ユダの歴史において紀元前1020年は、イスラエルに初めて王政が敷かれた(サムエル記上8章参照)記念すべき年でした。それまでのイスラエルは、ギデオンやサムソンで知られる士師記の時代にありました。士師とは、「士=戦いのリーダー」であり「師=霊的指導者」を意味しています。この士師たちは「神の言葉」に直接導かれ、イスラエルの宗教と政治(軍事・経済)をつかさどり、自らが先頭に立ち戦いに臨むこともありました。
サムエルが預言者の時代、イスラエルはパレスチナ地方で大きな勢力を持つペリシテに抑圧されていました。紀元前1180年、鉄精錬法を独占していたヒッタイトの滅亡により、製鉄技術が各地に広まります。ペリシテ人は、このヒッタイトの滅亡に関与したと考えられており、一早くこの技術を取得し、自らの勢力が及ぶ地域一帯において、鉄精錬法を独占していました。その為イスラエルの人々は、農耕用の鍬や鋤でさえ、ペリシテ人から製作許可を得るため、彼らに大金を支払う必要がありました。イスラエルの民は、このペリシテの圧迫から自由を求め、他の国同様に王を持つことで一致団結し力を合わせ、政治経済の問題を乗り切ることができると考えます。
イスラエルの民は、「今こそ、ほかのすべての国々のように、われわれのために裁きを行う王を立ててください」(サムエル記上8章5節)とサムエルに直訴します。このことは、サムエルの目に、そして神さまの目にも「悪」と映る願いでした。神さまは、「彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ」(同・7節)と、彼らの心の内を語ります。イスラエルの民は、「あなたは既に年を取られ、息子たちはあなたの道を歩んでいません。今こそ、ほかのすべての国々のように、我々のために裁きを行う王を立ててください」(同・5節)と サムエルの息子たちに責任転嫁していますが、彼らの本心は「神の直接支配」を嫌がり拒むところにありました。
民の我がままを受け入れた神さまですが、「王を立てる」と必ず次のような結果を生むことになる、と彼らに告げるよう、サムエルに指示を与えます。
神さまは、「こうして、あなたたちは王の奴隷となる」(同・17節)と告げられますが、イスラエルの民は、「いいえ、われわれにはどうしても王が必要なのです。われわれもまた、他のすべての国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、われわれの戦いをたたかうのです」(同・19~20節)と叫ぶことを止めません。民の要求は、「神の法則」を拒否し、「この世の法則」により国家を築こうとするものでした。
神さまはこの民の願いを受け止め、サウルを初代の王(BC1020)とされます。しかし、彼は「神の御心」に背き続けたので、神さまはダビデに油を注ぎ、次の王とされました(BC1002~962)。ダビデの死後、彼の子ソロモンが王となります(BC962~922)。ソロモン王の時代、イスラエルの民は「神の民」ではなく、「ソロモンの民」と称されるようになります。その名が示す通り、ソロモン王は専制君主となり、そのことからイスラエルは南北に分裂します。そして、ユダ国最後の王となるゼデキヤの統治は、終焉の危機を迎えていました。
エジプトのネコ王の前に立ちはだかり戦死したヨシヤ王の息子ヨアハズ(シャルム)は、ヨシヤ王の死後兄を差し置いて王位に就きますが、自国に敗走するネコ王に連れ去られます(エレミヤ22章11節)。その弟に代わり王となったヨヤキムは、11年間王位にありましたがバビロンに反抗し、バビロン軍到着直前に急死します(同・18節)。彼の子であるヨヤキンが18歳で王になりますが、僅か3か月でバビロンに第一次捕囚として連行されます(同・25節)。そして、ユダ最後の王となるヨヤキンの叔父ゼデキヤもバビロンに反抗し、第二次捕囚として連れ去られました(39章7節)。
イスラエルとユダの歴史は、「神を王にする」か「人を王にする」かの苦悩の歴史でした。「神か人か」このことは、今日のクリスチャンにとっても大きな課題です。「神を王」とし「神の支配のもと生きる」か、それとも「この世を王として生きる」か、思い悩むこともあるでしょう。しかし、ここから出される結果を見ると、答えは明白になります。なぜなら、今も昔も「神を王」とする者は「真の自由」を得、「この世を王」とする者は「この世の奴隷」になるからです。
神さまは、王と共に預言者を立てられました。神さまと王、預言者を現代の三権分立にあてはめると、「神=国会(立法)」、「王=内閣(行政)」、「預言者=裁判官(司法)」となります。そして、王(行政)と司法(預言者)は、神さま(国会)の律法に沿う形で成されます。つまり、神さまのご計画を実行するのが王であり、神さまのご計画を告げ、王が正しく律法(神の御心)を守り行っているかをチェックするのが預言者の役割でした。
