信仰は、「神さまとわたしの交わり」にあります。それは、「人格と人格、一対一の真実な愛の交わり」です。
「聖書の神だけが唯一の神」この言葉に多くの人たち、中でも特に日本人は、反感を持ち不快感をあらわにします。それは、昔から日本にある諸々の神信仰が、日本人の意識下に根付いているからだと思われます。その日本において、「この神だけが唯一の神」などと主張すれば、その人は協調性に欠けるとみなされ、孤立してしまいます。そこで、輪から外れず協調性を保つため「お互いの神を全面的に認め合い、深く干渉し合わない」という暗黙のルールが、自然に敷かれるようなりました。
多神教と一神教において「信じる」ことには、根本的な違い「多神教=利用」と「一神教=交わり」があります。多神教の神々は、それぞれ「縁結び、安産、受験、家内安全、商売繁盛など」得意分野を持っています。人は自分の必要に応じ、それらの神々を選択し助けを求めます。つまり、あくまで「自分が主」となり、その神の「技(わざ)」を求め、救いにあずかろうとします。
一神教である「聖書の神への信仰」は、神さまを利用するのではなく「交わり」を持つことにあります。それは、「結婚」にたとえられるもので、一人の女性(男性)を信じ、その人だけを信頼し結婚する…そこには、他者(偶像)が入る余地はなく、また入れることもできません。もし、他者が入るようなことがあったなら、そこに愛はなくなってしまいます。このように一神教の信仰には、排他的性質がありますが、その排他性は他の神々に対する不寛容さであり、多神教を信じる人々に向けられるものではありません。
神さまとの「交わり」は、双方向(神さまとわたし)で行われるものであり、そこには「愛あるいのち」が流れています。この「愛あるいのちの交わり」は、「互いに仕え合い、互いのために犠牲になる」ことでもあります。では、この「犠牲」とは、どのようなことでしょうか。このことをヨハネによる福音書では、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(15章13節)と述べています。
聖書では、主イエス・キリストとわたしたちの関係を「夫婦(花婿と花嫁)」にたとえています。イエス・キリストは、花嫁を愛しご自分の命を捨てられました。「イエスは、わたしたちのために、命を捨てて下さいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました」(ヨハネによる福音書3章16節)。わたしたちは、命をかけて愛を示してくださった主に、「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」(マタイ10章38節)と言われるように、主の御心に自分を従わせる(十字架を担う)者でなくてはなりません。それが、主を愛し、主の愛に応えることになります。
夫婦間に生じるさまざまな問題、それらを乗り越えてゆく力は、互いの「聖さ」にあります。たとえば、夫婦の間に異性絡みの問題が生じ、「聖さ」が失われたら…どうでしょうか。多くの場合、その夫婦は、離婚に追い込まれることになります。それは、神さまと人との関係にも起こります。しかし、神さまと人との間では、決定的に異なる点があるのです。それは、神さまが「絶対の愛」を持ち、人は「自己愛」しか持てないということです。
神さまの「絶対の愛」とは、全能で完全な存在である神さまから、有限で不完全な存在の人へと向けられる「無限で無償なる愛(アガペーの愛)」を意味します。神さまは、このアガペーの愛で人と交わろうとされます。しかし、その愛に応える側の人は、自分以外を愛することができません。ですから、神さまの真意(人を愛するが故の行為)を理解しようとせず、自分の思い通りに応えてくれる愛人(偶像)の方に顔を向け、本当の主人である神さまに背中を見せて生きるようになります。聖書は、そのような人を「姦淫せる者」、「背信の女」とあらわします。
甘い罪の自覚
申命記24章1~4節に、「結婚した女が出て行き、他の男性に嫁ぎ、それも破綻…でも、最初の夫の元に戻ることはできない」、と神の戒めが記されています。これを念頭に書かれたと思われるのが、「もし人がその妻を出し彼女が彼のもとを去って他の男のものとなれば前の夫は彼女のもとに戻るだろうか。その地は汚れてしまうではないか。お前は多くの男と淫行にふけったのにわたしに戻ろうと言うのかと主は言われる」(3章1節)にされていますが、これに対するユダの人々を神さまは、「『主はいつまでも憤り、限り無く怒り続けるだろうか』と、お前は言いながら悪を重ねる。それでもお前は平気だ」(3章5節)、と「罪に対する考えが甘すぎる」と指摘されています。
