神さまは、「結婚し子をもうけても、その子は殺され、獣たちの餌食にされる。そして、葬儀に出ても、死人の多さからくる嘆き悲しみ故、葬儀にならない。誕生、結婚、葬儀など、人間の営み全てが悲しみの末路を辿るので、あなたは独りでいる方が良い」(16章2~9節)とエレミヤに話されます。ここから神さまは、バビロン軍にユダの人々を殺戮させ、あるいは奴隷として連れ去らせる計画に、間もなく着手されることがわかります。そして、神さまは、この言葉を聞くユダの民が「『なぜ主はこの大いなる災いをもたらす、と言ってわれわれを脅かされるのか。われわれは、どのような悪、どのような罪をわれわれの神、主に対して犯したのか」と言うであろう」(同・10節)と仰います。
この「なぜ、主は」という言葉は、人がエデンの園を出てから現在、そして未来においても、人が口にするであろう言葉です。「主よ、なぜ、わたしが病気に…」、「なぜ、わたしに、こんな不幸が…」、「なぜ、戦争が、飢饉が、地震が…」と、人は神さまに問い続けます。しかも、その問いかけは、熱心な信仰者からだけではなく、神さまを信じない者たちからも、発せられる言葉なのです。それは、あたかも彼らが意識しないところで、彼らの魂が「真の神」を求めているかのような・・・実に不思議なことです。
今から5年ほど前(2014年)、アメリカである喫煙家の妻が、タバコメーカー相手に二兆円の損害賠償請求を起こし、2兆3900億円の支払いを命じる評決が出された、と話題になったことがあります。肺がんで死亡した男性の妻は、タバコ会社が「ニコチンのリスク」に関する情報提供を怠ったと主張し、それが認められたということです。喫煙者の死亡率は、非喫煙者より高く、国内で喫煙に関連する病気で亡くなった人は年間で12~13万人(厚生労働省)、世界では年間500万人以上と推定されています。また、国内の調査では、20歳以前に喫煙を始めると、男性は8年、女性は10年短命になるというデータがあります。癌のリスクは、男性で全癌2.0倍、喉頭がん5.5倍、食道がん3.4倍、口唇・口腔・咽頭がん2.7倍、肺がん4.8倍、膵臓がん1.6倍、肝・肝内胆管癌1.8倍、尿路(暴行・腎盂・尿管)がん5.4倍という報告が出ています。このように、具体的なリスクを知らないまでも、現代の社会において「タバコが人体に有害である」ということは、今や常識として受け入れられています。ユダの民は、自ら行ってきた偶像礼拝(喫煙)を顧みず、自己の責任を棚上げにし、神さま(メーカー)に責任を求め、「なぜ、主は…(なぜ、メーカーは)」と問うています。これでは、「自己の責任を神へ転嫁している」と言われても、仕方のないことです。
神さまがユダに与える大きな悲しみは、「お前たちの先祖がわたしを捨てたから」(同・11節)であり、「お前たちは先祖よりも、更に重い悪を行った。おのおのそのかたくなで悪い心に従って歩み、わたしに聞き従わなかった」(同・12節)からであると話されます。現代人が「タバコは人体に有害、百害あって一利なし」と示されているのと同じように、ユダの民も「偶像は有害・不従順は死である」と見せつけられてきた歴史を生きてきました。にもかかわらず、ここに至ってもなおユダの民は、「なぜ、主は」と問いかけています。
ユダの問いかけに対する神の答え
そんなユダの民に対する神さまの答えは、「『イスラエルの人々をエジプトから導き上られた主は生きておられる』と言わず、『イスラエルの子らを、北の国、彼らが追いやられた国々から導き上られた主は生きておられる』と言うようになる」(同・14~15節)でした。つまり、「『出エジプト』ならぬ『出バビロン』がその回答である」と神さまは、言われたのです。
神さまには、近い将来ユダの民を「出バビロン」に導かせるため、今の段階で徹底的に行わねばならないことがありました。それは、「漁師を遣わし、狩人を遣わし、ありとあらゆる場所から罪人狩りを行い、その罪と悪に対し二倍の報いを与える」(同・16~18節参照)ことでした。今までのユダの歴史を見ると神さまは、「なぜ、主は」と問うユダに対し、彼らの罪の罰を軽くしてこられましたが、ユダが神さまを信じたのは一瞬のことであり、全てが「喉元を過ぎれば…」という結果に終わっていました。それにしても、二倍の報いとは酷い…と考えてしまいますが、下記の中から一つを選ぶとするなら、どうでしょうか。
