神さまは、ご自分の御心を示すため、時として「言葉、自然現象、社会の変化、幻」を用いられることがあります。ここでは、それが「行動」でした。エレミヤは、神さまから「真新しい麻の帯を買い腰に締め、ユーフラテスの川の岩の割れ目に隠しなさい。しばらくして、再びそこに行き、その帯を回収しなさい」と告げられ、使い物にならなくなった腐った「帯」を手にします。今回は、この一連の「行動」により、神さまがメッセージを伝えるため、象徴として用いられた「帯」について考えていきます。
一般的に「帯」といえば、着物に締める(まとめる)「帯」を連想します。しかし、聖書においては、「立って、真理を帯として腰に締め」(エフェソ信徒への手紙6章14節)とあるように、「人は、自分の人生を神さまの『帯=真理』でまとめ生きていく者」と霊的な意味を持つ言葉として用いられています。では、この神さまの「帯=真理(神)」以外のもので、人生をまとめ生きるとどうなるのでしょうか。
「帯=真理」は、「その人が誰と結ばれているか」「何によって人生を歩んでいるか」、その人の「真理」をあらわす言葉です。そして、「神の帯」を締める人は、「神と一つに結ばれる信仰」に生きることができます。
腐った帯
「ユーフラテスの岩の裂け目に帯を隠しなさい」とは、神さまがユダの姿を顕(あらわ)にするため、エレミヤにとらせた「行動」でした。
ユダが締めている帯は、「神の言葉である真理」であり、彼らは「神と一つに結ばれている信仰」をあらわすはずでした。しかし、彼らの「帯」があらわした信仰は、「真の神」と一つに結ばれたものではなく、北方(ユーフラテス地方)の神々の中(岩の裂け目)にありました。その結果、「真の神」の信仰があらわせる「帯」は、多くの月日と共にボロボロに腐り、再び神さまとユダを一つ結ぶことができなくなりました。エレミヤは、そのことを次のように語ります。
「人が帯を腰にしっかり着けるように、わたしはイスラエルのすべての家とユダのすべての家をわたしの身にしっかりと着け、わたしの民とし、名声、栄誉、威光を示すものにしよう、と思った。しかし、彼らは聞き従わなかった」と主は言われる。
エレミヤ書13章11節神さまに結ばれ一体となり、真理の言葉を身につけ、「神の民」として名声、栄誉、威光を受けるべきユダは、偶像と一体となり、あらゆる名声と栄誉を奪われ、バビロンに奴隷として連行されます。神さまは、エレミヤに「帯」を用いて「行動」させることで、このことを示されていました。
神さまは、エレミヤに「『イスラエルの神、主はこう言われる。かめにぶどう酒を満たすべきだ』と」(12節)語るよう命じられます。それと同時に、ユダが「かめに満たすべきだということをわれわれが知らないとでも言うのか」(同)と返すことも、エレミヤに伝えられました。果たして、ユダに神さまの真意は、理解できていたのでしょうか。いいえ、彼らには、神さまの御心が何一つわかっていませんでした。なぜなら、神さまが語られた「ぶどう酒」は、彼らが考える「ぶどう酒」と、全く違うものだったからです。
一般的に考える「ぶどう酒」は、僅かな間、人を現実から離れさせ、「快楽、喜び」を与える働きをしますが、神さまがここで言われた「ぶどう酒」は、イエスさまがカナの婚礼で「水」を「ぶどう酒」に変えられた際の「ぶどう酒」(ヨハネによる福音書2章1~11節)と同じ意味からなるものです。それは、「婚礼の最中にぶどう酒がなくなり、イエスさまの言葉に従った僕たちが、大きな石の水がめ六つに水を満たすと、その水がぶどう酒に変わった」という奇跡でした。これは「イエスさまがその場にいたこと」、そして「僕たちがイエスさまの言葉に従ったこと」で起こりました。この時、僕たちの脳裏に多少の疑問があったとしても、彼らはイエスさまの言葉に従い、大きな石の水がめ6つに水を入れました。この「従う」という言葉こそ、「信仰」をあらわしています。神さまの言葉を受け止め、「信仰=服従」をあらわすことで、「この世の水(肉)」であったものは、「生ける水(霊)=ぶどう酒」へと変えられたのです。そして、この「生ける水=ぶどう酒」こそ、一時的な喜びではなく、人を真の喜びで満たすことができる「聖霊の満たし」のことでした。
パウロは、「酒に酔う」ことと「聖霊に満たされる」ことを下記のようにあらわしています。
「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩篇と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」
エフェソ5章18~19節人が「酒に酔う」ということは、その人が「酒に支配されている」状態にあるといえます。同様に、「霊に満たされ」とは、「聖霊に支配されている」状態を指します。また、ここに述べられている「酒」とは、この世(肉)のもの(金・仕事・快楽・名誉・地位・家族)であり、「酒に酔う」とは「この世(肉)に支配される」状態にあるといえます。つまり、「この世に自分を支配させると、身を持ち崩すことになる」ということです。
