エレミヤは、神さまに命じられた通り、エルサレムを下り、ベン・ヒノムの谷近くにある陶磁器の作業場へと向かいます。そこで、陶工の働く姿を見ているエレミヤに、神さまのメッセージが鮮明にあらわれ、ユダの民に語る預言が与えられます。
この陶工の家でエレミヤは、何時間にもわたり作業を見続けていたと思われますが、ここでエレミヤが見た光景は、どのようなものだったのでしょう。
陶工は、土の小山からスコップ2~3杯の土をすくい出しては、ふるいにかけていきます。ふるいにかけられた土は、細かいものは下に、荒い土や石ころは、網の上に残されていきます。陶工は、この工程を何度か繰り返し、最終的に残った土を2~3杯作業台の上に取り出し、そこに水を注ぐと手で捏ね始めます。そして、気泡を抜くため、粘土の塊となった土を何度も何度も作業台に叩き付け、力を込めた手で捏ね、また叩き付ける、この一連の作業を何度も繰り返します。これは、最終段階の1000℃を超える焼きの工程で、土の中に残された気泡が高熱により破裂し、ヒビの原因をつくらないためのものです。手間暇をかけても、この工程で気を抜くと、せっかく造り上げた陶器が無価値なものとなり、ただのゴミになってしまいます。
陶工は、気泡を抜いた粘土の塊をろくろ台に置き、足でろくろを回しながら、手の平や甲、指や爪、さらに刃物のような鋭い道具を使い、あっという間に見事な形に作り上げていきます。陶工は、成形された粘土をろくろ台から取り上げ、注意深く見つめていましたが、溜め息と共に力を込め、作業台に投げつけます。投げられた粘土は、ただの粘土の塊へと戻ってしまいました。しかし、陶工は、この粘土の塊に水を加え、再び捏ねては叩きつける作業を何度か繰り返し、ろくろ台に乗せ形を造り始めます。この時、主の言葉がエレミヤに臨みました。「イスラエルの家よ、この陶工がしたように、わたしもお前たちに対してなしえないと言うのか、と主は言われる。見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある」(エレミヤ18章6節)と…。エレミヤは、陶工が粘土を扱っている光景から、「神とユダ(人)の関係」を明確に知るよう諭されました。
さらに、神さまの言葉がエレミヤに臨みます。「わたしは一つの民や王国を断罪して、抜き、壊し、滅ぼすが、もし、断罪したその民が、悪を悔いるならば、わたしはその民に災いを下そうとしたことを思いどどまる」(同・7~8節)。そして、「一つの民や王国を建て、また植えると約束するが、わたしの目に悪とされることを行い、わたしの声に聞き従わないなら、彼らに幸いを与えようとしたことを思い直す」(同・9~10節)とも告げられました。
出来上がった器の善し悪しは、陶工自らが判断し、気に入らない物は壊されます。神さまも同様に、人の善し悪しを判断され、御心に適わない者は、陶工が器を壊すように扱われますが、悔い改める者を壊されることはありません。さらに、神さまが祝福を与える計画をされた人であっても、その人が不服従であり続けるなら、その計画は思い直されます。
真の自由
陶工が「自ら造った器を壊す」ことは、誰しもが納得できることですが、同様に神さまが「人を捨ててしまわれる」ことについては、違和感を覚える人が多いのではないでしょうか。この「陶工と粘土」、そして「神と人」の関係を探っていきます。
陶工は、粘土を思いのまま好き勝手に取り扱うことができますが、神さまは、陶工のように人を取り扱うことができません。なぜなら、神さまは、創造者(ご自身)の特権である「自由意思」を人にお与えになったからです。神さまは、「愛」をもって「人」を創造されました。そして、自由な意思を持つ「人」に、「神であるご自身」を選ばせ、求めさせることで「いのち=繋がり」ある「愛の関係」を築くことを望んでおられるのです。
人の悪は、「自由である」という意味を履き違えたところから始まりました。聖書が示す「人の自由」とは、「お前たちはわたしの手の中にある」(同・6節)とあるように、「神の御手の中」にあります。それを詩篇では、以下のように表現しています。
