第一回目は、「霊のクリスチャン」、そしてクリスチャンが渡るべき道「狭い門」について、第二回目では、「わたしを救ってください」というタイトルから、「罪を知る」、「罪の解決」について学びました。
人が罪を扱うときには、「その罪」を示しあったり、あるいは「その罪」を解決しようとせず(それは必ず「裁き、そして人を殺す」という結果につながる)、「キリストによって死ぬ」ことが必要となります。しかし、これは容易なことではありません。ヨナは、「この嵐の中にわたしを投げ込めばいいのだ」 と、いいました。これは、言いかえるならば、自分にふりかかってくる出来事を、主イエス・キリストの名により受け取るということであり、「自分に死ぬ」ということでもありました。
この「自分に死ぬ」ということは、クリスチャンとして生きる上で、重要なポイントとなります。今回は「献身」と題し、聖書全体からより詳しく「自分に死ぬ」ということにスポットをあて進めていきます。
「わたしは、山々の基まで、地の底まで沈み、地はわたしの上に永久に扉を閉ざす」(7節)とあります。まさに、「地獄に落ちた」という感じです。船上から海に投げ込まれ、呼吸もできず、ひたすら苦しい…ところが、そこで逆転が起こりました。自分の呼吸が止まる、苦しい、そう思った瞬間から、新しい命が始まったのです。「わたしたちが母親の胎内を通って生まれてきた」その瞬間も、似たようなものだったかもしれません。「もうダメだ」と思った瞬間に新しい呼吸が始まる。自然界の法則もそのようなものですが、それと同じことが「霊の現実」として、わたしたちにも起こるのです。
霊の現実としての「死と命」は同一線上にあり、ヨナはここを通っていきました。ここに「わたしたちの肉が生きているとき、聖霊なる神さまは働くことができず、わたしたちの肉が死ぬとき、聖霊なる神さまは生きて自由に働くことができる」という「死と命の法則」が成立します。ヨナはクリスチャンです。クリスチャンですから、「神さまのいのち」は持っています。しかし、彼は肉で生きてきました。ここで、肉に死ななければならないのです。
大嵐の中、ヨナは船底でグーグーと寝ていました。周りの人達が慌てていても、寝ていたのです。ヨナの目は閉ざされていました…。そして、起こされ甲板に上がり、くじを引きます。ヨナは、神さまの前に自分が罪人だとわかったときでも、きっと「神さまは何故わたしをここまで追いつめるんだろう。ここまでしなければ神さまは気がすまないのか…」と、不平をこぼしていたことでしょう。そうです、ヨナは、死にきれないのです。わたしたちも、船底では叫ぶことができません。そして、甲板に上がってきても、神さまに不平不満をこぼしてしまいます。これは、心の叫びでも、祈りでもありません。
7節の途中には、「しかし、わが神、主よ、あなたは命を滅びの穴から引き上げてくださった。息絶えようとするとき、わたしは主の御名を唱えた」とあります。息絶えようとしなければ、わたしたちは「主よ」と叫び求めることができないのです。船底でも、甲板でも、わたしたちは「神さま」と、いってはいるけれども、その内容は不平不満であり、主の御名を心から呼んでいるわけではないのです。ここにわたしたちは、一つの現実をみることができます。「大嵐の海の中に放り込まれなければ、人は主の名を呼び求めることはできない」という現実です。わたしたちは、そこまで追い詰められなければ、「主よ、助けてください」と、いうことができません。「眠っているか、不平不満を言っているか」のどちらかです。
そこで、どうしたらわたしたちは「この大嵐の中に飛び込む」ことができるのでしょうか。そして、「この大嵐はどこに起こってくる」のでしょうか。ある人たちは、「わたしの人生は平穏無事だった。ある人は病気で、ある人は家族の問題でで苦しんでいた。だからこそ、神さまに叫び、成長していくことができた。でも、わたしの人生は平凡で、そんなこともなかった…。だから、わたしは肉に死にきることができないのだ」と…。このように感じている人は、実に多いようです。しかし「信仰」とは、そのようなものでしょうか。自分に大きな出来事や悲しみが起こらなければ、わたしたちは、「肉から脱皮し霊になる」ことはできないのでしょうか。あるいは、平凡な人生を歩んでいる人たちや、全く神さまを知らない者が「神さまを知る」ことはできないのでしょうか。決してそうではありません。
確かに、様々な出来事は、わたしたちを神さまのもとへと追いつめていきます。そして、それらの出来事は、特に神さまを信じていない人たちに直接作用する可能性を秘めています。人は周りに出来事が起きないと、「神さまを信じる」ことがなかなかできません。しかし、「肉のクリスチャンから霊のクリスチャンに脱皮する」というときには、出来事以上にわたしたちに働くのが「みことば」です。日々の「みことば」に対する「わたしたちの態度」が、その働きの確かさを左右していきます。たとえば、「主の祈りを唱える」ことは、誰にでもできますが「主の祈りを生きる」ということは、どうでしょうか。「南無妙法蓮華経・・・」と同じように、「天にまします我らの父よ・・・」と、口先だけで唱え「今日のお勤めが終わった」というのとは全く違い、「主の祈りを真剣に祈る」ということは、わたしたちが「その祈りの中を真剣に生きる」ということになり、それは甲板の上で「主よ」と祈るのと、海の中で「主よ」と祈るほどの違いが、そこにはあります。