イスラエルの歴史において、預言者と王の役割バランスが最も取れていたのが、サムエルの時代でした。サムエルは、神さまの言葉に従いサウルを王とし、サウルが「神の御心」に叶わなくなるとダビデに油を注ぎ、預言者であるサムエルが常に王に先立っていました。このように、神さまがイスラエルに与えた秩序は、「神 → 預言者 → 王」の関係にありました。
このことは、ダビデの生涯を通しても証されています。ダビデがバト・シェバのことで罪を犯した際、預言者ナタンは彼を責めましたが、ダビデはその言葉を自分の上に置き、平伏して受け入れています。それは、人口調査の罪を犯した際も同様でした。ダビデが歴代の王の中で「最も祝福された王」と成り得たのは、彼が「神の前にあるべき立ち位置」を守ったからです。それに反し大半の王たちは、預言者を疎んじ、その働きを無視し迫害していました。このことをステファノは、「いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。…」(使徒7章57節)と語っています。
ユダの王たちは、預言者を外した「神 → 王」の関係を作ろうとします。これにより王は、民の衆望を一身に集め、自分に都合の良い政治が行えると考え、神さまが召命した「真の預言者」を退け、「偽預言者」を重宝することになります。ここで神さまは、「ダビデの王位に座るユダの王よ、あなたもあなたの家臣も、この門から入る人々も皆、主の言葉である預言者の声を聞け。そして、王は正義と恵みの業を行え」(エレミヤ22章2~3節参照)と戒められます。この言葉からも、神さまの秩序「神 → 預言者 → 王」の関係が見て取れます。
神さまが示されている「王は、預言者に先立ってはならない」とは、人の行動が「神の言葉(聖書にあるみ言葉)」に先立ってはならないということです。人は、まず「神の言葉」を聞き行動すべきです。そして、人が無理なく自ら進んで「神の言葉」に聞き従うためには、「神の愛を受け取り、神を愛する人」になることです。このことを新約聖書では、下記のようにあらわしています。
「…わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。神を愛するとは、神の掟を守ることです」
ヨハネの手紙Ⅰ5章2~3節「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」
ヨハネによる福音書13章34節「わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。」
ヨハネの手紙Ⅰ3章14節「神を愛する人」は、「神の掟を守る人」であり、「神の言葉を聞く人」です。その人は、「兄弟を愛する人」とされます。そして、「兄弟を愛しているか」ということで、自分が「真の救いを受けている」かということがわかるのです。良い行いをする王(わたし)は、神の言葉を聞く預言者(わたし)です。「神の言葉」をよく聞くのは、「神を愛する」からであり、「神を愛する人」は「神の中にいる人」です。
ユダの王たちは、「彼らがその神、主の契約を捨てて他の神々を拝み、仕えたからだ」(同・9節)そして、「災いだ、恵みの業を行わず自分の宮殿を、正義を行わずに高殿を建て、同胞をただで働かせ、賃金を払わない者は」、「お前が栄えていたころ、わたしが何か言うと、お前は『聞きたくない』と言った。これがお前の若い時からの態度であった。お前はわたしの声に聞き従ったことはない」(同・21節)、とあるように、「神の戒め」に従いませんでした。
預言者=わたし
王は、誰よりも謙虚に「神の言葉(預言者の言葉)」を聞かなくてはなりません。賛美に「王の王、主の主」という言葉がありますが、多くの場合この言葉から受けるイメージは、「神は世界中の王(アメリカ大統領、中国の首席など)よりさらに勝る王」であり、そこに自分と神さまの関係から「王(わたし)の王(神)。主(わたし)の主(神)」とイメージする人はどれだけいるでしょう。「神と人」は、「神とわたしたち」や「神とあなたたち」ではなく、一対一の「神とわたし」の関係にあります。つまり、神さまに次ぐ者である「王、主」は、自分自身でなければならないのです。
同様に「神の言葉」を聞く「預言者」は、「『わたし』のことだ」と考える人もどれほどいるでしょう。現代において、聖書に書かれている「預言者」は、「神を信じる者」であるわたしたち一人ひとりを指しています。多くのクリスチャンは、「牧師、伝道者、教師、献身者、○○教団の総理、会長先生、法王など」を引き合いに出し、「あの人たちは、神の言葉を語る人たちで預言者と呼ぶべき人たちだけれど、わたしはただの一信者に過ぎないから…」と考えているようです。ルターが説いた「万人祭司」とは、第三者を神さまと自分の間に立たせ祭司とするのではなく、「すべての人は、自分自身で神の前に立ち、神の救いと恵みを受けとらなくてはならない」ということにあります。