人がどこへ行こうとも、そこは神さまの支配する所であり、そこから外れられないのが人の宿命です。ここに「神の御手の中にある自由」が、人にとって「真の自由」であることがわかります。「神の御手の中」とは、神さまが人を「造られ、導かれ、完成させられる」という御心の中に、その人がいる状態を指します。そして人は、自らの運命を自らの意思により、神さまに委ねることで、「真の自由」を得ることができるのです。
しかし、ユダの人々は、「それは無駄です。我々は我々の思いどおりにし、おのおのかたくなな悪い心のままにふるまいたい」(エレミヤ書18章12節)」と考えを改めず、「あなたの御手の中で導かれる人生など、拒否します」と答えます。神さまは、そのような人の歩みを「彼らは自分たちの道、昔からの道につまずき、整えられていない、不確かな道を歩んだ」(同・15節)と語られます。神さまの御手の外には、「自由ではなく不自由でしかない」ことに、人は気付かねばなりません。
それは、「電気機関車と蒸気機関車」に例えられます。人は、「電気機関車」として造られています。人である電気機関車は、パンタグラフという信仰を介し、接触電線から電気を取り込み(神さまのいのちを受け)レールの上を走り(歩み)ます。ここには、「電気エネルギーとレール」という2つの制約が存在します。人は、この制約を「窮屈で自由を奪うものだ」と捉えます。そして、電気機関車から蒸気機関車へと中身を代え、自分のエネルギーを燃やし、蒸気の力で好き勝手に走れる一般道を進もうとします。そこは、「自分の好きなものをエネルギーとし、レールに制約されることなく自由に走れるに違いない」と思っていたのですが、実際に走ってみると、最大限に自分を燃やしても、考えていたほど自由に動けないことに気付きます。なぜなら、鉄の車輪は、道路に食い込み、方向転換もままならず、いつも何かに衝突してしまいます。さて、そこに「自由」はあるのでしょうか。
神さまが計画された「御心」というレールは、人を愛する神さまが、その人に「最も適した道」として造られたものです。この「御心」というレールを走り始めた頃は、一般道での走り方や蒸気機関車の癖がなかなか抜けず、「自分に適した道だ」ということがわかりません。しかし、そのレールを進んで行けば行くほど、その走りやすさに驚かされ、ある時から自分にとって最高の恵みがある方向へ走らされていることに気付きます。その原動力である「神のいのち」は、信仰というパンダグラフを介し、初めから自分に備えられていた命のように、尽きることなく力を与え続けてくれます。そして、神さまの敷かれたそれぞれのレールは、「永遠の御国」という終着駅に到着していきます。蒸気機関車は、自分で計画を立て、自分の命を燃やし懸命に走りますが、その終着駅は「永遠の御国」ではありません。人にとっての「真の自由」は、神の御手の中にしか存在することができないのです。
預言者を取り去る(結果を取り去るため手段を取り去る)
ユダの人々は、エレミヤの存在を消し去りたいと考えます。エレミヤが語る「神の計画」そのものを消し去りたいと願う心が、彼らを動かします。そして彼らは、エレミヤを取り除く計画を立てます。これは、「神の計画」がもたらす「結果」を取り除くため、神さまがユダを救うために用いられる「手段」であるエレミヤを取り除こうとする行為でした。例えるなら、医師に「末期癌で死が近い」と診断(結果)を下された病人が、末期癌を無かったことにするため、診察した医師を取り除こうと、自分が納得できる診断をする医者と取り換えようとする愚かな行為に等しいものです。
預言者は、「神のみ言葉」で人々を断罪し、苦痛を与えることが職務なのではなく、むしろその逆であることが、エレミヤの次の言葉からわかります。「悪をもって善に報いてよいでしょうか。彼らはわたしの命を奪おうとして、落とし穴を掘りました。御前にわたしが立ち、彼らをかばい、あなたの怒りをなだめようとしたことを、御心に留めてください」(同・20節)