イエスさまは、わたしたちに主の祈りを教えました。この主の祈りに真剣に相対するなら、肉のこの世に生きるわたしたちの心の中に、大嵐が起こってきます。
「天にまします我らの父よ」は、主の祈りの全ての全てです。次の、「御名を崇めさせたまえ」とは、「あぁ、あなたの御名はすばらしい、賛美すべきかな、誉むべきかな…」と、詠歌のように讃えているわけではありません。これは、わたしたちが本当に聖くなることです。「わたしの存在を通し、この神さまが知られるように」ということであり、わたしたちが汚れているなら、「汚れた神さま」として、世の人に認識させてしまいます。つまり、「わたしたちには、いい加減なことができない」ということです。ガラテヤの5章19節、エフェソの4章25節に、「悪魔に隙を与えてはいけない、盗んではいけない、悪い言葉を口から出してはいけない、無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしり、悪意を捨てなさい、赦しなさい…」とあります。これらのことは、「聖霊を悲しませる」とも書いてあります。そうです、これらのことは、「肉」から出てきているものであり、わたしたちが「肉」によって生きるなら、わたしたちの神さまも「そのように見られてしまう」ということなのです。ですから、この「御名を崇めさせたまえ」という言葉ひとつとってみても、この言葉に「生きる」とするならば、ものすごい葛藤が出てくることになります。
「御国を来たらせたまえ」とは、神さまの支配がわたし自身、そして教会に及ぶことです。神さまの基準は愛ですから、神さまのいのちにより「神さまの愛の支配が来るように」ということです。では、人間関係においてはどうでしょうか。誰かと交わるとき、そこに神さまの支配が来ているでしょうか。「いや、あの人に合わせないと…」と思っているうちに、この世的になっていってしまい、いつの間にか一緒に悪口を言っていたり…そんな感じになってしまいます。ここに、ものすごい戦いが起こってくるわけです。「御国を来たらせたまえ」と祈ることは、「戦い」が必要となり、往々にして相手から憎まれることになってしまいます。
「御心が天になるごとく地にもなさせたまえ」の「御心」とは、「ひとりも滅びないで永遠の命を得る」ことですから、これは「伝道」という意味をもつ「みことば」です。人々に福音を伝えるということは、本当に大変なことです。主の祈りを祈った後、「ああ、伝道しなくちゃいけない」と考えたことがあるでしょうか。「ああ、主の祈りが終わった、これでいいや」と、何も考えずに終わってしまうならば、唱えているだけであって、それは祈っていることにはなりません。
マルコによる福音書10章17節に、金持ちの男が登場します。彼は天国に入る確信がなかったので、イエスさまのところに来て、「天国に入るには何をすればいいのでしょうか」と尋ねました。イエスさまは、「これを守りなさい」と十戒の第五戒から第十戒を話されました。この男は、「しめた」と思ったことでしょう。「わたしはそれを守ってきました」と彼は言いました。でも、イエスさまは、「…彼を見つめ、慈しんで言われた。『あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物すべてを売り払い、貧しい人々に施しなさい』」と言われました。
イエスさまが彼に指摘された、第五戒から第十戒をまとめるならば、「隣人を愛しなさい」ということです。イエスさまは、「隣人を愛する」ということを具体的に「貧しい人たちに施しなさい」と、彼に言われたのです。でも、彼にはそれができず、立ち去ってしまいました。「隣人を愛する」ことができなかったのです。この人は、「親に尽くし人々に尽くすことで、神さまに受け入れてもらおう」としていました。
第一の戒めは「神を愛すること」、第二の戒めは「隣人を愛すること」だと、イエスさまは仰いました。実は、ここには順序があるのです。すなわち、第二の戒めから第一の戒めにいくことはできないのです。「隣人を愛し、良い行いをし、罪を犯さない」ことで「神さまから愛されるようになる」と、いうわけにはいきません。人は、神さまに自分を受け止めてもらい、神の愛(いのち)をいただくことにより、初めて隣人を愛することができます。つまり、第一の戒めを守ることで、第二の戒めを守ることができるようになるのです。ですから、この人が今まで隣人に尽くしてきたことは、「自分を救うためであり、隣人のためを想っての行動ではなく、自分のためを思って行動してきただけだ」ということがわかります。「自分が天国に行くため親に仕え」、「神さまから褒美をいただくため人に尽くしていた」だけでした。結局、全ては自分のためであり、本当は隣人を愛していなかったのです。
