キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

エレミヤ書聖書講解文 第七回「主は生きている(神の計画と時間)」

エレミヤ書11章18節~12章16節

  • 主が知らせてくださったので わたしは知った。彼らが何をしているのか見せてくださった。
  • わたしは、飼いならされた小羊が 屠り場に引かれて行くように、何も知らなかった。彼らはわたしに対して悪だくみをしていた。「木をその実の盛りに滅ぼし 生ける者の地から絶とう。彼の名が再び口にされることはない。」
  • 万軍の主よ 人のはらわたと心を究め 正義をもって裁かれる主よ。わたしに見させてください あなたが彼らに復讐されるのを。わたしは訴えをあなたに打ち明け お任せします。
  • それゆえ、主はこう言われる。アナトトの人々はあなたの命をねらい 「主の名によって預言するな 我々の手にかかって死にたくなければ」と言う。
  • それゆえ、万軍の主はこう言われる。「見よ、わたしは彼らに罰を下す。若者らは剣の餌食となり 息子、娘らは飢えて死ぬ。
  • ひとりも生き残る者はない。わたしはアナトトの人々に災いをくだす。それは報復の年だ。」
  • 正しいのは、主よ、あなたです。それでも、わたしはあなたと争い 裁きについて論じたい。なぜ、神に逆らう者の道は栄え 欺く者は皆、安穏に過ごしているのですか
  • あなたが彼らを植えられたので 彼らは根を張り 育って実を結んでいます。口先ではあなたに近く 腹ではあなたから遠いのです。
  • 主よ、あなたはわたしをご存じです。わたしを見て、あなたに対するわたしの心を究められたはずです。彼らを屠られる羊として引き出し 殺戮の日のために取り分けてください。
  • いつまで、この地は乾き 野の青草もすべて枯れたままなのか。そこに住む者らの悪が 鳥や獣を絶やしてしまった。まことに、彼らは言う。「神は我々の行く末を見てはおられない」と。
  • あなたが徒歩で行く者と競っても疲れるなら どうして馬で行く者と争えようか。平穏な地でだけ、安んじていられるのなら ヨルダンの森林ではどうするのか。
  • あなたの兄弟や父の家の人々 彼らでさえあなたを欺き 彼らでさえあなたの背後で徒党を組んでいる。彼らを信じるな 彼らが好意を示して話しかけても。
  • わたしはわたしの家を捨て わたしの嗣業を見放し わたしの愛するものを敵の手に渡した。
  • わたしの嗣業はわたしに対して 森の中の獅子となり わたしに向かってうなり声をあげる。わたしはそれを憎む。
  • 多くの牧者がわたしのぶどう畑を滅ぼし わたしの所有地を踏みにじった。わたしの喜びとする所有地を 打ち捨てられた荒れ野とし
  • それを打ち捨てられて嘆く地とした。それは打ち捨てられてわたしの前にある。大地はすべて打ち捨てられ 心にかける者もない。
  • 荒れ野の裸の山に略奪する者が来る。主の剣はむさぼる地の果てから果てまで。すべて肉なる者に平和はない。
  • 麦を蒔いても、刈り取るのは茨でしかない。力を使い果たしても、効果はない。彼らは収穫がなくてうろたえる 主の怒りと憤りのゆえに。
  • 主はこう言われる。「わたしが、わたしの民イスラエルに継がせた嗣業に手を触れる近隣の悪い民をすべて、彼らの地から抜き捨てる。また、ユダの家を彼らの間から抜き取る。
  • わたしは彼らを抜き取った後、再び彼らを憐れみ、そのひとりひとりをその嗣業に、その土地に帰らせる。
  • もしこれらの民が、かつてバアルによって誓うことをわたしの民に教えたように、わが名によって、『主は生きておられる』と誓うことを確かに学ぶならば、彼らはわたしの民の間に建てられる。
  • もし彼らが従わなければ、わたしはその民を必ず抜き捨てて、滅ぼす」と主は言われる。 

エレミヤ暗殺計画

エレミヤは、「正しいのは、主よ、あなたです」(12章1節)ということを充分承知しています。しかし、どうしても神さまに、「なぜ、神に逆らう者の道は栄え、欺く者は皆、安穏に過ごしているのですか」(同)と問いたかったのです。ここに、ある出来事からくる、エレミヤの心の内が見て取れます。