仮に、「大きな痛み(二倍の報い)」を受けるとしても、「永遠の御国に行く」ことを選ぶはずです。そして、何よりユダには、この「大きな痛み(二倍の報い)」が必要でした。なぜなら、ユダの民は、この大きな痛み(二倍の報い)を通らないと、「己の罪」に気付くことができないからです。それほどまでに、彼らは、「己の罪」に鈍感になっていました。だから、ここで神さまは、ユダを救うため、大胆なご計画を立てられたのです。
エジプトに400年間とどまっていたイスラエルの民が、主の名を呼んだのは、「…イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求め…」(出エジプト2章23~25節)たからでした。バビロンに連行されるユダの人々が、主の名を呼ぶようになるのも、このイスラエルの民と酷似しています。神さまは、ご自分を何度も裏切り、偶像礼拝に徹してきたユダの民の「なぜ、主は」に対しても、聞き流すことなく解決の道を用意しておられました。今日でも人は、神さまに対し同じ問いかけをしますが、「神さまは、決して無視されず、必ず答えてくださる」と信じ、歩んでいかなくてはなりません。
悲しみを与える神の目的
放蕩息子の父は、惜しむことなく財産の半分を息子に与えました。その息子が悔い改められたのは、「父の言葉と寛容」にありました。息子は、父の莫大な財産を使い果たしたことで真の自分の姿を知り、「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました」(ルカ15章18節)と言えたのです。
父が放蕩息子に与えた財産と、神さまがユダに与える大きな悲しみには、同じ目的があります。それは、「われわれの先祖が自分のものとしたのは、偽りで、空しく、無益なものであった」(エレミヤ16章・19節)ことと、「人間が神を造れようか。そのようなものが神であろうか」(同・20節)と言うことをユダにわからせ、彼らに「わたしの名が主であることを知る」(同・21節)ようにするためでした。
富を奪う罪
神さまは、ユダの罪を「心の板に、祭壇の角に、鉄のペンで書きつけられ、ダイヤモンドのたがねで刻み込まれて、子孫に銘記させる」(17章1~2節)と告げられました。人が犯した罪は、時間や時代の変化により、忘れ去られるものではなく、いつまでも犯した者の心と神さまの前に記録されます。そして、続く2~3節で「…それらは彼らの祭壇であり、アシェラ像である。それらは、どの緑の木の下にも 高い丘、野の山の上にもある。野から山に登る者よ。わたしはお前の富と宝を お前の聖なる高台での罪のゆえに 至るところで、敵が奪うにまかせる」と言われます。つまり、「お前たちの罪は、偶像礼拝であり、それは、お前の宝を奪うものだ」と諭されていたのです。
偶像は、さまざまなモノを人に与えますが、それは「肉の命」を満たすものでしかありません。そして、偶像の最終的な目的は、最後の最後に人にとって一番大切なモノを奪い取ることにあります。それは、たくさんの飼料を与え太らされる家畜同様に、最後には殺される運命にあるのです。そのことが「わたしが継がせた嗣業をお前は失う」(同・4節)にあらわされています。嗣業とは、神さまから約束されている永遠の御国の世継ぎのことであり、「いのち」そのものを指します。罪ある人は、地獄に落ちた後、この世で得たすべてのモノが、「地獄行きの切符」を買うための代価であったことを知るのです。その目的のため偶像は、人にこの世のものを魅力的に見せ、そこに心が向くよう仕向けているのです。
自分を生かそうとする者は、この世のモノを得ようとし、この世のモノを得ようとする者は、神さまを失い自分の「真のいのち」を失うことになります。反対に、神さまを得ようとする者は、この世のモノを失うことになりますが、神さまを得ることで自分の「真のいのち」が生きることになります。「罪」は人を失わせ、「神」は人を生かされるのです。
「人は神によって造られ、神に依存して生きる」。これこそ「人が生きるための道(倫理)」であり、最も明確にあらわされている「真理」です。しかし、「人はこの世で生まれ、自分で生きていく者」に置き換えられました。そして、これを起点に、すべての混乱が始まったのです。このことが「呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、その心が主を離れ去っている人は…。祝福されよ、主に信頼する人は…」(同・5~8節)にあらわされています。この5~8節は、まるで「詩篇第一篇」を読んでいるかのように、酷似した文章です。そして、この一見単純に思える詩的表現の中に、人が生きる為に必要な意味を見て取ることができます。また、この個所は、イエスさまが言われた、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のため命を失う者は、それを救うのである」 (マルコによる福音書8章35節)に通じてくるのです。