旧約聖書の時代とは違い、イエス・キリストの贖罪により「神の子」とされたすべての人には、聖霊が内住しています。つまり、「神の声を聞く者=預言者」とは「特定の人」のことではなく、「神の子」一人ひとりが「預言者」であり、自らの責任において神さまに尋ねなければならない立場にあるということです。ここで、少し考えてみてください。終わりの時、神さまの前に立ち「なぜ、お前はこれらのことを行わなかったのか」と問われ、「わたしの通っていた教会の牧師が、『それは行う必要がない』と言っていましたから…」などの言い訳が、神さまに通じると思いますか。「牧師が言っていたので…」あるいは「兄弟がそう教えてくれたから」などは、「神とわたし」の関係にないということです。このことを神さまは、次のように述べられています。
「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」
マタイによる福音書7章24~27節エレミヤ書23章9節からは、預言者たちについて書かれています。
バアルによって預言する者たち
ここで取り上げる「預言する者たち」とは、預言の出所が「真の神」からではなく、ユダの中にいる「偽預言者」のことを指しています。彼らの預言の特徴は、「姦淫を行い、偽りに歩むことである。彼らは悪を行う者の手を強め、だれひとり悪から離れられない。彼らは皆、わたしにとってソドムのよう、彼らと共にいる者はゴモラのようだ」(エレミヤ書23章14節)とあるように、「肉の助長」にあります。彼らの教えは、「バアル神殿への礼拝の帰りに、神殿男娼や娼婦と交わりを持つことで、より豊作が期待できるようになる」と勧めるものであり、人の中にある情欲と欲望を助長させ、それがあたかも聖なるものであるかの如く人に信じ込ませるものでした。神さまは、「この道を歩む者たちは『悪を行う手を強め』、最後には『ソドムとゴモラの道』を進むことになる」(同・14節参照)と語られています。
自分の心にある幻を語る預言者
神さまは、「お前たちに預言する預言者たちの、言葉を聞いてならない。彼らはお前たちに空しい望みを抱かせ、主の口の言葉ではなく、自分の心の幻を語る」(同・16節)と指摘されます。彼らは「神から出た言葉」ではなく、自分の幻を「神から出た言葉」のように語る人々です。その特徴は、 「彼らは常に言う。『平和があなたたちに臨むと、主が語られた』と。また、かたくなな心のままに歩む者に向かって、『災いがあなたたちに来ることはない』と言う」(同・17節)にあらわされるように、「肉を殺さない」ことにあります。その預言は、「人の肉を満足」させ「肉を殺す重要性」がなく「裁き」が抹消されたものになっています。
主の名において自分の夢を語る預言者
バアルによって預言する者も、自分の幻を語る者も、「主はこう言われる」と言いながら、実のところは主から離れ「自分の夢」を語っているだけの人たちです。
このような人たちは、どの時代どの国にも存在します。これらの人々が主の名を用いて教会で語るメッセージには、「神の言葉」に重きを置かず、その教会やメッセンジャー自身の宣伝と化しているものが多くあります。そこには「信者一人ひとりをキリストの御姿にする」という、本来あるべき牧師としての目的がなく、多くのクリスチャンを迷わせる結果となっています。そのようなメッセージは、「もみ殻と穀物が比べものになろうか」(同・28節)にある「もみ殻」でしかありません。そして、「もみ殻」の言葉を聞く人々が霊的に成長することは、絶対にありえません。
渡辺善太著「わかってわからないキリスト教」から、一部を下記に紹介します。
この間テレビで私はこういうホーム・ドラマをみたなあ。内容は言いません。ここはテレビの講釈をするところじゃねぇから、ハハハ、筋書きは言わない。夫婦がね、妻の方は流行作家で、テレビの台本を書いて金は入るし、人気はあるしで、夫の方はと言うと、昔から伝わっている仏像の修繕をする人なんだ。年代がたってあちこち傷んで、指がなかったり腕が折れていたりしている仏像の修繕人。ところがその人がこう言っている。「私の仕事はね、お前のように人に知られたんじゃだめなんだ。仏像の指を修繕し、腕を修繕して、この仏像は誰が修繕したんだとわかるようでは、ほんとうの修繕じゃない。誰が見ても、最初つくられた通りだというように、一分の疑いもないほどその作物の中に入りこみ、最初に彫刻した人の気持ちに入りきってやるんでなきゃだめなんだ。お前の仕事と私の仕事とは正反対なんだ」と。
これには私が閉口した。これはほんとはネ、神が言いたもうべきことです。人に知られちゃいけない。有名な大人物、大神学者、そんなことが、人にね、知られ、宣伝されるようじゃ、うそなんだ。黙って誰にも知れないように、正確にメッセージをそのまま伝えて、その中に隠れて、御言葉のうちに沈潜するのでなけりゃあ、うそなんだ。
