ヨナは宣教師であり、預言者でした。ある時、神に「ニネベに行きなさい」といわれ、彼は逃げ出し船に乗ってタルシシュに向かいました。彼が逃げたことの意味、それは「彼が本当のクリスチャンになっていなかった」、すなわち「肉のクリスチャン」であったということでした。「肉と霊の違い」については、マタイによる福音書7章13節「狭い門から入りなさい」から理解することができます。この門は、「自分の血、そしてイエスキリストの血が塗られた門」でした。イエス・キリストの死は、わたしたちの死の代り(身代わり)でした。ですからこの門は、「わたし自身が死ぬ」という意味をもった門だったのです。そして前回までのお話は、「この門を通るか通らないか」それが大きなポイントになる、ということでした。
ヨナは、神から逃げて行きました。自分が本当に「神さまに救われる経験、または出会い」というものを持たないと、人間は逃げて行きます。その出会いというのは、「祈ったら病気が治った、祈ったら失くした財布が見つかった、願いが聞かれた」など、これも確かに神さまとの出会いです。しかし、そこにはもっと深い出会い、もっと深い体験というものが必要になるのです。そして「その出会い、体験」は、やはり「キリストの十字架と復活に出会う」ことなのです。 すなわち、「自分自身の罪がキリストによって赦されている、赦された」ということ、そして自分ではなくキリストの命が、自分の内側において生きている、「この体験、この出会い」を持つことが大事なのです。「キリストに出会う」ということは、もっと具体的にいうならば「キリストの十字架と復活を体験する」ということです。
ヨナには、この「出会いと体験」がありませんでした。神さまを信じていますが、体験が伴っていなかったので、彼は逃げてしまいました。では、この「十字架と復活に出会う体験」をどのようにすれば、わたしたちは持つことができるのでしょうか。
実は、これらのことは、自分から求めてできる事ではないのです。もちろん、「わたしにこれを分からせてください」と祈ることは必要です。しかし実際には、神さまがわたしたちを追いかけてきて、様々な出来事を起こし、十字架にわたしたちを直面させる…。つまり、人は自ら十字架を求めることができないのです。なぜなら、人にとって十字架は、あまりにも厳しく、伴う痛みが大きすぎるからです。ですから、肉なる者には、「自ら十字架を求めていく」ということは、決してできないのです。
しかし、神さまは「この体験、この出会い」をわたしたちに与えたいと思っておられます。ですから、神さまが私たちひとり一人を追いかけてくださるのです。すなわち、「神さまに追いかけていただき」、「神さまによって導いてもらわなければ」、「わたしたちは十字架に出会うという体験を持つ」ことができないのです。
神さまは、船に乗ったヨナを逃がさないため、大風を吹かせ追いかけ始めました(4節)。この大嵐は、今までに体験したことがないほどの出来事、人生の大嵐といってもいいほどのものでした。5節に「ヨナは船底に降りて横になり、ぐっすりと寝込んでいた。」とあります。よくも図々しく…と思うかもしれませんが、ヨナは実際に眠っているのです。船員たちは、「これは大変だ!」と大騒ぎで積み荷を捨てたりと、てんてこ舞いです。そんな中でも、ヨナだけはぐっすりと眠っていました。この「眠り」とは、一体どういうことでしょうか。これは霊的な眠りです。神さまから逃げると、目が閉ざされてしまい感じることができなくなり、物事が見えなくなってしまいます。自分の罪、不従順が見えなくなってしまっている人たちは、「霊的な眠りの状態」に入っています。たとえば、教会員が「こんな所にはいられない」と、上へ下への大騒ぎになっている中、牧師は自分が原因だと気付かず「みなさん、神さまを信じなさい。平安になることができます」と、いっているようなものです。これは霊的傲慢と言ってもいいかもしれません。これが人間の「罪」です。
船上で人々は、恐怖に襲われています。そんな中、ヨナはぐっすりと眠っています…。わたしたちが、自分自身の内側を発見できるキッカケとなるのは、周囲の人々によってではないでしょうか。自分で自分を点検し、理解するということは、なかなか難しいものです。しかし、自分自身の内側というのは、必ず周囲に影響を与えるものです。ですから、周りの人たちの置かれた状況が見えてもいい筈なのですが、実際には見えないのです…。周りの人がいくら騒いでいても、それすら見えないわけです。だったらわたしは、どうすればいいのでしょうか?やはり、これはくじを引くしかないですね(笑)。すなわち、神さまに教えてもらうしかない、ということになってしまいます。
