ28章19節)と命じられたように、罪人を救い、神の子を献身者にすることです。
教会の力不足を思う友よ。まずあなたが、献身者(聖霊に満たされた人・神に生涯を献げる人)になることです。その者が、出て行って罪人を救い出すことができます。神の子たちが主に自分を献げると、多くの分捕り品(人物・物質)を得ることができます。
11章15節
主がその僕モーセに命じられたとおり、モーセはヨシュアに命じ、ヨシュアはそのとおりにした。主がモーセに命じられたことで行わなかったことは…なかった。
モーセは神に命じられたことをヨシュアに命じ、ヨシュアはモーセに命じられたとおりに行った、とありますが、それは多くの時間と忍耐が必要であり、簡単ではありません。
信仰とは神と自分の「継がりと交わり」ですが、これも同様に簡単ではありません。ヨシュアがモーセに「命じられたとおり」行えるのは、その前に四十年間、モーセの従者としての人生を過ごしてきたからです。「ローマは一日にして成らず」ならば、「信仰は四千年にして成る(アブラハムの時から)」のです。
その服従が作られるには律法が必要でした。モーセが神から律法を受け、ヨシュアがモーセに服従したのは、律法の中に生きたことでもありました。だからこそ、今、神に従える自由を得ています。荒れ野での四十年間は、決して無駄ではありませんでした。
律法とは、突き詰めると「神への服従」です。ただし、自分の力で従うことはできません。自分の無力を知るからこそ、「自分に死に、御霊に支配される」のを受け入れることができます。
モーセとヨシュアに倣う友よ。服従の無い信仰はありません。ただし、律法で生きることは希望の無い服従であり、福音に生きることは希望のある服従です。「神→モーセ→ヨシュア」とは、「神→モーセ→あなた」ともなります。あなたもヨシュアですから、恐れずに踏み出してください。
11章20節
彼らの心をかたくなにしてイスラエルと戦わせたのは主であるから、彼らは一片の憐れみを得ることもなく滅ぼし尽くされた。
聖書で理解の難しい言葉の一つ、「彼らの心をかたくなにしてイスラエルと戦わせたのは主である」がここにあります。また、「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」(ロマ9章13節)ともあります。人はこれらを見て、「神は愛なのに、なぜ敵を造り出すのか」と疑問を持ちます。
それに対し神は、「では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない」と言います。さらに、「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」と続きます。ここから、神には人の考えを超えた御心があることが分かります。聖書は、「神は愛です」から出発することで理解できます。 出エジプトの時、「主がファラオの心をかたくなにされたので」(出10章20節)と記されていました。主がファラオの心をかたくなにしなかったら、どうなっていたでしょうか。
友よ。自分で自分を救える人は神のもとには来ません。イスラエルの敵も、エサウも、エジプトの王と民も、追いつめられたからこそ神を見ました。神は一人ひとりを追いかけています。そして、たとえ試練を与えて地獄に落としてでも、天国へ救おうとする神の愛を見ます。神は愛です。
11章23節
ヨシュアはこうして、この地方全域を獲得し、すべて主がモーセに仰せになったとおりになった。…この地方の戦いは、こうして終わった。
ヨルダン川を渡ってからは戦いの連続でしたが、ようやくここに終わりが来ました。同じように、私たちの信仰の戦いにも終わりがあるのでしょうか。
信仰の戦いには、罪やサタンやこの世の力との戦いも含まれますが、より本質的な信仰の戦いは、次のみことばの中にあります。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブ11章1節)。この箇所を、「信仰とは、『神が私に』望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と、『神が私に』を入れて読むことです。そうでないと、「信仰とは『私が神に』望むことを確信し、まだ見えないことでも必ず実現すると信じること」となりかねません。
何よりも、主人が誰であるかが重要です。信仰の戦いは、「誰が主人で、誰が従うべき者か」が根本であり、すなわち、「神が主人か、それとも私が主人か」を決める戦いです。まずこの戦いに勝ってこそ、罪にもサタンにもこの世にも、そして自分の内なる肉にも勝つことができます。
友よ。あなたの信仰の戦いのポイントは定まっていますか。ヨシュアが勝利を得ることができたのは、彼が神とみことばに服従したからでした。彼の願いではなく「主がモーセに仰せになった」ことが実現したこと、それがヨシュアの勝利でした。信仰の戦いは、「神と神の御心への服従」です。服従した時、その戦いは終わり、次の戦いへ進みます。