「聖霊に満たされる」ことと「酒(肉)に酔う(支配される)」ことは、激しく対立するものであり、そこに一致はなく、互いに相反する行動を起こさせます。パウロは、そのことを次のように述べています。
「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい※。そうすれば決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分がしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません」
ガラテヤ5章16~18節原文でのこの箇所は、強い命令形で書かれています。
クリスチャンとされた者に起こる葛藤は、「神さまの霊に従いつつも、肉の要求にも従う...」この曖昧な生き方から生じるものです。「霊と肉」これらは、決して混じり合いませんが、「共存」することは可能です。たとえば、瓶の中に「白い水と黒い水」を入れ、混ぜ合わせると「灰色の水」ができますが、「霊と肉」においては「水(霊)と油(肉)」のように混じり合うことなく、同じ瓶の中でそれぞれが存在します。そして、瓶の大きさは、中身の量により変わることはありませんから、「水(霊)」の量が増えれば、「油(肉)」の量がその分だけ減る、このような関係性を維持しています。前述したように、この瓶の中身を「生ける水(霊)」で満たすことが、人に「真の喜び」を与えるのですが、人には「油の味(肉の記憶)」を減らすことが、なかなかできません。そこで人は、決して作ることができない「水(霊)+油(肉)」を作ろうとします。つまり、葛藤の中にある自分をごまかし、聖霊を欺く選択をしてしまうのです。この、選択をした人がアナニヤとサフィラでした。
パウロは、御霊の法則について「…御霊の法則は、罪と死の法則からあなたを解放した」(ローマ信徒への手紙8章2節)と述べています。御霊の法則とは、御霊(聖霊)が人の内に入り満たす、つまり「聖霊の満たし」のことです。御霊の内住は、人に救いを与えますが、これだけでは不十分です。なぜなら、「この世=サタン」でクリスチャンが真の「神の子」として生きていくためには、「聖霊の満たし」が必要となるからです。 だから、神さまは、「ぶどう酒で満たすべきだ=聖霊で満たされなさい」と示されているのです。「聖霊の満たし」は、イエスさまに栄光を帰す生き方を与えます。真実を尽くし神さまに向き合い愛していく時、神さまは必ずあなたに応えてくださいます。
神の国の祝宴を断る
この招待は、天国で催される宴会のためのものですが、多くの人々がこの招きを断っています。
彼らの理由は、どれ一つ「正当」だと思えるものがありません。以前、アメリカのある教会での出来事を証しを通し、聞いたことがあります。それは、「妻たちが次々と仕事を辞め、代わりに教会で主に仕えたところ、彼女たちの働きが戦力となり、神さまにとても祝福された」というものでした。このように「結婚」とは、「よりよく主に仕え、主の栄光をあらわすため、神さまに導かれていくこと」なのではないでしょうか。
上述の3人が招きを受けない本当の理由は、「畑、牛、妻」でもなく「主のもとに行きたくない」ということにあります。彼らは、真の喜びである「聖霊の満たし」よりも、この世で作られた「肉」を喜ばすぶどう酒を求めました。「霊と肉」は、相反するものであり、そこに一致は生まれません。ですから、彼らは「肉に生きる」ため、「霊を切り捨てる」以外に道はありませんでした。
その一方で、王の素晴らしい招待を受け取った者たちは、「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」たちでした。この人々は、「ハンディーを負った者」という意味ではなく、「この世で自分を満たせない者たち」の代名詞としてあらわされています。イエスさまは、このことを「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだやさしい」(ルカによる福音書18章25節)と示されました。
霊と肉の領土争い
神さまに救われ「神の子」とされた後も、「今は、神さまのことを考えたくない…」「今日は、神さまに会いたくない…」など、神さまのもとに行き辛くなることは、クリスチャンであれば誰しもが経験していることです。そのような時、多くの人は、言い訳の材料(畑、牛、伴侶など)を見つけ、そこに責任を押しつけ、その場しのぎに自分を納得させ、安堵させているのではないでしょうか。実は、この一連の行為そのものが、その時に内部で起きている「霊と肉の戦い」であり、「肉」に敗北した瞬間でもあるのです。