p.180~181そして渡辺師は、「神さまどうか、私の生涯の無だったことをほんとうに許し下さい。しかし私は一生けんめいやりました」、とあやまる。これでいいんですよ」(p.180)と続けています。さらに、「だがその人々の人格だけを見て、それに感化されて、という信者は、その人から離れるとだめになってしまう。これがキリスト教で言う、人格の感化の恐ろしさ。人格に感化されるっていう人は、その人だけで充足して、その上を見ない」(p.181)とも語っています。
初めてキリストの教えに触れる人にとって、その「媒体」となる「人」が「人格者」であることは大切な要素です。しかし、その「人格者」を超え「神」のもとへ向かわなければ、その人も教会も成長できず、その「人格者」がいなくなるのと共に、その人の信仰も消滅することになります。
わたしの愛読書に榎本保朗牧師著「一日一章(旧約・新約)」があります。彼は、京都で伝道活動し世光教会を開拓した人です。そして、その教会が大きな祝福を受け始めると、彼は教会を去り四国の今治教会に赴任します。そこでも彼の働きは祝福されましたが、アシュラム運動※に専任するため辞任し教会を去りました。そんな彼の生き方に、「彼は自分の名前から逃げていたんだな…」と思いました。彼は「キリスト」の名以上に、「榎本保郎」という自分の名が先んじたことに、耐え難い思いがあったのではないかと思えたのです。ここに「自分」ではなく、あくまで「主の言葉(預言)」を重んじる牧師の姿勢が見て取れます。
1907年にインドのナックナウで活動したアメリカ・メソジスト教会の宣教師のスタンレー・ジョーンズが始めたクリスチャンの運動である。ファミリーと呼ばれるグループが毎朝5時半に起床して、個人の静聴の時、仕事や諸活動、話し合い、週に一日完全な沈黙の時を持つというものである。 この運動はインド人によって受け入れられ、1940年まで24のアシュラム運動の拠点がインドに展開された。 日本では榎本保郎らが中心になり推進された。(ウィキペディアより抜粋)
主の会議、人の会議
主の名を用いて「肉を助長、温存」させ、「自分の夢を語る」預言者たちは、「人の会議」に出席しても「主の会議」に出席することがありません。このことを神さまは、「誰が主の会議に立ち、また、その言葉を見聞きしたか。誰が耳を傾けて、その言葉を聞いたか」(エレミヤ23章18節)と指摘されています。この「神の会議に立つ」ことには、2つの大きな意味があります。
しかし、人は「神の会議」より先に「人の会議」に立ち、何だかだと言い訳を作っては「神の会議」を欠席します。ある教会では、礼拝後に多くの会議が予定されていると聞きます。果たして、礼拝後の会議に出席する人々の内、主日礼拝以外に持たれる「聖書の学び」や「祈り会」に、どれほどの人が出席しているでしょうか。教会で行われる「人の会議」も、もちろん大切なことでしょうが、それ以上に日々行われている「神の会議」は大切にされるべきです。平日行われる「神の会議」には、仕事や健康上のこと、あるいは家族の介護など、様々な理由で出席できない人たちもいます。しかし、少なくとも平日時間を持て余している健康な人たちが、教会の「神の会議」に出席しないにもかかわらず、礼拝後の「人の会議」に出席する資格はあるでしょうか。
ここで問われるべき最も重要なことは、「自分には、み言葉が必要だ」という真剣な求め「飢え渇き」があるのかということです。「神の会議」に出ることもなく、「人の会議」を繰り返すことで出される行動の結果は、「彼らの悪い道、悪の行い」(同・21~22参照)です。神さまが「遣わさず、言葉も与えていない」にもかかわらず、「伝道計画、会堂建築計画、弟子訓練、地域伝道」など「神の御心(託宣)」を持ち出しては、伝道牧会を行う…その結果、信仰に疲れを覚え教会への不信感が募り...そして、それはやがて「神への絶望感」へと発展していきます。その兆候は、「教会に行くと疲れる…」と感じるようになり、「わたしの通っている教会には人を連れて行けない…」という思いが、心の痛みとなりあらわれるようになります。
人の会議では、「肉を助長させ、殺さずに温存させること」が決議されます。たとえば、「人の会議」において、「クリスチャンとして仏壇をどうするか」、「地域の神社とどのように関わるか」などが問題提議されると、クリスチャンとして出すべき答えを「隣人への愛」という言葉で包み込んでしまい、「肉」を残す結果となります。しかし「神の会議」では、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(出エジプト20章3節)と語られ、「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、なにが善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(ローマ12章2節)と明確な答えを聞くことができます。そして、その言葉に沿って行動し迫害を受ける状況に置かれたとしても、豊かな恵みを受けることができます。