ユダの人々は、「神の愛と赦し」に対し、実に甘い考えを持っていました。「罪の赦し」を受け入れてもらうには、「ごめんなさい、すみませんでした」など、言葉だけで解決することはできません。そこには、「血を流すことなしには罪の赦しはありえない」(ヘブライ9章22節)、この一節が必要となります。
それでも人々は、「神は愛なのだから、赦すのは当然ではないか」、「神はそのために御子イエスを送ったのだから、いいではないか」と平然と言い切ります。確かに、彼らの言うことは間違いではありません。しかし、「口先だけの心を伴わない謝罪で罪は赦されるのか」というならば決してそうではありません。ボンヘッファーは、そのようなことを「安価な恵み」と呼んでいます。
【安価な恵み】
【高価な恵み】
神さまは、独り子イエス・キリストをこの世に送られ、十字架にかけられました。その尊い愛に応えるには、神さまからの愛を「高価な恵み」として受け止める必要があります。決して「安価な恵み」などにしてはなりません。では、どのようにすれば「高価な恵み」になるのでしょうか。その答えは、ヘブライ人への手紙12章4節の「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」にあります。
信仰とは、「神さまと私の交わり」であり、「人格と人格、一対一の真実な愛の交わり」を持つことです。そして人は、「真実な愛の交わり」を持つため、十字架を担う者でなくてはなりません。この「十字架を負う」とは、「神の御心に反することに抵抗し戦う=罪に血を流して戦う」ということです。これは律法主義などではなく、愛された者が、愛のために命をかけてくださった、その方を愛するための行為なのです。
高価な悔い改め
上述の放蕩息子は、ようやく自分の姿を知り家に帰ろうとします。その時に彼は、「ここをたち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』と」 (15章18~19節)決心します。ここに2点大切なことが示されています。一つは、「息子と呼ばれる資格はありません」と言ったことです。この言葉は、心の底から自分の犯した罪の大きさに気付き、悔いているからこそ出せた言葉です。しかし、彼が「こんなことをしてしまったけれど、家に帰ればお父さんは、また息子としてなんとか面倒みてくれるよ」あるいは「どんなに私が悪いことをしても、お父さんには父としての責任があるのだから、受け入れるのは当然ではないか」などと言ったら、どうなっていたでしょうか。そこには、父の痛みや犠牲に全く無頓着な彼の姿しかなく、その彼に見合うものは「安価な恵み」でしかないのです。
二つ目は、「雇い人の一人にしてください」と言ったことです。ここに、「自分の罪は、到底許されるものではない…でも、父のところに帰らないと自分は生きていけない…」、彼の心からの切なる求め、そして罪の代価を受け止める覚悟が見て取れます。そうです、彼は充分に自らの罪の重さを自覚し、心の奥にある父への信頼を拠り所として覚悟できたのです。このように「高価な恵み」は、「罪の重さの自覚」と「神に対する信頼」があってこそ受け取ることができるのです。彼は、父の栄光を汚し莫大な損失を与えましたが、父なる神さまは、その息子の心を知り、子牛を屠り(イエス・キリストの十字架)、指輪をはめさせ(子の資格を与え)、罪を犯す前と同じように受け入れてくださいました。
この「父の愛、痛み、犠牲」を心で受け止められたら、「『主はいつまでも憤り、限りなく怒り続けるだろうか』とお前は言いながら悪を重ねる」ことなど、できるわけがありません。ここに、神さまの愛に応える「聖い生活」が生まれてくるのです。
偽善者ユダ
神さまは、ユダとイスラエルを何度も「背信の女」(3章8・11・12節)と呼び、「偽っている」(3章10節)、「欺いた」(3章20節)と激しい言葉を投げかけられます。「背信、偽り、欺き」これらは、明らかに「罪」と知りながら犯している「確信犯」に対して用いられる言葉であり、それは神さまの断罪の言葉でした。また、神さまは、「『主は生きておられる』と言って誓うからこそ、彼らの誓いは偽りの誓いとなるのだ」(5章2節)と、ユダの偽善を指摘されています。
