エレミヤ書14章15章は、エレミヤが神さまの言葉をユダに語るものではなく、緊迫感漂う中、神さまとエレミヤが一問一答している姿が描かれています。エレミヤは、神さまの御心を変えていただくため、自害覚悟で神さまの懐に迫りユダを執り成しますが、神さまは、そんなエレミヤの言葉にも動ずることなく、頑として受け入れません。この命をかけたエレミヤの迫りから、エレミヤの新たな人物像が浮き彫りにされてきます。
この頃のバビロンは、カルケミシュの戦いでネコ2世率いるエジプト軍に圧勝し、列強の中にあって最強を誇る国に成長していました。そんな中、これら列強の狭間にあるユダは、内部がすっかり腐ってしまった木のように、倒れるのはもはや時間の問題でした。それでもユダの人々は、偽預言者の言葉を信用し、悔い改めようとせず「平安、平安」と言っている始末です。
神さまは、そのようなユダの姿を「干ばつ」に例えられます。聖書では、民が神さまに対し不従順を続けると「干ばつになる」と預言されています。
「さもないと、主の怒りがあなたたちに向かって燃え上がり、天を閉ざされるであろう。雨は降らず、大地は実りをもたらさず、あなたたちは主から与えられる良い土地から直ちに滅び去る」
申命記11章17節その他、レビ記26章18~20節も参照ください。
ユダの不従順の結果として、1節から6節まで「干ばつ」の恐ろしさが述べられています。人は、神さまに不従順を続けると、「霊的な干ばつ」に陥ります。
「水」は、人だけでなく、この世に生ある全てのものにおいて、必要不可欠な栄養素です。同様に、人の魂(霊)において、欠くことができない栄養素が「み言葉」です。エレミヤには、「霊の干ばつ」により「霊の命」が涸れ、死にそうになっているユダの姿がはっきり見えていました。これと同じ光景が、今日の教会やクリスチャンの間にも広がっています。それは、飢饉に襲われ「み言葉」が得られない多くのクリスチャンが、「み霊の実」を結ぶことなく「霊の命」を枯らし、死んでいく光景です。
神さまから離れ「霊の干ばつ」により、さまようユダの姿を見たエレミヤは、神さまに執り成しを始めます。
誤信と誤診
あるパンフレットに、「あ、患者が死んでしまった!」という本の広告がありました。
医者は、頑固な肩こりを訴える患者に「年齢からくる頑固な肩コリだ」と診断し、鎮痛剤を処方し続けます。しかし、ある時から患者は、胸にひびく痛みと激しい咳を訴えるようになります。そして後日、その患者が、肺がんであったことがわかります。しかし、その時には、既に手遅れの状態でした。
ユダの人々は、自分に都合の良い預言をする、偽預言者の話しを聞いているうちに、「間違った信仰=誤信」を身に付けていました。その結果、判断基準が狂い、自分の置かれた状況を正しく理解することができなくなっていました。
ヨナは、神さまからニネベに行くよう命じられましたが、それを嫌がり神さまから逃げるため、反対方向のタルシシュ行きの船に乗り込みます。そして航海の途中、大嵐に遭遇する船は、沈みそうになりますが、ヨナは…というと、船底でぐっすり眠っています。これは「霊的な眠り」というもので、神さまから逃げ出すと、目が閉ざされ「自分の罪、不従順」が見えなくなることをあらわしています。この「霊的な眠り」は、今日の教会やクリスチャンにも起きています。たとえば、夫(妻)や子供が救われていないのに、「子供たちは、毎日学校へ行き熱心に勉強するし、夫(妻)は優しくよく働いてくれます。私は、本当に幸せで、毎日心配事もなく、ぐっすり眠れます」と話し、教会で語られる「み言葉」を熱心に聞かず、奉仕に精を出す…。現実的に何事も無く、一見平穏無事なようですが、魂(霊)の世界では、「大嵐」が吹き荒れています。つまり、「霊的な眠り」が、霊的な現状を見えなくし、「自分は幸せだ」と「誤診」しているのです。
ユダの人々は、偽預言者の語る「間違った現実」を信じたため、自分の状況を正しく認識できませんでした。だから「彼らに罪はない」とは、いえません。それが、たとえ「偽預言者たちに、信じ込まされていたから…」だとしても、「エレミヤより偽預言者の言葉を信じたい」という願いが、彼らを「誤診」へと向かわせたのです。つまり、「彼らにも責任はある」とうことです。ですから、彼らは「その結果」を負わねばなりません。
偽預言者の言葉は成就させない
神さまは、「この民のために祈り、幸いを求めてはならない」(11節)とエレミヤに告げられました。これには「彼ら自身が犯した責任」、そしてもう一つ、別の理由があります。それは、「偽預言者の預言を成就させない」ということです。もし、神さまがエレミヤの執り成しに応え、「飢饉、剣、疫病など」を差し止めたら、偽預言者の預言は成就し、エレミヤは偽りを語っていたことになります。