「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精練されながらも朽ちるほかない金よりはるかに貴くて、イエス・キリストリスが現れるときには、称賛と栄光と誉れをもたらすのです」
ペトロの手紙Ⅰ1章7すべてのことは、「神の会議」において決められるべきです。そして、そこで決められたことに従い歩み続けるならば、困難なことがあったとしても、必ず乗り越えることができます。なぜなら、神さまは「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます 」(コリント信徒への手紙Ⅰ10章13節)からです。
神さまは、「預言者にせよ、祭司にせよ、民にせよ、『主の託宣だ』と言う者があれば、わたしはその人とその家を罰する」(同・34節)、そして「『主の託宣だ』という言い方を二度としてはならない。なぜなら、お前たちは勝手に自分の言葉を託宣とし、生ける神である我らの神、万軍の主の言葉を曲げたからだ。」(同・36節)と厳しく戒められます。
礼拝や集会のほとんどの時間を「預言すること」に充てるグループがある、と聞いたことがあります。それは、主の預言が誰かに臨み、その人が「主は…と言われている」と明かすものらしいのですが、「その言葉」を受け止めるには、とても注意が必要です。「預言の言葉」とは、「聖書」そのものでなければなりません。その「聖書の言葉」は、聖霊の導きにより人に与えられ、その人が理解できるよう働かれます。それが、神さまが示す「預言」です。一つひとつ「神の御心」を見極め歩んでいくことは、簡単なことではありません。しかし、主の普遍的な御心は、聖書によりいつでも明確に知ることができます。たとえば、「この人が救われることは、『主の御心』だが、いつ救われるかはわからない…」、この「わからないこと」は、「人が敢えてわかる必要もないこと」であり、人がすべきことは、ただ「神に信頼を置き、すべてを委ね、祈り続ける」ことにあります。
「神を愛するように人を愛す」などの「普遍的な神の御心」は明確にされていても、その御心を達成するために具体的に何をすべきかがわからないとき、クリスチャンは様々なことにチャレンジします。ここで大切なことは、チャレンジしていく過程で「神の言葉」を求め続けていくことにあります。わたしの場合、「主よ、私がこれらのことを成すことは、あなたの栄光に繋がると思います。しかし、それが神の御心なのかどうか、明確にわかりません。主よ、これから進んでいきます。もし、間違っているなら引き返しますから教えてください」と祈るのが常です。
また、祈りの中で「...先生がこう言いました」、「...先生のお言葉をいただきまして」と祈る人がいますが、これはよくありません。このことを神さまは、「お前たちは、ただ隣人や兄弟の間で互いに、『主は何とお答えになりましたか。主は何とお語りになりましたか』とだけ言うがよい」(同・35、37節)語られています。わたしたちクリスチャンは、一人ひとりが「神の御前に立ち、神の御声を聞く預言者である」という自覚と責任感を持たなくてはなりません。そして、その「神の御声」が「幻、夢」ではなく「真の神の御声」であるかどうかを判断するために、聖書を読む必要があります。さらに聖書を正しく読む為に、優れた先人たちが書き記した書物を読むことも大切です。また、限られた人のメッセージに固執するのではなく、教壇やグループを超えた人々のメッセージを聞く必要もあります。教会や牧師の中には、「他の牧師のメッセージを聞いたり、指定した書物以外の物を読んではいけない」と指導する人たちがいますが、それは間違っています。なぜなら、神さまは定まった教会や牧師にのみ「神の御心」をお示しになることはないからです。「神の御前に立つ」ということは、「神と自分」の間に何者も介在させない一対一の関係を持ち、「神との繋がり、交わり」をより確かなものにし、自分自身の霊的レベルを上げるよう日々求めていかなくてはなりません。なぜなら、「神の御声か否か」を判断することができるのは、自分自身の霊的レベルに依るからです。
神さまからみ言葉を受け取り(預言者)行動する者(王)は、よき実をつける「ブドウの木」とされます。「真の預言者」となり、み言葉を聞ける者とされてください。そして、よき王となり、神さまから日々愛を受け取り、愛を流せる者とされてください。すべての善いことは「神を愛する愛」から出てきます。
1998年9月