その出来事とは、エレミヤの暗殺計画でした。この計画は、事前に「主が知らせてくださったので、わたしは知った」(11章18節)ことで、未遂に終わります。しかし、エレミヤの受けた傷は大きく、「わたしは、飼いならされた小羊が、屠り場に引かれて行くように、何も知らなかった。彼らはわたしに対して悪だくみをしていた」(同19節)と心情を吐露しています。その悪だくみは、エレミヤを抹殺し、預言者エレミヤの口を封じようとするものでした。ヘブル語学者によれば、「木をその実の盛りに滅ぼし」(19節)の意味は、「毒殺」とも読み取れるそうです。その暗殺計画は、「アナトトの人々はあなたの命をねらい、『主の名によって預言するな、われわれの手にかかって死にたくなければ』」(同21節)とあるように、エレミヤの故郷で起きた事件でした。

ユダのヨシヤ王は、積極的に宗教改革(表面的な改革)を行った王でした。したがって、エレミヤを支持していたと考えられます。しかし、王のもとにいる多くの宗教的指導者たちは、表向きは王に忠実でしたが、本心ではこの宗教改革を受け入れず、改革が実を結ばないよう陰で抵抗していました。彼らの本心は、「神さまに自分を合わせる信仰」ではなく「自分に神さまを合わせる信仰」、つまり「自己中心、利益優先」の宗教という名を借りた、形ばかりのものでした。そのような彼らの二心を見抜き、エレミヤは早くから厳しい言葉で、宗教的指導者たちを弾劾していました。しかし、王の存命中は、さすがの彼ら(宗教的指導者たち)も、表立った迫害をエレミヤに加えることはできません。しかし、ヨシヤ王がエジプト軍から受けた傷がもとで、その後まもなく息を引き取ると、積極的に行動を起こすようになります。彼らは、「王が死んだのは、ヤーヴェなる神さまだけを信じ、それまであった諸々の神々を取り去ったからではないか」と切り出し、果ては「取り去った神々の罰が臨んだのだ」と言い出す始末です。やがて堂々と民衆の前に偶像を持ち出すようになり、僅かな間に、ヨシヤ王以前の宗教レベルにまで引き下げてしまいました。

ヨシヤ王は、バビロンと戦うため北上中だったエジプト軍と戦い、深い傷を負い、その傷がもとで亡くなりました。

このような背景から、ヨシヤ王の死後、エレミヤとユダの宗教的指導者との戦いは、激しさを増していきます。エレミヤはこの争いで疲れ、故郷に帰り、しばらく休みたいと願ったのではないでしょうか。懐かしい人々と交わり、敵のいない平安に浸りつつ回復を待ち、再び霊の戦いの戦場に出て行く筈でした。しかし、「食べるな、エレミヤ、この食物には毒が盛られている」と神さまに知らされます。神さまの言葉を語っている自分をユダの指導者だけでなく、故郷の人々からも嫌がられ、邪魔者にされていると知ったエレミヤの衝撃は、どれほどのものだったでしょう。その痛み苦しみの中、自分そしてユダのことを想いエレミヤは、「なぜ、神よ」と心の言葉を口にせずにはいられなかったのです。

著者の解釈による表現

神義論

「正しい人が正しく報われ、悪人がその悪ゆえに罰を受ける」、これが当たり前のようにもつ人の思いです。しかし、現実はどうでしょう。むしろ、その思いとは逆に、悪人が権力を握り富む中、善人が貧しい生活に苦しむ…。神さまに逆らう者の道は栄え、安穏に暮らしているが、信仰深い者たちは虐げられている…。このような現実では、「神さまが生きて、ご支配している」などと言ったところで、誰も信用してくれません。「神さまが『義と聖』なるお方であるなら、それを許すわけがない」。エレミヤの問いかけ、そしてこのような議論が「神義論」といわれるものです(12章1~4節、ヨブ記なども)。そのエレミヤの問いかけに、神さまは答えられます。

「ユダの家を彼らの間から抜き取る。わたしは彼らを抜き取った後、再び彼らを燐れみ、そのひとりひとりをその嗣業に、その土地に帰らせる」(14~15節)。神さまは、無能だから何もできないのではなく、また見て見ぬふりをしているわけでもありません。むしろ、ある計画に沿って準備し、それを実現させるべく時を待っておられるのです。

