神さまから見たユダは、「偽善の罪」に満ちていました。「…一人でもいるか、正義を行い、真実を求める者が。いれば、わたしはエルサレムを赦そう」(1節)、と言われるほどに、ユダの罪はひどいものでした。ユダの人々は、口では「主は生きておられる」(2節)と言いますが、それはただの建て前であり、本心は別のところ「偶像」にありました。神さまは、「その罪」に気付かせるため、彼らを打ち叩き痛みを与えようとしますが、「…彼らを打たれても、彼らは痛みを覚えず 彼らを打ちのめされても 彼らは懲らしめを受け入れず その顔を岩よりも固くして 立ち帰ることを拒みました」(3節)。彼らは、頑(かたく)なに拒み続けます。
しかし、なぜユダの人々は、「その罪」に気付かないのでしょうか。そこでエレミヤは、「これは身分の低い人々で、彼らは無知なのだ。主の道、神の掟を知らない。 身分の高い人々を訪れて語り合ってみよう。彼らなら主の道、神の掟を知っているはずだ」(4~5節)と考え、身分の高い人々と語り合います。しかし、その結果は、「軛を折り(自由を束縛するものを自ら折り)、綱を断ち切っていた(神さまとのつながりを自ら進んで切る)」(5節)ということでした。つまり、彼らが今までしてきたことは、「無知」ゆえのものではなく「故意」によるものだったのです。彼らが自ら折った「軛、綱」は、神さまがユダを守るために与えられた「守り」であり、「軛をつけ、綱につながれる」とは、束縛ではなく「真の自由を受ける」ことだったのです。しかし、彼らには、そのことがわかりませんでした。
神さまは、人を愛しておられます。この「真の愛」は、「自由」の中でこそ成立するものです。人は「神に従うことも、不服従を通すことも」また、神の守りの中に居ることも、そこを出て自分の世界に生きることも選択できる自由が与えられています。しかし、この「自由」の正体は、「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8章32節)にあるように、「真理※」あってこその自由なのです。では、その「真理」とは、何なのでしょうか。それは、エデンの園に置かれていた「善悪を知る木」に答えがあります。
神さまは、エデンの園の中央(霊の世界)に「いのちの木」と「善悪を知る木」を置かれました。「いのちの木」には「愛あるいのち(神との交わり)」を、「善悪を知る木」には「愛あるいのち(神との交わり)」を成立させるための「神さまの言葉=戒め=真理」を、それぞれの木に実らせました。この「いのちの木」と「善悪を知る木」は、神さまが造られた「神さまご自身」です。神さまは、この「いのちの木」と「善悪を知る木」を通して、アダムとエバに語りかけていらっしゃいました。アダムとエバは、その「善悪の木=真理」の実を食べてしまったのです。
アダムとエバに食べられた「真理」は、その時から神さまご自身ではなく、「食べた者=人」の下での「真理」になりました。たとえば、神さまの戒めに「あなたは殺してはならない」という真理があります。この真理が人の下では、「あの人は、三人も殺したから死刑だ」となり、人が善悪(真理)を造ることになります。つまり、「どんなことがあっても殺してはならない」という神さまの「真理」が、人の下では「殺してもよい」ということになってしまうのです。
「善悪を知る木」とは、「真理=戒め」でした。神さまは、人に自由(神さまとの交わりの中にある自由)を与えるため、人を創造したときから「真理=戒め」を教え、人を守ろうとされていました。
※真理とは、いつどんなときにも変わることのない、正しい物事の筋道。
デジタル大辞泉より6節で述べられている「森の獅子が彼らを襲い荒れ地の狼が彼らを荒らし尽くす。豹が町々をねらい出て来る者を皆、餌食とする」とは、神さまの守りから外れた結果です。神さまは、わたしたちが危険な場所に行き、獅子や狼、豹に餌食とされないよう、人を戒め守ろうとされていました。しかし、ユダの人々は、自らの意思で「軛を折り綱を断ち切って(神さまとの繋がり、交わりを絶ち)」そこに行き、餌食となる事態を招いたのです。
「善悪を知る木」については、聖書基礎講座の「戒め・善悪の木 (2)」、「サタン・善悪の実を取る (1)」をご参考ください。
神さまが7節で、「どうして、このようなお前を赦せようか」と言われるのは、当然のことです。彼らの姿は、「夫(神)に高価な服(恵み)を与えられ、その洋服で着飾り愛人(偶像)のもとへ駆けつけて行く姿」(7~9節)そのものでした。また、「ブドウの幹(神)に枝(ユダ)を付けたら、別の木(偶像)を求めてツルを伸ばして行く姿」(10節)でもありました。それでいて彼らは、「主は何もなさらない。われわれに災いが臨むはずがない」(12節)と言い、「預言者(エレミヤ)の言葉はむなしくなる」(13節)と言います。彼らは、神さまの真剣な言葉を、真正面から受け止めていませんでした。
