エレミヤは、ヨシヤ王の治世に預言者として活動を始めました。ヨシヤ王は、8歳で王位につき、16歳で自身の信仰を認識し、20歳になると聖なる高台、アシェラ像、彫像、鋳物などの偶像を取り除き始めました。そして、26歳の頃に神殿で巻き物(聖書)が発見されると、偶像撤去作業に拍車がかかり、ユダのみならず北イスラエルのサマリヤまで、その範囲を広げました(歴代誌下34章)。そのヨシヤ王在位13年の頃、エレミヤは神の召命を受けました。この頃のユダは、アッシリアからの解放に加え、信仰においても活性化された時期にありました。人々は、偶像礼拝を捨て、新たな気持ちで神さまを見上げ、歩んでいこうとしていました。
そのような時期に召されたエレミヤが、預言者として最初に神さまから受け取った言葉は、人々の気持ちに水を差すものでした。 彼が最初に見た幻「アーモンドの枝(シャーケード)」(11節)は、春一番に花をつける木で、それを動詞読みにすると「目覚める・見張っている(ショーケード)」となります。ここから、この幻は、「ある時が来る前兆で、神はその実現を見張っている」という意味で捉えることができます。しかし、その「ある時が来る」とは、何のことでしょうか。13節に「煮えたぎる鍋が見えます。北からこちらへ(ユダ)傾いています。」と続きます。それは、やがて侵入してくるバビロン軍のことでした。しかも、それ(バビロン軍)は、神さまご自身がユダの偶像礼拝に対し裁きを告げるため、招き寄せるよう用意されたものでした(16節)。
預言者エレミヤが語り出した言葉は、ユダの指導者や民衆がおかれた状況とかけ離れたものでした。そこには、神さまが下されたユダの評価と、ユダの人々の自己評価との間に、埋めがたい隔たりがありました。なぜならユダの民は、ヨシヤ王に導かれ偶像を取り壊し、若き王ヨシヤと共にダビデ王の時代の再現を期待し、歩み始めていたからです。そして、そのように振る舞っている自分たちは、「充分に信仰的であり神に認められている」と自信を持っていたのです。
預言者の使命「神の言葉を聞く」
預言者にとって最も重要なのは、「神の言葉を聞き、それをすべて語ること」にあります。エレミヤ書には、「命じる(1章7節・17節)」「わたしのことばを授ける(1章9節)「主の言葉が臨んだ(1章2節・4節・11節・13節、2章1節)」が繰り返されています。
では、「神の言葉を聞く」とは、どういうことなのでしょうか。エレミヤ書聖書講解文第一回において、多くのクリスチャンの関心事が「聖書のメッセージから新しい知識を得ること」にあり、「それこそが自身の信仰的成長につながる」という誤った考えを持っていると述べました。信仰は、聖書のメッセージにただ忠実に「服従」することであり、「自分が服従していない部分は、一体何だろう」と「自分自身を神の前に置き、尋ね、祈る」これが信仰の成長へと繋がっていくのだ、と述べました。今回は、「聖書のメッセージを知識としてしか捉えられないのはどうしてなのか」ということから「聞く」ことと「知る」ことについて少し触れていきます。
「四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた。」 (マルコによる手紙2章3~5節)。この場面では、家の中に多くの人が集まり、その人たちも中風の人同様に、主の声「子よ、あなたの罪は赦される」を聞いていました。しかし、ここには大きな違いが生じていたようです。この主の声を直接聞いたのは、中風の人だけであり、他の人々は、「主が、中風の人に『罪が赦された』と語ったことを聞いた」だけでした。つまり、「主は、中風の人に向かって語ったのであり、わたしに語ったのではない」と、他の人々は判断したのです。
「聞く」とは、「聖書(主)の言葉が自分に直接語りかけられた声」として受け取ることであり、「知る」とは、「ただ聖書に書かれている言葉(主の言葉)を読む、あるいは聞く」だけであり、「自分に語りかけられている声」として受け止めないことです。
カファルナウムの役人が息子の病気のいやしを求め、主のもとに来た個所では、「イエスは言われた『帰りなさい。あなたの息子は生きる。』その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った」(ヨハネによる福音書4章50節)、とあります。ここに、中風の者と役人に共通した言葉「信仰」が見て取れます。中風の者には「彼らの信仰を見て」、役人の場合は「信じて帰って行った」、どちらも「信仰」が強調されています。