預言者は、神さまと罪人の間に立つ「仲介者」の役割も与えられていました。神さまは、ユダの罪を裁こうとされますが、燐れむが故に預言者を遣わし忠告を与えられます。この忠告は、ご自身が彼らを裁かない状況にするためのものです。つまり、彼らを守るために預言者をたてられているのです。このことは、「断罪した民が、悪を悔いるならば、わたしはその民に災いをくだそうとしたことを思いとどまる」(同・8節)と語られていることからもわかります。
神さまは、ユダの人々に対し憐れみを与える手段として、預言者エレミヤをたてられました。しかし、ユダの人々は、そんな神さまの真意がわかりません。だから、そのエレミヤを取り除くことにより、自分たちに与えられている救いをも失ってしまうことに気付かないでいます。もし、彼らがエレミヤを取り除いたとしたら、「彼らの子らを飢饉に遭わせ、彼らを剣に渡してください。妻は子を失い、やもめとなり 夫は殺戮され、若者は戦いで剣に打たれますように」(同・21節)となります。
エレミヤは、神さまに命じられるまま、陶器師から壺を買い、ユダの長老たちと共にベン・ヒノムの谷に向かいます。そこは、モレクの神に信者の子供を火で焼き捧げたモレクの神殿(トフェト)がある場所でした。そして、エレミヤは、長老たちの前で壺を砕き、「陶工の作った物は、一度砕いたなら元に戻すことができない。それほどに、わたしはこの民とこの都を砕く」(同・11節)と神さまの御心を目に見える形であらわしました。
一人ひとりに計画を持たれている神
陶工は陶器を作る際、まず仕上がりを頭にイメージし、土の種類、粘土の量、練り具合、焼きの温度など、全ての工程を頭に入れ作業に取り掛かります。神さまは、「人」一人ひとりに計画をお持ちであり、その計画に従い白い土(白皙人種)、黒い土(黒色人種)、黄色い土(黄色人種)、赤い土(赤色人種)、茶色の土(茶色人種)、あるいは各色の土を混ぜ合わせた(混血種)など、それぞれの土の選定から始められます。このことをパウロは、以下のように述べています。
「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです」
エフェソ人への手紙1章4~5節神さまは、この世に人が生まれてから「どのような人にし、その為にはどのような賜物を与えるべきか…」などと考えるのではありません。神さまは、その人が生まれる前、それも天地創造の前から、一人ひとりに対しご計画を持っておられるのです。つまり、神さまは、その人が母親の胎に受胎する前から、その人が存在することを既にご存知だということです。
一人ひとりに対する神さまのご計画は、それぞれの人を「神の子」にするためのものです。そして、この「神の子」とされることが、全ての人に等しく与えられている「第一の賜物」です。ペトロは、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(使徒言行録2章38節)と述べています。ここで言われている「賜物として聖霊を受けます」とは、「神の子」とされるということです。
「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」
使徒言行録2章39節第二の賜物は、人種、国籍、生まれた年代、性別、それぞれの能力、そして一人ひとりが「神の子」として成長する際に必要となる賜物のことを指します。第三の賜物は、「神の働き人」として与えられる賜物です。
これら第二、第三の賜物は、第一の「神の子」という賜物を土台にしたところに成立するものであり、第一の賜物「神の子」とされることが、最も重要な要素となります。このことをパウロは、「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」(フィリピの信徒への手紙2章13節)と勧めています。これを前記したエフェソ人への手紙では、「聖なる者、汚れのない者にするためである」と述べています。とかく「神の賜物」について語られるとき、能力や聖霊の賜物が、神の子としての賜物より大きな関心を呼ぶよう語られますが、それはとても危険なことです。「働き」以上に大切なことは、「存在」です。「神の子としての存在」がしっかりしてこそ、「働き」が実を結ぶことを忘れてはなりません。