この船を教会に置き換えてみると…、わたしたちの霊的な状況が一番よくあらわれるのは、家族や教会の中においてではないでしょうか。だとしたら、「本当の祈りの友」、あるいは「真摯にお互い語り合える人たち」がいれば…。そうです、そこまで自分がへりくだることです。へりくだっているならば怖くありません。そして、へりくだっているという関係の中にいるならば教えてくれるはずです。教えてくれる人を持たなければならないのです。
一方、船上ではどうでしょうか。 「これはただの問題ではない」と気付いたのは、むしろ普通の人たちでした。彼らは、自分たちの神さまに祈り、他にも様々な方法を試みましたが、最終的に「これにはきっと悪いことをした人がいるに違いない。きっと神さまが怒っているのだ」と思ったのです。すなわち、これらの問題は「人間の内側から出てきたために起こっていること」ではなく、「神さまが何かを気付かせるために、起こしているのだ」ということに人々は気付いたのです。そして、くじを引いたらヨナに当たりました。神さまがヨナに対して「お前だよ」と、はっきりおっしゃったのです。
「彼が、白状したからである」(10節)とあるように、ヨナは自分の罪を認めました。ヨナは、「主の前から逃げている者である」ということを白状したわけです。しかし、ここで白状したとしても、問題の解決にはいたりません。人々が、「ああ、この人の罪だったのだ」とわかっても、問題は解決しないのです。それでは、まだ嵐はおさまりません。 わたしたちにも、そのようなことがあります。「そうか、わたしの罪だったのか」、「やっぱりあの人が原因だったのか」と理解したとしても、それで問題が解決できるわけではないのです。では、どうすればいいのでしょうか。やはり、十字架までその罪を持っていかないと解決できません。「罪の値は死」ですから、その罪を理解したとしても、「死を払う」まで罪は、決して解決されることはないのです。
ヨナには、原因が分かりました。自分の罪だということがわかったからです…そして、解決方法もわかりました。「自分が悪いのだから、自分が死ねばいいのだろう」とわかったのです。しかし、ここでのヨナは随分とふてくされているようです。 「お前たちが俺を海に投げてしまえばいいじゃないか」、という言い方だったのではないでしょうか。「罪の値は死」ですから、「死ぬ」ことで解決できるのですが、ヨナには、もう一つのことが分かっていなかったのです。それは、「神さまの愛」です。 神さまの愛が本当にに分かっているならば、わたしたちは「今行きます」といって「十字架に行き、自分に死ぬ」ことができるのです。「自分の罪に死ぬ」ことができるのは、「神さまの愛」が分かった人だけなのです。ヨナには、まだそれがわかっていないのです。わかっていないから、ふてくされているのです。ヨナには「罪」が、そして「罪の値は死」であり、「死ねば解決できる」ということまではわかりましたが、しかし、そこまでだったのです。
これは、わたしたちにも言えることです。「なぜ、神さまを信じたのですか?」と聞かれ、「神さまの愛が分かったからです」と、答える人はほとんどいません。神さまを信じた理由の多くが、もうどうすることもできなくなるほどに追い詰められたからです。それも、立派な恵みです。「人が神さまに出会う」ということは、「神さまに追い詰められる」ということです。ヨナもそうでした。そして彼は、今「肉のクリスチャン」から「霊のクリスチャン」になろうとしているのです。しかし、ヨナは自分の願いで、自分の行動で「霊のクリスチャン」になろうとしているのではありません。ヨナは逃げています。しかし、神さまは追いかけてきて、「狭い門、自分の血が塗られた門」をくぐらせようと、ヨナを追い詰めているのです。
ヨナは追い詰められ、しかたなく「死ねば解決できるんだろう」と言っているだけなのです。しかし、ヨナにも偉いところはあります。それは、「自分の罪を認め、問題を受け入れた」ということです。大嵐を自分の人生の大問題に置き換えてみてください。多くの人たちは、この大問題(大嵐)から逃げることを考えますが、ヨナはこの大嵐の海の中に飛び込みました。すなわち、彼は神さまに降参したのです。「神さまが自分の罪を指摘し、自分を霊のクリスチャンにしようとしている」ということまではわからなくても、「神さまがわたしにこのようなことをなさっているのだから、これは受け止めなければいけない」と思ったのです。