エレミヤの時代に、ハバククという預言者がいました。彼もまた、エレミヤと同じ問題を同じように神さまに訴えていました。

  • 主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに いつまで、あなたは聞いてくださらないのか。わたしが、あなたに「不法」と訴えているのに あなたは助けてくださらない。
  • どうして、あなたはわたしに災いを見させ 労苦に目を留めさせられるのか。暴虐と不法がわたしの前にあり 争いが起こり、いさかいが持ち上がっている。
  • 律法は無力となり 正義はいつまでも示されない。神に逆らう者が正しい人を取り囲む。たとえ、正義が示されても曲げられてしまう。
ハバクク書1章2~4節

ハバククも、「人の善悪」「社会の善悪」「神の義とは」「神は何をなさるお方か」など、エレミヤと同じように神さまに訴えていました。

1914年、第一次世界大戦がヨーロッパで勃発しました。結果は、戦死者1,600万人、戦傷者2,000万人以上を記録し、人類史上最も犠牲者数を出した戦争の1つとして位置づけされています(ウィキペディアより)。そして、この戦争がキリスト教国同士によるものから、人々は「なぜ、神は止めることができなかったのか」と口々に言いました。それから僅か25後の1939年、第二次世界大戦が勃発します。日本の戦死者262万~312万人、ナチス・ドイツ700万~900万人、ソビエト連邦2,180万~2,800万人(これには国内での弾圧による犠牲、飢饉、病による死者数も含まれている)、イギリス45万人、イタリア45万人、ユダヤ人490万~590万人、その他、中国、朝鮮、インドシナ半島、タイやベトナム、カンボジア、バルカン半島、東ヨーロッパと恐ろしい数の戦死者と負傷者を出しました(ウィキペディアより)。そして、また人々は「なぜ、神は止めることができなかったのか」と言いました。これらの戦争により、多くの人々から信仰が消え、そこに「人間中心主義」や「物質主義」が取って代わり、世界中を支配し始めます。その傾向が、特に顕著に表れたのが、それまで先進キリスト教国といわれた国々でした。教会の礼拝出席人数は減り続け、今日のヨーロッパ諸国では5%を割り数%になっている(2019年現在)ともいわれています。

「神は。なぜ止めることができなかったのか」、「神が義のお方であり、全能なお方ならば、なぜそれを行使されないのか」。これらの疑念は、「神は生きているのか、死んでいるのか、いや、もともと存在しないのではないか」という考えになり、頭を支配するようになります。

上記にある戦死者、および戦傷者の数字は、2019年現在にウィキペディアに明記されているものです。

歴史は神の支配下にある

ハバククの訴えに神さまは、「見よ、わたしはカルデア人を起こす。それは冷酷で剽悍な国民。地上の広い領域に軍を進め、自分のものでない領土を占領する」(ハバクク書1章6節)と言われます。

剽悍(ヒョウカン)とは、すばやい上に荒々しく強いこと

コトバンクより

神さまは、眠られていたわけでも、まして無能なのでもなく、ハバククの質問に対する答えを持っておられます。ハバククは、神さまが予想以上に大胆な「ご計画」を用意されていることを知り驚きます。そして、その「ご計画」が、ユダの国民を騙す悪しき宗教指導者たち一部に対するものではなく、ユダ全土を残忍なカルデア軍により滅ぼさせるもの、と知らされ困惑します。

人が神さまの意図を理解できない最大の理由は、持っている尺度(定規)の違いにあります。新バビロニア(首都バビロン)がメソポタミアを征服していた期間は、紀元前625年~538年の87年間であり、その間に598年、586年、582年の3回に及ぶバビロン捕囚が行われました。しかし、その新バビロニアも537年にペルシャのキュロス二世(559年~529年)に滅ぼされます。そして、神さまがキュロスを用いて、ユダのイスラエルからの帰還を命じさせたのが538年(第一次帰還)になります。神さまが計画し実行されたことは、「一つの国を興し、奴隷として二千キロ先の異国に連れ出させ、その国が役目を終ると別の国を興し、王に特別な知恵を与えユダを帰還させる」ことでした。

このように神さまは、世界全体を視野に入れた中で一人ひとりのことを考え、この瞬間から数百年先のことまでご計画されています。

キリスト教の始まりである「主の降誕」が、ローマ帝国の時代に起きたことも、緻密に計算された「神の計画」です。当時の地中海地方は、ギリシャ文明のもと発展を続けていました。奴隷制を基盤とした国家では、労働することをさげすむ一方で、知識を重視するギリシャ哲学(初期のギリシャ思想)が育まれていました。このギリシャ哲学により、議論し弁償するに十分な言語が形成されていきます。ここから、東地中海世界の共通語、そして新約聖書が書かれた古代ギリシャ語「コイネー」(現代ギリシャ語の基礎)が誕生します。