呪いの中にいる人
自分を生かそうとする者は、「人間に信頼し、肉なる者を頼みとする」者です。「肉の自分」を生かすためには、この世のものが必要となります。「何を食べ、何を着て、何を持ち、どこに住むか」それら全ては、この世で自分自身を如何に生かし生きていくか、にかかっています。
しかし、「肉の自分」を生かそうと頑張れば頑張るほど、「その心が主を離れ去っている人」(同・5節)になっていきます。つまり、「人は神から造られ、神によって生きる」という「単純で力ある真理」が見えなくなると、心が神さまから離され、「彼は荒れ地の裸の木。恵みに雨を見ることなく、人の住めない不毛の地、炎暑の荒れ野を住まいとする」(同・6節)者へとなるのです。
祝福の中にいる人
「主に信頼する人は、主がその人のよりどころとなられる」(同・7節)とありますが、これは、「自分を信頼せず主により頼む者」のことです。しかし、この世で「自分の能力、努力」を信じ、ひたすら頑張って生きてきた人にとって、「自分ではなく神を信頼し、神にすべてを委ね生きる」ことは、決して簡単ではありません。しかし、「神に信頼し生きる」ためには、自分の命(考え・能力・努力)を捨てなくてはなりません。なぜなら、霊である神さま対し「肉の命=自分の命」は、通用しないからです。人は、霊のお方である「神さまにより生まれ(新生)、生かされ(聖別・聖化)、完成(栄化)される」よう造られたのであり、「この世で生まれ、肉の命で生き、自らを救う」よう造られたのではありません。
神に信頼し生きると、「彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り、暑さが襲うのを見ることなく、その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない」(同・8節)者とされ、神さまの恵みにより生かされる者とされるのです。
偽る心
しかし、人にはどうして、「人は神によって造られ、神に依存して生きる」、この簡潔で明瞭な真理を知ることができなのでしょうか。エレミヤは、その原因を17章9節で以下のように述べています。
「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる…」
共同訳「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか」
口語訳ここで忘れてならないのが、「ユダの民は、明らかに神さまに背を向け、偶像だけを寄りすがりとして生きていたわけではない」ということです。それどころか、傍から見たユダの民は、「祈り、断食し、施し、動物の生贄を献げ、信仰深い敬虔な人」のように映っていました。しかし、神さまを誤魔化すことはできません。神さまには、「バビロン捕囚」という荒治療が必要になるほど、彼らの酷い状態が見えていました。
ユダの民は「神さまの前に自分は良い者」だと考え、神さまは「彼らを受け入れられない民」だと判断されました。しかし、このような食い違いが、どうして起きたのでしょう。それは、ユダの民が「信仰義認」であるべきことを「自己義認(宗教義認)」に置き換えたことで生じた結果でした。このことをブルームハルト※父子の聖書理解と生き方を通し、学び進めていきます。
当時、ドイツ国教のキリスト教派は、ルーテル(ルター)派※であり、一般的なドイツ国民は、生まれて間もなく幼児洗礼を授かり、青年期を迎えると本人の自由意思により堅信礼※を受ける、そのような一見すると敬虔なクリスチャンが多勢を占める国でした。しかし、その信仰は、生活の習慣と化し「神との繋がり」がない「形ばかり」ものでした。その時代に、牧師に召された父(ヨハン・クリストフ・ブルームハルト、1805~1880年)と、子(クリストフ・ブルームハルト、1842~1919年)は、当時の死んだような教会やクリスチャンたちに激しい警鐘を鳴らした「神は生きている」ことを知る、数少ない人たちであり、聖書にある「悪霊の追い出し、癒しの奉仕」を行い、み言葉の剣によるメッセージを取り次いでいました。
以下の引用文は、ブルームハルト(子)が、当時の教会に向け語ったものです。彼の確信は、「死ね、さらばイエスは生き給う」にあります。