わたしたちが「十字架によって死ぬ」ときは、大抵がこのプロセスを通っているのだと思います。問題が起こったときには、「その問題から逃げず、真正面から受け止める」、ここが「十字架で死ぬ」という転換点となり、そこから始まっていくのです。わたしたちは、最初から自分の問題、つまり「罪の解決」など、わかりませんしできません。「十字架に自らついていくこと」などできません。しかし、神さまがわたしたちを追いかけ、必ず「聖別されたクリスチャン」にしてくださいます。そのときに大切なことは、神の愛がわからなくても、先がどうなるかわからなくても、この問題を神さまからのものとして、全身全霊をもって受け止めていくことです。それこそ、聖別のひとつの転換点となり、「狭い門を通る、その通り道」へとなっていくのです。
彼は受け止めたのです。海の中に飛び込んだのです。しかし、自分から飛び込む勇気はなかったのです。人々に放り込んでもらい、ある意味、責任転嫁しながらでしたが、とにかく彼は飛び込んだのです。
海に入ったヨナのことが、2章に書かれています。魚が来てヨナを飲み込みました。子供がよく書く絵を見ると、魚はクジラになっていますが、聖書には「魚」と書いてありますから、やはり魚でなければなりません(笑)。まぁ、そのようなことはどうでもいいでしょう。この魚とは、もちろんイエス・キリストであります。イエスさまは、マタイによる福音書12章40節で、「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられず、人の子もヨナと同じように三日三晩大地の中にいることになる」と、おっしゃっています。十字架と復活に兼ね合わせていらっしゃいます。このことから、魚に飲み込まれたヨナが「イエス・キリストと十字架によって死ぬ」ということをあらわしているのがわかります。そして、5節で「わたしは思った。あなたの御前から追放されたのだと」、ヨナの本音が見えています。ヨナは、「大嵐に出会い、海に投げ込まれ、神さまから罰を受け、自分は死ななければならないのだ」と思ったというのです。多くの人たちも人生で大きな荒波に出会うと、「ああ、これは何かのバチがあたったんだ」と考えますが、そんなことはありません。そのように考えるから受け止めることができなくなってしまうのです。大嵐を受け止めきれないのです。それは、「神さまの罰」ではなく、「神さまの祝福」なのです。ヨナを「肉のクリスチャン」から「霊のクリスチャン」へと飛躍させるための神さまからの大きな大きな恵みであって、これは神さまが追いかけて教えてくださったものなのです。
この事実を理解するとき、それらを受け止める力も出てきます。実際にヨナは、「罰を受け追放され、天国から地獄へ落とされたと思った」と、正直に告白しています。そして、6節にも7節にも、自分は地獄に行くと思ったヨナがいます。しかし、事実は違いました。「自分の呼吸ができなくなった時」、すなわち「自分で生きられなくなった時」、「自分に死んだ時」彼は魚の腹の中にいたのです。そして、実際にそれを体験してくださったのはヨナでもわたしたちでもなく、十字架にかかってくださったイエス・キリストだったのです。イエス・キリストこそ、腹の中、汚物の中というところを体験してくださった方であります。
7節の途中から、「しかし、わが神、主よ、あなたは命を、滅びの穴から引き上げてくださった。息絶えようとするときわたしは主の御名を唱えた。わたしの祈りがあなたに届き、聖なる神殿に達した。」とあります。ここで、逆転が起こっています。自分の息が絶えようとする瞬間に、彼は新しい呼吸ができるようになったのです。母親の胎内から出てきて、初めて呼吸するように…。天国に入る瞬間も、きっとそうだと思います。天国も一瞬、母の胎内から出る苦しみを体験し、痛みを感じることでしょう。でも、肺の呼吸が止まった瞬間、わたしたちは霊の呼吸をするようになるのです。 神さまを信じる人にとっての「肉体の死」とは、もっともっと「解放された者」へとなる新しい世界への飛躍であり、よみがえりなのです。死とは決して「裁きでも、絶望でも」ありません。死とは、「希望であり命」なのです。そして、「本当の命」こそ、「肉体の死」にあります。