土をこねる=新生(救い)
神さまは、それぞれの人に立てられた計画を実行されるため、まずその人を「新生=救い」させるよう働かれます。これは、作業台の上で土を捏ね、粘土にするまでの第一段階の工程にあたります。
ただ、人は土とは違い、神さまの愛により「自由意志」を与えられていますから、神さまのご計画通り、第一段階の「新生=救い」を受け取ることも拒否することも、その人の意思で決まります。つまり、「わたしは、このまま『土で造られた人』でいい」と選択されれば、神さまも手出しすることはできません。しかし、その逆の選択「神さまの御手で、捏ねられ粘土とされ『真のいのち』」を持つ神の子とされたい」と願えば、与えられます。神さまは、全世界にいる「土で造られた人」を、「真のいのち」を持つ「神の子」にしたいと願っておられます。
ろくろ
陶工の手(神さまの御手)により、粘土(神の子)とされたものは、次の第二段階であるろくろ台に乗せられます。この「ろくろ」は、粘土とされた「神の子」が置かれている様々な環境(国、性別、時代、家庭、職場、学校、人間関係など)をあらわし、一つの目的のために回ります。ろくろに置かれた粘土(神の子)は、陶工(神さま)の手のひら、指、爪、そして時には鋭い刃物や竹べらなど、様々な道具を用いて手が加えられていきます。それは、ろくろの回転と陶工の手が、一塊の粘土を形ある器にしていく工程であり、神さまご自身の御手により、「神の子」をより素晴らしい「霊の人」になさせるため、またご自身にとって有益な器に仕上げるための工程です。
ところが、粘土なる人には、ろくろと神さまの御手を快く受け入れることができません。「神さま、あなたの回転は早すぎます。あなたが示す所へ、10年後には行っても構いませんが、今は行けません」、「神さま、あなたの回転は遅すぎます。わたしはこんな所に何年も居たくありません。もっと早く別の環境へ移してください」などと不平をこぼし、揚げ句の果には、「私はこの台(ろくろ)から降りて、別の陶器師(偶像)に自分を委ねます」と言い出す始末です。
また、粘土なる人は、「神さま、私はコップなどになりたくありません。私は綺麗な花瓶になりたいのです」と自らの望みを神さまに願います。それと同様に「私は、こんな小さな教会の牧師ではなく、もっと大きな教会の牧師になるべきだ」と訴える者もいます。粘土である人は、陶器師と粘土のように、神さまの意のままになるべきです。しかし、粘土である人は、自分で形を指定し、自らの努力で望みの形になろうとします。所詮、粘土である人が、どのように頑張ったとしても、自分を作り上げることはできません。しかし人は、神さまに要求することを止めようとはしません。
変えてはならない環境
人は、自分が置かれている環境「こんな親は…、こんな学校は…、こんな職場は…もう嫌だ。終わりにしたい!変えてしまいたい!」という思いに負け、自らの手で環境を変えてしまうことがあります。陶器師は、素晴らしい作品を仕上げるため、デリケートな個所ではろくろの回転を緩め、全体に丸みを出す時には速め、そして時には止めたりと、ろくろの回転を自由自在に変えていきます。それと同様に、神さまは、「神の子」をより素晴らしい「霊の人」に聖別するため、その人の置かれている環境を変えていかれます。ある時は「学び」に専念させ、ある時は「親に仕える」環境に置かれ、別の教会に導かれることもあります。また、福音とは全く関係がないと思われるような場所に置き、訓練させることもあります。
以下は、わたしの体験です。