18世紀、メットリンゲン(ドイツ)で親子二代にわたり牧師として活躍
16世紀ドイツのルター(ルーテル)の宗教改革によって成立したキリスト教の一教派。プロテスタント教会の主流をなす。ドイツ、北欧から北アメリカ、さらにアジア、アフリカの各地に広がり、信徒総数約7000万で、キリスト教教派としては、ローマ・カトリック、ギリシア正教に次ぐ教派である。
コトバンクより抜粋プロテスタントにおける堅信礼とは、ドイツでは13歳前後に行われるもので(国により異なる)、自分の信仰を堅く誓うもの(現在では、儀式化している国が多い)
「ブルームハルトが『死ね』と言うときに、彼の念頭には、他の何ものよりも、『教会』があった。死に、貧しくならねばならないのは、まず教会であった。人間の肉は、そこでこそその威力を示す。人間のエゴイズムは、神の恵みの器として地上に置かれた教会においてこそ、その恐るべき姿を示す。
彼は、そのような『人間の肉を制度化する』試みを、『宗教』と呼ぶ。キリスト教会は、その宗教の最高の形態であり、したがってそれは、彼にとって、いつも最も問題に充ちたものであった。」
p.276~7彼は、無神論的で悪魔的なものは、おのずから消えて行くのでそれほどの悪ではないが、敬虔(信仰的)で悪魔的なものに最も気をつけねばならないと言う。世界にとって本当に恐ろしいものは、教会の中が、聖霊ではなく、信仰(敬虔)という隠れ蓑をまとった敬虔な人間の肉の罪によって運営されることであると説く。なぜなら、この世がどんなに暗くなっても、教会が本当の光となって存在できているならば、人々は救いを求めて神に戻ってくることができるが、世の中が平和であっても、教会に本当の光がなくなれば、全ての人から救いを奪うことになるからである。
人間の肉が、最も高度に隠されるのが宗教と呼ばれるものであり、その宗教の中でもキリスト教会は、最高度に肉が隠される危険性を持っている。
「問題は、『敬虔な人間』の罪であった。敬虔な人間は、悔い改めによって神の審きに答えることができると考えている。そのような自己義認によって、敬虔な人間においては、この世的な高慢の上に、宗教的な高慢が加わる。彼らは神の救いの出来事を、自分の所有物のように扱いうると考え、神御自身を自分の召使のように考えて、神からその地盤を奪い取る。」
p.277これは、教会内において、人の肉が最も高度に生きる姿を説明しています。それは、「信仰義認」を「自己義認(宗教義認※)」に代えてしまうことにありました。「信仰義認」とは、神さまを中心とする人の信仰により、その人が義と認められることであり、「自己義認(宗教義認)」とは、自らの行い(宗教)により、義と認められようとすることです。聖書が示す「信仰」は、日々の生活すべてを神さまに委ね、そのことで時として辛い道が示されることがあったとしても、神さまに信頼をおき、神さまと共に歩んでいくことにあります。つまり、それは「神中心」の生き方であり、自分にとって「良きこと、都合の悪いこと、自分の思い通りにいかないこと」も、全てを同等に「神の御心(恵み)」と受け取り、日々生きることです。一方の「自己義認(宗教義認)」は、神さまから「受け取る信仰」ではなく、自らの行いを「神に向け発する」ことで、「自分の信仰は、義と認められている(神に認められている)」と考えることにあります。
信仰については、エレミヤ書聖書講解文「宗教と信仰」もご参考下ください。
たとえば、聖書において重要な教えである「悔い改めれば赦される」、このみ言葉を「悪いことをしたら、神さまに『悔い改めます』と言えば、神さまは赦してくれる。だって、聖書に書いてあるもの」と捉えることは過ちです。「悔い改めて赦される」とは、「信仰義認」の生き方を通し、「神は、愛するひとり子イエスを遣わし、人の罪を負わせ十字架に付けられた。イエスも愛する父、そして人のため、罪を負い十字架に付かれた」、この受け止め切れないほどの「深い愛」を知り、「神に十字架を負わせている自分の罪」を認め、「神に赦しを求めなさい」という神さまの御声に従い「悔い改める」ことで成立するみ言葉です。
著者による表現
「ブルームハルトは、『宗教的であること』と『待つこと』を対照させるが、宗教的人間は、手に何も持たずに待つことを知らず、飢え渇きを知らない。彼らは、宗教的に粉飾し、飽満している。そのような宗教的人間、敬虔な人間こそが、神の国の最大の障害である」