他の誰より「ユダを救いたい」と願っているのは、神さまご自身です。しかし、エレミヤが求めている救いと、神さまがご計画されている救いには、「成就する時」に違いがありました。
神さまは、「人を救おう」とされるとき、その人の罪を「徹底的に滅ぼす」よう働かれます。事実、「罪の根」を残したところに、根本的な「人の救い」はありません。一方、エレミヤが考えたユダの救いは、「飢饉、剣、疫病、捕囚など」現実の状況からの「一時的な救い」でしかありませんでした。
過去において、教会とクリスチャンが受けた大きな霊的ダメージのひとつに「幼児洗礼」があります。この「幼児洗礼」は、本人の経験、承諾もないままクリスチャンとされることにより、根本的な「罪の解決」を曖昧な形で留め、その結果「神の子」としての人生を生半可なものにする「罪」を生じさせます。これにより、様々な問題が発生してきました。
罪を滅ぼし解決すべき魂の救いは、人の努力や能力により行えることではありません。それは、御子イエスの十字架だけが成し得ることです。神さまは、「飢饉、剣、疫病、捕囚など」を起こすことにより、人を十字架に追いつめ、救おうとしておられます。つまり、ユダをバビロンへ捕囚として連れて行くことにより、彼らを十字架に付け、復活(帰還)させようと計画されているのです。
エレミヤの失望
これ以上、執り成しを続けても「神さまは、受け入れて下さらない」とさとったエレミヤは、失望感に苛まれます。彼のこれまでの人生は、裏切りと失望の連続でした。それら全ては、宗教的指導者や民衆によるもので、神から与えられたものではありませんでした。しかし、今回は違います。今回、エレミヤを襲った「失望」は、再び預言者として立ち上がれないほどに、大きな喪失感を彼の心に与えました。そのダメージは、エレミヤに「預言者を止めたい」と思わせるほどのものです。そのエレミヤの心情が10節にあらわされています。
「ああ、わたしは災いだ。わが母よ、どうしてわたしを産んだのか。国中でわたしは争いの絶えぬ男 いさかいの絶えぬ男とされている。わたしはだれの債権者になったことも だれの債務者になったこともないのに だれもがわたしを呪う」
エレミヤは、預言者として「神さまの言葉を取り次いできた意味」、それ自体がわからなくなるほど混乱しています。そして、「今まで自分がやってきたことは、争いと諍(いさか)いを起こすだけで、何も語らず黙っている方が、みな平穏に過ごせるのではないか」とさえ考え始めます。このような思考は、「わが母よ、どうしてわたしを産んだのか」と人を存在否定へと進ませていくものです。
エレミヤが陥っている今回の「失望」は、預言者として歩んできた約25年間の積み重ねのうえに、湧き出た感情でした。しかも、それは「彼が神さまの前に罪を犯した」というものではなく、むしろ忠実にあり続けた結果だったのです。
エレミヤは、預言者として今までどのような状況にあっても、神さまの言葉を忠実に語り続けてきました。しかし、誰一人として、彼に耳を傾ける者はなく、ユダの信仰は、改善されるどころか悪化の一途を辿り、その滅びの時は近づくばかりでした。そこで、ユダの国民を純粋に愛する彼は、神さまの前に立ち、必死に執り成しを試みます。しかし、ここでもまた、彼の言葉は受け入れてもらえません。そればかりか、ユダ滅亡の最終宣告を聞かされたのです。
ここに至り、国民だけでなく、彼のすべてである神さまからも、自分を拒否されたように思えたエレミヤは、「今まで自分は、一体何をしてきたのだろう・・・」と自問します。すると、今まで溜まりに溜まったものが噴火するように吹き出し、「この問題を解決するために自分は、消えてしまった方がいい」とさえ思えたのです。それが「わが母よ、どうしてわたしを産んだのか」(10節)という言葉でした。
神の御心
エレミヤの感情の揺れ動きは、多くの人が共感できるところです。では、神さまの御心は、どうでしょう。その答えを、11節に見てとることができます。ただ、この11節については、新共同訳(口語訳はほぼ同じ)、新改訳において、それぞれの訳文が大きく異なります。そして、英語の聖書を含めると、3通りの訳文が成立することが分かります。ここでは、2通りの日本語訳を取り上げ、進めていきます。
これらの訳で最も異なっている点が、「エレミヤが神さまに向かい祈っている」(共同訳)、そして「神さまがエレミヤに向かい語っている」(改訳)ことにあります。これは、訳した底本の違いにあると思われます。ここでは、新改訳聖書の訳文を取り上げ、神さまの御心を以下にまとめます。