この頃のユダは、ヨシヤ王に率いられ偶像を取り除き、大きな転換を計っていました。しかし、それらは外面を変えるだけであり、内面は何も変わっていなかったのです。その矛盾は、神さまに対し偽善者の振る舞いとなりあらわれます。このことをエレミヤは、「その姉妹である裏切りの女ユダは真心からわたしに立ち帰ろうとせず、偽っているだけだ、と主は言われる。主はわたしに言われる。裏切りの女ユダに比べれば、背信の女イスラエルは正しかった」 (3章10~11節)、と語っています。
イスラエルは、偶像礼拝の余りの酷さから、この時点より二十年前に滅んでいます。そのイスラエルより、「ユダの方がもっと酷い」と神さまは仰っているのです。これは、イスラエルよりユダの方が「信仰面や道徳的に良かった」ということではなく、「神さまの心情」をあらわしている言葉です。イスラエルは、「神さまなんか、もう嫌!あっちの男(偶像)の方が素敵だから、彼のところに行く!」とはっきり宣言し、歩んでいました。一方のユダは、「わたしは、神を誰よりも愛しています」と言いながら、陰で愛人(偶像)の元に通っているようなものです。心情的に怒りが込み上げ、爆発させたくなるのは、偽善者であるユダの方です。なぜなら、このユダの偽善は、愛に対し最も失礼な行為だからです。
宗教があらわそうとする神さま、そして内面的な「命、愛、希望、喜び」などの抽象的概念は、手で触ったり目で見て確認できるものではありません。しかし、人は「見えない神さまを見える形にしたい…」、と願う愚かな性質を持っています。そのような願いは、見えないものを見える形に置き換える行動としてあらわれます。そして、いつしか「見える形=宗教(教義、儀式、施設、組織など)」が大事になり、最も大切な「中味の内容=信仰」を捨て去っていくことに繋がります。これが、宗教の陥りやすい「罠」ともいうべき、「自己欺瞞」を生み出すことになるのです。イエスさまは、マタイによる福音書で「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ」(マタイによる福音書23章25節~)と強い怒りをあらわされています。イエスさまは、彼らが「中味を外側にすり替えている」ということで感情をあらわにされていたのです。
内面の信仰を確かなものとしていくため、主は最後の晩餐が行われたとき、パンとブドウ酒(見える形)を用いて復活と十字架を表現し、「食する度ごとに、わたしの記念としてこのように行いなさい」と仰いました。これは、「目で見、手で触り、食する」外面的な行為を通し、目に見えない触ることのできない「主の罪の赦しと新しい復活の命」を信仰をもって、受け取るよう教えられたものでした。
※自己欺瞞とは、自分で自分の心をあざむくこと。自分の良心や本心に反しているのを知りながら、それを自分に対して無理に正当化すること(コトバンクより)。
宗教については、第5回「宗教と信仰」をご参考ください。信仰においてあくまで重要なのは、内面的(霊的)なものです。わたしたちは、この「内面的世界=霊の世界」に行くため、わたしたちが生きている「肉の世界」から「霊の世界」へと向かうことになります。それには、「肉の自分を殺す(十字架につける)」必要があります。しかし、一体どれくらいの人が、そのことに気付いているでしょうか。多くのクリスチャンが、「わたしは、礼拝にも毎週通っているし、教会のことも、奉仕も人一倍やっているから…」と考えているのではないでしょうか。「肉の自分を殺す」ことなく、「礼拝、教会、奉仕など」の宗教活動に励んだとしても、肉の自分の行いは肉でしかないため、どこまでいっても「霊的な世界」に入ることはできません。しかし、当の本人たちは、それとは気付かず「自分の行いで霊の世界に入っている」と勘違いしています。もし、霊の世界に入っているなら「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2章20節)と、神さまの恵みにより生かされ、神さまの栄光をあらわして生きていく者とされます。しかし、「霊の世界」にいると勘違いし、実は「肉の世界」に生きているなら「我、わがうちに生きるなり」と、その人は「自らの命、力、知恵、才能」で生きていかなくてはなりません。実は、その人たちの人生は、神を信じないで自分勝手に生きている人たちより、悲惨なものになります。なぜなら、「神さまからの恵みがない自分の行い」に疑いや不安を抱きながらも、「いや、みんなもそうしてるんだし…間違っているはずがない」と自分を正当化する「自己欺瞞」に陥り、その言い知れない感情の矛先は、他者を裁くことに向けられ、さらに律法にしがみつき、自分で救いを達成する行い(肉の行い)へと、逃げ場のない輪の中にとどまってしまうからです。