一方のローマ帝国は、メソポタミア文明など様々な先進地中海文明を吸収し、強大な国家を築きあげましたが、国家観や国家思想の本質に関わる哲学・美学は古代ギリシャ文明の影響を受けていました。コンピューターに例えるなら、強固なハードがローマ帝国であり、優れたソフトがギリシャ文明でした。これらが合わさることによりローマ帝国は、知恵を持つ国家と戦争に強い軍を併せ持つ強大な国へと発展していきます。そのローマ帝国が最も安定した時代、人間中心の社会にキリストは降誕されました。その文明の中において、人間の理性ではとうてい理解できない「神が人となり、人の罪を背負い十字架にかかり、復活した」という出来事が、帝国の片田舎であるユダヤの地に起こったのです。

もし、この出来事が当時の日本に起こっていたら、どうでしょう。「イエス降誕」が起きた時代は、日本の弥生時代にあたります。この時代は、集落・地域間に戦争が存在していたと考えられています(受傷人骨の存在等により)。そして、上代日本語(奈良時代およびそれ以前に使われていた日本語)以前の古代日本語には諸説あり、未だ解明されていません。この時点で、明確に推測できることがあります。もし、「イエス降誕」が日本で起きていたとしても、恐らく多くのことが未だ解明されず、神さまの存在すら、世の人々は知る術もなかったのではないでしょうか。

当時のローマ社会は、帝国の価値にそぐわないものを、徹底的に排除しました。これが、クリスチャンの大迫害へとつながります。しかし、この迫害ゆえに、神さまの真理が輝き、信仰を練り清め、人でも組織でもなく、ただ神さまのみに頼る人々がおこされ、神さまの栄光を輝かせる結果へと導いたのです。 紀元313年、キリスト教は、ローマ帝国に公認され(ミラノ勅令・コンスタンチヌス帝による)、392年国教(テオドシウス帝)になります。国教になったことにより、信仰は「後退と堕落」の道を余儀なくされます。そして、キリスト教が国教となった3年後、ローマ帝国は東西に分裂し、467年にゲルマン、ゴート族により滅ぼされます。

バビロンとペルシャの時代に、捕囚と帰還の歴史が綴られました。それは、2,500年経った現代にも働かれる、ユダの民を用いた全人類への神さまのメッセージです。ギリシャ文化とローマ帝国の片田舎で燃えた小さな炎は、人が考え出す可能な限りの消火活動にも鎮静することなく、ますます大きな炎となり、ローマ帝国を飲み込みました。ローマ社会こそ、キリストの教えと教会が成長するために、神さまが用意された舞台でした。

これら一連の出来事は、単なる偶然から起きた出来事ではなく預言の成就であり、「神の計画」が神さまの時間にあわせ、着々と進んでいたことを実証するものです。このように、「神の計画」は、世界規模で進行していることであり、「自分の家族、自分がかかわる社会」その狭い範囲の中で、しかも数年先のことも見えない「人」であるわたしたちが、そこに整合性をとることはでません。

歴史とは神の国

多くの人々は、「人類は成長する」と信じています。アーノルド・J・トインビーは、『歴史の研究』の中で「歴史は発展する」と述べていますが、それは聖書の観点からみると、間違いになります。そもそも、歴史の主人公ともいうべき「人」は、成長しているのでしょうか。AD79年8月24日、ヴェスヴィオ火山が噴火し、ポンペイ(イタリアのナポリ近郊にあった古代都市)を火砕流が飲み込みました。そのポンペイ遺跡の壁に、当時の市民生活を垣間見ることができる「落書き」が多く残されています。「○○さんを命の限り愛します」「わたしが財務官になったらすべて良くなる」…どうでしょうか、人は成長したでしょうか。

聖書には「歴史は成長する」のではなく、「完成する」と述べられています。そして 「歴史」は、「神の国」を実現するため、神さまが実行された足跡であり、その「行き着く先」は「神の国の完成」であると宣言されています。