また、牧師や教会の問題を口実にし、神の国への招待を断る人たちもたくさんいます。たとえば、ある資産家があなたのことを思い、多額の郵便為替証書をあなたに送る手配をしました。ところがあなたは、自分が住んでいる管轄の郵便局と大喧嘩をしたことがあり、その原因となった人が、その為替証書をあなたに届ける郵便配達人だということを知ります。この時、あなたならどうするでしょう。恐らく、大方の人は、郵便局に連絡を入れ、別の郵便局(本局)で受け取れるよう手配するのではないでしょうか。この資産家を神さま、牧師や教会をその郵便局、郵便配達人に置き換え、考えてみてください。資産家(神さま)は、あなたが他の郵便局(別の教会や牧師)で為替証書(恵み)を受け取ったとして、果たして怒りに任せその証書を破棄させるでしょうか。
この「霊と肉の戦い」は、クリスチャンであれば誰しもが体験することですが、残念なことに、彼らの多くが「肉」に勝てず「神の祝福」を失っています。「神の国の宴会」に加えていただくことが、人生の最優先課題です。そのためには、口実となる要因「肉」は、捨てるべきです。そして、その口実がたとえ「妻(肉)」であったとしても、「肉」に勝利し神さまの御心に従う者は、真に妻を愛する者となり、神さまから預けられた財産(恵み)を管理する者へとされます。
「よく聞いておくがよい。だれでもわたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は、 必ずその百倍を受ける。すなわち、今この時代では家、兄弟、姉妹、母、子および畑を迫害と共に受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受ける。しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう」
マルコによる福音書10章29~31節そして最後の時には、「忠実な良い僕だ」(マタイによる福音書25章21節)と呼ばれるようになります。
「神の国の宴会」の招きを断る人の多くは、「融通の利かない厳しい主人=神」であり、「何も言わず受け入れてくれる優しい主人=この世(サタン)」と考えるようですが、それは大きな誤解です。昔、刑務所で教誨師(きょうかいし)※の奉仕をしている牧師の記事を読んだことがあります。それは、「ここにいる多くの者は、自分のやりたいことを素直にやってしまった人たちである」というものでした。彼らは、肉の要求に素直に従った者たちであり、その結果、「この世という主人=サタン」が、いかに厳しく冷たい者であるかを知らされた人たちでもあります。ルカによる福音書15章11~32節に登場する放蕩息子に対しても、「この世の主人=サタン」が優しかったのは、彼が豊かな間だけであり、差し出す物がなくなると「ゴミ」のように彼を見捨てました。しかし、「融通の利かない厳しい主人=神さま(父)」は、彼を見捨てず待ち続け、彼を見つけると走り寄り抱きしめ、子牛をほふり、着物を着せ、指輪を与えてくださいました。父なる神さまは、ひたすら優しい、愛のお方です。
教誨師とは、 刑務所で受刑者や在監者に、悪を悔い正しい道を歩むように教えさとす人。仏教僧またはキリスト教の神父、牧師、伝道師などが、法務省の任命により当たる。
日本国語大辞典より神さまは、「見よ、わたしは、この国のすべての住民、ダビデの王座につくすべての王、祭司、預言者、およびエルサレムのすべての住民を酔いで満たす」(13章13節)と言われました。しかし、このみ言葉を「神さまは、ユダ全ての民をこの世の酒に酔わせ、肉の思いで満たしてしまう」と捉えてはいけません。聖書には、このみ言葉と同じように「神さまが、あたかも人々に罪を押しつけ堕落させる」かのように、表現されている個所が多くあります。しかし、聖書全体を通し考察していくと、神さまの真意が別のところにあることが必然的に見て取れるようになります。その真意とは、「そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました」(ローマの信徒への手紙1章24節)にあります。つまり神さまは、何度も何度も忠告されますが、彼らが聞き従わない(神さまを拒絶する)ため、神さまは手を出す(介入する)ことができなくなり、彼らは神さま不在の下、恥ずべき行いを加速させ、その結果を自らが受けることになった、ということです。
肉の欲求の根底には、「自我」が存在しています。この「自我」が、「己の肉」を満足させるため、この世の酒を求めさせているのです。アブラハムは、この「自我」の根本を過酷な方法で、神さまに試された人です。神さまに与えられたイサクは、いつしかアブラハムの心の玉座に就いていました。しかし、ここで間違えてはいけないのが、「アブラハムは、神よりもイサクを愛したのではなく、神よりも自分を愛した」ということです。つまり、イサクを愛している自分を愛したのです。だから神さまは、「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」(創世記22章2節)とアブラハムに命じました。