そのようなユダの民に神さまは、バビロンにユダを滅ぼさせ、人々を捕囚として連れ帰らせる計画を立てられました。それは、「何故、我々の主なる神はこのようなことを我々にされたのか」(19節)と疑問を持たせ、「あなたたちはわたしを捨て、自分の国で異教の神々に仕えた」(19節)ことを知らしめるためでした。それは、ユダの人々を滅ぼすためではなく、むしろ滅ぼさないための神さまのご計画でした。
しかし、神さまのユダに対する「愛の計画」は、退けられてしまいます(25節)。その理由の一つに、「わが民の中には逆らう者がいる」(26節)からです。その逆らう者とは、「預言者は偽りの預言をし、祭司はその手に富をかき集め」(31節)といわれる「宗教的指導者たち」のことでした。
偽預言者
偽預言者は、下記のように定義付けすることができます。そして、彼らは人々に異なった影響を与えます。
これら偽教師の中でも、3番目の教会の中にいる偽教師(偽預言者)たちは、聖書の真理を明らかにせず、また強調すべきことを語りません。それは、人にとって栄養となる「ミルク」を「水」で薄めて飲ませているようなものです。「ミルク」を「水」で薄めても、それ自体は「毒」ではありませんが、栄養がないので成長することもできず、やがて栄養失調で「死ぬ」危険もあります。異端の教師は、「毒」で殺しますが、偽預言者は、栄養失調にして殺してしまうのです。 しかし、この「栄養のないミルク」は、「毒」と違い見分けることが難しく、多くのクリスチャンが「真理を十分に含んでいない霊の乳(みことば)」だと気付かずに飲み続けています。そして、彼らの多くが教会を去り、つまずき、信仰の喜びを失い、神さまから離れていきます。つまり、このような事態を招いたのは、偽預言者のような牧師や教師に指導された結果だといえるのです。
しかし、「完全な教師(預言者)」になり得る人は、この世にいるのでしょうか。残念ながら、一人もいません。なぜなら人は、神さまの栄光のために働きながらも、どこかに自分の栄光を求める不完全さを持ち合わせているからです。同様に、聖書を完璧に教えられる人もいません。あのペトロでさえ、エルサレムから来たユダヤ人クリスチャンたちの意見に押され、「割礼も少しは効果がある」と言ってしまうのです。そして、その判断の根本には、「神のためか」「自分自身のためか」という「2本の道」がつねに存在しています。
また、ここで言われている「預言者」とは、ユダの中にいる偽預言者のことであり、バアルを信じている預言者のことではありません。現代でいうならば、教会の中にいる偽教師(偽預言者)のことです。偽預言者が明確に偽物だと分かれば、その者は「異教の教師」となりますが、同じ信仰者の中にいるからこそ偽物とされるのです。
偽預言者の外観は、一見紳士的で好印象を与え常識があり、その教えも正しく見えます。また、聖書の言葉をよく使いこなし、「神さま、イエス・キリスト、聖霊、十字架」についても語ります。そして、なによりも「神さまの愛」を強調します。ですから、「偽り」を見分けることは、難しいのですが、それでも見分ける方法はあります。その一つに「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」 (マタイ7章13~14節)、このみことばに的を絞り観察すると見えてきます。 また、彼らが「何を語っているか」ではなく、「何を語らないか」にポイントを置くことも大切な判断材料となります。彼らは実にさまざまなことを語りますが、信仰において重要となることを語らない、あるいは強調すべきことをしていない、などで判断できるのです。
では、具体的に彼らは、「何を語らず」「何を強調」しているのでしょうか。
【イエス・キリスト以上に父なる神を強調】
聖書には、「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しするものだ」 (ヨハネによる福音書5章39節)、「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシヤであると 信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」(ヨハネ20章31節)、とあるように聖書に述べられているすべてのことは、イエス・キリストご自身をあらわすために記されています。そして、わたしたちが「父なる神」を知ることができるのは、「いまだかつて、神(父なる神)を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神(イエス)、この方が父を示されたのである」 (ヨハネによる福音書1章18節)とあるように「父なる神」は、「主イエス」によってのみ、わたしたちに明らかにされます。したがって、「主イエス」を正しく強調することが、「父なる神」を正しく示すことになるのです。「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりする」 (ヨハネによる福音書5章19節) 。父なる神は、主イエスによってのみ私たちに明らかにされるのです。