p.277「自己義認(宗教義認)」の人々は、教会において「奉仕、礼拝、献金など」、宗教的側面を懸命に行います。この一見すると「敬虔な人々」は、教会の儀式、慣例(しきたり)など宗教的側面を隠れ蓑としています。「信仰義認」により、神さまにのみ与えられる「赦し」が、「幼児洗礼」など儀式や習慣を通し(自己義認=宗教義認により)人の手に移されるとき、その赦しは「偽りの赦し(救い)」となり、「霊の飢え渇き」を知らず過ごすことになります。人は、「霊の飢え渇き」を覚えると、神さまを慕い求めるようになります。なぜなら、「霊の飢え渇き」を知るものは、その渇きを癒してくださるお方は、この世で「神」だけであることを知っているからです。そして、それらの経験を通し、如何に「自分(人)は不完全な者」であり、「神が完全なお方」であるかが知らしめられるのです。ここに「謙遜※」が生まれます。そのことをイエスさまは、「心(霊)の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」(マタイによる福音書5章3節)と示されました。「霊の飢え渇き」を覚えない人々は、「神を慕い求める」ことも知らず、そこには「謙遜」も生まれません。
「謙遜」とは、「わたしは、自分を知らない(わからない)、まったく不完全な者だ」と認識し、それ故に神さまを求めることをいいます。新約聖書では、「心の貧しい人々…」(マタイによる福音書5章3節)と表現しています。「自分は不完全な者だから神さまが必要です」と神さまを求めることは、神さまに出会うために最も大切な心だといえます。
「それこそが、存在する人間の最大の罪責であり、それによって聖所が汚されるのだから、異教徒の罪責よりも大きい罪責である。救い主は、われわれに言われるにちがいない。『汝らのゆえに、私は、すべての人間の中で冒涜される。汝らが持っているものは、私がもたらしたものではない』と。諸君は、欲するままに、自分のための教会を建てた。そして今日では、神の方が人間の思想に順応しなければならない。神は、人々が敬虔であろうとするにまかせて、忍び給わねばならぬ。教会で、神は、われわれが裁断する通りの服を、再び身につけねばならない。」
p.277その結果、「神の教会」が「人の教会」となり、「神による救い」が、「人の業による救い」に代えられています。そして、「人が神に服従」することから、人に命じられるままに動く「神が人の召使」へとされてしまうのです。
幸福と正しさ
「人々は、祝福された思いで跳びはねて、皆が『ああ、何という幸せ』と叫んでいる。そういう跳びはねている幸せな人々を見ると、驚いてしまう。彼らは、幸せなのだろうか。私は、幸せではない。……そのような怠惰なキリスト者に、最大限の真剣さで叫びたい。『必要なのは、ただ一つ。君は誰を求めているのだ。君自身か、それとも神か。君自身の事か、神の事か』」
p.278「私は、永遠に幸せであろうという願望に対して、我慢がならない。われわれ教会が人々に、幸せになることしか教えないことに、怒りを覚える。われわれは、先ず正しくあろうとするべきだ。……人がすでに神の子であれば、幸せになるということは、副次的なことにすぎない。働くということが主要なことだ。すべての思いと志向は、そこに向けられなければならない。すなわち、私ではなく神が、われわれの間でどのようにして栄光を得給うかということに、向けられなければならない」
p.279「あなたは、実際のところ、何に対し、どこに向かって、信仰しているのですか」と問われ、何と答えるでしょうか。恐らく、多くの人は「幸福」と答えるでしょう。「家族が幸せになれるように…、病が癒されるように…、病の苦しさに勝てるように…、そして、仕事、お金、人間関係などが今以上に良くなるように…」、すなわち「より幸福になること」を求めていたのではないでしょうか。クリスチャンとなり、それらしきものを得ては「ああ、わたしは何て幸福なんだろう」と喜んでいなかったでしょうか。
しかし、人が求める「その幸福」は、自分を中心に置き発想していることであり、そのビジョンのどこにも「神」は存在しません。神さまは、人が「幸福」になることを願っておられます。しかし、それは、人が神さまを中心とした信仰に生き、神さまの御手の中で与えられる「幸福」であることを忘れてはいけません。