律法学者やファリサイ派の人たちが、このような生き方をしていました。主は、彼らの姿を「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。…あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。」(マタイ23章25~28節抜粋)と 表現しました。
山上の垂訓でも「施し、祈り、断食」について、同様のことが示されています。「施し」は、神の恵みを直接に人々に与えられる素晴らし手段ですが、時として「神から出て神に向かう」べき施しが、「自分から出て自分に向かう」施しになっていることがあります。「祈りや断食」についても、神さまに向かわず「人に見せる」ために行われると、その帰着点は自分自身になります。「キリストがわたしの中で生きる」のが信仰であり、「わたしが、わたしの中で生きる」のは、聖書が示す信仰ではありません。
マタイによる福音書6章1~8節主は、裁きのとき羊と山羊が分けられる場面で、「…天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」(マタイによる福音書25章34~36節)と言われました。すると羊たち(正しい人たち)は、「いつ、…食べさせ、飲み物を差し上げ、宿を貸し、着せ、お訪ねしたでしょうか」(25章37~39節)と答えました。彼らは、なぜそのように言えたのでしょうか。主の前に謙遜を装っただけ、あるいは本当に何もしなかったのでしょうか。いいえ、彼らは、本当にそう思っていたのです。そう思えたのは、自分が与えたものや使った時間すべてが、神さまから「恵み」としていただいたものであり、その豊かにされた一部をお返ししただけのことなので、「自分のものを与えた」という意識が全くなかったのです。第一、彼らが「施し」をするのは、相手の状況や自分の感情を満たすためではなく、「彼らの目はただ主に向けられ、主が自分に与えてくださったものを、主にお返ししているだけ」という意識のもと、神さまの愛に応えている行為だったのです。
もう一方の山羊たち(呪われた人たち)は、「いつ、…食べさせず、飲み物を差し上げず、宿を貸さず、着せず、お訪ねしなかったでしょうか」と返事をしました(25章44節)。実際に彼らは、充分「施し」をし、いいえ、一生懸命に「施し」をしてきたのでしょう。しかし、その施しは、神さまが受け入れられるものではありませんでした。なぜなら、それは「他者を利用し、自分を救うための施し」だったからです。一生懸命コツコツと自分(肉の自分)が溜めてきたものを「いつ、誰に、どれぐらい施したか」覚えていて当然のことです。それは、「他者を愛するため、神を愛するため」でもなく、「自分自身を愛するため」のものであり、「神さまからの恵み」ではなく「肉の行い」から生まれたものでしかなかったのです。ここでも、内面的なものが外面的な段階にとどまっている姿が見て取れます。
「主は生きている」と語りながら、偽善的な行為をくりかえすユダに対し、主は「立ち帰れ」(エレミヤ3章7・12・14・22節、4章節)と繰り返し諭します。そして、「わたしはお前に怒りの顔を向けない。わたしは慈しみ深く、とこしえに怒り続ける者ではない」(3章12節)と話され、「一人でも二人でもいいから立ち帰れ」と心情を込め、「一つの町から一人、一つの氏族から二人ではあるが、わたしはあなたたちを連れてシオンに行こう」(14節)とも仰います。
「立ち帰る」ために、「犯した罪を認めよ」(13節)「呪うべきものをわたしの前から捨て去れ」(4章1節)「あなたの心を洗い去って救われよ」、さもないと「獅子はその茂みを後にして上り、諸国の民を滅ぼす者は出陣※した。あなたの国を荒廃させるため、彼は自分の国を出た※。あなたの町は滅ぼされ、住む者はいなくなる」(4章7節)と諭されます。
神さまが示されている「罪、呪うべきもの、洗い去らねばならないもの」、これらの大元となるユダの罪とは、神さまに対する偽りの愛「不真実」にあります。神さまの愛をあまりにも軽々しく考え、神さまが「赦す神」であることをいいことに、偶像礼拝を続ける不真実の行い、これがユダの罪でした。
※この箇所の「出陣した、国を出た」は、いずれも「預言過去」というもので、神の計画は必ず成就するので、未来を過去形でしています。
赦されない罪