神さまが示される「神の国」とは、「人の中における神の国(神の支配にある人)」「全世界における神の国(神の支配にある全世界)」「霊の世界における神の国」、これら三点を総括的に、神さまの時間枠において考えるところにあります。そして、それら全てには関連性があり、大きな流れの中をひとつの目標(神の国の完成)に向かって進んでいます。

一方の人は、自分が存在している時間と、自分を中心とした世界の中で「神の国」を考え、その範疇(ハンチュウ)を超えたところで「神の国」を捉えようとしません。たとえば、人は病に侵されると「わたしは現実に痛み苦しんでいるのに。なにが『神の国だ』」と考えてしまいます。「自身の病」は、「神の国」よりも大きな出来事であり、そこに神さまは存在できません。しかし、神さまが考える「神の国」は、病を通しその人に「神の国」を与え、その人の痛みの中おける証しを通し、世界を「神の国」にすることを考えておられます。そして、その人には、霊の世界における「神の国」の祝福を、肉体の痛み苦しみ以上に与えることを考えておられます。

イエスさまが来られたとき「時は満ち、神の国は近づいた」(マルコによる福音書1章15節)、「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(ルカによる福音書11章20節)と示されました。つまり、「『神の国』は人が造り出すものではなく、上(天)からくるものであり、神さまにより完成させられるものである」ということです。「神の国の到来」とは、主イエスの来臨であり、キリストの再臨により「神の国の完成」があらわされます。このように「神の国=歴史の完成」は、個人においても、世界全体においても、人が学習を積み重ね得るものではなく、神さまにより完成されるものです。

見張り所に立つ

  • 主よ、あなたは永遠の昔から わが神、わが聖なる方ではありませんか。我々は死ぬことはありません。主よ、あなたは我々を裁くために 彼らを備えられた。岩なる神よ、あなたは我々を懲らしめるため 彼らを立てられた。
  • あなたの目は悪を見るにはあまりに清い。人の労苦に目を留めながら捨てて置かれることはない。それなのになぜ、欺く者に目を留めながら 黙っておられるのですか 神に逆らう者が、自分より正しい者を 呑み込んでいるのに。
  • あなたは人間を海の魚のように 治める者もない、這うもののようにされました。
  • 彼らはすべての人を鉤にかけて釣り上げ 網に入れて引き寄せ、投網を打って集める。こうして、彼らは喜び躍っています。
  • それゆえ、彼らはその網にいけにえをささげ 投網に向かって香をたいています。これを使って、彼らは豊かな分け前を得 食物に潤うからです。
  • だからといって、彼らは絶えず容赦なく 諸国民を殺すために 剣を抜いてもよいのでしょうか。
  • わたしは歩哨の部署につき 砦の上に立って見張り 神がわたしに何を語り わたしの訴えに何と答えられるかを見よう。
  • 主はわたしに答えて、言われた。「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように 板の上にはっきりと記せ。
  • 定められた時のために もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。
ハバクク書1章12~2章3節

物事を考えるとき、その人の「立ち位置」により、その見方は大きく異なります。目の前で起きた「出来事」に意識が奪われ、その「出来事の中に留まり」物事を判断しようとすると、導き出される答えの選択肢は、その「出来事の中」という狭い範囲内に限られます。人生観も同様で、家族、夫、妻、子供、知人や職場の人々など、それらから生じる出来事をその中だけで見ていると、その中でしか物事を考えることができず、自然とその範囲内で人生も見てしまいます。それは、自分の周りの小さな出来事の中から、全世界を判断していることになり、大きな間違いを犯す要因へと繋がります。

ハバククは、神さまに訴えながらも、「永遠・わが神・聖なる方・裁き主・岩なる神」と神さまが持つ様々な名前(その者の、存在と能力と性質)を取りだし、その中から出来事を見ようとしました。それは、自分に起きている出来事の中に立ち(留まり)現実を見ようとすることから、神さまの姿や能力を通し、現実に起きている出来事を見ようとすることでした。つまり、問題のただ中にいる自分をその出来事の中から出し、世界全体の動きを見ている神さまの立ち位置に、自分を移動させることでした。

神さまは、そのハバククに対し、2章2~3節で答えられています。これら一連の出来事を以下にたとえます。

戦場のただ中で戦っている兵士がいます。彼の意識は、敵の矢がいつ自分に向かって放たれるか、その一点に集中しています。たとえ自分の隣に苦しみ喘いでいる負傷者がいたとしても、彼の目には入りません。そして彼は、「神よ、何故あなたは、私に矢を放とうとしている奴を殺してくれないのですか。あなたの義とは、一体なんですか。あなたは本当に生きている神ですか」と訴えます。それに対し神さまは、「あなたはその場を離れ、わたしがいる見張り所に来なさい」というものでした。そこで彼は、言われた通り「見張り所」に行き、戦場全体を見渡しました。するとそこには、彼の見ていた現実とは、違った光景が広がっていました。