人は、自分で「自我」を殺すことはできません。それは、神さまだけがお出来になる「業」です。そして、その「自我」を殺していただくため、人がすべきことは、神さまの言葉に従うことです。アブラハムが神の言葉に従い、イサクを縛り刀を降り下そろうとした瞬間、み使いにより止められます。そして、近くの藪にいる雄羊を身代わりにささげ物としました。ここに、イサクであるアブラハムの自我は、死にました。神さまは「霊」のお方であり、イサクであるアブラハムの「自我」を殺すことは、霊の働きにより行われることです。これが、神さまの「業」といわれるものです。アブラハムのように、人が全身全霊で神さまに服従すると、その人の「自我」を雄羊なるキリストが負ってくださり、その雄羊(キリスト)を殺すことで、その人の「自我」も殺すことができます。そして、アブラハムが受け取ったイサクは、神により新しく復活させられたイサクであり、アブラハムの根底に存在していた「自我=肉(イサク)」ではなく、神さま(聖霊)が支配する「霊(新しいイサク)」へと代えられていました。それをパウロは、「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ信徒への手紙2章19~20節)とあらわしています。
自我の欲求
「我がまま」
「我がまま」とは、「物事を自分の思うまま、自分の思い通りにする人」のことです。言い換えると、自分の欲求である「自我」に従う、つまり「自我に支配されている人」だといえます。
聖書で「聖別」された生き方とは、神さまに対し無条件降伏(全くの従順)の下、日々生きていくことを指します。そして、この「従順」こそ、聖霊に支配され(自我の死)キリストと共に生きるため、人がしなければならない行為「信仰」です。つまり、「信仰」とは、その人の外的状況(生活、変化、出来事)や、そこからくる 内的状況(精神、心)の変化にかかわらず、ただ「神さまの御心だから」という、この理由だけに全てをおき(服従し)、歩み進んで行くことにあります。
サウル王が、神さまの祝福から落とされたのは、神さまの御心よりも、自分の意思を優先させた「不従順」にありました。「自我の欲求」からくる自分の選択が、神さまの命令を押し潰したのです。神さまは、そのサウルに「聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。反逆は占いの罪に、高慢は偶像礼拝に等しい。主の御言葉を退けたあなたは、王位から退けられる」(サムエル記上15章22~23節)と示されました。
一方のダビデは、「神の御心であるなら、なんでも従おう」とする、神さまが最も用いやすい心の持ち主でした。そんなダビデにあっても、その生涯においては、何度か罪を犯しています。しかし、その罪の出所は、「誘惑や情欲」からくるものであり、サウルのように「自我」から発せられる「不服従」によるものではありませんでした。
神さまは、人をご自分に似たものとして造られましたが、その中の一つに、神さまの性質が最もよくあらわされている「自由意思(選択権)」があります。それは、神さまに対し「はい」とも「いいえ」とも応えることができる自由であり、あらゆる被造物の中で、人にのみ与えられたものです。イエスさまは、「すべてのことは、父からわたしに任せられています」(マタイによる福音書11章27節)と語られながら、「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」(同・26章39節)と仰っています。神なるイエスさまは、すべてのことを父なる神さまより委ねられていますが、父なる神さまに全く服従していました。イエスさまが父なる神さまより受けられた「自由意思」は、父なる神さまの「御心に従う」、この一点に集中されています。人も、この「自由意思」をその人に内住する聖霊に従い、「神と神の御心」にのみ服従することを選択するとき、その選択は最も正しいものとされ、聖霊の力により「神の御心」を行うことができるようになります。そして、神さまは「義と聖と愛に満ちた自由」の内に、その人を住まわせることがおできになるのです。
自己過信
自分の思いを遂げようとする「我がまま」は、人を「自己過信」へと導きます。この「自己過信」は、ありとあらゆることで自分に自信を持たせるよう働きますが、「神の力、能力(大能)」を受け入れることはできず軽蔑します。