【イエス・キリスト以上に聖霊を強調】
聖霊は、「父なる神」と「御子イエス・キリスト」にわたしたちを結びつけ、「イエス・キリスト」のものを、わたしたちに分け与えてくださっています。つまり、わたしたちは、聖霊なくして「イエスは主」と証することも、聖霊のとりなしなく「祈る」こともできません。それ程までに聖霊の働きは、人にとって偉大なものです。しかし、だからと言って「今は、聖霊の時代だ。ご聖霊様を賛美しましょう。ご聖霊様感謝します。手を叩いてご聖霊様をあがめましょう」となってしまうと、真理であるイエス・キリストが蚊帳の外に追い出され、どこかが狂いだしていしまいます。
「父なる神」をあらわすのが「御子イエス・キリスト」であり、「御子イエス・キリスト」をあらわすのが「聖霊」です。つまり「聖霊」は、「御子イエス・キリスト」が栄光を受けるために仕え、「御子イエス・キリスト」は「父なる神」が栄光を受けられるために仕えていらっしゃるのです。
ここで、少し考えてみてください。もし、あなたが聖霊であり、イエス・キリストが栄光を受けるために日夜仕えている者だとしたら…「あなたがいるから、御子イエス・キリストが崇められるのですね!」と称賛を受けたら、どうでしょうか。「いや~、そうなんですよ」と素直に喜びますか、それとも「わたしではない!崇められるべきお方は、神の小羊イエスだ!」と大声で反論するでしょうか。わたしたちも、パウロとバルナバが、リストラの町で群衆に崇められたとき、服を裂き叫びながら群衆の中に飛び込み、自分たちにいけにえを献げようとするのを止めさせたように(使徒14章8~19節)、すべきなのです。イエスさまは、「あなたこそ我が主イエス・キリスト」と強調されるとき、聖霊を喜ばれています。なぜなら、人が「主イエス」を強調できるのは、主イエスがいかなるお方で、どのようなみ業を行ってくださったかを理解できるからであり、それを人に分からせてくださるのは、聖霊の忠実な働きによるものだからです。
【その他】
今日、ある教会や指導者たちの間で、さまざまな宗教グループ(仏教、神道、イスラム、ヒンズー、その他)が共に集まり祈る「平和を願う運動」がありますが、それはとても危険なことです。もし、異教である他宗教と共に祈る、これらの運動が神のもとで許されるのであれば、「ヨシヤ王の時代のユダに罪はなかった」ということになり、エレミヤが生涯にわたり聞き続けた「神の御声」は嘘であり、偶像礼拝を弾劾する必要もなかった…つまり、聖書の記述を否定することになるからです。
偽教師(偽預言者)が語るメッセージの特徴は、人(肉の人)が嫌がることは極力扱わず、自然に受け入れられることに的を絞り構成していることにあります。
エレミヤ書の偽預言者は、「偽りの預言をし、祭司はその手に富をかき集め」(5章31節)ますが、神さまは「わたしの民はそれを喜んでいる」(同)と仰います。なぜ、偽預言者たちが偽りで富をかき集めるにもかかわらず、民衆に人気がるのでしょうか。それは、「彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して、平和がないのに、『平和、平和』と言う」(6章14節)からです。前述したように、偽預言者(偽教師)たちは、「狭い門、細い道」について語りません。ですから、ここで述べられている「手軽な治療」とは、神さまが示される「第一の義の道=原罪からの救い、第二の義の道=肉からの救い」、そして「肉のクリスチャンから霊のクリスチャンになる聖別」、これら「義と聖」を抜いた愛なのです。人はだれでも、荒野からカナンに至る道を進みたいとは望みません(義の道)。そして神さまから追い詰められ苦しみながら十字架につき死にたいとも思いません(聖別)。しかし、だれよりも多く愛(恵み)を受けたいと願います。この人の心理を突いているのが、偽教師(偽預言者)です。彼らは、義と聖を抜いた神の愛を強調し、義と聖を通した神の愛は語らないのです。
「神の義」については、「福音・神の義・信仰」、「義の道」をご参考ください。
「聖別」については、DVD「聖霊の満たし・聖別」をご参考ください(聖書講解文「聖霊の満たし、聖別」も公開中)。