戦場でつまずき穴に落ち、足を折っている兵士の姿が、目に留まりました。彼は、戦場のど真ん中の穴の中で、身動きできない自分を嘆き、神さまに声をあげ祈っています。その祈りは、絶望からくるものです。しかし、見張り所からは、別の光景も見えました。それは、彼がいる穴の上を何本もの弓矢が飛び交っているものでした。もし、その兵士が、穴から出ることができていたら…。そうです、彼は、穴に落ち足を負傷することで、救われていたのです。また、別のところでは、傷ついている者に向かい、情け容赦なく刀を振り上げ、とどめを刺そうしている兵士がいます。しかし、見張り所からは、その情け容赦ない兵士に向かい、今にも弓矢を射ようと構えている兵士の姿も見えていました。

そして、次第に彼は、あることに気付き始めます。敵も味方も、それぞれがその場に応じ、バラバラに動いているにもかかわらず、少しずつひとつの大きな流れの中に導かれているように見えてきたのです。それは、善人も悪人も等しく「神の国」へ入れられるため、大きな神のみ手が働かれている一つの流れでした。

人にとって必要なことは、歴史から神さまを見るのではなく、神さまを通し「歴史を、自分を、出来事」を見ることです。

霊の世界

「霊(霊の世界)の目が開かれる」とは、物事を「神の立場」で見るということです。そこに神の計画」を見ることができます。そして、その「神の計画」は、服従とへりくだりによる「祈り(御心のままになりますように)」において実現されます。

たとえば、親になると子供のために「この子が良い子になりますように…」、「人に迷惑をかけない大人になりますように…」と祈りますが、これは間違いです。何故なら、神さまを通し子供を見ると、その子の心も大人と同様に、「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている…」(エレミヤ書17章9節 口語訳)からです。

子供も含めすべての人は、「肉」において成長するのではなく、「霊」により完成される者へと変えられます。つまり、「霊である神さま」だけが人を完成した者にすることができるのです。そこで「じゃあ、子供を教会に連れて行けば良いんだ」と安易に考えはいけません。「霊の法則」では、「神さまが子供の魂に働かなければ教会には来れない=物理的に教会に来ても意味がない」、ということになるからです。では、どうすれば良いのでしょう。そこに神さまに依り頼む「祈り」が生まれます。神さまを通し子供を見ることで、霊の目が開かれ、自分(人)にできないことを認め、ヘリくだりをもって「どうか、この子の魂に触れてください、そして神さまと子供の交わりが始まり、それが豊かになりますように」と祈ることにあります。

この「祈りの中」には、たとえ親子でも、愛し合う関係にある者でも、聖霊なる神さま以外は、入ることも働くこともできません。コリント信徒への手紙Ⅰ12章3節の「…また、聖霊によらなければ…」は、このことを示しています。そして、神さまの「いのち」が子供(人)に内住し、神さまと「繋がり、交わり=いのち」が持てるようになると、誰からの強制もなく自然に人の行動は、変えられていきます。それをなさせるのが、人の「祈り」です。

神さまを通し(霊の目が開かれ)物事を見ていく中で人は、神さまの御心に適った「祈り、行動」ができるようになります。そして、その「祈り」が神さまの「御心」に適っているとき、祈りの中に「確信」が与えられるようになります。しかし、御心に適っていないときは、祈れば祈るほど「砂を噛むような虚しさ」を感じるようになり、「これは、御心ではないな」ということがわかるようになるのです。また、祈りの中で、さらなる霊の目が開かれ、その祈り自体が「神の計画」に沿ったものへと向きを変えられる場合もあります。

「祈り」により与えられる「確信」は、さらなる「祈る力」を生みだし、働きだすようになります。そして、この「祈る力」を知っている者は、さらに強められ「祈る」ことができるようになるのです。

エリヤは、バアルの預言者たちをキション川で殺した後、カルメル山に戻り「雨を待つ祈り」を7回しました。それは、彼が祈る度に確信を与えられたからこそ祈る力となり、7回強く祈ることができた…と言えるのではないでしょうか。