イエスさまが、もうじき自分は捕らえられ、殺されることを弟子たちに告げると、ペトロは「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」(マタイによる福音書26章33節)と宣言します 。この時のペトロは、自分の宣言したことを自分で信じてしまいました。つまり、明確な「確信」を与えられていない状態で、「わたしは、絶対に大丈夫だ」と自分の信念を自分で過信してしまったのです。
このように、外側から強い刺激を受け心が動かされ、何も考えず行動してしまう「衝動」も、「自我」から発せられるものです。しかし、人の内側には、その人を突き動かす「動力=エンジン」のようなものはありません。人を動かす動力の根源は神さまであり、人は神さまと「信仰」で結ばれ、聖霊により動きだす者でなければなりません。
自己賛美
「我がまま(自分で自分を支配する)」は、「自己過信(神よりも自分を信じる)」を引き起こします。これらが行き着くところは、神さまの御座を奪い自分に栄光を集めようとする「自己賛美」です。「自己賛美」する人は、自分以外の何者(神さまや他人)が褒められることも「良し」とせず、自分が褒められることのみを求め続けます。
ネブカドネツァルは、屋上を散歩しながら「なんとバビロンは偉大ではないか。これこそ、このわたしが都として建て、わたしの権力の偉大さ、わたしの威光の尊さを示すのだ」(ダニエル書4章27節)と言い終わらないうちに、「ネブカドネツァル王よ、お前に告げる。王国はお前を離れた。お前は人間の社会から追放されて、野の獣と共に住み、牛のように草を食らい…」(同28~29節)と、神さまの宣言を聞くことになりました。
上述した自我の特徴は、全てが「自分を神とする」ことにありました。そして、この「自我」は、人の最も深いところで「肉の自分」に指示を与える「司令塔」の役割を担っています。「自我」の願いと目的は、自らを「神」とし神さまの御座に対抗し、自分で「王座」を造り自分が座る、というものです。つまり、「自分を通し、自分を信じ、自分を賛美したい」という欲望に「自我」の正体があります。
神さまは、ユダを自分の帯に結び、選民(証し人)としました。しかし、ユダは「真の神」ではなく、北方の「バアルなどの神々」に自分を委ねます。その結果、彼らの「信仰の帯」は腐り、神さまと「結ばれ一つになる」ことができません。そこで神さまは、「ぶどう酒を満たしなさい(聖霊に満たされなさい)」と彼らに命じますが、肉の満足を得るため彼らは、「この世のぶどう酒」で満たすことを望みます。
「ヤーヴェの神」ではなく「偶像の神々」と結ばれ、「聖霊」ではなく「この世の支配」を求めることは、神さまに従いたくない(自我を通したい)からです。「偶像とこの世」は、自分の思いを素直に受け入れます。しかし、神さまは、ご自分の聖霊を注ぎ「愛と力」により、人が抱く「肉の思い」を阻止し服従させようと働かれます。神さまのそのような介入を嫌がる人は、思い通りになる「偶像」を友とします。「神の帯」と「ユーフラテスの帯」、「神の聖霊」と「この世のぶどう酒」、「神が与える喜び」と「この世が与える喜び」、どちらを選ぶべきかは明白なはずです。
ただし、「神」を選ぶことには、ある種の「覚悟」が必要となります。それは、「この世(肉)」において「神(霊)」を選ぶことは、相反するものを求めることになるからです。そして、ここには「血」が必要とされます。その「血」とは、神さまに服従するため、自分(自我)を殺すための「血」です。しかし、この「血」は、自分が流すものではありません。アブラハムがイサクにしたように、勇気をもって神さまに全き信頼をおき、神さまに自分(自我)を差し出すとき、神さまの独り子イエスさまが、その人の身代わりとなり「血」を流してくださいます。「自我」を殺す、その「痛みと悲しみ」は、神さまが負ってくださるのであり、人に負えるものではありません。
「この世(肉)」に生きながら「神(霊)」を選択することは、相反するものを求める生き方になります。そこに人は、ある種の「痛み、苦しみ」が伴うものだと考えます。確かに、この世(肉)に生まれ、長年慣れ親しんできた肉の生き方を捨てる時、人はある種の苦しみを味わうことになります。しかし、本来「自分(肉)が死ぬ」ことは「喜び」をもたらすものであり、「悲しみや苦痛」を生じさせるものではありません。なぜなら「愛」は、「苦しみ」を遥かに超え「喜び」を作り出すからです。神さまは、人のため十字架につき、痛み苦しまれました。人は、神さまの言葉に従うため、肉(自分)を捨てる苦しみを味わいますが、神さまの「愛」に触れた瞬間、その苦しみは「喜び」に変えられます。神さまに従い服従するその人を見ることで、神さまはご自分の「痛み苦しみ」を「喜び」に変えられるのです。「愛すること」には「痛み苦しみ」が伴いますが、「愛」にはそれらを凌駕し「喜び」で包む力があります。ここに神さまと人が共有できる「一つの喜び」が成立します。そして、これは「神さまと人」が一つの帯で結ばれ、聖霊に満たされ歩む者たちに与えられる「恵み」となるのです。