信仰とは、「神さまの言葉を自分に語りかけられた言葉として受け取る」ことにあります。どんなに優れたメッセージであっても、聞く側が「その言葉を自分自身への語りかけ」として受け取らなければ、神さまの言葉を聞いていることにはなりません。また、「言葉を聞く」ことには責任を伴いますが、「言葉を知る」ことに責任は伴いません。なぜなら「知る」ことは、個人的に自分に語られたのではなく、あたかも総理大臣がテレビで語っているようにしか受けとめないからです。だから、気に入らなければチャンネルを変えればいい訳です。つまり、神さまの言葉をただ「知る」だけなら、自分が主(あるじ)になっていてもできますが、神さまの言葉を「聞く」には、神さまに主(あるじ)になっていただかなくてはいけません。それには、自分がその場から退く必要があります。
現代の先進国と呼ばれる国々で「聖書の言葉を語る」ことは、誰もが自由に行えることであり、そこに法的な規制はありません。しかし、その自由の中にあっても、「神さまから聞いた言葉をすべて語る」には、かなりの勇気が必要となるものです。たとえば、神さまからのメッセージを取り次ぐ場合、そのメッセージの内容に当てはまる人がいると、少し遠慮気味に語ってしまうことがあります。しかし、その遠慮がある限り、「すべてを語る」ことにはなりません。また、特に共産圏やイスラム国など、ある一定の宗教が国教となっている国では、少し語るにも命をかけなくてはいけません。
ここで、神さまの言葉を語ったもう一人の預言者ウリヤについて見てみましょう。「主の名によって預言していた人がもうひとりいた。それはキルヤト・エリアムの人、シェマヤの子ウリヤである。彼はこの都とこの国に対して、エレミヤの言葉と全く同じような預言をしていた。ヨヤキム王は、すべての武将と高官たちと共に彼の言葉を聞き、彼を殺そうとした。ウリヤはこれを聞いて、恐れ、逃れて、エジプトに行った。ヨヤキム王はアクボルの子エルナタンを、数人の者と共にエジプトに遣わした。ウリヤはエジプトから連れ戻され、ヨヤキム王の前に引き出された。王は彼を剣で撃ち、その死体を共同墓地へ捨てさせた。」 (26章20~23節)
エレミヤが預言者とされた頃は、ヨシヤ王自らが先頭に立ち、国内から偶像を一掃する運動が盛んに行われた時期です。ですから、エレミヤの語る神さまの言葉は、到底受け入れられるものではありませんでした。特に、エレミヤが語るべき相手は、ユダの政治的、宗教的な指導者たちでしたから、なおさら「その言葉を聞く」よう諭すのは、難しいことでした。
「祭司たちも尋ねなかった。『主はどこにおられるのか』と。律法を教える人たちはわたしを理解せず、指導者たちはわたしに背き、預言者たちはバアルによって預言し、助けにならぬものの後を追った。それゆえ、わたしはお前たちを、あらためて告発し、また、お前たちの子孫と争うと、主は言われる」(2章8~9節)からも分かるように、エレミヤは誤魔化しも偽りもなく、神さまの言葉を語っています。これほど明確に指摘されるのですから、預言者ウリヤのように王や高官たちの怒りを買うのは当然のことといえるでしょう。
【聞くこと(第一の召命)】
神さまの言葉を「聞き、すべてを語る」には、「聞く十字架」と「語る十字架」、それぞれを負わなければいけません。「神さまの言葉を聞くには責任が伴う」と前述しましたが、この「神さまの言葉」は、自分の願いと逆の方向を指すことが多くあります。これは、「霊である神さま」と「肉の自分」が相反する立場にあるからだといえます。つまり、もともと肉に生きている人が「神さまの言葉を聞く」ことはできないのです。では、どうすれば「神さまの言葉を聞く」ことができるのでしょうか。それは、「聖霊とみことばの剣」によって「聖別=肉の自分を殺す(十字架につける)」ことにあります。肉の自分を殺さない限り(聖別されない限り)、霊である神さまの声を「知る」ことはできても「聞く」ことはできません。