「エレミヤよ、嘆き失望するな。あなたの存在は、争いを起こすために産まれてきたような、空しい存在ではない。今は人々から憎まれ、疑われているが、わたしはあなたの正しさを必ず顕す。わたしがあなたに授けた預言は、今、ユダの民を救うためではない。やがて、ユダの民がバビロンへ捕囚となったとき、必要となる言葉なのだ。そのときに民は、あなたの語った言葉を思い出し、真実であることを知り、『主は生きている』と叫ぶようになる。さらにそのとき、※敵(バビロン)さえもあなたの言葉の通りであることを知り、お前の下に来て執り成しを願うようになる。すべては、その時のための預言なのだ」。
バビロンは、ユダを滅ぼしますが、バビロンも神さまに用いられた「ただの器」に過ぎず、役目が終わると滅んでしまう(エレミヤ書50・51章)。「敵さえも」は、このエレミヤの預言が成就することを受け、用いた表現です。
預言者の大先輩イザヤは、預言の重さについて、以下のように記しています。
「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくはわたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」
イザヤ書55章11節エレミヤは、ユダの民に神さまの言葉を語り続けましたが、実を結ぶくことはなく、預言者としての自分自身を疑い「自分は災いを生む存在だ」と思い始めます。しかし、それは、大きな間違いです。なぜなら、エレミヤの正しさは、「歴史」が証明することになるからです。この時点で、それを証明することが叶わずとも、近い将来、イザヤの言葉通り「エレミヤの言葉は空しく帰せず、人々はエレミヤの預言を口ずさみ、賛美に満たされ帰って来る」ことになるのです。
「主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて、わたしたちは夢を見ている人のようになった。そのときには、わたしたちの口に笑いが、舌に喜びの歌が満ちるであろう。そのときには、国々も言うであろう、『主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた』と」
詩編126篇1~2節見分けることができない問題
エレミヤは、15、16節で神さまに自分を顧みてくださるよう懇願します。15節で「あなたはご存じのはずです。主よ、わたしを思い起こし、わたしを顧み・・・わたしがあなたのゆえに辱めに耐えているのを知ってください」、と 自分の現状を訴え、続く16節で今まで預言者として歩んできた「信仰」の在り方を「あなたの御言葉が見いだされたとき、わたしはそれをむさぼり食べました」とあらわします。それにより「あなたの御言葉は、わたしのものとなり わたしの心は喜び躍りました」と心から神さまの御言葉(御心)を、受け入れることができた時の喜びを語ります。そして「万軍の神、主よ。わたしはあなたの御名をもって呼ばれている者です」と、神さまに召命されてから今まで、エレミヤ自身が預言者として生きてこれた自分を証しします。
しかし、「なぜ、わたしの痛みはやむことなく わたしの傷は重くて、いえないのですか。あなたはわたしを裏切り 当てにならない流れのようになられました 」(18節)と、今まで、神さまのみ言葉をしっかり受け止め自分のものとし、心を躍らせ喜び、誇りをもって生きてきた筈なのに・・・と現状を訴えます。
エレミヤには、自分自身に起きている問題が見えていませんでした。それは、神さまの「あなたが帰ろうとするなら、わたしのもとに帰らせ、わたしの前に立たせよう。もし、あなたが軽率に言葉を吐かず、熟慮して語るなら…。」(19節)の言葉に手掛かりがあります。
神さまは、「あなたが帰ろうとするなら、わたしのもとに帰らせ、わたしの前に立たせよう」と仰います。つまり、エレミヤは「神のもと」にいるのではなく、「離れたところ」にいたのです。しかし、当のエレミヤは、自分が神さまから離れていることを自覚していたのでしょうか。いいえ、「神さまから離れている」などと彼自身は、全く考えたこともなかったでしょう。彼が神さまに直談判し、何度もユダとの間を執り成したのは、心からユダの人々を愛し、彼らを助けたいと願う「愛」以外の何ものでもありません。そして、その自分の想いより遥かに大きな愛をもって、「ユダを助けたいと願う」神さまの御心を知っているのもエレミヤです。だから、彼は「自分の祈りや執り成しは、神さまの御心だ」と信じ切っていたのです。