彼ら偽教師(偽預言者)は、人が罪を犯す根本的な性質(罪性)について語りません。なぜなら、彼らが語る「罪」とは、人が持つ「弱さ」のことだからです。しかし、聖書が示している「悪」は、明らかに「神さまへの反逆」であり、「人の弱さ」 とは全く別のものです。たとえば、「あなたが罪を犯したのは、人の持つ『弱さ』だから…」と、人の弱さに対し人の優しさで対応し受け入れていく…そして、そこから先がありません。これでは、カウンセリングで終わってしまいます。確かに、罪を犯した人を受け入れていくことは必要です。しかし、それと同時に、「このことは、あなたが、そしてわたしたち人が、罪の中にいるからだ」ということ、そして「罪の赦し」を得るには「罪の宣告と賠償」(犯した罪と向き合い、苦しみ)が伴うことを聖書において示す必要がります。偽教師(偽預言者)のいう「罪=人の弱さ」であるなら、キリストの贖罪(罪の贖い、身代わり)は、必要なかったことになります。パウロは、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました」(ローマ3章23~24節)と、十字架抜きの救いはありえないと語っています
また、彼ら偽教師(偽預言者)は、「行為の悔い改め(偶像を捨てるなど行為による悔い改め)」について語りますが、「存在の悔い改め(神に顔を向け、自分ではなく神を主として生きること)」を強調しません。そして、「細い道(弟子の道)」を歩く必要性も強調しません。こうなると、「行為の悔い改め」に励むクリスチャンは増えますが、重要な内面の献身(神への献身)がおろそかになり、主イエスご自身への献身が語れなくなります。その結果、「牧師への服従と奉仕、そして献金の履行が神さまへの献身である」と教えるようになります。
エレミヤ書6章8節にある「エルサレムよ、懲らしめを受け入れよ。さもないと、わたしはお前を見捨て、荒れ果てて人の住まない地とする」について、新約聖書ヘブライ人への手紙では、「主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」(12章6節)と語られています。
神さまの懲らしめとは、「…自分のものでない国で他国民に仕えねばならない」(エレミヤ書5章19節)ということでした。神さまは、ユダの偶像礼拝を止めさせるため、これまでも多くの預言者を遣わしました。しかし、ユダの民は、そんな神さまの想いを全く受け入れません。頑なに拒み続けるユダに対し神さまは、この地で悔い改めを起こすことはできないと判断され、ユダの民をバビロンに奴隷として連れて行かせる決断をされました。そして、ユダの民に偶像礼拝の罪をわからせ、真の神であるご自身を示されようとしたのです。これが神さまの懲らしめであり、憎しみのために与える罰などではなく、愛するがゆえにたてられた神さまの救いのご計画でした。 しかし、その神さまの真意(神さまの救いのご計画)を受け入れたくない(信じたくない)ユダの民は、やはり頑なに拒みます。これは、目先の自分の命(自らの肉)を「死」から救い、目先の危険を避けようとする人の性でもありました。「それゆえ、主はこう言われる。『見よ、わたしはこの民につまずきを置く。彼らはそれにつまずく。』」(エレミヤ6章21節)
二つのつまずき
【第一のつまづき】
第一のつまずきは、「肉を認めてくれる」預言者の言葉を受け入れてしまうことにあります。偽預言者の言葉は、キャッチフレーズが「平和」で統一され、「肉を否定」せず「肉を認める」ため、この世の人々に人気があります。しかし、それは「泥船の中での酒盛り」のようなもので、やがて必ず沈むこと(裁きがあること)が分かっているのに、「沈まない(裁きはない)、平和だ(恵みだ)、歌え踊れ」と言っているのと同じです。
【第二のつまづき】
第二のつまずきは、「肉を否定する」神さまのご計画(みことば)を受け入れられないことにあります。神さまのご計画(みことば)は、全世界の個々の人が肉を殺し、霊によって生きる者となることにあります。
十字架から始まる命と平安
以下に紹介するのは、ヘンリ・ナーウェン著書から抜粋したものです。彼は、オランダ生まれのカトリックの司祭で、ハーバード大学の教授職を辞して、カナダのトロントにある知的障害者と共に生活する「ラルシュ共同体」の牧師になった人です。
私たちの世界は、喜びと悲しみをはっきり区別します。喜んでいるときは悲しむことはできないし、悲しんでいるときには喜べないと思いがちです。実際、現代の社会は、悲しみと喜びを切り離すために全力を注いでいます。
悲しみや痛みは、どんな代価を払っても遠ざけなければなりません。それらは、私たちが求める喜びや幸せと相容れないものだと考えるからです。死、病、そして、さまざまな人間の悲しい現実は、見えないところにすべて隠さねばなりません。それらは、私たちが一生懸命追い求めている幸せを遠ざけ、人生のゴールに到達することを妨害するものです。