イエスさまは、彼の本心を見破っていました。そして、「お前には、隣人を愛することができていない」ということを示されたのです。22節に、「その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである」とあります。ここで問題なのは、「立ち去ってしまった」ということです。これを見ていた弟子達は、「天国に入ることは、そんなに厳しいことなのですか?」と、イエスさまに尋ねました。これに対しイエスさまは、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだやさしい」と答えられました。これは、当時あった「針の門」のことだそうです。「針の門」とは、人ひとり通るのがやっとの小さな門で、らくだが通ることは不可能な大きさでした。しかし、27節でイエス様は、「人間にできることではないが、神にはできる。神には何でもできるからだ」と言われました。 これです。これこそ福音なのです。「自分の力で財産を捨てる、あるいは自分に死ぬ」ということは、この青年に限らず、誰にもできないことです。らくだが針の穴を通れないように不可能なことなのです。しかし、イエスさまは「神にはできる」と言われました。神は、それをしてくださるのです。
あのマザー・テレサを造ったのは神です。彼女の努力とか、彼女の思いではありません。神さまが「あのマザー・テレサという人」を造ったのです。人にはできなくても、神にはおできになります。もちろん、それはわたしたちにも、いえることです。この金持ちの青年は、「立ち去ってしまった」ことから、この福音を聞き逃してしまいました。もし、この青年が立ち去らずに、「主よ、わたにはできません」と言ったら、どうなったでしょうか。そうしたならイエスさまは、「そうだよ、お前がそんなことをするということは、らくだが針の穴を通るようなものなんだよ。できないんだよ。しかし、わたしにはできるんだよ。だから、あなたはわたしに依り頼みなさい。わたしによって生きていきなさい。できるから」と、答えてくださったことでしょう。これが福音だったのです。そうなのです。「人にできることではなく、神だけがおできになること」だったのです。
「主の祈り」を自らの人生に、全面的に取り入れて生きていこうとするとき、それ自体が不可能であることに気付かされます。それは、人にできることではないからです。ルカによる福音書11章5節に、「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』・・・その人は、友達だからということでは起きて何かを与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て、必要なものは、何でも与えるであろう。」と、イエスさまは仰いました。 主の祈りを祈り始めると、「わたしにはできない」ことに気付きます。「自分にパンがない」こと、「分け与える物がない」ことに気付くのです。「神さまの願いを達成する能力、いのち、財産、そのようなものが何一つない」ことに気付くのです。そこでわたしたちは、友達に頼むしかないことに気付きます。この友達とは、誰のことでしょうか。聖霊を与えてくださる方、イエス・キリストです。友なる方、神である方、イエス・キリストです。わたしたちは、イエス・キリストにお願いするしかありません。しかし、わたしたちがお願いできるようになるには、「自分には全く不可能だ」ということを、まず自ら認識する必要があります。
たとえば、「あなたの夫に従いなさい」という、みことばがあります。「あまり聞きたくない…できればどこかに捨ててしまいたい…」と、思われる方も多いかもしれませんが、この言葉は神さまがあなたに語ってくださっている「みことば」ですから、受け止めなければなりません。その「みことば」に直面するとき、あなたの心の中に大嵐が起こってきます。しかし、受け止めようとしなければ、直面しなければ、心の中に大嵐はやってきません。神さまの「みことば」とは、全てがそのように、わたしたちの内側に大嵐を呼び起こすものなのです。なぜなら神の言葉は、肉が死ぬことで、わたしたちの内側で芽生えだし、生き始めることができるからです。「いのちの種」である神の言葉は、肉が死ななければ生きることができません。つまり、神の言葉は、わたしたちに死と命を与える「御霊の剣」になり得るのです。
神の言葉に真剣に生きようとするとき、わたしたちの呼吸は止まってしまいます(肉の死)。しかし、神の言葉は「いのち」ですから、神(霊)の言葉がその人の中で生き、実を結ぶようになります。「みことば」を唱えるだけでは、実を結ぶことはできません。「死」という通過点があって、初めて「みことば」は芽を出し、実を結び出すのです。これが聖別の秘訣です。