しかし、そのようなエレミヤの想いは、神さまにとって「イエス」であると同時に「ノー」でもありました。
エレミヤは、神さまのその想いに、気付くことができませんでした。
自分を信じるか、神を信じるか
「自分を信じる」ということは、「神さまの御心から完全に外れ、自分の考えを信じる」という意味ではなく、「神さまの御心に適っているように思える自分の考えを信じる」ということです。それは、「神さまのみ言葉や現実に起こっていること」それらを合わせ考え、神さまの御心に適っているように思えるので、「これは、神さまの御心である」と思い込んでしまうことです。エレミヤが「ユダを救って下さい」と願ったことは、将来における神さまの御心であり、現時点におけるものではありませんでした。つまりエレミヤは、神さまの御心ではなく、御心だと思っている自分を信じていたのです。
クリスチャンは、自分自身の「弱さを認めるべき」ですが、自分の「弱さを信じる者」であってはなりません。クリスチャンは、自分の弱さを知り、自分で生きていけないことがわかったから、神さまに救いを求めクリスチャンになったのです。しかし、この心理である「弱さ」をいつまでも、自分で握りしめていると、「自分は、弱い人間だから、人間関係が上手くいかない」「自分は、あんな親に育てられたから、子供を虐待してしまう」「自分の心には、幼い時に受けた傷があるから、年老いた両親を受け入れられない」、このように「弱い、あんな親、心の傷」などの「心理」を握り続け、「自分が今もってそうである」と信じ続けることに繋がります。
次に引用する聖書の物語は、このことを証ししています。
パウロは、自分の「ある弱さ」に苦しめられ、神さまに何度も取り去ってくださるよう祈りましたが、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」(第二コリント12章9節)と、神さまから答えをいただきます。彼は、自分の中にある「弱さを認め」ましたが「弱さを信じず(固執せず)」、その「弱さ故」に神さまを信じることを教えられました。自分の「弱さを認める」ことで与えられる「宝」は、神さまの「強さ(恵み)」をいただくためのものだったのです。そして、パウロは「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。……わたしは弱いときにこそ強いからです(同9~10節)」と言えたのです。
エレミヤは、自分でも気付かない間に、自らの「考え、思い、願い、感情」と共に、神さまの御言葉をむさぼり食べていました。それらエレミヤの「考え、思い、願い、感情」の一つひとつは、決して神さまの御心に反してはいませんでしたが、御心が成就する時(エレミヤ=今、神=将来)という点では、御心に反していました。ここに、「御言葉だけでなく、自らを共に食べてしまう」という、気付きにくい「霊の法則」が隠されています。どんなに熱心にクリスチャン生活を過ごしていても、この点に気付かない人(自らの「考え、思い、願い、感情」を日々十字架につけない人)は、「訳のわからない落ち込み」に陥っていきます。
「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」
ヨハネによる福音書6章33節「生きている父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる」
ヨハネによる福音書6章57節クリスチャンは、「御言葉を食べる者」です。そして、命のパンは「御言葉」であり、イエスさまです。それが、時として「イエスさま(御言葉)を食べているつもりが、実は自分を食べていた」ということがあります。それは、「神の御心=いのちのパン」ではなく、「自分の判断した偽の御心=パンもどき」を食べているのです。「霊の糧」である「命のパン」は、人に「力」を与えますが、「パンもどき」は、自らを混乱に陥れる副作用を与えます。エレミヤもいつの間にか「命のパン」ではなく、「パンもどき」を食べていました。その結果、神さまも御心も、自分自身さえもわからなくなったのです。
「パンもどき」を見つけ、それを捨て(十字架につけ)「命のパン」だけを食べるようにしましょう。「命のパン(御言葉)」には、「正しい命と知識」そして「神の愛」が詰まっています。「この世のパン」が「肉の命」を働かせるように、「いのちのパン」は、その人の正しい命となり「意思、知性、感情」を神さまの御心に沿った、正しいものとして働かせてくださいます。
それは、自分が生きるのではなく、キリストがわたしの中で生きてくださることになるからです。
1998年7月15日