世界のこうした見解に対し、イエスはそれとはきわめて対照的な見解を示します。イエスは、その教えと生き方によって、真の喜びは悲しみのただ中に隠されていることが多く、そして、人生の喜びのあまり踊るダンスは、深い嘆きに端を発するものであることを示されました。イエスは言われました。「一粒の麦が死ななければ実を結ぶことはできない。……わたしたちが自分のいのちを失わなければそれを見い出すことはできない。……人の子が死ななければ聖霊を遣わすことはできない」
また、ご自分が苦しんで死なれたのち、失望落胆していた二人の弟子に、イエスはこう言われました。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」(ルカによる福音書25~26節)ここに、まったく新しい生き方が示されています。それは、苦しむことを求めるのではなく、苦しみの中で新しい何かが生まれることを知っているがゆえに、苦痛というものを受け入れる生き方です。イエスは私たちの苦痛を「産みの苦しみ」と呼び、こう言われます。「女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に産まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない」(ヨハネによる福音書16章21節)
十字架が、この新しい洞察のもっとも鮮やかなしるしとなりました。十字架は、死と同時にいのちの、苦しみと同時に喜びの、敗北と同時に勝利のしるしでもあります。この十字架こそ、私たちの行くべき道を示すものです。
ヘンリ・ナーウェン著「今、ここに生きる」彼は、「人々は、喜びを得るためには、悲しみや痛みを徹底的に退けることだ、と常識的に考えているが、そうではない。むしろ、悲しみや嘆きがより深い喜びと幸いへと導く。それをイエスの生き方、とりわけ十字架が教えている。十字架の痛み苦しみは、復活と聖霊の助けへと導く、産みの苦しみである。ここに人にとっての新しいビジョンが示されている」と語ります。
聖書は、いつもこのことを示し続けています。人は、生まれながれにして持っているもの、あるいは人生で身につけたもので、生きることはできません。人の命と喜びは、神さまにより与えられ持つものです。それを持つために人は、自分に死ななければなりません。それを神さまの側からみると、「人を救うためには、その人を殺さねばならない」となります。これが「神さまの懲らしめ」です。
「神さまの懲らしめ」を受け入れることは、自分の「肉に死ぬ」絶好の機会でもあるのです。ユダの民において、神さまがご計画した「バビロン捕囚」を受け入れることは、十字架につくことであり、肉に死ぬために必要なことでした。しかし、その意味を正しく知っておられるのは、神さまであり、人に容易く理解できることではありません。人は、ヘンリ師の語る「悲しみや痛みを遠ざけることが、喜びと幸いである」、この考えにしがみつき、なかなか離れることができないでいます。 人は、神さまが立てた「愛のご計画」を拒むことで、つまずきます。人のつまずきは、悲しみや痛みに打ち負かされることではなく、それらを主によって受け取らないところにあるのです。
「この地よ、聞け。見よ、わたしはこの民に災いをもたらす。それは彼らのたくらみが結んだ実である。彼らがわたしの言葉に耳を傾けず、わたしの教えを拒んだからだ」(エレミヤ6章19節)
偽預言者の語ることは、自分(肉)の計画を肯定するが故に、人には心地が良く受け入れやすいものです。一方、神さまの言葉(ご計画)は、自分(肉)の計画を否定し、自分を痛みに導くように思えるので、受け入れられず拒まれます。人にとって、偽預言者の言葉を受け入れることも、神の言葉を拒否することも、どちらも同じ結果を生む「つまずき」となるのです。
真の人生のつまずきとは、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」(マルコによる福音書6章36~37節)、と主が語られたように、肉(全世界)を得ようとして、命(永遠の世界)を失うことにあります。神さまは、ユダに命を与え、それを豊かにしたいと考えていらっしゃいます。ユダをつまずかせることが、神さまの本意ではないのです。
どうか、みなさんにあっては、堂々と偽預言者の言葉を拒否し、素直に神さまの言葉(ご計画)を受け入れられるよう、日々信仰を成長させていく者となってください。
「神の賜物は、わたしたちの主イエス・キリストによる永遠の命なのです。」(ローマ6章23節)
1998年6月3日