青年の頃のわたしは、「献身し主に仕えている身である」とは言っても、実際は、来る日も来る日も建築現場で汗水流し働いていました。そんな時、素晴らしい癒しの伝道者に出会い、わたしは「その人のカバン持ちでもいいから、させてもらいたい!」と切に願いました。「こんな生活よりは、有名なあの伝道者の下で学び、やがては自分も癒しの賜物をいただき人々に仕えたい」と考えたのです。今にして思えば、「カバン持ち」の方が、「現場作業員」より楽で見栄えが良さそうだし、「あの人は信仰深く、神の器だ」と言われるかも知れない…と思えたからでした。あれから数十年経った今では、「あの時、自分の思いを通して、行動に移さないで良かった」という思いで心が一杯になることがあります。あの頃、誰からも注目されない建築現場で、汗まみれになって働いたことが、現在の自分を形作っていることが、今のわたしには理解できるからです。
第一の賜物を受け取り「神の子」とされた人は、第二の賜物を受け取ることになります。この第二の賜物は、
ことにあります。このろくろの回転と神さまの御手に自身を任せず(委ねず)、神さまの段階を踏まずに、1より2を先立たせるよう自ら環境を変えるよう動くと、信仰生活のバランスを失うことになります。
神さまは、一人ひとりの成長のため、その者にふさわしい環境を次々に用意されていかれます。それは、神さまが行うことであり、人が行うことではありません。人みずからが置かれている環境を変えることは、自分の「肉」に都合の良い環境に変えることであり、「神の子」の成長に必要となる「肉を殺す」環境に置くことは、決してないからです。結局、環境を変えたいと望む人の心の奥底には、「自分の肉を守り助長させたい」という思いがあるのではないでしょうか。そのような思いがある人は、自分にとって都合の良い教会なら通い続け、都合の悪いことが起こると教会を去って行きます。神さまは、その人を成長させるため、その人にとって「都合の悪い出来事」を敢えて与えられているのです。聖い人格へと脱皮させるべく、神さまがお作りになった機会を拒んだその人は、いつまでも成長することができません。その機会を逃さず、しっかりと向き合わない限り、たとえ教会を変えたとしても、同じ問題にぶつかることになります。そして、行き着く先は、「牧師や兄弟姉妹たちへの批判という賜物」を持つクリスチャンになってしまうのです。
人は、「神さまがわたしをそこに置いたんだ」という「確信」を持つ必要があります。
わたしに聞け、ヤコブの家よ イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ 胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」
イザヤ書46章3~4節ここで神さまは、「あなたを造り、導き、完成することの責任は、自分自身が持つ」と約束されています。そうであるなら、今置かれている環境の責任を、神さまに求めても良いことになります。「神さま、今置かれている所は、わたしには耐えられません。しかし、あなたがわたしに必要だから、ここに置いてくださったことを信じます。それに耐える力は、神さまあなたが与えてくださらなければなりません」と祈ることができるのです。なぜなら、この祈りは、神さまの御心を受け入れた上で、必要な助けを求める祈りであり、神さまの御心に沿った祈りだからです、御心に適う祈りは、必ず聞き届けられます。
神の御手
作品は、ろくろを用いる神さまの御手において完成されます。神さまは、ご自身の御手で一人ひとりに計画された環境を創り、その中でより素晴らしい「霊の人」へと成長させられます。一方、粘土である人がすべきことは、自分自身を全面的に神さまに委ねることが必要となります。
神さまに自分を委ねることを「信仰」においてあらわすなら、「信仰とは、能動的になることではなく、積極的受動者になること」だといえます。たとえば、可能思考(物事を肯定的に解釈し、前向きな発想で積極的に行動し、最後までやり抜く力)というものがありますが、これは自分自身をより能動的な人にしようとする方法論だといえます。自分の思い、計画、自己像などを向上させることが可能であるというイメージを人にもたせ、自己改革へと誘導していきます。また、可能思考研修会の主催者の中には、可能思考能力を高める手段として、仏教、哲学、聖書から引用した文章をちりばめ、信仰の匂いを漂わせる人も存在しています。