 パウロが、ローマへ囚人として連れて行かれる途中、暴風雨で船が沈みそうになった時、「ですから、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります」(使徒言行録27章25節)と人々に宣言しました。彼は、暴風雨にある自分の立場から離れ、霊の目を開き(神さまの立場で)見ました。そして、パウロは、神さまがそのようにされること(神の計画=みこころ通りになること)を切に祈ったのです。それから何日か後、船はマルタ島に打ち上げられ、全員無事に上陸できました。

「それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない、たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る。遅れることはない』」(ハバクク書2章2~3節)。この神さまの言葉は、ハバククに与えられた「確信」でした。

 預言者には、「見張る者、見守る者」の意味があります。人々は、職場、学校、家庭など、それぞれが肉の世界で生きています。そう生きていく内に、神さまの全体的な「ご計画」が見えなくなるのです。それらの人々が神さまとの関係を見失わず、迷うことがないよう立てられたのが「預言者(現代では、メッセンジャー)」です。イザヤ(紀元前739~701年)のユダ捕囚の預言が成就したのは、104年後のことでした。イエス・キリストの来臨については、創世記の3章15節から、すでに語り始められていました。したがって、それが何千年前の預言であるのか明確ではありませんが、成就したことは事実です。歴史の出来事は、神さまの啓示の光に照らし見るとき、そのご計画と時間の正しさが理解できるようになります。

歴史にある二つの道

「見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる」

ハバクク書2章4節

ここに「高慢な者」と「信仰者」の二つの道があります。「高慢な者」とは、神さまの前に自分を主張する者のことであり、自分の考えや願いを優先させる者です。一方の「信仰者」は、神さまの下に自分を置き(世の基準ではなく神さまの基準に自分を置く)、神さまの御心が成就するよう、神さまに従う者です。つまりは、「高慢を捨て、へりくだる者とされなくてはならない」ということを諭しているのですが、人には、自身に潜む「高慢」を完全に捨て切ることなどできません。では、どうすればいいのでしょう。それは、神さまに委ねること、委ね切ることにあります。

神さまは、エレミヤ書12章15節で、「わたしは彼らを抜き取った後(ユダ国民を一度バビロンに連れて行き)」、「再び彼らを燐れみ、そのひとりひとりをその嗣業に、その土地に帰らせる」と言われました。そして、続く16節で「もしこれらの民が、かつてバアルによって誓うことをわたしの民に教えたように、わが名によって、『主は生きておられる』と誓うことを確かに学ぶならば、彼らはわたしの民の間に建てられる」と示されています。神さまがユダの民をバビロンに連れて行く目的は、この言葉をユダの民に言わせることにあったのです。「わが名によって、『主は生きておられる』」この言葉は、「高慢を捨て」、「へりくだる」ことをあらわしています。そして、この言葉こそ「人に、国家に、世界に」、神の国を完成するために必要となる「信仰の言葉」なのです。

神さまは、一人ひとりに「高慢を捨て、へりくだること」を学ばせ、「わが名によって、主は生きておられる」ということを知らしめておられます。そして、この信仰告白に全世界の者を導くため、計画し時を用いておられます。人は、そのことを知るまで、神さまのみ心がわからず「なぜ、悪人を生かしておくのか、義人を助けないのか」と疑問を投げかけることになります。そして、そこで焦り身近なところに答えを求め、自分なりに考え、それを義とし、神さまを裁き、「神は、愚か者の無能者だ」とみなします。これこそ高慢な無知なる者です。わたしたちが必要とすること、それは「信仰」です。人の解釈や計画ではなく、神さまの御心と時に従い、生きていくことです。

「人が労苦してみたところで何になろう。わたしは、神が人の子にお与えになった務めを見極めた。神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない。」 

コヘレトの言葉3章9~11節

人が生きている狭い空間と時間の中において、宇宙をも含めた広がりと、永遠という観念の中で「神の国」を計画し、時を定めておられる神さまのみ心を理解することは、決して容易なことではありません。「神よ、なぜこのことをあなたは何もせず見過ごされるのですか」と疑問を投げかけ、自分の願い通りに事が進まないと「神はいない」と結論を出してしまう愚か者にならないよう、神さまの愛に信頼をおき、忍耐し進める者へとなってください。

1998年6月24日
エレミヤ書聖書講解第八回に続く…

ページトップへ