神さまは、ヨナを「霊のクリスチャン」へと向かわせていますが、それと同時に「伝道者、宣教師、神の福音を伝える者」として用いようとしておられることが分かります。「神の福音を伝える」ことができる人は、「神の愛を知る霊のクリスチャン」ですが、そうなるためには自分自身が日々「十字架と復活の体験」をすることが必要になります。ここで、マルコによる福音書9章を見ていきます。
ある人が、自分の子供を弟子たちのところに連れて行きました。悪霊に憑かれ、てんかんのような病気になり、自虐的な状況になってしまった子供です。父親は、なんとか子どもを治してもらいたいと思ったのですが、弟子たちにはこの子供を治すことができませんでした。そして、イエスさまのところに連れて行くと、「何と信仰のない時代なのか、いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい」(19節)と、イエス様はおっしゃいました。この時、イエスさまは、すぐに子供を癒さず「いつごろからか」と聞かれました。そして父親は、「わたしたちを憐れんでください」といいました。そして、24節で、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と言いました。そしてイエスさまは、息子を癒し問題を解決してくださったのです。
ここでは、どのような問題が起こっていたのでしょうか。まず、弟子たちにこの問題が解決できなかったのは、なぜでしょうか。それは、18節に「霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです」とあります。つまり、この子の病気は、悪霊によって引き起こされていたわけです。悪霊が原因だったのです。これを覚えていてください。そのとき弟子たちは、何をしていたのでしょうか…。14節に「一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた」とあります。弟子たちは議論していたのです。悪霊に取りつかれて、目が見えない、耳が聞こえない、物も言えない、自虐的な行為をする、このような子供についての議論をしていたのです。人間的な問題なら議論を交わすことで、わたしたちでも解決できるでしょう。「あの人の考えはどうなのか」、「世界で最高の考えは何なのか」、「この人は、あのような経験をした」、「あの人はあのようなことをした」、というふうに、この世の問題であるならば、議論は通用し問題を解決することもできますが、この問題はこの世の問題ではなく、霊的な問題だったのです。霊の問題は、この世の問題ではありませんから、いくら議論したとしてもこの問題を解決することはできないのです。
では、伝道とはどのようなものでしょうか。わたしたちが福音を語るということは、この世の問題なのでしょうか。違いますね。この世の問題ではありません。これは、霊的な問題です。「説教するということ、福音を語るということ、キリストを伝えるということ、罪を知らせるということ」、これらは全て霊的なことであり、「この世のこと」とは違うのです。いくらこの世の最高の方法を使ったとしても、「福音を伝える」ということはできません。それは、霊的なものだからです。弟子たちは、まだそれを悟ることができませんでした。
問題の解決は、「『わたしのところに連れてきなさい』」(19節)ここにあります。全ての霊的な問題の解決は、「イエス・キリストのところに連れて行く」ということ、「その人とイエス・キリストを出会わせる」ということです。そうするときに始めて、イエス・キリストはその問題を解決することができるのです。すなわち、「霊の問題はイエス・キリストが直接解決するものだ」ということを、わたしたちは知るべきです。人間の根本的な問題は霊的な問題です。ですから、問題を抱えている人をイエス・キリストに出会わせるために慰めたりと、人間的な方法を用いるのはいいでしょうが、それらは問題の解決にはいたりません。
この悪霊に取りつかれた子供の問題は、この子が直接イエス・キリストに出会わなければ、解決できないことなのです。ここが大事なのです。しかし、実際はどうでしょうか。多くの教会は、礼拝が終わると夕方までずっと会議…そのようにして、そこで何を話し合っていくのでしょうか。これは、わたしたちも考えなくてはいけないことです。「神さまから聞いたことを、具体的にどのように実現していくか」ということなら、「各自が賜物を持ち寄り、誰が担当し、どのように進めていくか」という話し合いをすることは大事ですが、議論をしていけません。また、問題があったとしても、そこでわたしたち自身で問題を解決しようとしてはいけません。