信仰生活において「聖別される(清められる)」段階とは、いつでも肉の自分を十字架につけられる状態にあることです。この「いつでも」とは、「何度でも」ということです。つまり、人は一度「聖別(きよめ)」を経験しても、それ以後「聖い者」であり続けることはできない、ということです。ルカが、「日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ9章23節)、と文頭の「日々」を強調しているように、「毎日、その都度」人は、十字架を負わなければなりません。
では「十字架につく」とは、具体的にどのようにすればいいのでしょうか。それは、自分の考えや思いを捨て、神のみことば(御心)に服従し、神さまに自分を明け渡す者となることです。そうすることで神さまは、その人を御心のままに用いることのできる「聖別された者」とみられるようになります。したがって、神さまの言葉を「聞く」ということは、「聖別=日々十字架について死ぬ」経験にある、といえるのです。
第一の召命については、第一の召命をご参考ください。【すべてを語ること(第二の召命)】
「すべてを語るための十字架」とは、「自分の十字架」ではなく「主の十字架」を負うことにあります。しかし、「主の十字架」は、人類の罪のため主イエス・キリストだけが負えるものであり、人が担えるものではありません。また、聖書にも「主の十字架を負って従いなさい」と、直接述べられている個所はありません。ここで述べている「主の十字架」とは、主の働きのために仕える(第二の召命を受ける)ことにより、「迫害、苦しみ、損失、貧しさなどを負う十字架」、という意味になります。
わたし自身、中国にいる伝道者一人ひとりに思いをはせ、彼らが受けてきた、あるいは今なお続く、迫害、苦しみ、それら全てを想うとき、「神さまの言葉をすべて語る」第二の召命に応え生きるということは、やはり主の十字架を負うことなのだな、と再認識させられます。主の働きを担い全うしようとする者は、主の十字架を負って歩む者です。エレミヤは自分の十字架を負い聖別され、主の十字架を負うことで預言者として、神さまの言葉すべてを語る者とされました。
第二の召命については、第二の召命をご参考ください。【二つの十字架の関係】
この2つの十字架は、「自分の十字架を負わない=主の十字架を負えない」、「主の十字架を負おうとする=自分の十字架を負わなければならない」、という関係にあります。では、自分の十字架を負わず主の十字架を負うと、どうなるのでしょうか。それは、主を用いて自己主張することになります。自分の十字架を負っていない者(聖別されていない者)のありとあらゆる思いや行動(肉からくる思いや行動)は、最終的に「自分」へと向かいます。つまり、自分の栄光を求める結果となるのです。 たとえば、主の働きを担っていた人が、その働きから外されることになったとします。もし、その人が自分の十字架を負っていない者であったら、その主の働きから簡単に引き下がることはできないでしょう。しかし、自分の十字架を負っている者であったら、潔く引き下がることができます。なぜなら、その人は主の栄光を第一に考え、自分の栄光など全く頭にないからです。
神さまは、聖別されていない者(十字架につき肉の自分に死んでいない者)を用いることができません。十字架を通り聖別されている者だけが、「主の復活のいのち」にあずかり、神さまの栄光を表す者とされます。エレミヤは、「神さまの言葉を聞き、すべてを語る者」となるよう、神さまに求められました。それは、主の十字架を負うために、自分の十字架を負うことでもあったのです。
偶像礼拝を捨て、新たな目で神を見上げようとしている自分たちをユダの人々は、信仰深いと思っていました。しかし、神さまの目には、そうではありません。ユダの人々のどこに落ち度があるのでしょうか。それは、見分けることの難しい「すり替えられた信仰」にあります。そのことを神さまは、「まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて無用の水溜めを掘った。水をためることのできないこわれた水溜めを」 (2章13節) の「泉と、水溜め」で示しておられます。