多くのクリスチャンたちは、この箇所で道を間違えています。人が神さまを信じるようになる要因に、外面的な出来事は欠かせません。そして、そのようなことが起きないと、人はイエス・キリストのもとに来ることはできません。しかし、肉から霊のクリスチャンになるときには、多少の影響はあったとしても、外面的な出来事は役に立ちません。それは、一人ひとりがクリスチャンとして「みことば」の働きを認識し、自らが進んで「みことば」に直面していくことが「聖別」への鍵となり、肉から霊に変わっていくことができるからです。
「わたしは感謝の声をあげ」(10節) とあります。ヨナはこのとき、初めて感謝できたのです。ヨナはクリスチャンですから、いつも「感謝です」と、いっていたでしょう…しかし、ヨナには「感謝」という言葉がもつ本来の意味を、今までよく分かっていなかったのではないでしょうか。それと同様のことが、わたしたちにもいえると思います。日頃から言われる「感謝です」とは、何をもって感謝しているのでしょうか。確かに、「家族が救われること、病気が治ること」も感謝でしょう。また、「周りの状況が変わること、孤独から解放されること」も感謝です。しかし、本当の深い感謝とは、どこから出てくるのでしょうか。これは、偽ってはいけないものです。
先日、NHKで「老後や老いについて」様々な人たちが興味深いことを語っていました。その中で、素晴らしい話がひとつありました。それは、「『人間が人のために生きる』なんて、みんな偽りだ。人の為と書いて偽りと読むじゃないか」ということでした。確かにその通りですね。本当の深い感謝、それは偽りのない愛からしか生まれてきません。たとえば、「わたしは、夫のために生きるんだ」、そこに本当の深い感謝は生まれてくるでしょうか。「子供のために生きています」と、いったそばから「どうして言うことをきかないのか」と、なってしまいます。社会のため、世間のため、それらはみんな偽りで、結局は自分のためなのです。
聖書には、「第一に、神を愛せよ、第二に、自分を愛するように隣人を愛せよ」とあります。「自分の存在を心から感謝できなければならない」ということです。ですから、わたしたちは、エゴからではなく、イエスキリストにあって「自分のため」でなければならないのです。わたし自身は、「年をとる」ということが素晴らしいことだと思っています。「多くのことが分かってくる自分」を感じることができます。それは、イエス・キリストにあって、自分が成長していけるということです。ここでいう成長とは、「自分の考えや、自分の能力で生きることから離れ、キリストによって生きる」ということです。「クリスチャンになり年を重ねていく」ということは、本当に感謝なことです。わたしがより成長していくことに、心から感謝できるのです。わたしは今48歳ですが、58歳になるのが楽しみです。もっと多くを知ることができるようになるでしょう。68歳になったらどうでしょう。これまた感謝です。そして、この感謝はキリストと共に歩んだ年月、つまりキリストによってでなければ、得られないものなのです。それ以外の感謝は、自分の能力や自分の思い込みによって、懸命に自分に暗示をかけ生み出していくしかありません。でも、キリストにあるときには、何の努力もなく、自然に感謝できるようになるのです。みなさん、どうかキリストにあって、自分のために生きてください。そうするときに、真の意味で人々に仕えることも当然のようにできるようになります。宣教者、クリスチャン、霊の人の力とは、「自分の成長、自分の存在に対し、神さまに心から深い感謝をささげられる」ということが、力となっているのです。
10節に「いけにえをささげ」 とありますが、パウロが言ったように、「自分をささげる」ということが、本当のいけにえであり、霊的な礼拝、献身です。自分を神さまにささげるということは、「自らの全てを心から神さまに感謝できる人」ができることです。そうでなければ、それは偽りです。「わたしは世のために献身します」、「教会のために献身します」といわれても、そんな献身を受け入れることはできません。次の、「誓ったことを果たそう」 とは、「神さまとの約束を果たすために生きていく、神さまの言葉を伝えるために生きていく」ということです。ヨナの場合は、「ニネベにいって福音を伝えよ」ということであり、その約束にヨナはようやく戻ることができました。今度は、ヨナ自身が自ら進んで、神さまとの約束を果たすために出かけていこうとしています。そして、「救いは主にこそある」 と、彼は言えました。この救いは、「肉からの救い」のことであり、「神さまを信じないということから救われた」のではなく、「肉のクリスチャンから霊のクリスチャンになれなかった」ということ、そこへの救いは、「主にこそある」と彼は言っているのです。3章の3節に、 「ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに行った」 とあります。これが、「献身」です。