わたしたちのすべきことは、その人をイエス・キリストのもとに連れて行くこと、この一点に的を絞ることです。これが伝道です。ところが、その人をイエス・キリストに出会わせるということは、とても難しいことなのです。自分の家族をキリストに出会わせるため、「教会に行きなさい!」と子供達のお尻を叩き、子供が泣きながら教会に来た、というふうにしても、その子をイエス・キリストに出会わせることはできませんね(笑)。では、どのようにしたら人々をイエス・キリストに出会わせることができるのでしょうか。この問題の解決を、この父親と子供の関係に見ることができます。「『おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください』」(22節)と父親は言いました。「わたしどもを憐れんでお助けください」と言っているのです。この父親は、この子どもの問題を解決したいわけです。しかし、「わたしどもを憐れんでください」と言いました。この言葉には色々なニュアンスが含まれています。「この子のためにうちは困っているんだから、この子を助けてくれ」というふうにも聞こえます。「この子がぐれるのを止めれば…、この子が大学に入ってくれれば…、この子の病気が治ってくれれば…、我が家は幸せになるんだ」、そのような面から「わたしどもを憐れんでください」と聞くこともできます。
あるいは、この父親は「子どもと一緒に自分もイエスさまによって救ってほしい」と、いっているのかもしれません。家族の誰かに問題が起きると、家族全員が何らかの影響を受けることになります。こういう場合、「自分ひとりで神さまのところに行くのではなく、家族も一緒に連れて行かなければ」、という感じになりますが、しかし、これもやっぱり良くないのです。23節で、「イエスは言われた。『「できれば」というか。信じる者には何でもできる。』」すると父親は24節で、「『信じます。信仰のないわたしをお助けください』」とようやくいいました。すなわち、この父親は「わたしを救ってください」といったのです。ここに、人々をキリストに出会わせるポイントがあります。問題は、「わたし」なのです。わたしが本当に「キリストとぴったりと交わっている」ことが重要なのです。だから、「自分こそまず」神さまのところに行かなければいけないのです。キリストに近付かなければいけないのは、「わたし自身」なのです。わたしが近付く分だけ、手を握っている人も近付いていき、イエス・キリストが見えてきます。そして、その人はイエス・キリストと個人的に出会うことができるようになるのです。榎本保朗牧師が、「家族伝道は、自分自身への伝道だ」といっていましたが、その通りだと思います。
わたしたちが「宣教する、福音を伝える」とき、仮に世の方法論などを私たちが使ったとしても、それをも神さまは用いてくださり人々をお救いになります。しかし、根本的にひとり一人が伝道者になるということは、クリスチャンから霊のクリスチャンにならなくてはいけません。それは、自分自身が日々日々十字架と復活に出会い体験し、自分自身こそキリストに救われ、自分自身こそキリストに一番近いところで日々生活する、これが必要なのです。
ヨナは神さまに追いかけられ、不本意ながら、彼はこの問題を受け止めました。そして、水の中で「もう、ダメだ」というときに、魚が彼を飲み込みました。それは、「イエス・キリストが彼に代わり十字架についてくださり、イエス・キリストが復活し、その復活の命をヨナは与えられた」ことを意味していました。そしてヨナは、ここで深く神さまと出会い、神さまと交わり、神さまの近くにいるということを経験したのです。今後、これらの経験は、福音を伝えるときの原動力となり、語る力をより強いものへと増していきます。そして、「真実に御霊と共にキリストを証し」していくことができるようになります。そうすると、人々は悔い改め始め、キリストを見上げるようになります。
ヨナの経験を通し、日々日々、「わたし自身が」キリストと本当に近いところにいることができるよう、祈りましょう。
聖書講解第三回目へと続く…