昔、イランの砂漠を十数時間ドライブしたことがあります。その際、2度オアシスに立ち寄りました。そこは、今まで走ってきた岩山だらけの光景とは一変し、まるで「ここは天国?」と思える雰囲気のあるところでした。そこには命が溢れ、人も家畜も植物も活き活きとしているのです。そして次に思ったのは、「どうして、こんなところに突如として水が湧き出るんだろう?」ということでした。日本で泉を見ても「この水は、あの山に降った雪や雨が地中に浸透し、ここに湧き出てるんだな」と納得することができます。しかし、砂漠地方で、その考えは全く通用しません。そこは、いくら見渡しても砂だけの世界…そこにポツンと緑に囲まれ、水が湧き出る泉が現れるのですから、「これは、まさに奇跡、神の業だ」と、納得させられる訳です。そして、この泉の水は、まるで涸れることがないかのように、いつもいつまでもこんこんと湧き出てくるので、そこに「永遠」というものを見させられるのです。ここに「泉」から「神の業と永遠性」を見て取ることができます。
一方の「水溜め」は、「人の業と限界」を表しています。 温帯多雨の日本にあっては、貯水池やダム(水溜め)も泉同様の機能を発揮できますが、砂漠地方ではそうはいきません。砂漠に水溜めを造るには、多くの時間と費用、その環境に見合った技術など、難題が多くあります。しかし仮に、これらの問題をクリアできたとしても、水溜めの壁一部にわずかでもヒビが入ったなら、アッという間に水はなくなってしまいます。
「泉」と「水溜め」が人に提供しようとしているものは、どちらも「水」に変わりはありません。しかし、同じ水でも「泉から出てくる水」と「水溜めに溜められた水」には、「神の業と永遠性」と「人の業と有限性(限界)」の違いがあります。「水溜め」は、人の必要を一時的に満たすことは可能であっても、「泉」が与える永遠に人を生かす命にはなり得ません。わたしたちは、このことを注意深く見分ける必要があります。
上述の違いが表れる一つに、「罪の告白」があります。一般に「罪を告白する」とは、盗んだ、嘘をついた、姦淫した…など「行為」を告白することにありますが、神さまが求められている「罪の告白」は、行為の罪にとどまるものではありません。それは、もっと根本的な「存在としての罪」にあります。
「行為の罪」が直接示していることは、「自分の行い」に対してであり「自分の存在そのもの」に対することではありません。しかし、そもそも人が罪を犯すのは、「自分という存在そのものが罪」だからであり、その自分から出る行為に「罪の結果」が現れているだけのことです。ダビデがバト・シェバに姦淫の罪を犯したとき彼は、「わたしは咎のうちに産み落とされ、母がわたしを身ごもったときも、わたしは罪のうちにあったのです」(詩編51編7節)、と言いました。この言葉は、「ただの責任逃れじゃないか!」と捉えてしまいそうですが、決してそうではありません。ダビデは、自分の存在が「産まれながらに罪の中にいた」ことを告白し、二度と罪を犯さないように、「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けて下さい」(同12節)と、自分の存在自体を神さまに造り変えていただかねばならないと祈ったのです。
泉と水溜めには、同じ「水」があるように思えますが、それは本質的に違います。「存在の罪の悔い改め」は、神の世界である泉の中に、「行為の罪の悔い改め」は、人の世界である水溜めの中にあります。つまり、存在を悔い改める者は、神の前に義とされますが、行為の悔い改めには、一時の慰めと解放以上のものは与えられないのです。それは、大雨の後の一時的な満たしであり、何か出来事が起こると、すぐにひびが入りなくなってしまう水溜めなのです。
人は、真のお方である神さまの前に出て歩むより、神さまが与える恵みにより歩もうとします。人は意識しなくても、この歩みで「水溜め」を造っています。水は空から降り地中を通って泉から湧き出るものであり、人の手で作り出すことができないものです。しかし、その水を溜めておくことは、人にもできます。そして、「わざわざ泉に行って水を飲まなくても、必要な時に溜めた水を飲む方が合理的で楽だ」となるのです。これらのことは、「神ご自身」より「神の恵みに依存している」と言い換えられます。「神さまの前に出る(泉に行く)」とは、「神さまと直に交わる」ということを意味します。そのためには、神さまを主とし、自分の十字架を負わねばなりません。一方の「恵み(水溜め)」は、自分の都合により思い通りにできます。このことを神さまは、「…生ける水の源であるわたしを捨てて無用の水溜めを掘った。水をためることのできないこわれた水溜めを」(2章13節)と仰っています。