聖書には、「赦されない罪がある」と記されています。「だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、『霊』に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」(マタイ12章31~32節)。これは、難しい「みことば」ですが、聖霊が働かれる「目的」に着目すると、一つの考えが導き出されます。聖霊の働きは、限られたものではなく、それらすべてを理解することは困難ですが、その「目的」は一つです。それは、御子イエスのものを人に与え、人をイエスに結び付けることにあります。
聖霊の賜物には、キリストの体を作り上げるため(使徒、預言者、教師、牧師、伝道者、勧めをする者、仕える者、献げる者…など)の賜物と、霊の賜物(知恵、知識、信仰、癒し、力ある業、預言、異言、異言を解く…など)があります。これらすべてを一言であらわすなら、聖霊の最大の賜物は、「神の愛」といえるのではないでしょうか。「神の愛」とは、人となり(聖霊により宿り)十字架につかれた愛です。聖霊は、そのことを人に教え、人を十字架に導き、神さまの愛が受け取れるようにしてくださいます。それで人は、「イエスは主である」と信仰を告白し、神の救いに入ることができるようになるのです。
神さまの愛は、十字架の業であり、それを人に差し出すのが聖霊の働きです。聖霊を冒涜し逆らうことが「赦されない罪」とされるのは、神さまが自分のために十字架で罪の贖いをしてくださった事実を受け取らないことにあります。それは、神の愛に対する「不真実」の罪でもあるのです。
では、この人の罪は、どこにあるのでしょうか。それをただの教理として答えるのであれば、「神を信じないところにある」といえます。これをより具体的にあらわすのなら、「神の愛を受け入れないところにある」といえます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである」(ヨハネ3章16~18節)
神さまの裁きは、二千年前のゴルゴタの丘ですでに行われました。イエスさまを処刑した十字架で、終わっているのです。だから神さまは、もうだれも裁かれません。もし、人が裁きを受けるのだとすれば、それは「自分で自分を裁いている」のです。そのことは、「罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」(創世記4章7節)、と記されています。神さまがカインにいわれたように、罪の責任は自分で刈り取らねばなりません。
アベルの血よりも叫ぶ、イエスの血 (ヘブライ人への手紙12章24節)
アベルは、神さまの前に正しく生き、動物犠牲により罪を贖うことで、神さまに近づくことができました。カインは、神さまの言葉に従うことなく、自分の考えと自分の方法で神さまに近づきました。ここに、アベルの捧げた「羊」と、カインの捧げた「地の産物」の意味がありました。
神さまは、カインの捧げものに顧みず、アベルの捧げものを顧み受け入れられました。そしてカインは、顔を神さまからそむけ去って行きました。カインは、自分で自分の救いを造ろうと考え、自分より正しいアベルを野に連れ出し、アベルを殺し土に埋め、何事もなかったように振る舞いました。しかし、神はすべてをご存知でした。そして、「アベルの血が叫んでいる」と言われたのです。アベルの血の叫びとは、「カインは、わたしを殺した。でも、主よ、兄を赦し救ってやってください」でした。それは、罪の告発であり、同時に兄カインの赦しを求めたものでした。このアベルが流した血、この血が持つ本当の意味は、神さまに立ち返らず(霊の世界に入らず)、自分の力で自らを救おう(肉の世界で肉によって)とした、カインが流させた「罪の血」でもあったのです。カインは、神さまの愛を知り、自分の罪を十字架につけ、死からの復活を体験しなくてはいけませんでした。しかし、カインは「肉の世界」、そして「自分の罪」から逃れられませんでした。
神さまは、アベルが流したカインの「罪の血」に勝る血の叫びを用意してくださいました。それが、神の独り子イエスの十字架の叫びです。主は十字架から、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです」(ルカ23章34節)と叫ばれました。
アベルの血、罪により流された血の叫びは、イエスの血、罪の赦しの叫びで消し去られました。神さまは、イエスの血の叫びにより、人々を招いていらっしゃいます。この神さまの愛、命を捨てて愛してくださった神の愛を拒んではなりません。なぜなら、「拒むことが罪」になるからです。「子と呼ばれる資格はないが、助けてください」と言って、愛なる神さまの胸に飛び込んでください。
1998年5月27日