上記に反し、聖書において可能思考は、完全に否定される立場にあるものです。聖書にあらわされている「信仰」とは、「自分に死に、キリストの命に生きる」ことにあります。つまり、それは、「積極的に神さまを受け入れる(積極的受動)」ことにあります。積極的とは、「押しつけられ、仕方なく受け取る」のではなく、「自分にとって良いものだから、自分の全存在を傾け受け取る」という姿勢のことです。「受動態」と聞くと、そこに自分の意思がないように思われがちですが、決してそうではありません。なぜなら、自分の意識を神さまに集中させ、神さまに顔を向けるのは、自分の選択であり、自身の意思だからです。つまり「信仰」には、より意志的な行動が伴う必要があるのです。
意思とは「自分の思いや考え」意志とは「成し遂げようとする心」
ある姉妹の母親が認知症になりました。彼女の母親は、それまで人一倍賢く、知恵に満ち、優れた判断力を持って生きてきた人でした。それだけに彼女にとって、認知症の母親に接することは辛いことであり、日毎に苛立ちも大きくなっていきました。そして、母親の介護により、主に仕える時間もままならなくなり、何とかして母親の機能を少しでも回復させようと努力しますが、一つのことをするのに数時間かかってしまう状態は変わりませんでした。そのような状態が続き、愛していたはずの母親が、憎しみの対象へと変わっていきました。
しかし、ある時からその状態に変化があらわれます。それは、母親の機能が回復したのではなく、世話をする側の彼女自身が、母親に働きかける可能思考から、現在の状態を積極的に受け取る受動者へと変えられたことによる結果でした。それまでの彼女は、介護する側とされる側をより理想的な姿に近付けることで、問題を解決しようとしていましたが、それが間違いであることに気付いたのです。母親が機能回復を望める病であるのなら、それに向け努力すべきですが、そうでないにもかかわらず回復させようとする行為は、介護する側とされる側の両者に感情のもつれを生じさせるだけだったのです。
彼女は、自分の置かれている現状が、神さまの御手により行われていることを知りました。神さまは、彼女をより成長した「神の子」である「霊の人」とするため、この出来事を通し、「語りかけ、教える」ご計画を立てられ実行されていたのです。彼女は、その事実を受け止めることで、神さまの恵みである「慈しみと憐れみ」が自分に注がれていることを全身で感じ、「これで良いんだ」と心から感謝し、神さまの愛を受け止められるようなりました。
族長ヤコブは、自分の計画で自らを支える能動者でしたが、神さまを受ける受動者となりイスラエル(神の王子)へと変えられました。マルコは、伝道旅行の途中でパウロとバルナバのもとから逃げ出しましたが、「…わたしの子、マルコ…」(ペトロの手紙Ⅰ5章13節)とペトロから呼ばれ、「彼はわたしの務めをよく助けてくれる(テモテへの手紙Ⅱ4章11節)」とパウロに言われるようになりました。二人とも、自分の可能性を追及することを止め、積極的に神さまの御手に自分を委ねた結果でした。
神さまは、私たちを土(物質)から、意思を持った土(肉の人)へと創造されましたが、それで神さまの創造は完成したわけではありません。その土に命の息を吹き掛け、神の命を持つ「神の子」とされましたが、それでも完成ではありません。神さまは、「霊の人」が成長(聖別)し、完成(栄化※)されるよう願っておられます。神さまは、ただの土くれ(肉の人)をろくろ台に乗せ(救い=新生)、ろくろ(環境)とご自身の御手をもって完成されるのです。
栄化とは、 栄光に輝くキリストの御姿に化せられること。義認 → 聖化 → 栄化
創造者は、人が完全に完成するまでの全責任を負っています。その為に、御子イエス・キリストの十字架と復活、そして聖霊なる神さまを助け主として、わたしたちに遣わしておられます。「わたしがわたしを知っている以上に、神さまは、わたしをご存知です」。このお方に積極的に全てを委ねる信仰に日々生き、歩める者となりましょう。
1998年7月29日