F・Bマイヤー師が「水溜め」を以下のように表現しています。
「水溜めを掘っている多くの人々が、ひたすら魂の渇きをもって、この文に目を通していることだろう。渇いている者にとっては、水のような存在である神は、皆の手の届く範囲におられる。ところが、だれでも、無限の存在者である神への渇きを、人や物でいやすという不可能なことを試みている。」そしてさらに続けて、「人々は、『快楽、富、名声、人の愛』などの水溜めを掘ろうとしている」と語っています。
「涙の預言者、…エレミヤの生涯」37ページより人の本当の快楽は、どこから与えられるのでしょうか。詩篇107篇に繰り返し出てくる言葉、「主に感謝せよ、主は慈しみ深く、人の子らに驚くべきみ業を成し遂げられる」(8・15・21・31節)から教わることができます。この詩篇107篇は、神さまが人(イスラエル)に行われた「業」について書かれています。人が「感謝し、慈しみを感じ、心から喜べる」のは、神ご自身により行われた出来事だからです。それは、「泉」から湧き出す「生ける水」によるものです。
詩編126篇にも、「主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いてわたしたちは夢を見ている人のようになった。そのときには、わたしたちの口に笑いが舌に喜びの歌が満ちるであろう。そのときには、国々も言うであろう『主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた』と」あります(1~2節)。
それでは、人が自分の力で水溜めを掘り、そこに自分の思い通りの水を溜めると、一体どういうことになるのでしょうか。
教会とクリスチャンは、常に「水溜め信仰」になる危険があります。「生ける水の泉」が、いつの間にか「無用の水溜め」に取り替えられてしまう危険です。たとえば、大きな病気や家庭に特別不幸な問題もなく、恵みに包まれた生活をしていると、神さまと直接つながっているような錯覚に陥るものです。しかし、「神さまの恵みで幸せ」でいることが、必ずしも「神さまと直結している」とは限らないのです。それは、この世では「神さまの恵みから程遠い生活」を強いられている者たちが、実は「神さまと直結している」ことがあるからです。そのことを聖書では、「また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました、世は彼らにふさわしくなかったのです。」(ヘブライ書11章36~38節)、と書かれています。このみことばは、この世において神さまに直結し歩む者には、安易な生活ではなく、十字架を負う生活が待っていることを証ししています。
ユダの人々は、「アシェラ像を倒した、バアルの祭壇も壊した、そして聖なる高台も取り除いた」と騒ぎ立てていますが、それは表面的なことでしかありません。もちろん、「神さまが嫌うものを取り除く」ことは必要ですが、自分自身が「主に直接つながる」ということも必要です。つまり、神さまが人に願っていることは、「偶像を捨て去り、積極的に神さまにつながる」ことなのです。
ユダの人々は、「偶像を捨てた」ということで、「自分たちは本物の信仰を持っている」と錯覚していました。いくら偶像を捨てるという「行為の悔い改め」をしても、「存在の悔い改めをしない者」は、「神さまとのつながりのない信仰=水溜め信仰」でしかありません。水溜めの水も「恵みの水」ですが、それは一定の条件の下、一時的にしか有効になりません。ですから、いつも恵みにしがみつき、完全に恵みが失われると、その信仰は失われてしまいます。しかし、「生ける水と湧き出す泉(神ご自身)」の信仰にあるなら、水がなくなる…という不安もなく、どのようなことが起きるとしても、その水はいつも湧き出ています。そして、その水が私を生かし、造り変え、完成してくださいます。それこそ、主イエスご自身との交わりです。
「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」 (ヨハネ4章13~14節)。
1998年5月20日