誰もが皆、「幸福」になりたいと願っています。そして、教会では、人が「幸福になる」メッセージを語り、「正しくある」メッセージは影を潜めます。なぜなら、「幸福になる」メッセージの方が、人が多く集うようになるからです。そのような教会では、「真理」ではなく「真理について」語るようになります。それは、「キリスト」ではなく「キリストについて」語っていることと同じです。つまり、上から取り次がれる「聖霊によるメッセージ」ではなく、「ただの人から発せられるメッセージ」でしかないのです。このようなメッセージを何年、何十年聞いたとしても、霊的に成長することはできません。なぜなら、そこには、人を「幸福」だと思わせる要素があったとしても、神さまの前に「正しくある」要素がないからです。
「正しさ」についてブルームハルトは、「神ご自身を求め、神のことを求めることであり…、私ではなく神が、われわれの間でどのようにして栄光を得給うかということ」だと説いています。そして「幸福」は、「神さまの前で正しくあろうとするとき、副次的に与えられるものだ」と語ります。つまり、人に必要なことは、人が中心となる「幸福」を求めることではなく、神さまを中心とする「正しさ」を求めることにあるということです。
「わたしは、こう思う」「わたしは、こんな風に感じた」「わたしは、こんな境遇にいる」など、すべてにおいて自分を主体とするとき、その人は神さまの命から外れ、宗教の世界へと入っていきます。そして、彼らの多くは、そのまま歩み続けることになり、「偽る心」に騙されてしまうのです。ブルームハルトは、結論付けるように、下記の言葉を残しています。
事柄は、逆でなければならない。私のための神ではなくて、神さまのための私。たとえ地獄へであろうと、神さまが私を遣わし給うのであれば、それは私にとって、正しいことでなければならない。
p.279~280エレミヤの時代のユダ、ブルームハルトの時代のドイツ、そして今日の日本においても、教会とクリスチャンは、同じ問題で「神の祝福」を失っています。あるいは、見失っていることに気付いていないのかもしれません。
ユダの人々は、「神に顔を向け」ながらも、「心を偶像に向け」ていました。彼らは、「宗教を熱心に行うことが、神さまに対し熱心なのだ」と勘違いしていました。つまり、彼らが得ていたのは、「宗教義認(自己義認)」であり、「信仰義認」ではなかったのです。
ドイツの人々は、「神に顔を向け」ているようでしたが、高度に積み上げられた「神学に心が向いている」ことに気付きませんでした。幼児洗礼、そして教会税※などにより、「霊の飢え渇き」を知らないまま、「偽りの信仰」に鈍感になっていたのです。
日本の多くのクリスチャンは、「神に顔を向け」ながら、「心を人々に向け」ています。そして、そのことに気付いているクリスチャンは、とても少数です。「心を人々に向ける」人は、「人の立場、周りの人に対する意識(恥の文化※)」、つまり人に支配され、聖霊の支配下にはいません。人が支配する教会では、「牧師先生」「わたしは平信徒だから」という言葉が飛び交うようになります。そして、「牧師先生について行くのが信仰だ」と捉え「偽りの赦し(救い)」を受け取るようになります。
そして、「偶像、神学、人々に心を向ける」ことは、突き詰めていくと「神ではなく人に心を向ける」という所に行き着きます。このことをエレミヤは、下記のように述べています。
「あなたがいやしてくださるなら、わたしはいやされます。あなたが救ってくださるなら、わたしは救われます」
エレミヤ書17章14節これは、信仰の核心を突いている言葉です。それは、癒しも救いも「神」が行われることであり、「わたし」ではない、ということです。「わたしが願うから神が・・・」ではなく、あくまで「神」が主体となり、神さまがされることを「わたしは受け取るだけ」なのです。これこそが、「真の信仰者と神の正しい関係」ではないでしょうか。
「心を探り、そのはらわたを究めるのは、主なるわたしである」(同・10節)と語る主に、「よろずの物より偽る心」を探りだしていただきましょう。そして、それを殺せるのは、キリストの十字架だけです。神さまは、「あなたはわたしの所に来て死ね、そうすれば、わたしはあなたの中で生きる」と語り、私たちを招いていおられます。
ドイツでは、カトリック教会、福音主義 、復古カトリック教会信徒、ユダヤ教徒であると登録したドイツ市民は、所得税の8%から9%にあたる教会税を課されている。
ウィキペディアより抜粋アメリカの文化人類学者 R.ベネディクトが『菊と刀』(1946) のなかで使った用語。日本人の行動様式は、「恥をかかない、恥をかかせる」というように「恥」の道徳律が内面化されており、この行動様式が日本人の文化を特色づけているとする。
コトバンクより抜粋 1998年7月